昭和17年
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 29分
序幕:太平洋戦争本格化、押し寄せる新年
昭和十六年十二月、真珠湾攻撃によりアメリカとの戦端が開かれ、太平洋戦争へと突入した日本。 下町の印刷所は、これまでの日中戦争の宣伝印刷に加え、新たに「対米英開戦」を鼓舞する大量のポスター・チラシの印刷に忙殺されている。 昭和十七年(1942年)一月、本来なら新年を迎えての祝意があっても良さそうだが、戦争の現実がそれを許さず、幹夫や戸田、堀内、そして社長たちはさらに厳しい徹夜へ追い込まれ続けていた。
第一章:年明けからの大攻勢宣伝
一月上旬、印刷所には「年始にあたり、国民を新たな戦意で鼓舞する」ための依頼が殺到。
対米英における軍事的勝利を喧伝し、国民に協力を促すポスター、チラシ、小冊子など膨大な量。
社長は「もう日中戦争だけでも徹夜づくしだったのに、太平洋方面の印刷が加わりダブルで忙しい」と疲れた表情を見せる。
戸田は紙の配給を確保し、スケジュールを切り詰め、堀内は警察と軍への納品報告を夜通し整理。幹夫は機械の前で淡々と作業を続け、職人たちは休む間もほとんどない。
新年とはいえ、彼らにとってはあいかわらず徹夜の連鎖に沈むだけの日々が変わらないまま始まっていく。
第二章:静岡の父、親戚宅での息苦しさ
一月中旬、幹夫の下宿に父(明義)から短い葉書が届く。
「年が明けても、わしは親戚宅で肩身が狭い。戦況が拡大しているようで、ラジオからは“太平洋でも大勝利”と連日流れているが、わしには関係ないようだ。
何もかも奪われ、寄食しているだけの日々が情けなくて、おまえの徹夜の苦労を思うと、胸が押しつぶされそうだ……」
幹夫は葉書を読み、「父さん……俺も父さんの土地を守れなかった。今は太平洋戦争の印刷を徹夜でやるしかない……」と唇を噛む。 夜、窓を開けても寒い風が流れ込むばかりで、二つの風鈴はほとんど揺れず音を立てない。「もう何も響かないのか……」と悲嘆を飲み込んで布団へ倒れる。数時間後にはまた職場の機械へ――それが幹夫の日常となっていた。
第三章:警察の監視、ますます強化
一月下旬、警察が「開戦後の情報統制を徹底するため」印刷所をいつも以上に入念に巡回。
対米英の宣伝物を優先しているか、紙の使用は適正か、納期に遅れはないかなど、事細かに点検する。
社長や戸田、堀内は書類を揃えて「すべて軍命令に従っております」と報告するだけで、「問題なし」とされる。
幹夫はラジオが伝える南方戦線の“快報”とやらを横耳に聞きつつ、徹夜の機械音に包まれ続けている。「父の状況も、自分の窮地も、戦争がさらに激しくなれば変わるどころか悪化するだけじゃないか……」と胸を塞がれる思いだ。
第四章:夜風の冷たさ、風鈴のかすかな演奏
月末、深夜。幹夫が徹夜明けで下宿へ戻った際、窓を開けると深い冬の冷気が部屋に入り、二つの風鈴がわずかにチリンと重なる。
その音は切なく、幹夫は一瞬にして父を思い出す。「太平洋戦争が始まり、何ひとつ良い方向に行っていない。俺はこのまま年が変わっても徹夜の日々を続けるだけか……」
音はすぐに消え、幹夫は疲れきった身体を布団に投げ出し、数時間の仮眠。起きればまた軍向けの大量印刷が待つ――昭和十七年一月はそうして幕を下ろし、さらに戦火へ進む日常が始まろうとしている。
結び:開戦の新年と闇の深まり
昭和十七年(1942年)一月、真珠湾攻撃以降、太平洋戦争に突入した日本は多方面の戦線を抱える。
印刷所は軍の大量宣伝物(対米英戦の鼓舞・兵士募集・物資徴用)で徹夜に追われ、警察の統制も「開戦後の情報管理」として一層厳重化。
静岡の父は親戚宅で寄食し、土地も家も失ったまま、戦争が拡大する現実を悲嘆するしかない。夜の深い冷気に二つの風鈴がチリンと儚い音を立てても、戦争が加速度を増していく状況を変えられはしない。幹夫や父にとって、これがさらなる暗い年の幕開けとなる――そんな苦渋のまま新たな月が過ぎていくのだった。
昭和十七年(1942年)二月――
年が明けてから既にひと月が過ぎたというのに、戦時の空気はますます重く、東京の下町の印刷所では相変わらず昼夜の別なく機械が回り続けていた。日中戦争に加えて始まった太平洋戦争の戦火はさらに広がり、軍からの宣伝物の注文は絶えることがない。ポスター、チラシ、小冊子、何から何まで「勝利を信ぜよ」「国力総動員」と高らかに謳う文言だ。
社長は「これ以上無理だ」と頭を抱えても、上からの指令を拒めるわけもなく、戸田や堀内は配給紙と納期、警察への報告書づくりで目を回す。幹夫は相変わらず機械の前に貼りつき、ただ朦朧とした意識で紙を送り込み、インクまみれの手をかすかに見るだけの日々に沈んでいた。
ひと月前に始まった対米英の大戦が、ここへ来てさらなる波紋を広げ、街はニュースやラジオの「大戦果」「快進撃」といった言葉で染まっていく。警察の監視は形ばかりではない――戦時下の情報を完全にコントロールするため、印刷所にも念入りに巡回がかかる。もっとも、ここでは軍の仕事以外はまるでやっておらず、当局が望む通りの形で「問題なし」とされるだけなのだ。
幹夫は夕闇の中で振り返ることもなく機械を回し続け、夜明け前にわずかに取る睡眠で疲労をやり過ごす。布団へ沈む身体を起こすのも一苦労だが、朝にはまたポスターの束が待ち構えている。
静岡の父は親戚宅で借り暮らしを続けながら、茶畑も家も失ったままの日々を、手紙に短く書き送るだけ。そこには「戦果を伝えるラジオが、我々老人には遠い響きだ」とあった。土も屋根も奪われて、すでに何を守るかすら見失っている様子が文面ににじむ。それを読んで幹夫は胸が潰れる思いがしても、背を向けるように徹夜の轟音へと帰っていくしかない。
夜。機械の音から解放され、わずかな隙間に下宿へ戻った幹夫は窓を開ける。まだ寒い空気が入ってきて、二つの風鈴をわずかに揺らす。チリン――とほんのかすかな音が一度だけ響いて、すぐに止んだ。そこにはもう、かつて感じた温もりや郷里の面影は薄れ、言葉にならぬ虚しさが残るだけ。
そのまま膝を折り布団へ倒れ込むようにして眠りに入ると、目を開けた頃には外が白み始めている。二時間ほどの仮眠を経て再び職場へ足を運ぶ足どりは重く、思考さえ途切れがちだった。誰もが黙り込み、機械の轟音だけがすべてを支配する徹夜の工場――それが昭和十七年二月の東京の一角で当たり前に繰り返されている光景なのだ。
対米英開戦によって、印刷所の疲弊は一層深まり、警察の監視も見逃しようもないほど厳しくなった。それでも幹夫たちは「戦争だから」と腹をくくるしかない。遠く静岡の父は生きる場所を失い、こちらも自由な時間など見あたらない。春の気配は遠く、戦火は止まず、徹夜の連鎖がますます戦争を後押ししている。誰も「いつ終わるのか」と問いかけても、その答えはどこにも見当たらないまま、二月の冷たい風が夜の工場を吹き抜けるだけだった。
昭和十七年(1942年)三月――
凍えるような冬の冷気がようやく和らぎ始めても、印刷所の内側にはまるで季節の移ろいなど存在しないかのように、軍の宣伝印刷を刷り上げる轟音だけが響いていた。対米英との太平洋戦争が本格化してからというもの、日中戦争に加えた複数の戦線を鼓舞するポスターやチラシが山のように押し寄せ、徹夜のローテーションは一段と苛烈さを増している。
社長は「これほど長く徹夜を続けて、皆が倒れなければいいが……」と言いながらも、軍の命令を拒む余地などないため、疲れ切った面持ちで納期を睨む。戸田はその隣で紙の配給を必死に確保し、納品スケジュールを綿密に調整。堀内は警察や軍への報告書づくりを夜通し進め、ときおり机に突っ伏しながら仮眠を取るのが精いっぱいだ。幹夫もやはり、眠気に沈む意識を叩き起こすようにして印刷機を回し続ける。
一方、静岡の父は、家を追われたまま親戚の家で肩身の狭い暮らしを強いられ、体調も芳しくない。手紙には「あれほど守ろうとした土地も畑も無いまま、ただ年老いて日々を過ごしている」という嘆きがにじむが、幹夫にはどうすることもできない。こちらは太平洋戦争のニュースを耳にしながら、さらに重くなる印刷の負担を背負い込むしかないからだ。
夜が更け、ようやく辿り着いた下宿で幹夫が窓を開けると、外にはまだ微かな寒さが残る春の風が通り抜ける。二つの風鈴はほんのわずかに揺れ、かすかなチリンという音を立てるが、その音はいつもより小さく、すぐにかき消されていく。彼は「父さん…」とつぶやくだけで、深い疲労に身を任せて布団へ倒れ込み、短い眠りへ沈む。そして朝になれば、また印刷所へ向かい機械を回す日々。以前から続く「戦争を支える歯車」の生活は、この三月に入ってもまったく揺るぐ気配はない。
ラジオの報道は「太平洋上の日本軍の快進撃」「米英への対抗」を喧伝し、街は戦時統制のきしむ音で満ちる。警察が印刷所を巡回しても「国策に忠実に従っているな」と呟いて去るだけ。誰もが徹夜を繰り返し、睡眠不足の頭でポスターを仕上げ、チラシを梱包し、次から次へと納品をつないでいく。幹夫は「これがいったいどこに行き着くのか」と思いかけても、疲れすぎて考える余裕すら奪われていた。
こうして昭和十七年三月は、春の陽気よりも戦争の熱気がさらに立ち込める月として過ぎていく。父の姿を思うと胸が痛むが、徹夜の轟音を前にしてはどうにもならず、ただ夜風に揺れる風鈴が、かつてあった緑と穏やかな日々の名残をわずかに呼び起こしてはすぐに消えていく。戦争が深まるほど、彼らの日常は徹夜の連鎖に埋もれ、静岡の父もまた行き場を失ったまま、季節の移ろいだけが空々しく通り過ぎようとしている。
昭和十七年(1942年)四月――
桜がほのかに散り始めるころ、東京の下町の空気は、一瞬でも春の安らぎを感じさせる余地を与えてはくれなかった。印刷所には相変わらず軍からの宣伝印刷が山のように積み上げられ、幹夫ら職人たちは昼夜を問わぬ作業を続けている。昼夜の境界は薄れ、機械の轟音がいつまでも消えないまま、彼らの疲弊を限界まで追い立てていた。
戦争は太平洋戦争に突入して数か月を経ても、拡大の一途をたどるばかりで、情報統制はますます厳格化していた。警察が印刷所を巡回するのも“形式的”とはいえ形ばかりでは済まされず、用紙の配給や納品数、ポスターの文言などを細かくチェックし、「国策に背くものはないか」と目を光らせる。結果的に「問題なし」とされて去るが、その分の書類作業に戸田と堀内は昼夜の合間を縫って追われ、社長は「またか……」とため息をつくしかない。
日中戦争の泥沼に加え、太平洋戦争の開戦で印刷の量はますます膨れ上がり、職人たちの徹夜も増すばかり。幹夫は半ば朦朧とした意識で機械の前に立ち、ときおり机に突っ伏して仮眠を取るが、それでもすぐに上司の声に叩き起こされ、再び紙を送り込む。月が替わったというのに、何も変わらない。
深夜、僅かに得た休憩時間を使って下宿へ戻った幹夫は、窓を開け放ち、夜の風を一瞬だけ吸い込む。桜の散り際がそっと入り込むが、視界には二つの風鈴がかすかに揺れるのが見えるだけ。音はほんの微細なチリンが一度きりで、それもすぐに静まり返る。「父さん、またこの春も、何も良くならなかったな……」 静岡の父は親戚宅で肩身の狭い思いを強いられ、土地も家も奪われたままだ。手紙によれば体調もさらに悪化傾向で、役場や軍の要員が“もっと土地を活用する”などと話しているのを遠巻きに聞き、気力が萎えているらしい。
幹夫にはそれをどうすることもできない。ここで徹夜を続けながら、戦争をさらに煽るような印刷物を黙々と仕上げるだけ――その無力感が胸をえぐるようだが、どこにも逃げ場はなく、朝が来ればまた職場に戻っていく。それがこの四月の現実だった。
ラジオの報道は「南方作戦が順調」「米英撃破」とうたい、職人たちにも「勝っているらしい」との雰囲気が押し付けられるが、誰も喜ぶ気力などない。彼らはただ、休息と呼べるほどでもない仮眠を取りながら、ポスターやチラシを鬼のような速さで作り上げ、軍の要求を満たすしかない日々に沈む。
夜が再びやってきても、印刷所の機械は止まらない。幹夫が下宿に戻るのは闇のなかわずかな時間だけ。畳に身を横たえる前、二つの風鈴が僅かに当たってごく小さくチリンと鳴る音を耳にして、彼は父を思い、取り戻せぬ緑の畑を思い、そしてまた眠りに落ちる。目を開ければ明日の徹夜が待ち構える。その繰り返しのなかで昭和十七年四月は黙々と過ぎていく。
——桜が風に流れていく気配を感じるには、彼らはあまりに疲れきっているし、戦争に追われている。ここには季節感も祝福もなく、徹夜と轟音と監視と焦燥だけが、人々の思考も希望もすべて塗り潰していくのだ。春という言葉すら空虚に響くまま、次の徹夜へ踏み込んでいくしかない――それが昭和十七年四月の現実であった。
昭和十七年(1942年)五月――
人々が戦争に覆いつくされる生活を余儀なくされて久しい東京の下町。印刷所では、月が変わっても徹夜で軍向けの印刷を続ける日々に変化はなかった。太平洋戦争が本格化して半年近く、前線の拡大と供給の要請が国内をさらに締めつけ、警察や軍の監視は形骸的なルーチン以上の厳しさで工場を巡回する。もっとも、ここでは反戦ビラも民間の印刷も遠い昔に消えており、ひたすら軍の指示通りに夜を昼に繋ぐ作業をこなすだけだ。
五月の陽射しは日増しに強さを増し、少しずつ汗ばむ気候になりかけていた。だが、印刷所の中は相変わらず湿り気のあるインクの匂いと機械の熱気に包まれ、季節感などあったものではない。社長はいつものように頭を抱えながら、何とか納期に追い付きつつ、今にも死にそうな目をした職人たちを交代で仮眠させている。戸田は紙の配給を得るために夜な夜な役所の窓口へ出向き、堀内は膨大な書類と帳簿をまとめ、警察の要望に応じる。幹夫は機械の轟音に身を委ね、時おり「これがいつ終わるのだろう」と心で呟きながら、ただ淡々と紙を送っていく。
静岡の父はすでに家も畑も失い、親戚宅に身を寄せているが、元々の住人に遠慮して肩身の狭い思いをしていると短い手紙に記してきた。体調も優れず、「この戦争がもはや日本じゅうを巻き込み、終わる兆しが見えない」と嘆くばかり。幹夫はそれを読み、胸にどうしようもない苦さを感じても、ここで徹夜を止められるわけではない。戦争はさらに拡大し、印刷所も徹夜を常態化してゆく以外に生存手段はないのだ。
警察の巡回があったある日の深夜、幹夫が下宿へ戻って窓を開けると、やや暖い夜風が部屋を吹き抜ける。机の上には父から届いた葉書が投げ出され、二つの風鈴はわずかに揺れ、しかし音を鳴らすほどには至らない。かすかに触れ合ってもチリンという響きにはならず、ただ沈黙に近い振動が幹夫の心を締めつける。「父さん、あの土地があった頃には、今みたいに徹夜で印刷するだけの世界なんて、思いもしなかったのにな……」 ふとそう呟いても、答える者はなく、仮眠時間はあっという間に消え去る。数時間後にはまた職場に向かい、太平洋戦争の“快進撃”を謳うチラシやポスターを刷り上げる役割を果たさねばならない。
ラジオは「南方作戦は絶好調」と報じ、印刷物にも「米英を撃破し勝利へ近づく」と踊るような文言が溢れている。その一方で、職人たちが日に日に憔悴し、眼の下には隈が刻まれていることに気づく者は少ない。もし徹夜から逃れようとすれば、軍や警察に逆らったとみなされかねないからだ。みな黙って歯を食いしばり、“国のため”という名目に身を委ねる。
こうして昭和十七年五月は、暑さを帯び始めた空気とともに、さらに逼迫した日常を押し寄せる。畑も家もなくした父、徹夜で戦意高揚を印刷する幹夫たち――彼らが抱く疲労や無力感はどこにも吐き出せないまま、戦争が一層大きく日常を塗り潰していく。二つの風鈴が夜半にかすかに触れ合っても、その音はいつしか戦争の轟音にかき消され、残るのは徹夜の睡魔だけ。季節が移ろうことすら実感できぬまま、彼らの生活はまた次の徹夜へと踏み出していくのだった。
昭和十七年(1942年)六月――
梅雨が始まる気配が漂い始めた東京の下町。雨の湿り気が街を覆い、一層重苦しい空気が印刷所を包む。ここでは先月同様、太平洋戦争の宣伝印刷がひっきりなしに到着し、幹夫や戸田、堀内、社長らは昼夜逆転の徹夜作業を常態化させたまま過ごしていた。ちょうど日中戦争に加え、対米英との大戦争へ踏み込んで半年あまりが経過しても、まるで終わりが見えない戦況に、大量のポスターやチラシを作り続ける現実はより苛烈になりつつある。
印刷所の空気はしめっぽく、雨が降り込まないように時折窓を閉じるのだが、機械の熱とインクの匂い、そして幾十もの汗が混じった匂いで、まるでサウナのような息苦しさだ。社長は「これ以上の部数をさばけるはずがない……」と頭を抱えるが、軍の命令を断る術などなく、戸田は一晩中書類を作り堀内は用紙の使用履歴を警察に報告する準備を怠らない。幹夫は朦朧とした頭で機械を回し、わずかに仮眠を取る生活を繰り返す。従わなければ店が潰れる、という逃げ場なき理屈で、すべてが機械の音に絡め取られていた。
静岡の父は相変わらず親戚宅の厄介になっており、最近では「周囲から好奇の目で見られ、『戦争に協力しない怠け者ではないか』などと陰口をたたかれる」と葉書に記してくる。家も畑も失った老いた父がそんな仕打ちを受けていると幹夫は思うと、どうしようもないやりきれない悲痛がこみ上げる。しかし、ここで彼ができることは徹夜で戦争を支える印刷をこなすだけ――まさに「戦争だから仕方ない」という言葉で片付けられる理不尽の真っ只中なのだ。
雨が強まる夜、幹夫が徹夜明けに下宿へ戻ると、空はどんよりとした雲に覆われ、大粒の雨が窓を叩く。部屋の窓をそっと開けても、湿った風が吹き込むだけで、二つの風鈴はわずかに当たっても音を立てない。かつてはその小さなチリンが、ここへ帰ってきた証のようにも思えたのに、今は沈黙のまま、幹夫の疲労を反映するかのように揺れるだけだ。
雨の音にかき消されるように、布団へ倒れ込む彼の耳には、遠くラジオが「帝国海軍は南方で勝利を収め……」などと報じる声が微かに聞こえる。それが何を意味するかさえ、今の彼には深く考える気力がない。数時間後にはまた印刷所へと引き返し、昼夜のない機械の轟音に身を投じねばならない。警察の監視が入れば「軍の仕事を優先しているか」を書類とともに示し、疑われる余地がないほど徹底して軍命令をこなしている姿を見せれば、巡回は「問題なし」として去っていく。それがいつものルーチンになって久しい。
こうして昭和十七年六月は、雨音と徹夜の轟音が入り混じるかたちで過ぎていく。疲労困憊の職人たちは何も言わず機械に向かい、幹夫は父の窮状を噛みしめながら、それでも今は戦争を支える印刷を続けるしかない。茶畑も家も失い、疎まれはじめている父の姿が頭にちらつくたび、眠気を覚ますように紙の束を握りしめる。戦争が終わるどころか、より激化していくのではないかという不安が、あたりを重く染めていた。
夜には少し涼しくなるが、その涼やかさが救いになるわけではない。下宿に戻っても、二つの風鈴は息を潜めているかのように無音のまま揺れている。まるで、戦争に奪われた多くのもの――父の家や畑や、人々の心――を悼んでいるかのようだ。やがて機械の音が呼ぶ時間になれば、幹夫はまた腰を上げ、雨の路地を再び職場へ踏み出す。そうしてこの六月も、底知れぬ戦争の闇を深めながら過ぎていくのだった。
昭和十七年(1942年)七月――
梅雨の長雨が去って、東京は一気に蒸し暑い空気に包まれ始めたが、ここ下町の印刷所には季節の区切りなど関係ないかのように、軍からの膨大な宣伝物の印刷を昼夜問わずこなす日常が続いていた。日中戦争に加え太平洋戦争まで始まって半年以上経ち、前線は広がる一方。後方支援を支える社会はますます緊張を深め、警察と軍が情報・物資の統制を厳格化している。その波は当然、幹夫たちの印刷所にも重くのしかかっていた。
六日間連続で徹夜シフトに入った職人が倒れたと社長は頭を抱え、戸田と堀内は紙の配給や納期調整、さらに警察への報告書づくりまでこなさなければならない。そんな殺人的な状況下であっても、軍の要求は減らずに増えるばかり。幹夫も徹夜ローテーションに組み込まれ、機械から離れられない時間が延々と続く。「これがまた“勝利を鼓舞する”新しいポスター……」 彼は昏い意識の中でそう呟きながら、インクと紙の狭間で無心に作業を続ける。深夜になってようやく下宿へ帰り着く頃には、汗と疲労で体中が重く、考える気力すら奪われていた。
静岡の父は相変わらず親戚宅で辛うじて暮らしているようだ。最近届いた手紙には、「こちらも夏の暑さが厳しいが、家も畑もない身の上で、気まずいまま日を過ごしている」と書かれていた。集落の人々には「戦争に協力していない年寄り」と見なされ、肩身が狭いと嘆いている。幹夫はそれを読み、奥歯を噛みしめるしかない。自分がここで軍のための宣伝物を昼夜刷っている現実が皮肉に思え、「何も助けになれていないどころか、むしろ……」と胸を痛めても、目の前の作業を止めるわけにはいかない。
七月中頃、警察の巡回が入るたび、印刷所は“軍命令に従っている”という帳簿や書類を見せて「問題なし」と判断される。それで徹夜続きの職人たちが救われるわけではないが、少なくとも一時的に店が止まらずに済むのだ。社長は疲れた目で苦笑いし、戸田と堀内は徹夜の合間を縫って書類を整える。「ここまでやって疑われる心配はないんだが、そもそもこんな状況を“問題なし”と言うのも何だかな……」 社長はそうつぶやき、幹夫は機械の方からチラリと振り返るが、微笑む余裕もなく再び紙を送る動作に没頭する。
夜、幹夫が下宿に戻ったとき、窓を開けると蒸し暑い空気がブワッと入ってくる。二つの風鈴はかすかな揺れだけ見せるが、音にまでは至らない。「父さん……」 幹夫は低い声で呟いてみるが、何かが答えるわけではない。蒸し暑さが寝苦しさを増し、短い仮眠を取るにも汗がにじむ。いつしかうとうとした意識の中、脳裏には父が行き場を失ったまま夏を耐えている姿が浮かぶ。茶畑の緑も、家の面影も、すべて軍に奪われたあの場所。(俺はポスターを刷って戦争を煽っているようなもの……。ほんのわずかな助けにもならない……) そう思うと、息をするのも辛くなるが、時間が来れば再び工場へ行かねばならない。
こうして昭和十七年七月は、熱波にも似た夏の空気と、太平洋戦争の拡大報道が入り混じりながら過ぎていく。職人たちは誰もが言葉少なに作業をこなし、ラジオが流す“帝国海軍の勝利”をかき消すように印刷機の轟音が響く。警察は「問題なし」とお墨付きを与えるだけで、誰の疲弊も癒やさない。 幹夫は、親戚宅で気まずい日々を送る父の姿を思いながら徹夜で戦時宣伝を支えるこの行為に矛盾を感じるが、止まるすべなど見当たらない。夜半にこぼれ落ちる汗と、わずかな時間で鳴るかもしれない風鈴のか細い音を感じ取ること以外、彼らの生活には何も残されていない――そのまま、さらに容赦ない八月の暑さへとなだれ込むように日々が消費されていくのだ。
昭和十七年(1942年)八月――
日中戦争だけでなく太平洋戦争の激化によって、東京の下町の印刷所には、これまで以上に過酷な徹夜労働が常態となっていた。夏の盛りを迎えれば、かつては活気づいていた町も今は戦争一色で、どこを見回しても“国策に協力せよ”という標語やポスターが溢れるばかり。ラジオからは「戦果を拡大せよ」「国民総動員だ」と声高に叫ばれ、警察や軍の目がさらに厳しく光っている。
社長が「これ以上の部数をどうやってこなせばいいんだ」と頭を抱えても、軍からの命令書が途切れることはない。徹夜作業が当然になり、職人たちの疲弊は極限に近い。戸田は用紙の配給を確保し納期をぎりぎりまで詰め、堀内は警察への書類報告を夜通しまとめ、幹夫は機械の前に張りつく形で、わずかな仮眠を取るだけの生活を続ける。作業を止めるわけにはいかず、昼か夜かも分からぬ時間の境を行き来する毎日だ。
静岡の父は親戚宅に厄介になっているが、土地や家を失ったままの老人に対して周囲は必ずしも好意的とは言えないという。「もう身の置き所もない」と短い手紙にしたためられ、幹夫は胸が痛む。畑も家も、そしてこの国の平和も、いったいどこへ行ってしまったのか。そんな問いが頭をかすめるが、答えは出ないまま、目の前の印刷物に集中するしかなかった。
八月中旬、警察が定例の巡回にやって来る。軍の印刷を最優先で行い、反戦的な動きなどまるでないことを確認して「ご苦労」と短く言い残す。社長はやり切れない表情でうなずき、戸田と堀内は相変わらず書類を手際よく見せて報告を済ませる。その後、幹夫は機械の方へ戻り、インクと紙を相手に、また夜通しの作業を継続。大本営発表を受けた新たな“飛躍”を謳うポスターが加わって、徹夜の量はいよいよ増していく。
夜半、幹夫がようやく下宿の部屋へと戻って窓を開けても、空気は熱帯夜のなか生温く、二つの風鈴はかすかに揺れるだけで音を立てない。あの微弱なチリンですら鳴らないことに胸が痛み、「父さん……何もしてやれなかったな……」と小さく声を落とす。ほんの数時間の仮眠で汗がまとわりつく身体を癒やしきれないまま、彼は再び印刷所へ向かう足を引きずるように進める。
こうして昭和十七年八月も、灼熱の空気と戦火の足音に追われる日々が過ぎ去っていく。夏の盛りを越えたら涼しくなるどころか、戦争がますます熱を帯び、徹夜は絶えず、人々の心は疲弊しきっている。父が暮らす親戚宅の行く末も、幹夫自身の未来も見通せず、ただ「軍の命令を受けて印刷を続ける」という現実に埋没するしか道がない。それがこの国の在り方だと、誰もが薄暗い諦念のなかで受け止めるしかなかった。
昭和十七年(1942年)九月――
暑さがいくらか和らぎ始めても、東京の下町の印刷所には終わりのない戦争の影がそのままの形で落ち続けていた。日中戦争に加え、太平洋戦争が本格化してすでに一年近くが過ぎつつあるが、軍からの要請は以前にも増して膨大になり、とても打ち止めになる気配はない。ポスター、チラシ、小冊子といった戦意を鼓舞する印刷物を徹夜で仕上げる日々が、幹夫や戸田、堀内、そして社長らにとって当たり前になっていた。
九月にはさらに新たな戦果を誇示する命令書が届き、前線の“勝利”を喧伝するための宣伝物を短期納期で大量に刷るよう指示される。社長は「もうこの店の体力では無理だ」と頭を抱えながらも、軍部に逆らえば店が潰れるリスクを抱え、結局は黙って受け入れるしかない。戸田は夜通し納期表と格闘し、堀内は警察や軍への報告書と在庫管理に精を出し、幹夫は昼も夜も区別なく機械の前に立ち続ける。
静岡の父は親戚宅での暮らしが長引いており、送られてくる手紙には相変わらず辛酸の言葉が散りばめられている。「茶畑も家も失った身の上は、決して楽ではない。戦局がさらに激しくなると噂されるが、我々老人に何を求められるか分からない……」という。幹夫はそれを読み、「父さん、本当につらいだろう……俺がここで徹夜し続けたところで、何も変えられないんだ」と胸を苦く締めつけられる。
警察は今月も巡回を怠らず、印刷所での軍宣伝以外の動きがないか細かく点検するが、いつも通り「問題なし」としかなるまい。従業員たちは反戦的な行動などとっくに不可能になっており、むしろすべての言動をひたすら抑えて紙とインクの間に埋もれている。警官も形式的に帳簿を眺め、「ご苦労だが国のために頼む」と言い残し去っていく。
九月下旬のある夜、幹夫がようやく下宿へ戻って窓を開けたとき、外気は夏の熱がいくらか退き、虫の音がかすかに聞こえた。二つの風鈴がわずかに揺れ、チリンという短い音を立てるが、それもすぐ止んでしまう。「父さん、もう親戚の家でいつ追い出されるか分からないな……」 そう呟いた幹夫は汗と疲労で沈み込む身体を布団へ倒し、わずかな仮眠を取る。数時間後にはまた印刷所へ、昼夜の区別のない戦争印刷へ戻らねばならない。
こうして昭和十七年九月も、戦局の泥沼と太平洋戦争の拡大に合わせるように大量の宣伝物を刷り続ける徹夜の月として過ぎていく。父が住処も失い肩身を狭くしていることも、かつてあった民間の平穏も、すでに遠い過去の出来事となってしまっていた。いまは戦争を支える「歯車」として生き延びるしかない――そうして机に突っ伏す幹夫の耳に、次第にか弱い虫の声が混じるが、それもやがて印刷機の轟音のなかにかき消されるのだった。
昭和十七年(1942年)十月――
街の空気には秋の気配が漂い始めるはずのころだが、この下町の印刷所には相変わらず戦争を支える轟音が鳴り響き、日夜を分かたず紙を刷る光景が日常と化していた。日中戦争と太平洋戦争が重なって始まってからというもの、軍からの要請は減るどころか膨張する一方。徹夜で大量のポスターやチラシを仕上げる以外に店が生き延びる道はないと、社長は日ごと痩せこけた顔で納期を睨む。
戸田は用紙配給の段取りや作業スケジュールを夜通し組み立て、堀内は警察と軍への報告書づくりと在庫管理で眠る間もなく机にへばりつく。それでも失敗すれば店の存続が危うい以上、歯を食いしばるしかない。幹夫はそんな光景を横目に、機械の前へ黙々と戻り、仮眠を合間に取るだけでとてつもない数の紙を捌いていく。轟音が昼夜問わず続き、人々の疲労だけが積み上がる。
静岡の父は相変わらず親戚宅の厄介になり、土地も家も失った身の辛さを葉書ににじませていた。「長年守りたかった畑も無く、家まで奪われて誰の世話になるか分からない老体だ」との言葉に、幹夫は胸を締めつけられる。自分はここでポスターを刷り続け、家族どころか父を支えるすべすら持たない。この矛盾が苦く重く心にのしかかるが、機械が呼ぶ音を前にしては何もできず息を呑むばかりだ。
十月中旬、警察がいつものように帳簿と印刷物を確認して回る。軍の指令に従い、徹夜で印刷をこなすだけの実態を「問題なし」と認定して帰っていく。社長が「これが普通だと言うなら、あんまりだよ……」と呟くが、それ以上何を発せられようか。戸田や堀内は慣れきった手つきで帳簿を片付け、幹夫は機械の前でインクと紙に向き合い続ける。誰もが疲れ切った姿を見せながら、ついに徹夜は止まらない。
夜更け、ようやく下宿に戻った幹夫が窓を開けると、かすかな秋の冷気が入り、二つの風鈴が短いチリンという音を作る。ほんの一瞬で消え去るかすかな響きに、彼は父を思い出す。「守れなかったものが多すぎる。俺も父さんも、戦争に飲み込まれるだけ……」と唇を噛み、疲弊した身体を布団へ落とす。数時間後にはまた、戦争のための徹夜作業に戻るしかないことを知っているからだ。
こうして昭和十七年十月は、遠い秋の香りを散らすことなく、ただ戦争を支える歯車としての日々を塗り替えていく。太平洋戦争の拡大はとどまるところを知らず、報道が“快進撃”を喧伝する一方で、ここで印刷を担う人々は心を磨り減らすように徹夜を重ねていくばかり。父の苦境も、彼の行き場のない苦悩も、かすかに鳴った風鈴の音と共に夜の闇へ沈む。もう誰もこの歯車を止める術を持たず、黙して印刷機へ向かうほかはないのであった。
昭和十七年(1942年)十一月――
日ごとに冷え込みが増していく下町の風景も、印刷所の重苦しい徹夜には何ら緩和をもたらさなかった。太平洋戦争が始まってから一年近く経ち、戦況はさらに複雑さを増す一方。ラジオや新聞では「陸海軍の前線拡大」と「国民の総力を挙げて協力せよ」という文言が絶えることなく流れ、警察や軍の統制はますます厳しくなっていた。
十一月に入っても、社長のもとには軍から「前線の報告を広く伝え、国民士気をさらに高めるため」という名目の大量発注が相変わらず舞い込み続ける。「これ以上どれだけ徹夜すれば……」と声を落とす社長を尻目に、戸田と堀内は夜通しの帳簿づくりと警察報告、用紙配給の手続きに明け暮れる。幹夫は機械の前で紙を捌くことに専心し、仮眠を交互に取るだけの生活。 誰もが目の下に濃い隈を浮かべ、唇を噛みながら、空白の一言を飲み込んでは徹夜を続けている。
静岡の父は親戚宅に厄介になったまま、手紙には「もう体調も芳しくなく、この先冬を越すのがやっと」と書き送ってきた。畑も家も失い、ろくに外出もできず、周囲の視線に気を揉むだけの日々だという。そこには戦況の悪化に呼応するように「みな疲れ果てている」との文言も見えたが、幹夫は何もできず、また黙ってポスターを印刷するしかない。 父の苦境を思い返すたび、胸を苦く締めつけられるが、目の前には夜勤のシフトが待ち受けている。
月の半ばには警察の巡回があり、相変わらず帳簿と在庫を仔細に点検され、「軍の仕事優先か?」「ビラなど印刷していないか?」と問い質される。社長と戸田、堀内は「すべて軍命令を徹夜でこなしております」と応じ、「問題なし」とされるのが常だった。幹夫はそれを横目にまた作業へ戻る。この店には反戦ビラなどとっくに存在しない。ただ機械音が日夜を呑み込むだけの現実だ。
夜更け、幹夫が下宿へ戻ると、窓を少しだけ開けて冬の入り口の冷気を吸い込んだ。二つの風鈴は短く揺れて、ほんの一瞬チリンと鳴るかに思えたが、かすかな音が夜の闇へ沈む。「父さん……」 そう声にならぬ呼びかけを胸に抱えつつ、彼は仮眠のために布団に倒れ込む。あれほど疲労が重なっていても、眠りは浅く、身体を掘り尽くすような痛みがちらつく。 数時間後にはまた暗い街を辿り、印刷所の暖房もろくにない工場へ向かい、機械を回す。そんな繰り返しが日常化し、父のか細い声さえも頭の奥でかき消される。
こうして昭和十七年十一月は、さらに際限なく押し寄せる軍の印刷要請と徹夜の轟音のなかで過ぎていく。職人たちが生き生きと働く姿はどこにもなく、皆が「戦争だから仕方ない」と胸中で唱えながら、数時間の仮眠を頼りに紙を流している。 静岡の父の嘆きも届ける先を失い、幹夫の耳にはラジオが煽る「前線は進んでいる」という報道だけが刻まれていく。二つの風鈴は夜風に動いても、かつてのような確かな調べを奏でることはほとんどなく、今や虚ろに揺れるだけ。そうして次の月へと暗い影を引きずりながら、戦争の足音は休みなくこの町を飲み込み続けていた。
昭和十七年(1942年)十二月――
日中戦争が泥沼化するなか太平洋戦争にも突入して一年が過ぎ、前線はますます拡大を続けていた。東京の下町にある印刷所では、十月・十一月に続いて、あいかわらず太平洋戦線を鼓舞する宣伝印刷が山のように押し寄せ、幹夫や戸田、堀内、そして社長らが、夜を徹してその作業をこなす日々が止まらない。 周囲には年の瀬を迎えるはずの空気がうっすら感じられるが、ここに働く職人たちには徹夜の連鎖から解放される隙などなかった。戦局は“南方での拡大成功”を誇示する報道を連日流し、警察と軍は「さらなる国民総力結集を」求めて激しく統制をかける。一方、彼ら職人の肉体と精神は、休む間すら得られぬままきしみを増していた。
社長は「去年の今頃も徹夜だったが、今年はさらにきつい。どこまでやれるか……」と眉をひそめ、戸田は納期と紙の配給を夜通しスケジュールに書き込む。堀内は警察への帳簿作成と在庫の管理に埋没し、幹夫は机に突っ伏しながらも呼び戻されては機械の前に戻る。その機械は昼夜区別なく稼働し、廃棄されるか消耗されるか分からないほどの量のポスターやチラシを量産する。
一方、静岡にいる父は親戚宅の居候暮らしを続けるばかりで、何もかも奪われた「空虚な年の暮れ」だと葉書に綴ってきた。周囲では米や物資の配給が逼迫し、以前より差別的な視線を浴びているらしく、身を縮めるように耐えているという。幹夫は「父さんには家も畑もないまま、こうして俺は戦争を支える印刷をしているだけ……何の役にも立てなかった」と胸を苦くするが、やはりここから離れることはかなわない。
十二月中旬、警察が年末の監視を一層強化するとの通達で、印刷所にも念入りな巡回があった。「国策に疑いはないか?」「納期は間に合っているか?」などと確認され、社長は「すべて軍の命令通りです」と書類を示す。もちろん、徹夜の疲弊や職人の悲鳴を聞き入れる余地などなく、「問題なし」とされて去っていく。 戸田や堀内は機械を動かす音の向こうで「これが普通と思われてるんだから、もうどうしようもない」と呟き、幹夫は無言のまま印刷物の山を流してゆく。
やがて大晦日が近づいてきても、店には休みなどなく、徹夜の準備が続けられる。深夜の下宿に戻った幹夫が窓を開けてみれば、外の冷気が頬を刺し、薄暗い光に二つの風鈴が僅かに揺れる。以前なら短いチリンの音が聞こえただろうが、今はまるで声を失ったかのように沈黙を守る。「父さん……何もかもが息苦しいな……」 幹夫はそう囁いても、答えはなく、枕へ倒れ込むように少しの睡眠を取る。朝方になるとまた引き起こされ、戦争のための機械操作へ引きずられる。
こうして昭和十七年十二月は、どこにも正月気分などなく、ただ徹夜の轟音と警察・軍への従順を強いられる形で幕を下ろそうとしていた。年の瀬の合図さえ、ここでは意味を失い、日中戦争と太平洋戦争に挟まれた絶え間ない印刷作業だけが現実を支配する。 静岡の父が見いだせない新年の希望と、幹夫が失った自由、それを象徴するかのように夜風にはもはや風鈴の音さえ聞こえず、黙したままの二つの風鈴が息を潜めている――そんな冬の終わりが、それでもなお続く徹夜の先で朧げに浸食していくのだった。
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