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夏の想い出、森と海のあわい

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月15日
  • 読了時間: 5分

プロローグ:遠い笛の音

 幹夫が初めて「森と海が出逢う場所」に訪れたのは、十二歳の夏休みのことだった。母の友人が営む海辺のペンションへひとりで泊まりがけで行くことになり、普段は内気な性格の幹夫は少し胸を躍らせていた。 海と森。テレビの旅番組や図鑑で見たことはあっても、実際にそれらが同じ場所に存在する風景はイメージしにくい。朝早く家を出てバスに揺られ、丘を越えたとき、幹夫の視界に突如として青い海と緑の木立が同時に広がった。 ──そのとき、遠くで誰かが笛を吹いているような音が、ほんの一瞬だけ聞こえた気がした。実際には風の音にまぎれた錯覚かもしれないが、幹夫の耳にははっきりと笛の調べが届いたのだ。

第一章 森の入口、海の光

 ペンションに着くと、母の友人が温かく迎えてくれた。そこは小さな入り江を見下ろす高台に立っており、裏手には鬱蒼(うっそう)とした森が続いている。森の中には、かすかな潮の香りが染み込んでいるようで、虫の声や鳥のさえずりに混ざって、遠い波音がかすかに聞こえた。 「海まで歩く道は森の縁(ふち)を通っているのよ。よかったら、散策がてら行ってみるといいわ」 そう言われ、幹夫は少し緊張した面持ちでペンションを出る。森と海が同時に存在する場所――それは絵や写真では表せない、不思議な空気をまとっていた。 森の入口に足を踏み入れると、青々とした葉が幹夫を包み込み、足元には柔らかな苔(こけ)が敷かれている。遠くから差し込む陽射しに、海面がきらめいて見えた。

第二章 朽ちた桟橋と貝殻の音

 森の中をしばらく歩くと、やがて開けた場所に出た。そこには朽ちかけた桟橋があり、その先に静かな入り江が広がっている。波はほとんど立たず、湖のように穏やかだった。 幹夫は桟橋にそっと足をのせる。木の板は湿気を帯びて柔らかく、ミシミシという小さな音がする。風もなく、世界は静まり返っているかのようだ。 「あれ……?」 と、足元を見ると、細かい貝殻の欠片が波に押し寄せられ、しゃらしゃらと重なり合う。まるで木の葉が触れ合うような優しい音。森のささやきなのか、海のさざめきなのか、判然としないまま、幹夫はその音に耳を澄ませる。 すると再び、笛の旋律のようなものが遠くから微かに流れてきた。辺りには誰の姿もないのに、どこかで誰かが笛を吹いている──そんな錯覚を覚え、幹夫は思わず辺りを見回した。

第三章 森の奥に眠る灯台

 ペンションに戻ると、母の友人から「このあたりには昔、森の中に灯台があった」と聞かされた。海岸沿いではなく、森の奥に灯台が建っていたという。 「もう廃墟になってずいぶん経つの。地図にも載っていないし、行く人もほとんどいないけど……もしかしたら、そこから聞こえたのかもね、笛の音」 半ば冗談めかした言葉に、幹夫はなぜか胸がざわついた。森の奥に灯台なんてあり得るだろうか。でも、森と海が交わるこの土地なら、何があっても不思議ではない気がする。 幹夫は翌日、ペンションの周囲をくまなく散策し、その“幻の灯台”を探してみることに決めた。

第四章 影の中の光跡

 次の日、少し早起きして森の入り口へ向かうと、うっすらと霧がかかっていた。葉先から落ちる露がしとしとと音を立て、土の道はしっとりとした感触を伝えてくる。 幹夫は軽い足取りで奥へ進むが、道らしきものはすぐ途切れ、立ち枯れた倒木や絡み合う蔦(つた)が行く手を阻む。その合間を縫うように歩いていくと、樹間からちらちらと海の青が見え隠れした。 「本当に灯台があるのかな……」 そう呟きかけた瞬間、例の笛のような音がまたかすかに響いてきた。背筋に小さな震えが走り、幹夫は音のする方へ足を向ける。 霧の向こうに白い影が揺れ、幹夫ははっと息をのむ。直径三メートルほどの円筒形の建築が朽ち果てて苔むし、背の高い木々に囲まれていた。これが噂の“森の灯台”なのかもしれない。

第五章 森と海を結ぶ灯り

 幹夫は恐る恐る灯台に近づく。壁には大きな穴が開き、内部を覗くと、かつては梯子があったのか天井につながる空洞がある。 苔と湿気に満ちた空気の中、上方の隙間から淡い海の光が差し込み、床をかすかに照らしていた。その光は、まるで細長い笛の軸のようにも見える。 「これが森の灯台……。なんでこんな場所に建てたんだろう」 思わず呟いたとき、また笛のような調べが耳をかすめた。だが、見回しても誰もいない。むしろ風すら動かず、森と海の境目に停滞したような静寂だけが広がっている。 灯台の壁をそっと撫でると、ひんやりとした石の冷たさが指先に伝わり、それが森の湿度や海の塩気と入り混じった奇妙な質感を帯びていた。幹夫は胸がいっぱいになり、なぜか涙が出そうだった。

第六章 桟橋での囁き

 午後になり、幹夫は再び朽ちた桟橋へ行った。打ち寄せる波は依然として穏やかで、幹夫の足音にかき消されるほどかすかな音を立てている。 桟橋の先端に腰をおろし、貝殻の欠片を手のひらに集めてみると、しっとりとした砂とともに独特の匂いがした。森の腐葉土に似た、生きものの香り。 「ここは森なのか、海なのか……。両方が混じっている……」 自分に問いかけたが答えは出ない。ただ、森のざわめきと海の光がゆっくり溶け合い、幹夫の心もその中にほどけていくようだった。 ふと、森側のほうから風が吹き、ざわっと木々が揺れる。すると一瞬、笛の音が潮騒に混じり、少年の耳に心地よい響きを残して消えた。

第七章 夏の想い出、森と海のあわい(エピローグ)

 翌朝、ペンションを後にする幹夫を、母の友人が名残惜しそうに見送ってくれた。まだ夏休みは続いているが、この森と海が溶け合う土地での滞在はここまでだ。 「灯台、見つけたんだって? 地元の人でも行ったことない場所なのに、すごいわね」 幹夫は照れくさそうに微笑み、でもそこに本当に灯台があったのか、自分でも半ば不思議だった。まるで夢か幻のような気もする。 バスの座席に腰かけ、出発を待つあいだ、幹夫は窓の向こうに広がる海と森をじっと眺めた。この先、いつかまた戻ってきたら、あの笛の主に会えるだろうか。 森に息づく緑の匂いと、海が運ぶ潮の香り。二つの世界が交わる場所で、自分は確かに静かな感動に包まれた。 バスがゆっくりと動き出すと、森の稜線が遠ざかり、海の輝きが窓の外を過ぎていく。 幹夫はそっと目を閉じる。灯台の朽ちた壁から差し込んだ光、桟橋で聞いた貝殻の擦れ合う音、そしてあの遠い笛の旋律――すべてが淡い夏の想い出として、胸の奥に刻まれている。 いつかまた、森と海の気配が溶け合うあの場所で、幹夫はもう一度その音を確かめたいと願っていた。

 
 
 

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