top of page

三保の音叉

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月12日
  • 読了時間: 6分

ree

第一章:砂浜で拾った音叉

 それは、まだ夏の名残りがわずかに漂う秋の始めごろだった。三保の松原に出かけた音楽家の春樹は、波打ち際で奇妙な音叉を拾った。 音叉とはいえ、シルエットは見慣れた金属製のそれとは違い、黒みを帯びた奇妙な材質でできている。表面に細かな模様が刻まれており、すべらかな触感が指先に妙な温もりを伝えてくる。 なにかに導かれるように手にしたその瞬間、海風が彼の髪を揺らし、松林がさわざわと遠くで囁き合うように思えた。**「これは、ただの流れ物じゃない……」**と、胸の奥にかすかな予感が落ちる。

 音叉を改めて見つめると、陽光に当たって虹色の粒子がかすかに浮かぶように見え、ふいに胸が高鳴った。まるで音叉自体が彼を呼んでいるかのようで、春樹は不思議な感覚に押し流されるように、それをポケットに仕舞い込んだ。 これがすべての始まりだった。夕刻近くになり、砂浜と松並木を染めるオレンジの光が彼に奇妙な焦燥をもたらす――何か大きな流れに巻き込まれそうな、そんな不安と期待が入り混じった気配に満ちていた。

第二章:鳴り響く風の音と夜の夢

 音叉を拾った翌日、春樹は自室に戻ってから、興味本位でそれを軽く打ち鳴らしてみた。普通の音叉なら「キーン」とかすかな振動を放つはずが、この黒い音叉はまったく違う響き方をした。 「ざわ……」 どこか風の音を思わせる深い共鳴が耳に残り、わずかな振動が床や壁、さらには彼の胸の奥まで揺らしたように感じた。その波は瞬時に消えてしまったが、静寂に戻った部屋が妙に薄暗く見えるのは気のせいだろうか。 その夜、彼は眠りの中で鮮やかな夢を見る。――さびしい砂浜、背後の松原、その奥にはぼうっと霞む富士山。そして音叉を鳴らすと、かすかな波音に混じって**「羽衣を返して……」**という声が聞こえた。 まるで彼が奏でる音に合わせるように、“何か”が呼応しているかのような錯覚。彼は目覚めたとき、まだ耳奥に残るその響きに戦慄を覚える。いつもなら忘れてしまう夢のディテールが、今回はなぜか鮮やかに脳裏に刻まれていた。

第三章:三保の松原の記憶

 翌日、春樹は観光地としての三保の松原を再度訪れる。普段はただの美しい海辺でしかなかったが、今は音叉が導く奇妙な響きが、彼の視線を変えてしまったように感じる。 松の根元にふと耳を近づけると、風の流れが葉を揺らし、低い地鳴りのような音が聞こえる気がする。そこにはかつての天女伝説が息づいているというが、ただの昔話だと思っていた彼にとっては初めての感覚だった。 今は亡き祖母が語っていた「天女の羽衣」を思い出し、胸の奥に甘酸っぱい懐かしさがよみがえる。羽衣伝説はここ三保の松原で有名だが、音叉がまさにその羽衣と関わるものだとしたら……? 彼の頭には否定の声と同時に奇妙な期待も芽生える。

第四章:夢の囁きと過去の秘密

 夜が更けると、またもや春樹は夢を見る。今度の夢はさらに明確だった。松原に立つ彼の視線の先で、白い衣をまとった女性が軽やかに舞っている。風に揺れる黒髪、薄く透ける布……まるで実体のない幻影のようだ。 しかし、その女性は振り向き、確かに彼を見つめて言うのだ。「羽衣を返して。わたしの……」――声はせつなく、そして鋭い痛みを含んでいた。 翌朝、気分の重いまま目が覚めると、まるで胸に小さな棘が刺さっているような感覚が続く。なぜ彼女は「返してほしい」と訴えるのか。いったい彼に何を望んでいるのか。その謎を解かずには、彼の心は落ち着きを取り戻さないように思えた。

 図書館に向かった春樹は、三保の羽衣伝説の詳細を探る。古い書物をひもとくと、過去に天女を目撃したと主張した者が失踪したという記録が残っている。さらに「戦時中、この付近で漁師が“不思議な布”を見つけた」といった話もかすかに書かれているが、半ば怪談扱いで詳しくは不明だ。 「この不可解な失踪や布の噂——もしかして音叉が原因か?」と頭を巡らすと、ぞくりと背中が粟立つ。

第五章:音叉の正体と呼ばれる声

 あるとき、春樹は偶然にも地元の古老と話す機会を得る。爺さんは目を細めながら、**「音叉か。昔、天女の羽衣を“響き”で封じたという話があったな」**と言う。 詳しく聞くと、戦時中、この地には“天女”を名乗る女性が現れ、羽衣を手にしたまま富士山を仰ぐように暮らしていたが、最終的にその女性は姿を消し、代わりに“音の道具”が浜辺に残されていたという伝承があるらしい。 「その音叉に羽衣の力が宿り、持ち主を天界へ誘う、なんて怪談もあった」 肩をすくめながら爺さんはそう語るが、その眼差しには恐れと敬意が混じった独特の色が浮かんでいる。春樹は内心で、“まさかこの音叉がその遺物?”という確信に近い思いを感じる。静かに押し寄せる不穏さに、鼓動が高まるのを止められない。

第六章:羽衣を求める天女

 「今夜こそ、確かめなくちゃ」——そう決意した春樹は、風のない夜を選んで三保の松原へ向かう。懐中電灯と録音機材を持参し、音叉を鳴らして天女の声を捉えようという腹づもりだった。 夜の松原は深い闇に沈み、波の音がぽつりぽつりと耳に沁みる。その中央で音叉を軽く打ち鳴らすと、低く響く振動が足元を伝い、まるで地面や空気が震えるかのように感じられる。 すると、聞こえてきたのは**「羽衣を返して……」**という、あの夢で聞いた声とまったく同じ囁きだった。ヘッドホン越しの録音機材には、しかし風や波の音だけしか拾えていないらしい。現実と異界が交錯するような感覚が、春樹の理性を一瞬麻痺させる。 そのとき、視界の端に白い人影が揺らめいた気がし、反射的にライトを当てると、そこには松の根元に立つ女性がいた。長い黒髪に白い衣、確かに“天女”の姿をして、ひそやかに微笑む。

第七章:隠された悲劇と救い

 女性は羽衣のような布をふわりと揺らしながら、苦しげに囁く。「私を解放して……。音叉は私の声……」 春樹は息もできないほどの衝撃を感じる。彼女の声には切ない痛みが濃厚に滲んでいて、その痛みが音叉を通して現代にまで続いていたのかと思うと胸が熱くなる。 やがて、女性は過去の悲劇を短い言葉で語り出す。戦中に天女と呼ばれたある娘が、人々の争いの中で羽衣を奪われ、封印されてしまったこと。彼女は助けを求めたが、誰も信じず、最終的には海に消えたという。**「音叉は、私がこの地に残した最後の声……」と。 春樹は無言で耳を傾け、目頭にじんと熱がにじむ。この場所で、そんな悲劇が本当にあったのか。だが今、彼女(天女)は微笑みを返しながら「ありがとう」**という言葉を残し、松の影へと溶けて消えた。霧のように姿が散っていく最後の瞬間、確かに彼女は安らぎに満ちた笑顔だった。

 夜が明けるころ、浜辺の風がさぁっと音を立て、空が薄青い光を放ち始める。音叉を握りしめた春樹は、もうその金属(あるいは不思議な材質)の冷たさを感じない。むしろ、彼女の哀しみと優しさが伝わり、熱を発するように思える。 こうして、**「羽衣の欠片」**である音叉は再び眠りにつくかもしれない。だが春樹の心に刻まれたあの天女の姿と声は、いつまでも静かに、そして確かに残り続けるのだ。静かに波が寄せ、松並木がざわめく中、彼は朝焼けに染まる富士山を見つめて、それが何より美しく見えたことに気づいていた。


ree

 
 
 

コメント


bottom of page