復活の鐘 ――モスクワのキリスト大聖堂にて
- 山崎行政書士事務所
- 2月2日
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モスクワ川のほとりを冷たい風が吹き抜けていく。冬の終わりとはいえ、まだ重たい雪雲が空を覆い、街には灰色の影が落ちていた。その一角に、黄金のドームをいただいた聖堂が聳(そび)え立つ。目を奪われるような輝きを放っているのは、キリスト大聖堂(Храм Христа Спасителя)だ。
その日、青年・ミハイルは、小さな花束を抱えて聖堂の前に立っていた。かつてこの場所で悲運に見舞われた歴史を思うと、彼の胸はどこか締めつけられるように痛む。祖父から何度も聞かされた――スターリン時代にはこの大聖堂が取り壊され、その後、巨大プールに変えられたこともあった。だが、ソビエト連邦崩壊後、人々の手によって新たに再建されたのだという。
ミハイルは、雪が積もった階段を一歩ずつ上りながら、祖父の遺した手記を思い出す。それには、かつて祖父が少年時代に目に焼きつけた“大聖堂の原風景”と、取り壊されたときの無念の思いが切々と綴(つづ)られていた。「いつか、あの大聖堂がまた立ち上がる日が来るだろう」 祖父はそんな言葉で手記を締めくくっていた。
白い外壁に映える黄金のドームが、冬の曇天にもかかわらず堂々と光を放っている。まるで、失われた過去の記憶を覆すかのように、今ここで強い存在感を示しているかのようだ。大きな扉をくぐると、厳粛な空気が青年を包み込む。高い天井に響く聖歌の声、灯籠の揺れる火の影が壁に映り、香が漂う。祈りの場として再生したこの聖堂は、過去の苦難と現在の希望を同時に宿しているように見えた。
ミハイルは、薄暗い回廊を抜け、聖堂の中心部へと向かった。そこには信者たちが十字を切りながら、静かにろうそくを灯している。再建された天井画には鮮やかなイコンが描かれ、天使や聖人たちの姿がこちらを見下ろしている。まるで、“人間の信仰や意志は、いかなる時代を経ても消えない”と語りかけるかのようだ。
しばらく聖堂の空気を味わった後、ミハイルは持参した小さな花束を捧げる場所を探した。かつて祖父が住んでいた村の習わしにならい、花を聖堂に捧げることで故人の魂を慰めるのだという。「あの日、この場所が消えてしまったとき、どんなに嘆いただろう……」 若い司祭がミハイルに気づいて話しかける。「あなたは、この聖堂の歴史をよく知っているのですね。今こうして再建されたのは、多くの人々の願いや祈りの結晶でもあります。」
ミハイルは花束を捧げながら、そっと目を閉じた。祖父が見たかった大聖堂の姿を、まさに自分の目で確かめているのだ。取り壊されてもなお、人々の心に残り続け、やがて力を合わせて再び甦(よみがえ)った奇跡の建造物――それがキリスト大聖堂だと実感する。
外へ出ると、先ほどまで沈んでいた空が、わずかに明るみを帯びはじめていた。雪雲の切れ間から淡い冬の陽が射し、黄金のドームがいっそう眩(まぶ)しく輝く。まるで未来への希望を示す灯火のようにも見える。 ミハイルは石段を下りながら、胸の中に暖かな何かが広がるのを感じていた。雪に覆われても、嵐にさらされても、人々の思いによって再建されたこの聖堂が語る物語は、祖父の手記の最後の言葉の通りだった。 ――「いつか、あの大聖堂がまた立ち上がる日が来るだろう」――それは、夢のようでいて現実になった希望の証。
川沿いを歩き出すと、遠くから教会の鐘の音が響いてきた。冷たいモスクワの風の中で、その音色はどこか優しく、ミハイルの背中を押してくれるようだった。 過去と現在、そして未来のすべてを包み込みながら、キリスト大聖堂は今もなお、奇跡のようにモスクワの大地を見守り続けているのだ。
(了)


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