安倍川の白い舟
- 山崎行政書士事務所
- 8月31日
- 読了時間: 7分

六月の中旬、昭和二十年の朝は、白く乾いた匂いをしていた。幹夫は八歳で、まだ背の低い簾に額をあてると、竹の香りの奥に、煤の残り香をかすかに嗅ぎわけた。庭と呼ぶには貧しい土の片隅で、紫陽花が一つだけ咲いている。色は淡く、雨の少ない日々に遠慮しているかのようだった。
母は井戸端で手ぬぐいを絞り、口数の少ない朝をゆっくりと始める。父はとうにいない。どこにいるのか、幹夫はたずねない。聞けば答えが風のように遠のいてしまう気がして、聞かずにいた。家の板壁には、昨夜の空襲をやりすごした湿り気がまだ残っていた。叩けば水の音が返るようで、幹夫は手のひらをそっと当て、音のない音をきいていた。
配給所へ向かう道は、焼けた木の匂いと、新茶の工場からときどき流れてくる青い香りがまじり合って、息をすると胸の中が曇った。安倍川へ抜ける風が、耳の後ろを冷たく撫でる。土手の上には、昨夜の避難の名残のように、むしろと毛布が几帳面に畳まれて置かれている。人びとは互いの視線を避ける術を覚え、目と目の間に薄い紙を挟むような間を作って歩いた。
「幹夫、今日は並ばなくていいよ」
母は並ぶ列の最後尾に立つと、そう言って彼の肩を押し出した。安倍川の水面が遠くで光っている。幹夫は頷き、土手をゆっくり下りた。川の畔には細い用水が走って、ところどころに澱みの丸い鏡を落としている。彼はポケットから紙片を取り出した。古い帳面を破った薄い紙に、鉛筆の跡が、雨のあとみたいに淡く残っている。幹夫は膝をつき、紙を舟の形に折った。指先に紙の乾きが移って、爪の白いところが少し痛んだ。
舟を水に置くと、用水の流れはためらうことなくそれを受け入れ、ちいさな影は草の緑と一緒にゆっくりと進み出した。幹夫は一歩、二歩と並んで歩く。水の底には、昨日の火の粉が沈めていったような黒い粒々が見えた。けれど、流れの上は静かで、舟は何も知らないように白かった。
「それ、どこまで行くの?」
背中に声が落ちた。振り向くと、彼より少し小さな女の子が、ほつれた前髪を指で押さえて立っていた。縁のほどけた草履の鼻緒を親指で押し込み、彼と同じ舟の行方を見つめている。頬には薄い煤の跡が四角く残っていた。たぶん昨日、肩に掛けた荷物の角が擦れたのだろう。幹夫は、舟だよ、と答え、行くところがあれば行く、と小さく付け加えた。
女の子は頷いて、幹夫の少し前に出た。二人の影が水面に重なる。影の境目は風に揺れて、ときどき一つになった。女の子の手の中には、錆びた銀色のスプーンが握られている。柄のところに、蔦の模様がうっすらと浮いていた。
「これ、拾ったの。朝。」
幹夫は、重い? と訊いた。女の子は顔の横で首を振り、でも冷たいの、と言った。その言い方は、氷に触れて驚いた時のように、少しだけ誇らしげだった。
舟は用水の曲がり角にさしかかり、葉陰の下で一瞬止まった。光が移るとまた動き出す。二人は息を合わせるように足を運んだ。角を回ったところで、用水は広い川へと口を開き、舟は水の力に引かれて早くなった。幹夫は小走りになり、女の子も草履の音をたてて追いかけた。けれど、舟は二人よりも軽く、あっという間に石の間に消えた。
二人は立ち止まり、しばらく川を見ていた。水は、昨日までと同じ音で石を撫でている。空襲の夜にも、どこかでこうして流れていたのかもしれない、と幹夫は思った。その考えは、胸の中でひそやかに自己を包み込み、涙とは違う温かさをもって広がった。
「あなた、名前は?」
女の子が訊いた。幹夫は名を言い、女の子はゆっくりと自分の名を名乗った。彼女の名は、花の名に似ていた。幹夫はその響きを一度口の中で転がし、飲み込むようにして覚えた。
「お母さん、待ってるから」
女の子がそう言って土手の上を見た。列はまだ長く、母の姿は見えない。けれど、母という言葉が風の中に立ち上がると、そこにいない人の気配までが、紫陽花の影のように足下に現れる。女の子はスプーンを握り直し、また来るね、と言って駆けていった。草の先に小さな露が残っていて、彼女の足跡にだけ陽がきらきらと集まった。
幹夫はしばらくその場に立ち、石をひとつ拾って掌で温めた。石はすぐに彼の体温を受け入れ、違いがわからなくなってゆく。遠くで列が動く気配がした。母が彼をさがして振り返る姿が、胸の中に浮かんだ。幹夫は石を元のところへ戻し、土手を上った。
その日、昼の空は淡く濁って、紙の裏側の色をしていた。家に戻ると、母は風呂敷包みをほどき、小さな米袋と少しの芋を並べて見せた。彼女の指先には水の冷たさが残っていた。台所の隅で、板の節穴から光の点が床に落ち、虫のように動いた。
「夜は壕へ行こう」
母が言うと、幹夫は頷いた。頷くことは、言葉を持たない約束のようで、心が静かになった。
夕暮れになると、人びとはふたたび土手へ向かった。壕の入り口は湿った匂いがして、草の匂いと土の匂いが重たく混ざっていた。小さな蝙蝠が低く飛び、子どもたちの頭上で一度だけ輪を描いた。幹夫は膝を抱えて座り、外の風の音を聞いた。遠くで誰かが咳をし、その咳の余韻が、壕の天井にうすい波紋をつくる。母の肩が触れるたびに、幹夫は自分の体が確かにここにあることを、目を閉じて確かめた。
その夜は何も起こらず、ただ風の通り道だけが時間のなかを歩いた。夜明け前、壕の外へ出ると、空は藍色で、山の端が墨で引いた線のようにくっきりしていた。小鳥の鳴き声が少し遅れて届く。人びとは眠そうに、けれど安堵の色をおさめて、同じ道を帰っていった。
幹夫は一人、壕から少し離れた空き地に寄った。そこには、焼け残った柱の根元が石のように立っている。黒い表面に朝露がつき、指で触れると冷たかった。柱の影のところに、白いものが一つ落ちている。拾い上げると、それは薄い陶片だった。小さな茶碗の破片らしく、内側にだけ、野の花のような青が描かれている。幹夫はその青が川の色に似ていると思い、胸のポケットに入れた。
家へ戻ると、縁側の風鈴が鳴った。ガラスの口が朝の光を集め、鈍く光る。幹夫は風鈴の下に立ち、音を一つ、二つ、数えた。壊れた町の数ではなく、焼け残った柱の数でもない、そのどれとも離れている音だった。彼は手を伸ばさずに、音が自分を通り抜けるに任せた。音は背中から胸へ、胸から指先へ、指先から静寂へと移っていった。
昼近くになって、女の子が土手の方から姿を見せた。手には例のスプーン。彼女は幹夫を見つけると、嬉しそうに小さく手を振った。二人は何も言わずに歩き出し、昨日の用水のところまで来た。幹夫はポケットから陶片を取り出して見せた。女の子はそれを手の平にのせ、目を近づけた。
「青いね」
「川みたい」
二人は同時に言い、笑った。笑いは小さく、けれど確かにそこにあった。幹夫は新しい紙を取り出して、もう一つ舟を折った。女の子も真似て、ぎこちない指つきで舟を作った。二つの舟はならんで水に浮かび、昨日より少し早い流れに身を任せた。陽は高く、風は軽く、川の匂いが浅く広がる。
「また来よう」
女の子が言った。幹夫は頷いた。頷くと、胸のどこかに空気が入る感じがした。戦がどう終わるのか、彼らは知らない。ただ、川は流れ、風鈴は鳴り、紫陽花は色を持とうとしている。そのあいだを、二つの白い舟は、時刻を知らずに過ぎて行く。
夕方になると、雲は薄く伸び、山の線はやわらかくほどけた。幹夫は一人、縁側で風鈴の音を聞いた。母の影が台所で動き、米のとぎ汁の白さが流しの中でゆっくり沈む。ポケットの陶片は、彼の体温に馴染み、青さを増しているように見えた。
夜が来れば、また壕へ行く。だが今は、風だけが彼の頬を撫で、どこまでも素朴な午後が続いている。幹夫は目を閉じた。川の上を舟が行き、知らない岸に着くところを想像した。そこには、昨日のものでも明日のものでもない、今日の色をした石があるだろう。彼はその石を拾いあげ、掌で温める。温まるまで待つ。――それができる時間を、彼は愛していることに、まだ気づいていなかった。


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