広場は空を丸ごと受けとめる――サンクトペテルブルク・宮殿広場の朝
- 山崎行政書士事務所
- 9月16日
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ネフスキー大通りから将軍参謀本部の黄色いアーチをくぐると、視界が一気にひらけた。宮殿広場(ドヴォルツォヴァヤ・プローシャチ)。ミント色の冬宮が、白と金の飾りをまとって陽にきらめき、その前では白い馬が二頭、古風な馬車を引いて待っている。空は大きく、広場はそれを丸ごと受けとめているように見えた。
最初の“やらかし”は、馬車の値段表を覗きこんだとき。ポケットから出した硬貨がコロコロと石畳を逃げ、あっという間に車輪の下へ。慌てる私の前に、通りがかりの少年がつま先でそっとストップしてくれた。彼の母親は「спасибо скажи(ありがとうって言って)」と背中を押す。私は胸の前で両手を合わせ、少年にはポケットののど飴を半分こでお礼。飴が口に入る音は小さいのに、広場の空気が少し甘くなるのがわかった。
馬車の御者は、黒い帽子を傾けて「Поехали?(行こうか?)」と笑う。私は乗り込む前に記念写真を撮ろうとして、ストールの端をカメラのストラップに噛ませてしまった。御者は何事もない顔で細い革ひもを取り出し、端をひとねじり、八の字で留めてくれる。「Так ветер не ворует.(これで風は盗めないよ)」――北の町では、風と仲直りする方法を誰もが知っている。
蹄のコトン、コトンという軽い音が、広場に低く響く。馬は時折、鼻から白い息を出し、御者はポケットから角砂糖を取り出してそっと舌にのせる。私は見とれているばかりじゃ申し訳なくて、飴をもう一つ取り出し、御者と半分こ。甘さの交換に、言葉はいらない。
馬車がアレクサンドル柱の脇を回ると、一本の花崗岩が空にまっすぐ立っていた。御者が顎で指し、「Без единого болта(一本のボルトも使ってない)」と誇らしげ。強さというより、静かに立ち続ける気持ちを教えられているようで、私は背筋を少し伸ばした。
周回を終えて下りると、広場の端でアコーディオンの音がする。白髪の男性が「Подмосковные вечера」をゆっくり奏で、人々が円を描いて立ち止まる。私は紙コップのクヴァスを買ってそばに座り、飲みながら写真を整理した。そこで二度目の“やらかし”。コップを傾けすぎて、茶色い泡がコートに一滴。あっと固まる私の前に、売り子の青年が炭酸水を含ませたナプキンを差し出し、「Ничего страшного(たいしたことない)」と肩をすくめる。トントンと軽く叩くと、しみは嘘みたいに薄くなった。広場では、困りごとを直す手がすぐ届く距離にある。
昼近く、冬宮の壁が光に温められて、ミント色が少し柔らかくなる。広場の真ん中で新婚さんの撮影が始まった。ベールが風でふわりと翻り、カメラマンが困った顔。私はさっき御者に教わった通り、カメラバッグの細い紐でベールの端を八の字にひと留め。カメラマンが「Отлично!(完璧!)」と親指を立て、新郎新婦が笑った。私もつられて笑い、ベールの白が空のまぶしさと溶け合う。
ベンチでひと息ついていると、通りすがりのバーブシュカがピロシキの紙袋を抱えて座った。彼女は袋を開け、何も言わずに半分をこちらへ差し出す。私はさっきのクヴァスの残りを「пополам?(半分こ?)」と差し出し、二人で小さな昼食。黄身のやさしい味と麦の泡で、広場の時間がすこしゆっくりになった。
午後、風が少し強まる。アーチの陰に移動しようと立ち上がったところで、青いクローク札がポケットから飛び出しコロコロ。追いかける私より先に、小さな女の子が拾ってくれた。お母さんが「Скажи: пожалуйста」と耳元で囁く。女の子は両手で札を差し出し、「пожалуйста」。私は胸の前で手を合わせ、札を内ポケットにしまった。旅の教科書には載らないロシア語のレッスンが、広場の真ん中でまたひとつ増えた。
夕方、日差しは斜めになり、冬宮の窓が蜂蜜色に光る。御者が馬具を整えていて、革のバックルが少し緩んでいるのに気づいた。彼は迷いなくひとねじりして長さを調整し、私にウインク。「маленькие исправления держат большой день(小さな直しが、大きな一日を支える)」。私はポケットのピンを指で確かめ、頷いた。
帰る前、アーチの下から広場を振り返る。今日の出来事――転がった硬貨、革ひもの八の字、角砂糖の半分こ、炭酸水のトントン、ベールのひと留め、ピロシキの分け合い、そして小さなпожалуйста。どれも大事件ではないのに、宮殿の金の飾型と同じくらい確かに、胸の中で旅を支えている。
広場は、帝政ロシアの記念碑である前に、人の手の温度が集まる場所だった。次にまたここへ来たら、私はきっと最初に「Здравствуйте」と挨拶し、ストールの結び目を確かめ、誰かと何かを半分こする準備をする。そうすれば、冬宮のミント色はまた今日のように、空を丸ごと受けとめて輝くだろう。