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柿の旅ひも

 十月の終わりの蒲原は、朝の空気だけが薄い硝子みたいに澄んでいて、息を吸うと胸の奥へ、すうっと白い道が一本通る気がしました。田んぼの刈りあとは短い切り株が並び、そこを風が通ると、さら……さら……と、見えない紙をめくるような音がします。駿河湾は遠くで鋼の板みたいに光り、薩埵峠の影は、夜の名残りを少しだけ背負って、町の端を静かに撫でていました。

 縁側の前の柿の木は、今日はやけに明るく見えました。葉が少しずつ落ちて、枝の間に、橙色の実だけが残っている。実はまるで、空にぶらさがった小さな行灯みたいでした。風が来るたび、行灯はごく小さく揺れて、それが幹夫の胸の奥の「待っているところ」を、こつん、と叩きました。

 幹夫は八つ。縁側に座って、柿の実を見上げていました。見上げると、喉が少し乾きました。乾くのは、秋の空気のせいだけではありません。橙色がきれいだと思うと、すぐ隣に「父さんにも見せたい」が立ち上がってしまうからです。立ち上がると、胸の奥がちくりとします。

 台所から祖母の声がしました。

「幹、今日は柿をむくよ。干し柿にする。寒くなる前がいちばんいい」

 干し柿――その言葉は、幹夫の胸に、ぴん、と糸を張りました。嬉しい糸です。けれど嬉しい糸ほど、切れそうで怖い。怖いから、握って確かめたくなる。握ると痛い――幹夫は、もうそれを少し知っていました。

「父さん、好きだったね」と祖母が言いました。まるで何でもないことのように。 その“何でもない”が、幹夫には助かりました。大げさに言われると、胸の痛いところが針みたいに尖るからです。

「……うん」と幹夫は言いました。 言いながら、胸の中で、もうひとつの声が小さく鳴りました。

 ――父さん、今、食べてるかな。 ――工場のがちゃん、がちゃんの中で。

 工場の音を想像すると、耳の奥が少し硬くなりました。硬くなると、胸の空洞も硬くなる。硬い空洞は冷たくて、息が通りにくい。

 祖母が、包丁と、束ねた藁と、麻ひもを持ってきました。麻ひもは見覚えのある色でした。あの、新米の小包を結んで、父のところへ行って、また戻ってきた麻ひもの残り。

 幹夫は、その麻ひもを見た瞬間、胸の奥がこつん、と鳴りました。

 ――旅をした紐。

 行って戻ってきたものが、また別の行き先を待っている。そんなふうに見えると、遠さがただの遠さではなく、道の形になります。

「この紐、まだ使える。父さんから返ってきたやつだ。縁起がいいよ」 祖母はそう言って、軽く笑いました。笑いは大きくなく、針穴に糸を通すときの目の細さみたいな笑いでした。

 幹夫の胸のちくりが、ほんの少しだけ丸くなりました。

 こういちは昼前に来ました。袖をまくった手首が秋の冷たさで少し白く見えて、でも目はちゃんと蒲原の色でした。

「柿、むくの?」とこういちが言いました。「うん。干すんだって」

 二人は脚立を立てて、柿を取るところから始めました。柿は思ったより重たくて、枝からもぎ取るとき、実がぷつり、と小さく鳴りました。そのぷつりが、糸電話のぷつんを思い出させて、幹夫は一瞬、胸がひゅっと冷たくなりました。

 ――切れる音は、いやだ。

 けれど、柿は切れたわけではありません。枝から離れて、手のひらに移っただけ。移る、というのは、手放すことではなく、受け取ることでもあります。幹夫は、冷たくなった胸のところへ、そう言い聞かせました。

 台の上に柿を並べると、橙色がずらりと並んで、まるで小さな惑星の列のようでした。どれも丸くて、同じようなのに、よく見ると、ひとつひとつ顔が違います。少し傷のあるもの、まだ青みの残るもの、すこしへこんでいるもの。

 祖母は傷のある柿を手に取り、言いました。

「これは干さずに、煮て甘くしよう。傷も甘くなる。甘くなるのは、悪いことじゃない」

 傷も甘くなる。 その言葉は、幹夫の胸の中の“痛いところ”に、そっと布をかける言葉でした。痛いところは消えません。でも布があると、触れても血が出にくい。

 皮をむく作業は、静かな仕事でした。包丁の刃が、柿の皮に入ると、しゃり、と小さな音がします。音が小さいほど、指先の感覚が大きくなりました。柿の皮は薄く、むいた皮がくるくると繋がって落ちると、まるで橙色のリボンが机の端から垂れたみたいでした。

 幹夫は、途中で手が止まりました。皮が切れてしまったのです。

 切れた皮は、くるり、ではなく、ぶつん、と短く落ちました。短い落ち方は、どこか悔しくて、幹夫の胸がちくりとしました。小さな失敗のちくり。でも、そのちくりのすぐ下に、別の声もありました。

 ――皮は、また続けられる。 ――切れても、むくことはできる。

 祖母が言いました。

「幹、むき方は、きれいでなくていい。大事なのは、手を切らないことと、実を傷めないことだよ。きれいはあとで来る」

 きれいはあとで来る。 その言い方は、暗室の白い紙が、ゆっくり像を出したときのことを思い出させました。急ぐと曇る。じっと待つと、ちゃんと出てくる。

 むいた柿は、ヘタに紐をかけて、軒下へ吊るしました。祖母が、父から返ってきた麻ひもをほどいて、適当な長さに切って、二つずつ柿を結びます。結び目は、指先に硬い瘤を作って、そこが“止まり木”みたいになりました。

 幹夫はその瘤を見て、胸の奥がこつん、と鳴りました。

 ――結び目は、道の印だ。

 柿が吊るされると、軒下に橙色の列ができました。列は、風がなくても、そこに“並ぶ”という力を持っていました。並ぶだけで、家の空気が少し明るくなる。明るくなると、胸の暗いところが少しだけ見えにくくなります。

 こういちが言いました。

「行列だね。柿の」「……宇宙の行列みたい」と幹夫は言ってしまいました。 言ってから、少し恥ずかしくなりました。宇宙なんて、大きすぎる言葉。でも、幹夫の胸は大きいものが好きでした。大きいものを見ると、自分の寂しさが、その中に薄く溶けていくからです。

 祖母が、軒下を見上げて言いました。

「干し柿はね、毎日ちょっとずつ変わる。色も、匂いも、硬さも。だから“ただ待つ”じゃなくて、見てやるんだ。見てやるのが、待つ仕事」

 待つ仕事。 幹夫の胸の奥が、すっと息を通しました。待つというのは、何もしないことだと思うと苦しくなる。待つのが“仕事”なら、手が動く。手が動くと、胸も少し動ける。

 夕方、薩埵峠のほうから風が降りてきて、柿が一斉に、ほんの少し揺れました。 とん。 とん。 橙の丸が、隣の丸に軽く触れて鳴る音です。銀の輪の“きん”ほど澄んでいない。青い星の“からり”ほど軽くもない。もっと柔らかくて、甘い音。

 幹夫はその音を聞いて、胸の奥がふっと温かくなるのを感じました。

 ――柿も返事をする。 ――風が話せる日に。

 窓辺の青いガラスの星が、からり、と鳴り、少し遅れて銀の輪が、きん、と返しました。 からり、きん、とん。 三つの音が、短い順番で並びました。まるで、家が小さな楽団になったみたいでした。

 幹夫は、聞きながら、胸の奥の空洞を確かめました。空洞はまだあります。消えません。でも今夜の空洞は、冷たい穴ではなく、音が通る筒でした。筒なら、息ができる。息ができるなら、待てる。

 翌日から、祖母は毎朝、干し柿をそっと揉みました。指の腹で、ほんの少し押す。押しすぎない。傷めない。押すと、実の中の甘さが、ゆっくり外へ向かう道を探します。

「幹もやってみるかい」と祖母が言いました。 幹夫はうなずきました。

 柿を揉む指先は、すぐに少しべたべたしました。べたべたは嫌ではないのに、指が自由にならない感じがして、幹夫は少しだけ焦りました。自由にならないと、胸も自由にならない気がするのです。

「……これ、むずかしい」と幹夫が言いました。 こういちが隣で言いました。「息して。……やさしく、ね」

 息して。 その言葉は、何度も幹夫を助けた梯子でした。幹夫は息を吸いました。柿の匂い、藁の匂い、海の匂いが混ざって、肺に入ります。肺に入ると、胸の中の熱い石が少し丸くなりました。

 幹夫は、指先をやさしく動かしました。柿の皮の下が、ふわりと柔らかくなっていくのが分かりました。柔らかくなるのは、壊れるのではなく、甘くなるため。

 そのとき、幹夫はふっと思いました。

 ――ぼくの胸も、こうやって揉めたらいいのに。

 胸は手で揉めません。でも、言葉で揉める日がある。涙で揉める日がある。海を見て、凪を見て、ひとつずつ気持ちを棚に置くことが、揉むことに似ているのかもしれない。

 幹夫は、柿を揉みながら、胸の中で小さく父に話しかけました。

 ――父さん。 ――今、柿を揉んでる。 ――ぼくの指はべたべただ。 ――でも、べたべたのまま、ちゃんとやってる。

 声に出さない言葉は、誰にも聞こえない。けれど、声に出さないからこそ、胸の奥に落ちて、静かに形になります。

 数日後の朝、軒下の柿の表面に、うっすら白いものが見えました。粉のように、霜のように。祖母が言いました。

「ほら、柿霜(かきしも)だ。甘さが外へ出てきた。よくやった」

 白い粉は、田んぼの露とは違う白さでした。露は消える。柿霜は残る。残る白は、冬の前触れみたいで、幹夫の胸の奥がこつん、と鳴りました。こつんは、怖さではなく、うれしさの鳴りでした。

 ――白が出てきた。 ――待ったから。

 幹夫は、柿霜のついた一つを手に取って、そっと窓辺に置きました。青い星の隣に、橙色の小さな月。銀の輪のそばに、白い粉のついた甘い星。

 窓辺が、少しだけ季節を持った顔になりました。

 風が、薩埵峠のほうから一筋降りてきて、

 青い星が、からり。 銀の輪が、きん。 軒下の柿が、やわらかく、とん。

 幹夫はその三つを聞いて、喉の奥がじん、と熱くなりました。涙ではありません。ほどける熱。ほどける熱は、胸の中の結び目を、少しだけゆるめてくれます。

 幹夫は机に向かって、父へ手紙を書きました。

 「とうさん」 「かきを ほしました」 「むいて つるして まいにち もみました」 「しろい こなが でてきました」 「とん と ならびます」 「まひもは たびひもです」 「とうさんの ところへ また いきます」

 “早く帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。でも今夜は、その書けなさが、糸を張りすぎないための加減に思えました。柿も、すぐ甘くはならない。揉んで、待って、白い霜が出て、やっと“旅に出せる甘さ”になる。

 布団に入ると、虫の声が、りん……りん……と夜の布を細い糸で縫っていました。遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。

 幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと言いました。

 ――待つって、ただ止まることじゃない。 ――揉むって、胸の形を整えることかもしれない。 ――旅ひもは、また結べる。

 窓辺で青い星が、ごく小さく、からり。 銀の輪が、それに返して、きん。

 その返事を聞きながら、幹夫の胸の空洞は、今夜も冷たい穴ではなく、甘い匂いと音の通る筒のままでした。

 
 
 

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