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忘れられた拍手の前で――古いオペラ座の舞台見学

扉を押すと、空気が一段ひんやりして、古い木とニスと埃が混ざった匂いが胸に入った。薄明かりのなか、唐草レリーフの譜面台をつけたグランドピアノが舞台の真ん中にぽつんと座り、その周りを空の椅子がとり囲んでいる。照明は天井からいくつも下がっているのに、灯っているのはほんの数個だけで、光はゆるく床に落ち、忘れられた演目の余韻だけがそこに残っているようだった。

案内の人に促され、恐る恐る板の上に一歩踏み出した瞬間、最初の“やらかし”。靴ひもが椅子の脚に引っかかって身動きが取れない。舞台袖にいた年配の舞台係がスッと近づき、ひもを外すと、指先で手際よく八の字の結びを作ってくれた。「これだと踏んでもほどけにくいよ」。黒服の胸に小さなライトが一つ光った。暗がりでは、結び目ひとつが安心の灯りになる。

ピアノのそばまで歩く。天板はところどころ曇って、指先でなぞると粉のような埃がつく。私はつい、鍵盤に触れてみたくなり、そっとの音を押した。低い木の箱が胸の中で鳴った気がして、何かがこちらを覗きに来る。舞台係は眉を上げ、「目覚ましには三つがいい」と言って、ド・ミ・ソを続けて鳴らした。音はやわらかく、舞台の上で丸く膨らみ、それからゆっくり薄くなっていった。空の椅子が、その音だけで誰かの背中を想像させる。

歩きながら照明バトンを見上げていたら、今度はマフラーの端が譜面台のレリーフにくるりと噛んだ。あわてて引っ張るとほどけない。舞台係がポケットから安全ピンを出し、端をひとねじりして八の字で留め直し、するりと外してくれた。「舞台はね、装飾が多い。人も物も、まずは風と仲直り」。その言い方が冗談みたいでもあり、祈りみたいでもあった。

奥にはシートをかぶせられた大道具が山になっている。案内の人が「今夜は地域の合唱団がリハーサルをするんです」と言う。私は椅子を何脚か運ぶのを手伝った。お約束の“やらかし”はここでも起きる。運んだ椅子の一本がカタカタと揺れるのだ。舞台係は何も言わず、ポケットから厚紙を一枚取り出して脚の下へトントン。いちばん簡単な修理が、舞台の威厳をそっと支える。

小休憩。私はバッグから出した水筒のコーヒーを一口飲もうとして、舞台床にぽたりと一滴。あ…と固まる私に、舞台係が炭酸水で湿らせた布を渡してくれた。「叩く、こすらない」。言葉のとおりトントンとやると、しみはするすると薄くなる。私はお礼にポケットののど飴を差し出し、「半分こ」と笑う。彼は飴を割って口に入れ、しわだらけの目尻を少し下げた。「ここはね、半分こが多い。拍手も、息も、ミスも、だいたい半分ずつ舞台と客席で持ち合うんだ」

舞台の端に、古いプログラムが一冊置き忘れられていた。表紙をめくると、日付はずいぶん前。舞台係の指が紙の上をやさしく滑る。「このピアノ、昔は独奏の前に調律士の倍音チェックでいちどだけ鳴らす決まりがあってね。誰もいない客席に、の音がひとつだけ浮かぶ。その瞬間、劇場全体が息を揃えるんだよ」。私はさっきのド・ミ・ソを思い出し、胸の奥で音が再び鳴るのを感じた。

やがて、舞台裏の扉が開いて、子どもの合唱団がぞろぞろ入ってきた。背の低い子が一人、見知らぬ場所に緊張して、手をぎゅっと握っている。私はさっきののど飴をまた半分に割って手渡し、「これ、練習の秘密」とウィンク。子は笑い、指揮者が手を上げる。最初のが、さっき舞台係が語ったとおり、劇場の空気を同じ高さにそろえた。空の椅子の幻は音に変わり、薄暗い照明が急に現在の明るさになる。

帰る前、私はピアノの横で蝶々結びを作り直し、靴ひもの八の字をもう一度確かめた。今日の小さな出来事――ほどけたひも、噛んだマフラー、揺れる椅子、こぼれたコーヒー、トントンの布、そしていくつもの半分こ。どれも大事件ではないのに、舞台の上では上演を支える技術としてきちんと働いていた。

外へ出ると、まだ日は高いのに、劇場の中だけがゆっくり夕暮れを先取りしているように見えた。舞台係が最後に言った。「大きな夜を作るのは、だいたい小さな直し方だよ」。私はうなずき、胸の中でド・ミ・ソをもう一度鳴らしてみる。忘れられた拍手は、たぶん忘れられていない。次の誰かの一音と、一つの結び目と、一回のトントンで、またちゃんと戻ってくるのだと思う。

 
 
 

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