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日本平の蜜柑天秤

  • 山崎行政書士事務所
  • 8月27日
  • 読了時間: 5分

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 朝の日本平(にほんだいら)は、段々畑の一段ごとに柑橘の匂いをしまっていて、風が通るたび、その引き出しを一つずつ開けてゆくのでした。畝(うね)の葉はつややかで、露はまだ小さなレンズのまま、駿河湾の青を丸ごと一粒ずつ抱えています。八歳の幹夫は、石垣のあたたかい端っこに腰をかけて、落ち葉のみかんの皮を指で巻きなおしていました。遠く、三保の松原は緑の扇のようにひらき、その上で富士の裾(すそ)がうすく息をしています。

 そのとき、葉の影から、薄い橙(だいだい)色の封書が一枚、風に押されて足もとへすべり込みました。封書は笹の葉のさわり心地で、金いろの細い字が葉脈みたいに走っています。

 — 至急 日本平・段々畑気象局  昨夜の東風により、「蜜柑の天秤」西の皿いちまい落失。  このままでは正午の味配りが甘に片寄ります。  正午までに新しい皿を撚(よ)り合わせ、最上段の見張り松へ吊下げのこと。  必要物:   ① 春の白い花の記憶から生まれる「甘の粒」ひとつ   ② 駿河の風の舌さきにひかる「酸の星」ひとつ   ③ 皮の油胞(ゆほう)から立つ「陽の糸」ひとすじ  提出先:段々畑いちばん上 見張り松の枝

「読み書き、上手だね」

 枝先から、小さな緑の客が降りました。白い眼鏡をかけたみたいに目のふちが白い、メジロです。胸は淡いきいろ、声は砂糖湯をひと吹き冷ましたみたいにやわらかです。

「案内係のメジロです。天秤が片方欠けると、蜜柑の味はゆれてしまう。今日は君に、皿を新しく編んでほしい。甘いだけでも、すっぱいだけでも、舌は道に迷うからね」

 幹夫はうなずき、ランドセルの余りひもを確かめました。ポケットには小さなハンカチが一枚。二人はまず、古い枝の股(また)へ向かいました。

   *

 春に白い花が咲いた場所は、夏を越えても、指でそっと触れると薄く甘いにおいが立ちます。幹夫が耳を澄ますと、枝の中に「り」と一声だけ、ガラスの砂糖が鳴るみたいな音がありました。ハンカチの角でその音を受けると、糸目のあいだから、小さな「甘の粒」がひとつ顔を出します。色は見えませんが、指に乗せると、心のどこかが明るくなる粒です。

「一本め、甘の粒。次は、酸の星だ」 メジロは顎で崖のほうをさしました。「風が舌をちょっとだけ尖らせてくる場所がある」

 段々を登ると、空が急に近くなりました。崖の縁で風がふっと細くなり、幹夫の頬のわずかな塩気がにわかに目を覚まします。その瞬間、空気の中に星みたいな点が一つ、白く点灯しました。幹夫は余りひもで小さな輪を作り、「いま」と囁いて、その星を輪の中にそっと受けとめます。輪は一度だけ涼しくなり、指先にすっぱい微笑がうつりました。

「二本め、酸の星。最後は、陽の糸」 メジロは幹夫の手の中の落ち葉の皮を見ました。「皮をきゅっと折ると、陽(ひ)が細い霧になって飛ぶ。あれを一本だけ」

 幹夫は、さっき巻きなおしていた蜜柑の皮を少し折りました。すると、目に見えないほど細い金の霧が「ぷつ」と一度だけはじけ、光の糸が一本、空中に張られます。幹夫はハンカチの端でその糸を受け、さきほどの輪と合わせて、ランドセルのひもでゆっくり撚りはじめました。

 甘の粒は、糸に触れると丸くほどけ、酸の星は、糸の節目で小さく点滅し、陽の糸は三つをふわりと抱きかかえます。撚るたびに、ひもは小さく「り」「ん」「り」と鳴って、やがて透明の小皿になっていきました。よく見ると、皿のふちを、花の記憶・海の星・金の霧が三つ綾(あや)になって回っています。

   *

 最上段の見張り松は、風の背にちょこんと座るように立っていました。枝の先には、細い銀の棒——蜜柑の天秤の腕が伸びていて、西側の皿だけが空(から)です。向こうの駿河の青は、ほんの少し甘く傾いて見えました。

「吊ってごらん」 メジロが枝を軽くたたきました。「皿が揺れすぎないよう、心を静かに」

 幹夫はあごを引いて息をととのえ、作った皿を、銀の腕の先にそっと掛けました。皿は、最初すこしはしゃいで揺れましたが、やがて自分の居場所を思い出し、平らを覚えました。次の瞬間、腕の真ん中の目盛りが、ひと目盛りだけ下がり、全体がすうっと静まりました。

 段々畑の蜜柑は、その合図を待っていたようです。葉の影から、いろどりが少し濃くなり、ひと粒ひと粒の中で、甘と酸がきれいに手を結びました。風が畝を渡るたび、味の天気図が描き直され、収穫籠の影はちょうどいい重さで地面に座ります。遠くの海は、青の中で白をひと匙まぜ、富士の裾は、さっきよりも涼しい顔をしました。

「できた」 幹夫が息をはくと、メジロは小さく羽を震わせました。「ありがとう、幹夫くん。天秤がまっすぐなら、舌も心もまっすぐになる。お礼に、切手を一枚」

 メジロがくちばしで差し出した切手は、透明で、小さな蜜柑の房(ふさ)の形をしています。光にかざすと、房の一片に甘の粒、もう一片に酸の星、へそに細い金の糸が描かれているのが見えました。

「『橙(だいだい)』の切手だよ。君の一日の味がどちらかに傾きすぎたら、胸の地図に貼ってごらん。『ただいま』がちょうどの甘酸っぱさで出てくる」

   *

 帰り道、幹夫は石垣の上で、小さな蜜柑をひとつ割りました。皮は軽く鳴ってはじけ、陽の糸が指先に一度だけ触れます。房を一つ口に入れると、舌の上で海が小さく笑い、山がうなずき、春の花が遠くで白く点滅しました。

 家の門をくぐって、幹夫は声を丸くして言いました。「ただいま」

 その「ただいま」は、今しがた天秤を通ってきたみたいに、ちょうど良い重さでした。台所から「おかえり」という返事が、甘すぎも酸っぱすぎもせず、味噌汁の湯気は柱の木目をゆっくり昇ります。胸の中の切手がいちどだけ淡く光り、見えない小皿が心の台の上で静かに水平になった気がしました。

 夕方。日本平の段々は、金色の筆で一段ずつ撫でられ、蜜柑は一日の終わりを薄く吸い込みました。駿河の海には橙の筋が一本引かれ、三保の松原は扇を少しだけ閉じます。見張り松の枝では、今日つけた皿が、最後の風をやさしく受けて、短く「り」と鳴りました。

 夜。段々畑の間の小道には、葉の影が細い梯子(はしご)になってかかり、遠くの港の灯が、蜜柑の房ほどの大きさで点ります。メジロは葉の奥で丸くなり、天秤は暗がりの中で、目盛りをひとつだけ磨きました。

 — 甘の粒  酸の星  陽の糸  それらを撚って小皿にすれば、  今日の一口は、  ちゃんと君の味になる。

 朝。段々畑はまた新しい引き出しを開け、風は最初の一段をそっと確かめます。幹夫は靴ひもを結び直し、胸の切手の冷たさをひとつ吸いこんで、ゆっくりと学校へ向かいました。背中のどこかで、小さな天秤が、今日の最初の「平ら」を静かに指していました。

 
 
 

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