八十八夜の小さな郵便屋
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 16分

八十八夜という言葉を聞くと、幹夫はいつも、夜が八十八通の手紙になって積み重なっているような気がした。
一通目は、立春のころの冷たい手紙。 二十通目は、梅の匂いを含んだ手紙。 五十通目は、雨に濡れて少し滲んだ手紙。 七十通目は、桜の花びらを一枚はさんだ手紙。 そして八十八通目は、茶の若葉の香りがする手紙。
春は、急に来るのではない。
一夜、一夜、寒さと温かさのあいだを行き来しながら、少しずつ茶畑へ近づいてくる。霜の夜も、風の夜も、雨の夜も、月のない夜も、みんな春の封筒だったのだと幹夫は思っていた。
五月の茶畑は、八十八夜を過ぎるころ、もっとも声をひそめて光る。
山裾に連なる畝は、朝の光を受けて柔らかく波立ち、若葉の先には露が宿っている。摘まれる前の茶の芽は、まだ幼い。けれどその幼さの中に、冬を越えてきたものだけが持つ、静かな強さがあった。
幹夫は十二歳だった。
人よりも少しだけ、世界の小さな揺れが胸に届きやすい少年だった。友だちの笑い声の端にある寂しさ、父が疲れた日に湯呑みを置く音の硬さ、祖母が仏壇の前で手を合わせたあとに吐く息の長さ。そういうものが、幹夫の胸にはすぐ入ってきた。
入ってきたものは、なかなか出ていかなかった。
父はそんな幹夫に、ときどき言った。
「お前は、何でも受け取りすぎる」
父は責めているのではなかった。心配しているのだと、幹夫にも分かっていた。けれど幹夫には、受け取らずにいる方法が分からなかった。
茶の若葉だって、光を拒まない。 露を拒まない。 風を拒まない。 そのたびに震えるけれど、震えながら少しずつ香りを育てていく。
自分の心も、そんな葉に似ているのかもしれないと、幹夫は思うことがあった。
母が生きていたころ、八十八夜の前になると、家の中には特別なそわそわがあった。
父は天気を気にし、祖母は古い暦を何度も見た。母は白い手ぬぐいを畳みながら、幹夫に言った。
「八十八夜にはね、小さな郵便屋さんが来るのよ」
「郵便屋さん?」
「そう。春が書いた手紙を、茶の若葉に届けに来るの」
幹夫は目を丸くした。
「葉っぱに手紙が来るの?」
「来るわ。霜に負けなかったね、とか、よく雨を抱えたね、とか、もうすぐ香りになるよ、とか」
母はそう言って笑った。
「それに、人間の出せなかった手紙も、こっそり運んでくれるのよ」
「出せなかった手紙?」
「ありがとうとか、ごめんなさいとか、さようならとか。胸の中で住所を書けないまま残っている言葉をね」
幹夫はその話が好きだった。
八十八夜の小さな郵便屋。 茶畑を歩き、若葉の間に手紙を配る小さな人。
母は、そんなふうに世界を少し広くしてくれる人だった。
けれど母は、去年の冬に亡くなった。
雪の降らない、ただ冷たいだけの日だった。病室の母の手は、茶の若葉よりも軽くなっていた。幹夫はその手を握りながら、何も言えなかった。
ありがとう。 行かないで。 また八十八夜の茶畑へ一緒に行こう。 僕を忘れないで。 僕も忘れたくない。
どの言葉も、喉の奥で小さく固まり、声にならなかった。
母が亡くなってから、幹夫の胸の中には、宛名のない手紙が増えていった。母へ出せなかった手紙。父へ出せない手紙。学校で笑われたとき、痛かったと言えなかった手紙。自分自身へさえ、うまく読ませられない手紙。
八十八夜が近づくにつれて、その手紙たちは胸の奥でかさかさと音を立てた。
今年も、新茶の季節が来た。
父は朝早くから茶畑を見て回った。祖母は台所で湯を沸かし、茶摘み籠の紐を直していた。家の中には、新茶になる前の若葉の青い香りが、まだ見えない湯気のように漂っていた。
その日の夕方、父は畑から戻ると、空を見上げて言った。
「今夜は冷えるな」
祖母が暦を見た。
「八十八夜だものねえ。別れ霜にならなきゃいいけれど」
幹夫は胸が少し縮んだ。
八十八夜の別れ霜。
せっかく伸びた若葉が、最後の冷えに傷められることがある。幹夫はその言葉を聞くたび、美しいもののそばにはいつも少し危うさがあるのだと思った。
夜、幹夫はなかなか眠れなかった。
布団の中で耳を澄ませると、家の柱が冷えて鳴る音がした。遠くで蛙が鳴いている。茶畑の方からは、夜の新茶の香りがかすかに流れてきた。
青く、甘く、少し苦い。
その匂いを吸った瞬間、母の声が戻ってきた。
――八十八夜にはね、小さな郵便屋さんが来るのよ。
幹夫は起き上がった。
机の引き出しを開け、白い紙を一枚取り出した。そこに鉛筆で、ゆっくり書いた。
お母さんへ。
そこまでは書けた。
けれど、その先が続かなかった。
言いたいことはたくさんある。ありすぎて、紙の上に置こうとすると、どの言葉も小さくなってしまう。ありがとうと書けば、ありがとうだけでは足りない。寂しいと書けば、寂しいだけでは違う。会いたいと書けば、会えないことがますますはっきりしてしまう。
幹夫は鉛筆を握ったまま、唇を噛んだ。
やがて、紙を折りたたんだ。
中身のない手紙。
宛名だけの手紙。
それを上着のポケットに入れ、幹夫はそっと家を出た。
外は冷えていた。
草の先にはすでに露が降りていて、靴の先を濡らした。空には星が多く、山の輪郭が黒く沈んでいた。茶畑へ続く坂を上ると、新茶の香りが濃くなる。
茶畑は、夜の中で静かに広がっていた。
畝は黒い波となり、若葉の先には露が小さく光っている。風が吹くと、葉がさわさわと揺れた。まるで無数の封筒が、夜の中でそっとめくられているような音だった。
幹夫は畑の端に立った。
「郵便屋さん」
小さく呼んでみた。
返事はなかった。
けれど、畝の奥で何かが光った。
幹夫は息を止めた。
茶の木の間を、小さな灯が近づいてくる。
それは蛍ではなかった。提灯でもなかった。小さな人影が、肩から鞄を下げて歩いていたのだ。
その人影は、幹夫の膝ほどの背丈しかなかった。帽子は茶の若葉でできていて、つばの縁には露が並んでいる。制服のような上着は、夜明け前の空の色をしていた。肩から下げた革鞄は古びていたが、そこからは新茶の香りがふわりふわりと漏れていた。
小さな郵便屋だった。
郵便屋は畝の間で立ち止まり、幹夫を見上げた。
「こんばんは、幹夫さん」
声は、封筒を開くときの紙の音に似ていた。
「僕の名前を知ってるの?」
「配達先の名前は、たいてい知っています」
郵便屋はまじめな顔で言った。
「今夜は八十八夜ですからね。配る手紙がたくさんあります」
幹夫は胸が鳴った。
「本当に、来るんだ」
「もちろんです。人間の昼間の郵便は赤いポストを通りますが、春の夜の郵便は茶の葉を通ります」
郵便屋は鞄から小さな封筒を取り出した。
封筒は薄い緑色で、切手のかわりに露の粒がひとつ貼られている。宛名は、幹夫には読めないほど細かな葉脈の文字で書かれていた。
郵便屋はそれを一枚の若葉の上にそっと置いた。
すると封筒は若葉へ吸い込まれるように消え、葉先の露が一瞬だけ明るく光った。
「今のは?」
「八十七夜目からの手紙です」
「何て書いてあったの?」
「よくここまで来ましたね、明日も香りを忘れずに、です」
幹夫は若葉を見つめた。
葉は何も言わない。ただ、風に小さく揺れた。
「葉っぱは読めるの?」
「読めます。葉っぱは人間よりずっと静かに読むのが上手です」
郵便屋はまた鞄から封筒を取り出し、次の若葉へ配った。
幹夫はしばらく、その配達を見ていた。
郵便屋は忙しそうだった。霜に耐えた葉へ、雨を抱えた葉へ、まだ小さくて不安そうな芽へ、一通ずつ手紙を置いていく。手紙を受け取った葉は、ほんの少し香りを強くするように思えた。
「僕の手紙も」
幹夫はポケットの中の紙を握った。
「運んでくれる?」
郵便屋は足を止めた。
「もちろん。宛名は?」
「お母さん」
幹夫の声は小さくなった。
「去年、亡くなった」
郵便屋は帽子の露を少し揺らし、静かに頷いた。
「遠い配達先ですね」
「届く?」
「届く手紙と、届き方を変える手紙があります」
「どういうこと?」
「見せてください」
幹夫は折りたたんだ紙を渡した。
郵便屋はそれを丁寧に開いた。
お母さんへ。
それだけの手紙。
幹夫は恥ずかしくなった。
「続きが書けなかった」
「大切な手紙ほど、最初の一行しか書けないことがあります」
郵便屋は言った。
「でも、紙に書かれていない言葉も、折り目に残っています」
「折り目に?」
「ええ。手紙は文字だけでできているわけではありません。握った手の震え、書けなかった時間、紙に落ちなかった涙。そういうものも、ちゃんと入っています」
幹夫の目の奥が熱くなった。
郵便屋は手紙を胸に当てるようにして、少し耳を澄ませた。
「ありがとう、と言っていますね」
幹夫は息を止めた。
「それから、会いたい。忘れたくない。泣けなくてごめんなさい。お母さんの声が遠くなるのが怖い」
郵便屋の声は静かだった。
幹夫は涙をこらえられなかった。
「どうして分かるの」
「八十八夜の郵便屋ですから」
小さな郵便屋は、少しだけ誇らしそうに言った。
「胸の中で住所の分からない手紙を読むのが仕事です」
幹夫の涙が頬を伝い、茶畑の土へ落ちた。
郵便屋はその涙をじっと見た。
「よい封ろうです」
「ふうろう?」
「手紙を閉じるしるしです。涙で閉じた手紙は、遠くまで香ります」
幹夫は袖で目を拭った。
「お母さんに、届けて」
郵便屋は首を少し傾けた。
「このまま遠くへ投函することもできます。でも、ひとつ聞いてもいいですか」
「何?」
「幹夫さんは、その手紙が届いたあと、どうなりたいですか」
幹夫は答えに詰まった。
そんなことを考えたことがなかった。
母に届けばいいと思っていた。母がどこかで読んでくれればいいと思っていた。けれど、そのあと自分がどうなりたいのかは、分からなかった。
「お母さんに、返事をもらいたい?」
郵便屋が尋ねた。
幹夫は小さく頷いた。
「もらえるなら」
「どんな返事を?」
幹夫は茶畑を見た。
若葉が夜風に揺れている。露が星を映している。母が生きていたら、何と言っただろう。
泣いていいのよ。 忘れても消えないのよ。 幹夫は幹夫のままでいいのよ。
そんな声が、胸の中に浮かんだ。
幹夫は驚いた。
返事は、もう少しだけ自分の中にあった。
「返事って」
幹夫はゆっくり言った。
「お母さんのところから来るだけじゃないの?」
郵便屋は微笑んだ。
「よく気づきました」
「どういうこと?」
「亡くなった人への手紙は、とても遠くへ行くようでいて、実は心のいちばん深いところを通ります。そこに、その人が残した声がしまわれていることがあります」
郵便屋は幹夫の手紙をそっと畳んだ。
「だから、配達先は二つです。遠いお母さんと、幹夫さんの中にいるお母さん」
幹夫は胸に手を当てた。
そこには痛みがあった。
けれど痛みの奥に、母の声に似た温かさもあった。
郵便屋は鞄から小さな判を取り出した。
判面は茶の花の形をしている。露をインクにして、手紙の端にそっと押した。
薄い緑の印が浮かんだ。
――八十八夜配達済。
「これで?」
「まず半分、届きました」
「半分?」
「残り半分は、幹夫さんが明日の朝、誰かに本当のことをひとつ言うと届きます」
「誰かに?」
「はい。手紙は出すだけではなく、言葉として外へ出ることで配達されることもあります」
幹夫は不安になった。
「何を言えばいいの」
「それは自分で決めることです。ただ、胸の中でいちばん折れ曲がっている言葉がよいでしょう」
郵便屋はそう言って、また配達を始めた。
幹夫はその後をついて歩いた。
畝の間には、夜だけの小さな道ができていた。郵便屋が歩くたび、茶の葉の露が切手のように光る。鞄の中からは次々と封筒が出てきた。
ある手紙は、祖母の手のような匂いがした。
ある手紙は、父の沈黙のように重かった。
ある手紙は、まだ生まれていない新茶の香りがした。
「これは誰の手紙?」
幹夫が尋ねると、郵便屋は一通を見せてくれた。
封筒には、太い葉脈の文字でこう書かれていた。
――幹夫へ。
幹夫は驚いた。
「僕に?」
「はい。預かっています」
「誰から?」
郵便屋は差出人を見た。
そこには、幹夫の知らない文字でこう書かれていた。
――八十八の夜より。
郵便屋は封を開けずに、幹夫へ渡した。
「読んでいいの?」
「これは読む手紙ではありません。聞く手紙です」
幹夫は封筒を耳に当てた。
最初は何も聞こえなかった。
次第に、小さな音がした。
霜が朝にほどける音。 雨が若葉に落ちる音。 風が畝を渡る音。 祖母が急須に湯を注ぐ音。 父が夜中に畑を見回る足音。 母が昔、幹夫の帽子を直してくれた指の音。
それらが重なり、ひとつの声になった。
――急がなくていい。 ――けれど、閉じたままでもいなくていい。 ――春は八十八の夜をかけて香りになる。
幹夫は封筒を胸に抱いた。
「これ、返事なの?」
郵便屋は頷いた。
「八十八夜は、待つことを知っている夜です。すぐに書けない手紙も、すぐに言えない言葉も、時間をかけて香りになると知っています」
東の空が、ほんの少し白みはじめた。
郵便屋は空を見上げた。
「いけません。夜明け前の最終便です」
「もう帰るの?」
「朝になると、人間の郵便屋が働き始めますから」
郵便屋は鞄の口を閉じた。
「僕の手紙は?」
幹夫は尋ねた。
郵便屋は、母への手紙を幹夫に返した。
「これは持っておいてください」
「届けてくれないの?」
「もう配達は始まっています」
「でも、ここにある」
「大切な手紙は、持っている人ごと配達されることがあります」
幹夫には、すぐには分からなかった。
郵便屋は言った。
「明日の朝、幹夫さんがひとつ本当のことを言えば、この手紙は新しい場所へ届きます。お母さんへも、あなた自身へも、そして聞いてくれる誰かへも」
郵便屋の体が少しずつ薄くなってきた。
帽子の露が朝の光に照らされ、小さな虹を作った。
「また会える?」
幹夫は聞いた。
「八十八夜には、毎年来ます」
「来年も?」
「もちろん。ただし、同じ手紙を持っているとは限りません」
郵便屋は笑った。
「人の胸の郵便受けは、少しずつ中身が変わりますから」
風が吹いた。
郵便屋の姿は、茶畑の朝靄に溶けた。
最後に、ちいさな鈴の音がした。
ちりん。
そこにはもう、若葉と露だけがあった。
幹夫は、母への手紙を胸ポケットにしまった。
東の空が明るくなっていく。霜は降りなかった。葉先の露が朝日を受けて、一斉に光った。若葉たちは、八十八夜からの手紙を読んだあとみたいに、少し誇らしげに見えた。
坂道の下から足音がした。
父だった。
作業着の上に上着を羽織り、少し息を切らしている。幹夫を見つけると、安堵と困惑の混じった顔をした。
「幹夫。こんな朝早くに、何をしていた」
幹夫は一瞬、言葉に迷った。
小さな郵便屋に会っていた、と言ったら、父は困るだろう。けれど嘘をつきたくはなかった。
「郵便を待ってた」
「郵便?」
「八十八夜の」
父は眉を寄せた。
けれど、笑わなかった。
幹夫は胸ポケットの手紙に触れた。
胸の中でいちばん折れ曲がっている言葉。
それは何だろう。
母に会いたい。 泣けなくて苦しかった。 父にも、母の話をしてほしい。 自分だけが寂しいわけではないと知りたい。
幹夫は息を吸った。
「お父さん」
「なんだ」
「僕、お母さんの話をもっと聞きたい」
父は黙った。
幹夫の声は震えた。
けれど続けた。
「思い出すと苦しいけど、思い出さないようにすると、お母さんが遠くなる。だから、少しずつでいいから、お父さんの知っているお母さんのことを聞きたい」
朝の茶畑が静まり返ったように感じた。
父は長いあいだ、何も言わなかった。
その沈黙が怖かった。けれど幹夫は逃げなかった。八十八夜の手紙が胸の中で、かすかに温かかった。
やがて父は、茶畑を見た。
「母さんは」
父は低い声で言った。
「八十八夜の前になると、やたらと暦を気にしていた」
幹夫は父を見た。
父の顔には、少し困ったような、けれど遠い光を見つけたような表情があった。
「霜が怖いと言いながら、夜中に畑へ出てな。俺が危ないからやめろと言っても、若葉が心配だと言って聞かなかった」
「お母さんらしい」
幹夫は小さく笑った。
父も、ほんの少し笑った。
「それから」
父は続けた。
「茶の葉に話しかけていた。『明日、いい香りになってね』とか、『寒かったでしょう』とか」
父は照れたように咳払いをした。
「俺には、何をしているのか分からなかったが」
幹夫の目に涙が浮かんだ。
けれど、その涙は冷たくなかった。
父の中にも、母がいた。
幹夫の知らない母がいた。
それは寂しくもあり、うれしくもあった。
「もっと聞きたい」
幹夫が言うと、父は少し困った顔をした。
「一度に話すほど、覚えているわけじゃない」
「少しずつでいい」
父は頷いた。
「少しずつなら」
その言葉が、幹夫の胸に届いた。
母への手紙の残り半分が、どこかへ配達された気がした。
そこへ祖母が坂を上ってきた。
手には小さな急須と魔法瓶を持っている。
「八十八夜の朝には、お茶を飲まないとね」
祖母はそう言って、畑の端の石に布を敷いた。湯呑みを三つ並べ、もう一つ小さな湯呑みを母のために置く。
新茶の葉を急須に入れる。
湯を注ぐ。
白い湯気が立ちのぼる。
幹夫はその湯気を見つめた。小さな郵便屋が朝靄の中へ消えていった姿に似ていた。湯気は空へ昇り、茶畑の上でほどけていく。
祖母が湯呑みを渡してくれた。
幹夫は両手で包み、一口飲んだ。
最初に、淡い苦みが舌に触れた。
八十八の夜を越えた苦み。母を思い出す苦み。父に本当のことを言う前の怖さの苦み。
けれどそのあと、甘みが戻ってきた。
ゆっくりと、胸の奥へ。
それは、配達された手紙を開いたときのような甘みだった。
「おいしいかい」
祖母が尋ねた。
幹夫は頷いた。
「手紙の味がする」
祖母は微笑んだ。
「いい手紙が届いたんだね」
父は湯呑みを見つめたまま言った。
「俺にも、少し分かる気がする」
幹夫は父を見た。
父は照れたように目をそらした。
それでも、その一言は幹夫にとって、父から届いた小さな手紙だった。
その日の夕方、幹夫は机に向かった。
母への手紙をもう一度開いた。
お母さんへ。
その下に、今度は少しだけ書けた。
――八十八夜の小さな郵便屋さんが来ました。 ――僕の書けなかった言葉を、折り目から読んでくれました。 ――お母さんへ出す手紙は、僕の中にいるお母さんにも届くのだと教えてくれました。 ――今朝、お父さんに、お母さんの話をもっと聞きたいと言えました。 ――お父さんは少しだけ話してくれました。 ――それだけで、僕の中のお母さんが少し近くなりました。
幹夫の字は震えていた。
けれど、前よりも少し伸びやかだった。
――僕はまだ寂しいです。 ――でも、寂しさは宛名のない手紙ではなく、お母さんがいたことを知らせる手紙なのかもしれません。 ――八十八の夜を越えて新茶が香りになるように、僕の言えなかった言葉も、いつか香りになればいいと思います。
書き終えると、幹夫は紙を畳んだ。
封筒には入れなかった。
机の上に置き、窓を開けた。
夜風が入ってきた。茶畑から新茶の香りがした。青く、甘く、少し苦い。どこかで小さな鈴が鳴ったような気がした。
ちりん。
幹夫は耳を澄ませた。
何も聞こえなかった。
けれど、もう寂しくはなかった。
八十八夜の小さな郵便屋は、きっと今も茶畑のどこかで配達を続けている。若葉へ、露へ、土へ、そして人の胸の奥で宛名を待つ手紙へ。
幹夫は母への手紙に、そっと手を置いた。
届きますように。
そう願ったあと、少し考えて、言い直した。
届いていますように。
茶畑が風に揺れた。
さわさわ。
それは、たくさんの若葉がいっせいに封筒を開く音のようだった。




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