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逆さ富士の男

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月11日
  • 読了時間: 5分



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一.消えた画家の家

 海と山のあいだに小さく挟まれた駿河湾沿いの村。その朝、しっとりとした海風が、低い家々の瓦屋根をかすかに濡らしていた。画学生・亮太が、師である画家塚田の家を訪ねると、そこには異様な光景が待ち受けていた。 板張りの床には、油絵の切れ端が散乱しており、その大部分は切り裂かれたり焦げた跡がある。さらに部屋の隅には、まるで火が放たれたように黒く煤けた壁。「逆さ富士」を描いたはずのキャンバスは、ことごとく無惨な姿を晒していた。 塚田本人の姿はどこにもない。靴や荷物は残されておらず、さながら風のように消え去ったのだ。亮太はその無残なキャンバスの切れ端を手にとり、震える声で呟く。「先生はいったい、何を……」

二.湖面に映る富士

 塚田がかねてから描き続けていたのは、“逆さ富士”——山頂の雪が湖面に逆さまに映る、その奇跡のような風景。 村外れの森を抜けた先に、ひっそりとした湖がある。そこに穏やかな凪の夜などが重なると、富士山が湖面に姿を映し出し、まるで幻のような“もう一つの富士”が出現する。 「本物の逆さ富士の美を、キャンバスに封じ込めたい」――塚田はいつもそう語っていた。けれど、その言葉の端々には、どこか狂気に近い執念が宿っているように亮太は感じていた。 実際、塚田はある夜、湖のほとりで「あの神を見た」と言い出した。「逆さ富士の神が私に微笑んだのだ……」。そのときから彼の目はおかしな光を帯び始めたという。

三.消えた足跡を追う

 亮太は混乱したまま、村の人々に塚田の行方を訊ねて回る。しかし、誰一人として見かけた者はいないと口を揃える。 ただ、古い民家に住む老婆が、「昨晩、あの湖に白い影が動いていた」と囁くように言う。「それが塚田先生だったかどうかは分からない。でも、あんな夜更けに湖へ行く人などそうはいない……」 湖はいつもより深い静寂を湛え、あたかも生きもののように水面をうねらせている。亮太は夜になって、恐る恐るその道をたどるが、ただ波打ち際がわずかにさざめくばかり。月明かりの下、富士の頂が影のように湖面に揺らめいているのを遠くに見る以外、何の手掛かりも見つからない。

四.狂気の痕跡

 日が経つにつれ、亮太の胸には師の狂気がどんな形で燃え上がったのかを知りたいという妙な欲求が広がる。 あるとき、塚田の家で唯一残されていたスケッチブックを発見する。そこには乱れた筆跡で、「逆さ富士の神」が描かれていた。だが、その姿は人なのか獣なのか判然とせず、山の稜線と湖面の境界が曖昧に溶け合う中に白い影が写っているだけ。 「……生身のものでは、到底ない……」と亮太は背筋を凍らせる。それは神なのか、塚田がでっち上げた幻なのか。いずれにせよ、師はそこに取り憑かれ、挙句に自らの作品を破壊してまで何を求めたのか。

五.湖のほとりで

 ある晩、亮太は意を決して、塚田がいつも“逆さ富士”を見たという夜半の湖へ向かう。道中は月さえ隠れる雲行きで、足元もおぼつかない。 やがて湖が眼前に開け、風もなく水鏡のような光景が広がる。霞の中、富士の白い頂が湖面にそっくり逆さまに映る様は、まるでこの世とあの世をひっくり返したかのような不気味な美しさだ。 「ここで先生は“神”を見たというのか……」。亮太が唾をのみ込んだそのとき、水面がほんのわずかに揺れた。何かの小さな動きがあったのかもしれない。もしかすると、そこに塚田が潜んでいる? いや、そんなはずは……。 胸の奥で何かが警鐘を鳴らすように、魂が震える。まるで塚田の狂気が自分にまで伝染していくかのよう。

六.富士の呪縛

 やがて夜が深まり、月が僅かに雲間から覗く。湖面にはさらにはっきりと富士が映り込み、その姿は本物の富士と湖の富士とが区別つかないほどになっている。 亮太は思わず声をあげそうになるが、どこかで塚田の叫び声が聞こえた気がした。「私の絵に“本物の命”を吹き込むには、この逆さ富士が欲しい……神よ、私を選べ……」――そんな言葉が耳鳴りのように響く。 そうだ、塚田は自らの作品に“本物”を刻むために、神に取り憑かれたのだろうか。人間の限界を超えた美を求めるあまり、正気を失っていったのかもしれない。 亮太は震えながら目を閉じる。「もし師がここで死んだとしても、その死は自分の芸術に殉じたことなのか、あるいは神の呪縛に囚われた愚かさなのか?」――そんな問いが頭から離れない。

七.帰り道と不在の結末

 夜明けが近づき、やがて雲が月を覆い始める。湖の逆さ富士がゆるやかに影を薄め、暗闇がさらに深みを帯びる。 亮太は足を引きずるようにしてその場を離れ、村へ戻る道を辿る。ときどき振り向くと、湖面のほうに何かの白い影が揺れているように見えたが、それが塚田かどうかは分からない。あるいは単なる薄霧かもしれない。 翌日、村人と連れ立って捜索に当たるが、塚田の姿はついに見つからずじまいだった。家も荒れ果て、逆さ富士の絵は跡形もなく焼け落ち、そこにあったはずの芸術の残照はただ灰色の焦げ痕を残しているばかり。

結び:芸術の虚無

 それから、誰も塚田の行方を語らず、逆さ富士の神もまた人々の口から消えていく。 画家が見た“逆さ富士の神”とは何だったのか? その答えは、塚田本人の消失とともに湖に沈んだかのように、底知れぬ闇に覆われてしまった。 亮太は、師の痕跡である僅かなスケッチ破片を手に、湖畔で立ち尽くす。朝の光が富士山を淡く照らし、湖面も何事もなかったかのように穏やかだ。あまりにも美しい。しかし、その美しさがかえって人間の欲や狂気を浮き彫りにするのではないか。 「芸術とは、こうまで儚く脆いものか」――亮太はそう呟きながら、静かな恐怖とともに山の姿を見つめる。 富士はどこまでも沈黙を保ち、その頂に雲がたなびく。画家の狂気も絵も、まるでその雲の影に溶けこんでしまったように、もはや探るすべもない。

 
 
 

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