第26話 化粧品広告チェックは恋より厳しい

静岡市葵区、青葉通りから少し入った山崎行政書士事務所では、その朝、応接室がいつもより華やかだった。
理由は、机の上に並んだパンフレットである。
淡いピンク。 光沢のある紙。 透明感のあるモデル写真。 小さな花びら。 金色のロゴ。 そして、真ん中に大きく書かれたコピー。
「一晩で、運命の肌へ。」
陽翔がそれを読み上げ、しばらく黙った。
「……運命の肌」
あやのが赤ペンを構えた。
「強いですね」
ふみかはピンクのクリップボードを開き、パンフレットをじっと見た。
「可愛いです。とても可愛いです」
みおも、隣でうなずいた。
「写真も、色も、すごく素敵です」
陽翔がほっとした顔をした。
「じゃあ、今日は平和な広告チェックですね」
悠真が書類を整えながら言った。
「そうとは限りません」
奏汰がヘッドホンを片耳だけ外した。
「可愛いものほど、裏側に設定があります」
「クラウドみたいに言わないでください」
さくらが笑った。
その日の相談者は、美容系スタートアップ「ルミナブラン」の代表、桐谷杏奈。 静岡茶由来の成分や植物オイルを使った化粧品ブランドを立ち上げ、国内EC販売に加え、海外展開も目指しているという。
相談内容は、化粧品広告の表現チェック、輸入手続き、ECサイト規約、そしてクラウド上の顧客情報管理。
聞くだけなら華やかだ。
しかし、山崎事務所の面々は知っている。
華やかなパンフレットの裏には、たいてい赤ペンが待っている。
午前十時、入口の鈴が、からん、と鳴った。
「こんにちは。ルミナブランの桐谷です」
入ってきた桐谷杏奈は、三十代前半の女性だった。白いブラウスに淡いグレーのジャケット。手にはサンプル品らしき小さな箱と、パンフレットの束。隣には、広報担当の若い女性、日向がノートパソコンを抱えて立っている。
「本日はよろしくお願いします」
香澄が笑顔で迎えた。
「こちらこそ。どうぞ、おかけください」
桐谷は席に着くと、少し緊張した顔でパンフレットを差し出した。
「新しいスキンケアラインの広告です。国内販売に加えて、台湾やシンガポール向けの販売も考えています。ただ、広告表現や輸入、ECサイト規約、個人情報の管理が心配で……」
日向が続けた。
「コピーはかなり頑張って作りました。可愛くて、印象に残って、SNSで拡散されるように」
ふみかはにこっと笑った。
「拝見しますね」
その笑顔はやさしかった。
しかし、ピンクのクリップボードの上で、ペン先がすでに戦闘態勢に入っていた。
最初のページには、こう書かれていた。
「塗った瞬間、肌悩みが消える。」
ふみかのペンが止まった。
みおが隣で、小さく息をのんだ。
あやのの赤ペンも、静かにキャップを外した。
陽翔が小声で言った。
「恋より厳しい空気になってきました」
桐谷が不安そうに聞く。
「やっぱり、まずいですか?」
ふみかは、やわらかく言った。
「魅力的なコピーです。ただ、“肌悩みが消える”という表現は、効果を強く断定しているように見えます。化粧品として伝えられる範囲を確認しながら、表現を調整したほうがよさそうです」
みおがパンフレットを見ながら言った。
「“消える”って、言葉としては気持ちいいですけど、読む人に強い期待を持たせますね」
「そうなんです」
日向が言った。
「そこが狙いで……」
「狙いは分かります」
ふみかはうなずいた。
「でも、広告は恋文と違って、勢いだけでは出せません」
応接室が一瞬、静かになった。
陽翔が胸に手を当てた。
「本日の名言です。広告は恋文と違って、勢いだけでは出せません」
悠真が静かに言った。
「恋文も、勢いだけでは危険な場合があります」
「そこもチェックしますか?」
「しません」
桐谷は少し笑った。
緊張が、ほんの少しほどけた。
次のページには、モデル写真とともにこう書かれていた。
「医師も驚いた透明感。」
奏汰が、なぜか首をかしげた。
「医師は本当に驚いたんですか?」
日向が目を泳がせた。
「えっと、イメージとして……」
あやのの赤ペンが走った。
「イメージで医師を驚かせてはいけません」
陽翔が吹き出した。
「医師の感情にも根拠が必要」
悠真は淡々と続けた。
「専門家の推薦や監修のように見える表現は、根拠や実態を確認する必要があります。実際に医師が関与しているのか、どの範囲で確認したのか。誤解を招く可能性があるなら避けたほうがよいです」
桐谷はパンフレットを見つめた。
「可愛い雰囲気にしたくて、つい強い言葉を使ってしまいました」
「広告コピーは、可愛さと責任が同居しています」
みおが静かに言った。
「見た人が自分を大切にできる言葉であってほしいです」
ふみかがうれしそうにうなずいた。
「そうですね。買ってもらうためだけでなく、安心して選んでもらうための言葉にしましょう」
しょうこがホワイトボードに、広告チェックの観点を書き出した。
効果を断定しすぎていないか。 医薬品的な表現になっていないか。 専門家推薦のように見えないか。 使用前後の写真に誤解がないか。 個人の感想と一般的効果が混ざっていないか。 海外向け表現と国内表現を分けているか。 ECサイト、SNS、パンフレットで表現が一致しているか。
「まず、この観点で見ます」
しょうこが言った。
「パンフレットだけ直しても、SNSやECサイトに強い表現が残ると意味がありません」
日向が青ざめた。
「SNS……昨日、投稿予約を入れました」
全員が日向を見た。
陽翔が小声で言う。
「投稿ボタンは軽いけど重い」
奏汰がうなずいた。
「以前からの重要命題です」
香澄は落ち着いて言った。
「公開前なら、確認しましょう」
日向は慌ててノートパソコンを開いた。
SNS投稿案には、こうあった。
「たった七日で別人級の肌へ。」
ふみかとみおが、同時にペンを持った。
陽翔が椅子に座り直した。
「これは、恋より厳しい赤入れが始まりますね」
「始まります」
あやのが言った。
そこから応接室は、華やかなパンフレットと赤ペンの戦場になった。
「別人級」「奇跡」「必ず変わる」「年齢肌を巻き戻す」「毛穴が消える」「医師も納得」「海外セレブ級」
そのたびに、ふみかのピンクのクリップボード、みおのやわらかな言葉、あやのの赤ペン、悠真の冷静な確認が入る。
「“奇跡”は避けましょう」
「“巻き戻す”は強すぎます」
「“消える”ではなく、“目立ちにくく見せる”など、化粧品としての範囲を考えましょう」
「“海外セレブ級”は、何を意味しているのか分かりません」
陽翔が言った。
「海外セレブ級って、どこの国のどのセレブを想定しているんでしょう」
「広告表現としても、稟議としても曖昧ですね」
悠真が言った。
桐谷は、赤入れされたパンフレットを見て、少し肩を落とした。
「こんなに直すところがあるんですね」
香澄はやさしく言った。
「広告を弱くするためではありません。伝えたい魅力を、安心して届けるための調整です」
ふみかも続けた。
「このブランドの雰囲気は、とても素敵です。だからこそ、強すぎる言葉で不安を残すより、ブランドらしい誠実な言葉にしたほうが、長く愛されると思います」
日向は、しばらく黙ってから頷いた。
「たしかに、可愛いだけじゃなくて、信頼されるブランドにしたいです」
「では、可愛いけれど言い過ぎないコピーを考えましょう」
みおが笑った。
「恋でも広告でも、言い過ぎると相手が少し不安になります」
陽翔がまた胸に手を当てた。
「今日のみおさん、恋愛相談室も開けますね」
「開きません」
みおは少し照れた。
次に、海外展開と輸入手続きの話になった。
桐谷は資料を出した。
「実は、一部の商品は海外の製造パートナーに作ってもらう予定です。日本でも販売したいので、輸入手続きや表示、製造販売の体制について確認したくて」
悠真が書類を受け取った。
「化粧品を海外から日本へ入れて販売する場合、単に商品を仕入れるだけではなく、必要な手続きや表示、責任体制を確認する必要があります。製造販売業、製造業、輸入時の確認、成分、表示、品質管理など、専門的な確認が必要です」
桐谷は真剣にうなずいた。
「海外向けに売るときは、逆に相手国のルールも必要ですよね」
「はい」
かなえが言った。
「国内の広告表現だけでなく、販売先のプラットフォームや現地の規制、表示、返品、消費者対応も確認しましょう。国ごとに扱いが異なる可能性があります」
日向はノートに書いた。
「海外展開は、翻訳だけではない……」
「その通りです」
香澄が言った。
「言葉を翻訳するだけでなく、責任の置き場所も確認する必要があります」
しょうこがホワイトボードに整理した。
国内販売。 海外販売。 海外製造品の輸入。 ECサイト。 販売先プラットフォーム。 広告表現。 顧客情報管理。
「この七つを混ぜないようにしましょう」
陽翔がうなずいた。
「美容ブランドの七色パレットみたいですね」
「表現としては悪くありません」
しょうこが言った。
「ただし、資料名には使いません」
次に、ECサイト規約の話になった。
日向が画面を開く。
「自社ECサイトで販売します。定期購入も検討しています。あと、海外向けには別の販売プラットフォームを使う予定です」
あやのが赤ペンを再び構えた。
「定期購入は、表示や解約条件を分かりやすくする必要がありますね」
悠真が続けた。
「価格、送料、返品、交換、定期購入の回数や解約方法、発送時期、海外配送時の関税や配送遅延、プラットフォーム規約との整合性。ここを整理しましょう」
桐谷が言った。
「規約って、できるだけ短くしたほうがいいですか?」
かなえが答えた。
「短いこと自体は悪くありません。ただ、必要な説明が抜けると、後でトラブルになります。お客様が購入前に判断できる情報を、分かりやすく示すことが大切です」
みおが言った。
「可愛い商品ページの下にも、ちゃんと約束があるんですね」
ふみかがうなずいた。
「そうです。お客様が安心して買えるようにするための約束です」
陽翔が小声で言った。
「EC規約は、可愛いページの縁の下の力持ち」
「今回はいい表現です」
香澄が笑った。
午後になると、クラウド上の顧客情報管理の話に入った。
桐谷は、少し緊張した顔になった。
「ECサイトで、名前、住所、メールアドレス、購入履歴、肌悩みアンケート、レビュー、問い合わせ内容を扱います。クラウドCRMやメール配信サービスも使う予定です」
ふみかのペンが走る。
氏名。 住所。 メール。 購入履歴。 肌悩みアンケート。 レビュー。 問い合わせ。 海外顧客。 クラウドCRM。 メール配信。 委託先管理。
蓮斗が構成図を見た。
「ECサイト、決済、CRM、メール配信、カスタマーサポートが別サービスですね。顧客データがどこに保存され、誰が見られるかを一覧にしましょう」
奏汰が続けた。
「肌悩みアンケートは、内容によってはかなりセンシティブに感じる人もいます。マーケティングに使うなら、利用目的を明確にし、同意や配信停止の手順を整えましょう」
日向が言った。
「レビュー投稿も、写真付きのものを載せたいです」
ふみかがすぐに聞いた。
「投稿前に掲載同意を確認しましょう。名前を出すのか、ニックネームにするのか、写真の利用範囲、削除依頼時の対応も必要です」
みおがパンフレットを見ながら言った。
「お客様の声って、ブランドにとって宝物ですけど、宝物だからこそ勝手に飾らないほうがいいですね」
応接室が少し静かになった。
桐谷はその言葉に、深くうなずいた。
「本当にそうですね。レビューを宣伝材料としてだけ見ていたかもしれません」
香澄はやさしく言った。
「お客様の声は、信頼して預けてもらった言葉です。どう使うかを丁寧に決めましょう」
しょうこが、顧客情報管理を三行でまとめた。
「一、どのサービスに、どんな顧客情報が入るかを一覧にする。 二、広告、メール配信、レビュー掲載は、利用目的と同意を分かりやすくする。 三、クラウド委託先、海外保存、削除依頼、問い合わせ対応の流れを決める。」
日向は、それを見て言った。
「これ、社内のマーケティングチームにも共有します」
「ぜひ」
ふみかが微笑んだ。
「華やかな施策ほど、裏側の確認が大切です」
その後、ふみかとみおは、パンフレットのコピーを一つずつ整えていった。
「一晩で、運命の肌へ。」 は、「明日の肌に、やさしい余韻を。」
「塗った瞬間、肌悩みが消える。」 は、「うるおいで、肌をなめらかに整える。」
「七日で別人級。」 は、「毎日のケアに、少しずつ楽しみを。」
「医師も驚いた透明感。」 は、「光をまとったような、みずみずしい印象へ。」
陽翔が感心した。
「ちゃんと可愛いのに、危なくない」
あやのがうなずいた。
「赤ペンで削るだけじゃなくて、言葉を育てる作業ですね」
みおが少し照れながら言った。
「広告コピーって、恋の告白みたいに、相手に届いてほしい言葉なんですね。でも、相手を困らせない言い方にする」
悠真が言った。
「その意味では、広告チェックは恋より厳しいかもしれません」
陽翔が立ち上がった。
「悠真さんがタイトルを言いました!」
「タイトルではありません」
「でも言いました」
「事実確認です」
桐谷と日向は、声を出して笑った。
打ち合わせの最後、全体の整理がまとまった。
広告表現は、薬機法などの観点から効果を断定しすぎず、化粧品として伝えられる範囲を確認する。 医師や専門家の推薦に見える表現、ビフォーアフター、個人の感想、SNS投稿も含めて統一的に確認する。 海外製造品の輸入や国内販売については、必要な許可、表示、品質管理、手続きの確認を進める。 海外販売については、販売先国のルール、プラットフォーム規約、返品、配送、表示、広告表現を整理する。 ECサイト規約では、価格、送料、返品、定期購入、解約、海外配送、プラットフォームとの整合性を確認する。 顧客情報管理では、EC、決済、CRM、メール配信、レビュー管理、問い合わせ対応のクラウド構成を見える化する。 肌悩みアンケートやレビュー、写真利用は、目的と同意、削除依頼の手順を明確にする。
しょうこが最後に三行でまとめた。
「一、広告コピーは、可愛さだけでなく責任も一緒に届ける。 二、海外展開は、翻訳だけでなく、輸入・表示・規約・情報管理を確認する。 三、顧客情報は、ブランドを信じて預けてもらった声として大切に扱う。」
桐谷は、その三行をしばらく見つめた。
「私たち、可愛いブランドを作りたいと思っていました。でも今日、信頼されるブランドにしたいんだって気づきました」
日向も言った。
「赤入れ、最初は怖かったです。でも、コピーが弱くなったというより、ちゃんと立てる言葉になった気がします」
ふみかは、ピンクのクリップボードを閉じた。
「広告は、お客様との最初の約束です」
みおが続けた。
「可愛い約束ほど、大切に守りたいですね」
香澄は微笑んだ。
「きっと、素敵なブランドになります」
二人が帰るころ、青葉通りには夕方の光が差していた。
桐谷はパンフレットを抱え、少し晴れやかな顔で言った。
「今日はありがとうございました。修正は多いですが、前向きに直します」
日向も笑った。
「恋より厳しい広告チェック、社内で共有します」
陽翔が言った。
「そのタイトル、使ってください」
悠真がすぐに言った。
「正式資料には使わないでください」
「社内の愛称なら?」
香澄が笑って聞く。
悠真は少しだけ考えた。
「社内愛称なら」
陽翔が小さくガッツポーズをした。
二人が帰ったあと、事務所にはパンフレットの華やかな余韻と、赤ペンの気配が残っていた。
ふみかは言った。
「化粧品広告って、明るくて可愛いけど、すごく責任がありますね」
あやのが赤ペンを片づけた。
「お客様の期待に直接届く言葉ですから」
蓮斗が構成図をしまいながら言った。
「顧客情報の流れも、ブランドの一部です」
奏汰がヘッドホンをつけ直しながら言った。
「可愛いクラウドにも権限設計が必要です」
「可愛いクラウド」
陽翔がメモを取る。
「それは湯呑み候補ではありません」
悠真が言った。
「まだ何も言ってません」
「顔が言っています」
香澄は窓の外を見た。
青葉通りの木々が、夕方の風に揺れている。
可愛い広告コピー。 華やかなパンフレット。 海外へ広がるブランド。 ECサイト。 クラウドCRM。 お客様の肌悩み。 レビュー。 メール配信。 輸入手続き。 薬機法。 規約。 個人情報。
その全部が、一つのブランドを作っている。
広告は、人を惹きつけるための言葉だ。 でも同時に、信じてもらうための約束でもある。
可愛い言葉の裏に、きちんと責任を置くこと。 海外に広げる前に、足元の約束を整えること。 お客様の声や情報を、宝物のように扱うこと。
それが、ブランドを長く育てるための法務なのだ。
その日の終業前、悠真は正式なファイルを保存した。
「化粧品広告表現チェック_海外展開_IT管理整理_初版.docx」
陽翔が横からのぞいた。
「正式ですね。恋の厳しさがありません」
「必要ありません」
「では、思い出フォルダ用に」
「作る前から止めます」
しかし、三分後。
共有フォルダに新しいファイルができていた。
「化粧品広告チェックは恋より厳しい_可愛い約束を守る版.xlsx」
悠真は画面を見た。
削除キーに指を置いた。
その瞬間、ふみかが言った。
「可愛い約束を守る版は、今日の学びが入っています」
みおも頷いた。
「思い出フォルダなら、残してもいいと思います」
香澄が笑った。
「残しましょう」
悠真は静かにため息をついた。
「思い出フォルダなら」
翌朝、桐谷からメールが届いた。
「昨日はありがとうございました。パンフレットのコピーを修正し、SNS投稿予約も止めました。社内では“恋より厳しい広告チェック会”として、全投稿を見直すことになりました。可愛いけれど、信頼されるブランドを目指します」
陽翔が読み上げると、事務所に明るい笑いが広がった。
ふみかは嬉しそうにピンクのクリップボードを開いた。
「よかったです」
みおも笑った。
「可愛い約束、守れそうですね」
香澄はお茶を淹れながら、青葉通りの朝を見た。
今日もどこかで、新しいブランドが生まれようとしている。 誰かがコピーを考え、誰かが写真を選び、誰かがお客様に届く言葉を探している。
その言葉が、明るく、誠実で、信頼できるものであるように。
青葉通りの契約書は、今日も笑う。 華やかなパンフレットに入った赤ペンの跡が、可愛い広告の裏側で小さな責任を支えているのを見守りながら。


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