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冬の波音に寄り添う町





 冬の海ほど、人の人生を映しだすものもない――そう感じたのは、わたくしがこの海辺の町を訪れた初めのことだった。 冷たい風が吹きつける防波堤。白く砕ける波が遠くから押し寄せ、海鳥の鳴き声が一瞬かき消される。静かな町並みの中に、わたくしの姿はどうにも異質かもしれない。 けれど、その日はいつもより空気が澄んでいて、水平線には淡く陽が差すか差さぬかの瀬戸際の光が見えていた。――まもなく、この町の古い木造家屋で暮らすという老人を訪ねるところである。

 その老人、山口良助(やまぐち・りょうすけ)。周囲には家族もなく、長らく独り身で過ごしているという。 わたくしは行政書士として、彼の**「遺言書作成」**という依頼を受けたのだ。海辺の小道を歩む途中、冬の潮風が頬を刺すように冷たいが、耳には絶えず波音が寄り添ってくる。 老人の家の戸を叩けば、軋む音を立てて開かれ、微かに磯の香りが漂う。その奥の座敷には、古ぼけた火鉢があり、熱をかろうじて保っているらしい。 「まあ、入りなさい。寒いだろう?」 そう促す老人の声はややしゃがれ、深い皺の刻まれた瞼の奥からこちらを見つめていた。

 座卓の向こうに腰をおろし、わたくしはノートを広げる。 「遺言書のことですが、具体的にどのような遺産の分配を……」 言いかけると、老人は微笑して手を振った。「わしに財産なんぞ、大したものはないよ。だが、残しておきたい想いがあるんだ」 それからしばし、外を見れば、窓の隙間から冬の光が淡く差し込む。海からの風が窓ガラスを震わせ、遠くでざわりと波の音が聞こえる。 老人は火鉢の灰をちょいと掻き、灰が舞う。「若い頃は漁に出ていてな……最初の妻もわしが海に出るさなかに病気で逝ってしまった。二度と人を愛さないと決めたけど、そうはいかんもんだなぁ……」 顔を上げたとき、その瞳に浮かんだ微かな潤みが、人生の重さを物語っているかのようだった。

 わたくしはペンを走らせ、その“残しておきたい想い”を文書にまとめる。 「町の図書館へ少額ながら寄付を――」 「古い網や船具は、若い漁師たちに譲りたい」 「もう使わなくなった家は、荒れ果てる前にだれか有意義に使ってほしい……」 寒さで手先がかじかむが、老人の言葉は不思議と温かい。すると、再び遠くから波の音が大きくなり、ぐおん、と庭先にまで音が届いてくる。**「海が荒れてるかな」**と彼が呟くたび、わたくしは人生の終幕に向かう人の静謐な心境を感じ取る。

 数日をかけて、わたくしはその想いを丁寧に“遺言書”の形に仕立てていった。書面が完成する日、再び老人宅を訪れると、海は大きくうねりながらも晴れ間がのぞき、夕陽がまぶしいほどに海面を照らしていた。 縁側から見えるのは、オレンジ色に焼けた海と、遠くにぽつんと光る漁船の灯り。冬ならではの冷たい風がほほをかすめるが、どこか優しい気配を孕んでいる。 老人はその光景をじっと眺め、**「わしが亡きあと、この町がどうなるかは分からんが、誰かしら生きてる奴が次に託してくれればいいよ」と呟く。わたくしは胸にこみ上げるものを覚えながら、静かに頷いた。「遺言書、これで完成ですね」**と。

 それからほどなく、老人は眠るように息を引き取ったという報せが届いた。わたくしは冬晴れの朝、海辺を歩いて葬儀に向かう。いつもの潮の香りが身にしみる。 あの火鉢の温もりと、灰を掻いた仕草を思い出すと、目頭が熱くなる。けれど、老人が残した言葉がしっかりと書面に刻まれ、これから手続きによって町の人々に受け継がれる。 葬儀の日、空はまるで洗い流されたような青さで、冬の雲が白い姿を映している。そこにはあの荒波もいつしか穏やかになり、漁船が淡々と漁へ出る姿が見える。**「人生の波がどれほど荒れようと、最後にはこうして静かになるのだな……」**と、わたくしは心のうちで呟いた。

七(エピローグ)

 手続きを終えて町を離れる前、わたくしは海岸に立ち寄る。冷たい砂を踏み締め、耳に聞こえるのは静かな波打ち際の音。目を細めて海の果てを見つめると、遺言書を交わしたときの老人の笑みがふと脳裏をよぎる。 「人生の終幕を、こうして波音が包んでくれるのか……」 人の思いは海へ溶け込み、やがてまた町の人々の中で受け継がれていく。冬の海が、灰色の雲のあいだから差す陽をキラキラ反射させて、まるで老人の魂が旅立っても町を見守っていると告げているようだった。 私はもう一度振り返り、遠くの波間に目をやる。オレンジに染まる夕方が近づく頃、この海岸には、きっと穏やかな灯がともるだろう。それが“人生の終幕と希望”を象徴するように見え、わたくしは静かに歩を進めたのである。

 
 
 

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