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八幡山(やはたやま)

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月14日
  • 読了時間: 6分



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第一章:噂(うわさ)の“見えない温泉”と隠された武家の湯

 静岡市近郊の八幡山(やはたやま)――。市街地から少し離れた山の奥には、古来「見えない温泉」と呼ばれる湯がひっそりと湧き続けているという。表には宿もなく、案内板すらない。その由来を知る地元民も少なく、ただ江戸期に武家の隠れ湯として密かに使われていたという噂(うわさ)が伝わるだけである。 その山を仰ぎ見ると、木々の青さの奥にぼんやりと朝靄(あさもや)が立ちこめ、まるで“神隠し”の舞台とでも呼べそうな神秘的な空気が漂っていた。

第二章:都会から戻った青年・周(あまね)

 周(あまね)は都会の医大を辞め、母を連れて郷里(きょうり)に戻っていた。母は長年の精神的な病(やまい)を抱え、周は何とか療養の場を探していた。そんなとき、地元の人から「八幡山の秘湯に行ってみては?」と勧められる。 伝え聞くところでは、「湯に浸(つ)かると身体の痛みが抜けるが、同時に心の奥にある“死への想い”も浮上させる」といった意味不明の噂もある。周は疑いながらも、この“見えない温泉”と呼ばれる場所に母を連れ、滞在する決意をする。

第三章:湯治場の主(あるじ)が放つ不吉な言葉

 八幡山を登った先に、朽(く)ちかけの屋根を持つ古びた湯治場がぽつんと立っていた。出迎えたのは灰色の髪を束ねた老人――湯治場の主(あるじ)。彼は周と母を案内しながら、ひそやかにこう告げる。 > 「ここではな、湯に浮かぶ姿が映らない者がいるそうだ。そういう者は、もうじき死の影に呑(の)まれる運命だとか……」 周はぞっとしながらも、老主が言うその意味を本気で信じてはいなかった。だが、ここに来た瞬間から、母の瞳(ひとみ)がどこか遠い意識に沈むのを感じ、何か予感じみたものが胸を刺すように覚える。

第四章:武家の滅びと湯の“清め”

 湯治場の周囲には、江戸期に武家がこっそりと滞在し、仇討(あだう)ちの密談を交わしたという話が残されている。血筋を守るため、あるいは刀の傷(きず)を癒(いや)すために、この温泉へ通い、「見えない温泉」の湯気に包まれながら夜ごとに自害(じがい)や刃傷沙汰(にんじょうざた)が絶えなかったという。 周は疑いつつも、夕刻に入浴してみると、湯船(ゆぶね)は思いのほか透明感がありながら、うっすらと青白い光を放つように見える。そこに身体を沈めた瞬間、頭がくらりとめまいを起こす。 「身体を清めるはずが、逆に死の想念が膨らむようだ……」 そう感じた周は、自分の医療知識で割り切れないものを、この温泉に感じとる。それはまさに“肉体を浄化”する過程で、同時に“死への欲望”を掻(か)き立てるという、きわめて逆説(ぎゃくせつ)に似ていた。

第五章:謎の女性―“死者”にも似た面影

 ある夜、母の容態(ようだい)が落ち着いたのを見届けた周は、夜の温泉へひとり向かう。すると、湯煙(ゆけむり)の向こうに、白い衣(ころも)の謎めいた女性が立っているのが目に入った。彼女は静かに微笑(ほほえ)みを浮かべ、かすかな声でこう囁(ささや)く。 > 「あなたも湯に浸かって、死の澄み切った色を見たいのね」 周は驚いて問い返すが、女性は自らを**「綾(あや)」**と名乗り、それ以上のことは明かさない。ただ、江戸期の武家の言葉づかいを彷彿(ほうふつ)とさせる口調を混ぜながら、まるで自分が過去から来た亡霊(ぼうれい)であるかのような雰囲気を漂わせる。 透きとおった肌と控えめな面差(おもざ)しには、“死者”のような冷たさが感じられ、周は怖れながらも惹(ひ)かれてしまう。

第六章:母の容態と自らの死生観

 一方、母の容態は少しずつ回復の兆(きざ)しを見せる。温泉の効能かもしれないが、同時に彼女は夜になると妙な譫言(うわごと)を言うようになった。 > 「武家の仇討ちがここで果たされず……、残っておる……私の手が血に染まる……」 何かに憑(つ)かれたように言葉をつむぐ姿に、周は当惑(とうわく)する。どうして母が武家の因縁(いんねん)に触れるのか? ただの妄想か、それとも温泉が呼び起こす過去の怨念(おんねん)か……。 周はますますこの温泉の禍々(まがまが)しい力を確信し、しかし同時に、死の境目にこそ見える美の頂点へ惹(ひ)かれる自身を意識していた。「もし、自分がここで死を望むなら、どんな充足感が得られるのだろう」とさえ思うのだ。

第七章:儀式化する“生贄の舞台”

 そして春分に近いある宵(よい)、周は夜の浴場(よくじょう)で再び綾と遭遇する。煙のような湯気の中、彼女は笑みを湛(たた)えながら、 > 「あなたが望むなら、この湯を生贄(いけにえ)の舞台にできるわ」 そう言って周を湯に引き込もうとする。まるで過去の武家の亡霊が、この湯に死者を誘(いざな)うかのようだ。 彼女の指先は冷たく、唇はどこか血の気を失って見える。周が思わず手を伸ばすと、その身体はふわりと消え入りそうなほど軽い。熱い湯に浸かりながら、なぜ冷たさを感じるのか――まるで彼女は幽霊(ゆうれい)かもしれないし、彼の幻覚(げんかく)かもしれない。 しかし、その瞬間、周は自分がここで死を選ぶなら、浄化と共に官能的(かんのうてき)な絶頂を得るのではないかという倒錯(とうさく)した想いに射(い)られてしまう。

クライマックス:刀の幻影と血の湯

 母の部屋から悲鳴(ひめい)が上がり、走り寄った周は、その背後に再び綾を見た気がする。母は湯治場の主(あるじ)ともめいていたのか、血相を変えて取り乱している。 > 「仇討ちはまだ済んでいない……! わたしの身体を捧(ささ)げなくては……」 彼女はうわごとを繰り返し、周は必死に母をなだめようとする。しかし、湯治場の主は低い声で囁(ささや)く。 > 「これこそ、“見えない温泉”の本質。武家の血が、未完のまま沈んでいるのだ。今宵こそ――」

 その言葉に呼応するように、綾が薄笑いを浮かべ、消え入りそうな声で謡(うたい)のようなものを口ずさむ。湯船に映る周の姿が、いつの間にかぼやけて見えなくなっている。まるで“水面に映らぬ者”は死の影を背負うという老主の言葉どおりだ。 圧倒的な睡魔(すいま)と酩酊感(めいていかん)が襲い、周は母を抱きしめたまま湯の中に沈みかける――。湯面(ゆめん)に桜のような花びらが浮かぶ幻が見える。赤い色に染まった湯が、まるで血の池と化すかの如(ごと)く広がってゆく。

結末(エピローグ):沈黙する湯治場

 夜が明け、山中の湯治場に駆けつけた町の人々は、湯が空っぽになっているのを発見する。老主は行方をくらまし、周と母、そして綾(あるいは彼の幻かもしれない)の姿もない。 掘り返された地面からは古い鞘(さや)のようなものが出てきたとか、血のような染みが床に残っていたとも言われるが、はっきりしたことはわからない。 一部の噂好きは、「彼らはあの湯に呑(の)まれたのだろう。死か、あるいは別世界へ――」と言い合う。 温暖で穏やかなはずの春の山中に、いつの間にか冷たい風が吹きぬける。その風には、まるで**“静寂の中で燃え上がる死生観”の余韻が混じっているかのようだ。 結局、この温泉の正体も、彼らの結末も、誰にもわからない。ただ山奥の小道が再び閑散(かんさん)とし、もう誰も近づかなくなったその後も、“見えない温泉”は湯気を上げ続けているのかもしれない――と人々は噂するのみ。こんなにも静かな場所で、かつて燃え上がった“死と美”**は遠い霧のように消えていったのである。

 
 
 

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