桜井二見ヶ浦の鳥居に佇む夫婦の記憶
- 山崎行政書士事務所
- 6 日前
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夕暮れの浜辺
昭和六十年の夏の夕暮れ、福岡県糸島市の桜井二見ヶ浦。その浜辺には、薄桃色に染まりゆく空の下、白い鳥居が静かに佇んでいた。穏やかな波が砂浜を洗い、寄せては返す音が絶え間なく響いていた。鳥居の先、沖合いにふたつの岩が寄り添うように並んでいた。それが夫婦岩と呼ばれる一対の岩で、太い注連縄によって固く結ばれていた。
鳥居の前に、年老いた夫婦が肩を並べて立っていた。幹夫とその妻は、長い人生の黄昏に差しかかった今、この静かな浜辺に二人きりで佇んでいた。潮風が吹き寄せ、妻の銀色の髪の一房を優しく揺らした。幹夫はそっと手を伸ばし、その髪を指先で梳いて静かに耳の後ろへとかけた。妻は少し驚いたように彼を見上げ、そして小さく微笑んだ。二人の間に言葉はない。それでも、お互いの心の奥底まで通い合うものがあった。
遠く頭上では、一羽の鳶が輪を描き、甲高い声でひと声鳴いた。ゆっくりと西に傾いてゆく太陽の光が、海面を黄金色に染め上げていた。幹夫は目を細め、沖の岩に掛かった注連縄が夕陽に照らされて淡く輝くのを見つめた。幹夫の目には、幾多の嵐に耐えてきたであろうその綱が、まるで二人の長い歳月を象徴しているかのように映った。彼は隣に立つ妻の存在を確かめるように、そっとその手を握った。妻も静かに握り返した。触れ合った掌の温もりとわずかな震えが、互いの胸に深い感慨を呼び起こしていた。
寄せては返す波の調べに耳を澄ませながら、幹夫の心は遠い過去へと静かにさかのぼっていった。今、こうして夫婦岩を前に肩を並べて立つこの場所で、かつて二人で過ごした幾つかの光景が、潮の香りとともに静かに蘇ってきたのだった。
若き日の約束
終戦から二年ほどが過ぎた頃、幹夫と妻は新しい人生の第一歩を踏み出していた。昭和二十二年の夏、二人は桜井二見ヶ浦の夫婦岩を訪れた。焼け跡から立ち上がりつつある世の中で、ささやかな結婚式を挙げた二人にとって、それは初めての小さな旅でもあった。
茜色に染まる夕空を背景に、白い鳥居が砂浜に長い影を落としていた。幹夫は復員の際に支給された古い上着を羽織り、妻は質素なワンピース姿で、並んで鳥居のそばに立っていた。潮風が吹き抜け、妻の黒髪をなびかせた。頬にかかった髪を、妻は指先で押さえて恥ずかしそうに笑ってみせた。幹夫はそんな妻の横顔を見つめ、胸に熱いものが込み上げるのを感じた。
かつて戦地に赴く前、幹夫は婚約者であった彼女に「無事に戻ったら、一緒に海を見に行こう」と約束していた。激しい戦火を生き延び、ようやくその約束を果たした今、二人は夫婦となり、こうして夕映えの海を眺めていた。幹夫は静かに鳥居に一礼すると、隣で小さく手を合わせる妻に目をやった。妻の瞼には涙が浮かび、震える唇で何かを呟こうとした。しかし彼女は言葉を飲み込み、代わりに幹夫の袖をそっと掴んだ。「おかえりなさい」――彼女の潤んだ瞳がそう語りかけているようだった。幹夫は黙って頷き、ゆっくりと妻の肩に腕を回した。二人の影が長く砂浜に伸び、寄せる波がその足元をそっと濡らした。
ふと、砂の上に白く小さな貝殻が落ちているのを妻が見つけた。彼女はしゃがんでそれを拾い上げ、掌に載せて幹夫に差し出した。妻は消え入りそうな声で「きれい…」と呟いた。幹夫は静かに頷きながら、夕陽を反射して淡く輝く貝殻を見つめ、それを慎重に受け取って胸ポケットにしまい込んだ。幹夫はこの日のことを決して忘れまいと心に刻んだ。妻はほっとしたように微笑み、そっと幹夫の腕に自分の腕を重ねた。
やがて橙色の太陽がゆっくりと玄界灘の水平線へ沈みはじめた。幹夫は静かに目を閉じ、胸の内で改めて誓った。どんな困難が訪れようとも、この人を一生守り抜こう――そう固く心に誓ったのだった。水平線に半ば姿を隠した夕日が、二つの岩の間で一筋の光となって煌めいた。二人は寄り添い、未来を見据えるようにその光景をじっと見つめていた。静かな潮騒だけが聞こえる浜辺に、幹夫と妻の長い影がいつまでも寄り添っていた。
子育ての記憶
それから歳月が流れ、昭和三十年代の半ばには、幹夫と妻の間に二人の子どもが生まれていた。小さな家には子らの笑い声や泣き声があふれ、賑やかな毎日が続いた。夜中の夜泣きで二人とも寝不足になった日もあったが、それさえも若い夫婦にとっては幸せな思い出に変わっていった。幹夫は仕事から帰ると、まず子どもたちの顔を見るのが何よりの楽しみだった。妻も幼い息子と娘を腕に抱き、「この子たちのためなら、どんな苦労も惜しくないね」と微笑んだものだった。
夏の夕暮れ、庭先には風鈴の涼やかな音が響いていた。夕飯を終えた後、幹夫と妻は縁側に腰掛け、遊び疲れて眠り込んだ子どもたちを静かに眺めていた。蚊取り線香の煙がゆらゆらと昇り、柱に吊るした風鈴がチリン…と澄んだ音を立てる。遠くから祭囃子の太鼓の音がかすかに聞こえてきた。昼間はあれほど元気に駆け回っていた兄妹も、今は並んで畳の上ですやすやと寝息を立てている。畳に投げ出された小さな手足には、夕方まで外で遊んでいた名残の砂がついていた。妻はそっと立ち上がり、寝ている子どもたちに薄い木綿のタオルケットをかけてやった。その横顔には、穏やかな母の幸福が満ちていた。
幹夫は縁側から優しい眼差しでそれを見守り、胸の奥に静かな感謝の念が湧き上がるのを感じた。庭の梧桐の葉がさらさらと揺れ、どこからかヒグラシの鳴く声が静かに響いてくる。幹夫と妻は顔を見合わせ、小さく笑みを交わした。言葉はなくとも、二人には同じ夕暮れの安らぎが訪れていた。
季節は巡り、子どもたちはすくすくと成長していった。やがて長男は大学進学のため家を離れ、長女も就職して都会へと旅立った。賑やかだった家は、再び夫婦二人だけの静けさを取り戻した。初めのうち、妻はあまりの静寂にぽつんと取り残されたような淋しさを覚え、夕暮れに台所でひとり涙ぐむこともあった。それに気づいた幹夫は、不器用ながらもいつもより早く仕事から帰り、黙って茶の間に座って妻の手料理を味わった。ぽつりぽつりと交わす何気ない会話に、二人は少しずつ新しい穏やかな生活の調子を見いだしていった。子どもたちがいなくなっても、長い年月寄り添った二人の間には、静かな連帯感が流れていた。
ある日の夕食後、縁側で並んで涼んでいると、幹夫がふと「静かになったな」と呟いた。妻は少し間をおいて、「あの子たちが元気でいてくれればそれでいいのよ」と静かに答えたのだった。二人は縁側から夜空を見上げ、音もなく瞬く星々をいつまでも眺めていた。
時折、成長した子どもたちが帰省して家に集まることもあった。久しぶりに聞く若者の弾む声に、家の中は一瞬でかつての活気を取り戻した。妻は張り切って腕によりをかけた料理を食卓に並べ、幹夫も照れくさそうに酒を酌み交わしながら、子どもたちのとりとめのない話に耳を傾けた。にぎやかな団欒はあっという間に過ぎていき。夜更け、客間に川の字になって寝息を立てる子どもたちを見届けてから、夫婦は静かに目を合わせて微笑んだ。祭りのあとの静けさが訪れても、二人の心には温かな充実感が残った。こうして再び訪れた二人きりの暮らしは、若い頃とはまた違う穏やかさに彩られていった。幹夫と妻は寄り添いながら、静かな時の流れを受け入れていった。
静かな祈り
さらに年月が経ち、幹夫と妻は共に白髪が増え始めていた。穏やかな二人だけの暮らしが続く中、ある冬のことだった。妻が体の不調を訴え、病院での検査の結果、思いがけない大病が見つかったのである。医師から告げられた病名に、幹夫はしばらく耳を疑った。手術をすれば助かる見込みはあるというものの、高齢の妻の体にメスを入れるリスクは小さくない。幹夫は気丈に振る舞おうと努めたが、胸の奥は鉛のように重く沈んだ。
手術の日、幹夫は病室の前の長椅子に腰掛け、祈るような思いで両手を組んでいた。コートのポケットの中では、若き日に拾ったあの小さな貝殻をそっと握りしめていた。「どうか、この人を連れて行かないでください…」心の中で繰り返し祈るほかなかった。長い長い時間の後、ようやく手術室のランプが消え、扉が開いた。執刀医の「手術は成功しました。ただし予断を許しません」という言葉に、幹夫は思わず壁にもたれて深く息を吐いた。
ICUの一室。薄暗い照明の下、妻は無数のチューブに繋がれて眠っていた。いつも穏やかな彼女の顔は小さく痩せ、痛々しいほど蒼白なまま静かに横たわっている。幹夫はベッド脇の丸椅子に腰を下ろし、そっと妻の手を握った。冷たい指先を両手で包み込み、幹夫は規則正しく並ぶ心電図の緑の線をじっと見つめた。ピッ、ピッ…という微かな機械音と、妻のかすかな呼吸だけが静寂の中に響いている。幹夫は一晩中その手を離さなかった。
やがて夜明け前、妻の指がわずかに動いた気がして、幹夫ははっと顔を上げた。見ると、妻の瞼がゆっくりと開いていくところだった。潤んだ瞳が幹夫を捉える。「…あなた…」妻がか細い声でそう呼んだ。幹夫は椅子から身を乗り出し、小さく微笑んで答えた。「ああ、ここにいるよ。」握った手にぎゅっと力を込める。妻の目から透明な涙が一筋、静かに流れ落ちた。幹夫は何度も深く頷きながら、今度は自分の目からあふれる涙を拭おうともせず、ただ妻の額にそっと手を当てた。
それから幾日かが過ぎ、妻の容体は少しずつ安定していった。病室の窓から差し込む朝の光を浴びて、妻は弱々しくも微笑み、幹夫の手を握り返した。奇跡のような快復だった。幹夫は神にも仏にも何度も頭を下げて感謝した。
そして胸の内で静かに誓った。妻が元気になったら、いつか必ず二人であの海辺を訪れよう、と。
病院の長い廊下の先、小さな窓から見える冬空は、吸い込まれるほど青く澄んでいた。幹夫の胸には静かな感謝と新たな決意の思いがいつまでも満ちていた。
再び二見ヶ浦で
はっと我に返った。潮騒の音が改めて耳にしみ込んできた。幹夫は瞬きをし、夕映えに染まる海と空を見渡した。いつの間にか陽は大きく傾き、水平線近くまで降りている。隣を見ると、妻も遠い昔を懐かしむように静かに海を眺めていた。二人は互いに顔を見合わせ、ふっと微笑み合った。
「またお前とここに来ることができたな…」幹夫がぽつりと呟いた。妻はゆっくりと頷き、幹夫の腕にそっと自分の手を重ねた。「ええ、本当に…」それだけ言うと、妻は言葉を飲み込み、静かな笑みを浮かべた。幹夫も黙って頷き返して、寄り添う妻の肩に腕をまわした。
黄金色だった光は柔らかな茜色へと変わり、ゆらめく波間に長く一筋の道を描いている。白い鳥居と夫婦岩のシルエットが、紺青の空と橙の海原を背景にくっきりと浮かび上がっていた。幹夫と妻は肩を寄せ合いながら、ゆっくりと沈みゆく夕日を最後まで見届けていた。訪れた黄昏の静けさの中で、老いた二人の心はひとつに溶け合っていた。
足元に寄せる波がさらさらと砂を撫で、引いては寄せ、寄せては返す。その絶え間ない調べは、まるで過ぎ去った年月の記憶をそっと歌っているかのようだった。幹夫は胸の内に静かな充足を感じていた。隣に妻がいる。ただそれだけで、生きていてよかったと思えた。
風がそよぎ、浜辺の空気にほんの少しひんやりとした夜の気配がまじり始めていた。幹夫は上着を脱ぐと、何も言わずに妻の肩にそっとかけてやった。妻は微笑み、もう一度だけ遠くの夫婦岩に目をやった。
暮色の中、鳥居の前に並ぶ老夫婦の姿は、まるで夫婦岩と重なる影のように静かに寄り添っていた。沖合いにそびえる二つの岩は、太い絆で結ばれたまま夕闇に溶け、いつまでも変わらぬシルエットを留めている。幹夫と妻は肩を寄せ合い、穏やかな静寂の中で互いの温もりを感じていた。遠い空には一番星が瞬き、浜辺にはただ波の音だけが響いている。
夫婦は声を発することなく、同じ想いに満たされた心でそっと海を見つめ続けていた。
桜井二見ヶ浦の鳥居の前に佇む二人の姿は、長い年月を経てなお、寄り添う夫婦岩のようにそこに在り続けていた。
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