セーヌのほとり、正義の舞台
- 山崎行政書士事務所
- 2月2日
- 読了時間: 6分

パリ、シテ島(Île de la Cité)のほぼ中央に位置する「パレ・ド・ジュスティス(Palais de Justice)」。ゴシック様式のサント・シャペル(Sainte-Chapelle)と隣り合うその建物は、一見すると歴史ある宮殿のようでもありながら、いまなお現役の裁判所として機能している。 古い石畳の上を歩くと、叩くヒールや革靴の音が反響して、しんとした荘厳な空気を肌で感じさせる。ここではフランスの司法が脈々と受け継がれ、日々さまざまな運命が裁かれているのだ。
朝の玄関ホール
朝8時を少し回ったころ、フランス人の若き弁護士・クレールは、冷たい空気の中でコートの襟を立てながら正面口をくぐった。コリドール(長い廊下)には、すでに多くの人々の姿があった。被告人の家族らしき者、手帳を抱えて小走りに駆ける書記官、外套を脱ぎ捨てながら挨拶を交わす検察官たち。 どこからともなく漂うコーヒーの香りと、白熱灯に照らされた古い彫刻の静かな佇まいが不思議に調和している。天井近くにはステンドグラスの小窓があり、外のわずかな朝日が差し込んで、淡い色彩が石壁を染めていた。
クレールは、今日担当する裁判の書類をしっかりと抱えながら奥へ進む。いつもは落ち着いた彼女も、やや緊張した面持ちだった。今日の依頼人は、初めて彼女を指名してくれたクライアントであり、不当解雇を訴える労働裁判だ。彼女自身もまだ経験の浅い弁護士として、絶対に負けられない戦いだと感じている。
第3法廷の扉
古びた木製の扉に取り付けられた銅のプレートには「Salle d’audience n°3(第3法廷)」と刻まれている。ここで労働関係の訴訟が行われることが多い。扉を押し開けると、すでに部屋の片隅では、裁判記録を確認する書記官が書類を積み上げていた。 法廷の中央には裁判官用の高い席があり、背後にはフランスの国旗と「Liberté, Égalité, Fraternité(自由、平等、友愛)」のモットーが掲げられている。傍聴席には数名が静かに座り、開廷を待っているのが見えた。
クレールの依頼人であるリシャールが、心細そうに一人で座っているのを見つけ、彼女はそっと駆け寄る。「大丈夫よ、リシャールさん。私たちが伝えたい事実と正当性を、しっかり証明しましょう。」 そう声をかけると、リシャールは弱々しい笑みを返した。彼の両手は固く握りしめられていて、その指先にはうっすらと汗がにじんでいる。生活がかかった問題だけに、彼の緊張は痛いほど伝わってきた。
開廷と主張
時間になると、厳かな雰囲気の中で裁判官と書記官が入廷し、開廷が宣言される。傍聴席からは浅い息を呑む音が聞こえた。被告企業側の代理人として登場したのは、実力派として名高いアルノー弁護士。白髪混じりの短髪と鋭い眼光が、いかにも“法廷のベテラン”を思わせる。 クレールは緊張で肩が強張(こわば)るのを感じながらも、依頼人の権利を守るために書類を広げる。頭の中で何度もシミュレーションしてきた論点を確認しつつ、落ち着いて口を開いた。
「尊敬する裁判官閣下、及び傍聴の皆様。本日、労働者リシャール氏は、不当解雇を巡る争いでこの場に立っています。弊方は、解雇通知の手続きや理由に重大な欠陥があることを示し、法の下で正当な保護を求めます……」
自分の声が法廷内にこだまするのを聞きながら、クレールは確かな手応えを得ようとする。相手弁護士からの反論は強力だろう。それでも、真実を伝えるために全力を尽くすしかない。
法廷の息づかい
やがて、アルノー弁護士が反論に立ち上がる。落ち着き払った声で手続きを擁護し、会社側の事情を雄弁に語る。「企業の利益が損なわれ、やむを得ず行われた措置であり、リシャール氏への対応は正当な範囲です。労働契約にも抵触しない。クレール弁護士の主張は事実を誇張していると考えます……」
その言葉に、リシャールの顔は青ざめた。しかし、クレールは負けじと再度立ち上がる。証拠資料を一つ一つ提示しながら、言葉を選び抜いて主張を組み立てていく。 傍聴席からは、時折ペンを走らせる音や、かすかなため息が聞こえる。誰もが「どちらが正しいのか」と固唾をのんでいる。フランスの裁判所とはいえ、その緊迫感は万国共通であろう。
一時休廷と希望の光
しばらくして、裁判官が一時休廷を告げた。クレールとリシャールは廊下へ出て、深呼吸をする。冬の冷たい空気が、火照った頬をやや落ち着かせてくれる。「うまくいきそうですか……?」 リシャールの声はかすれていたが、彼の瞳にはわずかな光が宿っている。クレールは力強く頷いた。「私のほうで示した証拠は、十分に説得力があります。裁判官も関心を示していましたし、最後まで粘りましょう。」
中世を思わせる石壁に囲まれた廊下で、窓からはサント・シャペルの塔が見えている。その尖塔(せんとう)の先端が、かすかな陽射しを受けて薄紫に染まっていた。クレールは、その神秘的な姿を見つめながら、自分の中にまだ残っている闘志を奮い立たせる。
決定とその先
最終的な弁論が終わり、全ての主張を聞いた裁判官は、判決を後日言い渡すと告げる。法廷を後にするクレールとリシャールに、アルノー弁護士が軽く会釈をする。フランスの裁判所には厳粛さと同時に、どこか落ち着いた礼儀が感じられる瞬間がある。 依頼人と握手を交わしながら、クレールは「きっといい結果になりますよ」と微笑む。リシャールの目には安堵がにじんでいた。
こうして、二人はパレ・ド・ジュスティスの正面扉を出る。外の空気は相変わらず冷たいが、先ほどまで感じていた重苦しさは薄れている。周囲を取り囲む歴史ある建造物たちが、まるで厳粛な舞台装置のように凛と立っていた。
「ありがとう、クレール先生。あなたがいなかったら、こんなところで戦う勇気なんてなかったと思います。」 リシャールの感謝の言葉に、彼女は小さく笑う。「私もまだまだ勉強中ですが、正義を追い求める場所で、あなたの力になれたなら嬉しいです。」
エピローグ
セーヌ川から吹く風が、パレ・ド・ジュスティスの重厚な門を抜けて、石造りの回廊を駆け抜けていく。ここでは人々の人生が交差し、痛みや希望や怒りが法廷というステージで争われる。 その一つひとつに弁護士や裁判官、検察官、そして当事者たちの“想い”がこめられ、時代を超えて続くフランスの司法制度のなかで、無数のストーリーが紡(つむ)がれているのだ。
クレールが青空を見上げると、サント・シャペルのステンドグラスが太陽に映えて虹色の輝きを放っていた。彼女はその光を追いかけながら、心の中で静かに誓う。 ――また明日も、ここで戦おう。人々の声を法のもとで守るために。
石畳を踏む靴音が、やがて街の喧噪へ溶けていく。その先には、正義に向けた新たな一日が待ち受けている。パリの古い裁判所では、今日も静かに、しかし確かに運命が動いていた。
(了)
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