茶畑と風の子
- 山崎行政書士事務所
- 4月3日
- 読了時間: 17分

第一章 茶畑の朝
朝日が山の端からゆっくりと顔を出す頃、茶畑には淡い金色の光が降りそそいだ。幹夫は露に濡れた土の感触を足の裏に感じながら、小さな籠を片手に持ち、静かに畝の間を歩いていた。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、若い茶の葉と朝露、それに遠くの木々の香りが混ざり合った芳しい匂いがした。幼い頃から慣れ親しんだこの香りは、彼にとって故郷そのものの匂いだった。
緑一面の茶畑が緩やかな丘陵に広がっている。茶の木は腰ほどの高さで、一列一列が帯のように連なり、朝の光を受けて輝いていた。空には一筋の雲が浮かび、風が吹くたびに茶の葉がさらさらと小さな音を立てる。まるで茶畑全体が朝の訪れを喜び、歌を歌っているかのようだった。
幹夫は摘み頃の新芽をそっと指先でつまみ、丁寧に摘み取って籠に入れた。一芯二葉――柔らかな一番茶の芽を傷めないよう慎重に摘むのは、簡単そうでいて奥が深い。指先に伝わる新芽の弾力と、ぷつんと茎が離れる感触に、幹夫の心は静かな喜びで満たされた。隣の畝では母や姉たちが手際よく葉を摘み取りながら、時折笑い声をあげている。家族の声は朝の空気に溶け、谷間にこだまするように響いた。
幹夫は家族のにぎやかな声を背に受けながら、ひとり静かに作業を続けていた。決して嫌なわけではない。みんなと一緒に働く時間は大好きだった。それでも、耳をすませば風や小鳥のさえずりが聞こえてくるこの静けさに、どこか心惹かれる自分がいた。土の匂い、葉擦れの音、遠くで鳴くホトトギスの声――そうしたもの一つ一つが、幹夫にとっては言葉のように感じられるのだった。
そよ吹く風が頬をなでると、幹夫はふと立ち止まった。風が何か囁いたような気がして、思わず耳を澄ます。もちろん風の言葉がわかるはずもないのだが、その朝の風はまるで「おはよう」と挨拶してくれたかのように思えた。幹夫は小さく微笑むと、「おはよう」と風に向かって心の中で返事をした。
第二章 家族と日常
朝の摘み取りを終えた頃、太陽はすっかり空高く昇り、茶畑には初夏の陽ざしが降り注いでいた。幹夫たちは摘んだ茶葉の入った籠を抱えて、家へと戻ってきた。広い土間に家族全員が集まると、母が大きな木桶に茶葉を広げ、手早く青々とした葉をさばいていく。父は縁側に腰掛け、背中を伸ばして一息ついていた。その顔には満足げな笑みが浮かんでいる。
「今年の一番茶も上々だな」父が手のひらに数枚の新芽を乗せて眺めながら言った。父の隣では年の離れた長兄がうなずき、庭先に積まれた籠を運び込んでいる。畑から戻ったばかりの兄弟たちも口々に朝の出来事を話し、笑い合っていた。小学校低学年の弟妹たちは、摘み取りよりも遊びに夢中になって泥だらけだ。それでも母に叱られないのは、ちゃんと自分たちなりに仕事を手伝った証だ。
幹夫は皆の輪から少し離れて、桶の中の茶葉を見つめていた。細かな産毛に覆われた新芽は、光を受けて翡翠色に輝いている。彼はそっと手を伸ばし、一枚の葉を摘み上げた。そして、掌の上にのせたそれに目を凝らす。十二歳の少年の目には、その小さな葉にも不思議な生命の息吹が宿っているように映っていた。
「幹夫、何ぼーっとしてるのさ」隣で茶葉を広げていた姉が、幹夫の顔を覗き込んだ。姉は口元に笑みを浮かべている。からかっているのではないことが、幹夫にもわかった。「ううん、なんでもないよ」幹夫はあわてて葉を桶に戻し、首を横に振った。周りを見れば、兄も弟もみんな自分のやることを見つけて動いている。自分だけが取り残されていたような気がして、幹夫は頬を赤らめた。
家の奥からは、コトコトと味噌汁の鍋が煮える音が聞こえてきた。朝の収穫を一段落させ、これから皆で朝食をとるのだ。兄弟たちは次々に手を洗い、囲炉裏のある居間へ駆け込んでいく。幹夫も姉に促され、泥だらけの足を井戸端で洗った。冷たい水が足首を伝い、心地よい刺激が全身に広がる。
囲炉裏端には大きな鉄鍋が吊るされ、湯気が立ちのぼっている。朝食は炊き立ての飯と野菜の味噌汁、それに漬物と焼いた魚だった。素朴だが力強い香りが部屋に満ちている。大家族だけあって、ちゃぶ台の周りには所狭しと茶碗や箸が並び、にぎやかな声が飛び交った。「いただきます!」と全員で手を合わせたあとも、兄弟たちは次々に言葉を発しては笑い、食卓は祭りのように賑わっている。
幹夫は賑やかなやりとりを聞きながら、黙って箸を進めていた。次から次へと話題が飛び交う中、ふと父が思い出したように幹夫に声をかけた。「そういえば幹夫、先生からお前の作文が賞をとったと聞いたぞ。すごいじゃないか。」途端に兄弟たちの視線が一斉に幹夫に向けられる。幹夫は箸を止め、顔を赤くしながら「うん……」と小さく答えた。
「幹兄ちゃん、すごいや!」年の離れた弟が目を輝かせる。姉は「本ばかり読んでるからね」と笑い、兄は「将来は先生か、小説家か」と冗談めかして肩をすくめた。皆が自分のことのように喜んでくれているのはわかる。けれど幹夫は落ち着かない気持ちでいっぱいだった。自分だけ別の世界にいるような、不思議な居心地の悪さを覚えていた。
幹夫は食事を終えると、ちゃぶ台の片付けを手伝ってから静かに座を立った。外に出ると、日差しがいっそう強くなっている。眩しさに一度まぶたを閉じ、それから縁側に腰を下ろした。庭先では、鶏が数羽、地面をつついて餌を探している。遠くからは再び畑仕事を始めた兄たちの掛け声が聞こえてきた。幹夫は膝を抱え、軒下の日陰でそっと空を仰いだ。
第三章 風のささやき
縁側から見える茶畑の方角に、白い雲がぽっかりと浮かんでいた。幹夫は空の青さと雲の形を眺めながら、ぽつりと呟いた。「あの雲、何かの形に見えるな…」誰に言うともなく呟いた言葉に、庭先の木がざわりと葉を揺らした。風が吹いてきたのだ。さっきまで凪いでいた空気が、突然生き物のように動き出す。幹夫の頬に、生ぬるい初夏の風が通り過ぎた。
「今、笑った?」幹夫はそっと呟いた。もちろん、返事があるわけではない。それでも、風が答えたように感じたのは何故だろう。幹夫はすっくと立ち上がると、庭の端に立つ一本の桜の木に歩み寄った。その桜は葉桜になりかけていたが、数輪だけ薄紅色の花を残していた。幹夫がそっと枝に触れると、花びらが一枚ひらりと舞い落ちた。
その時だった。足元でくるくると小さな旋風が巻き起こり、落ちた花びらを空へと運び上げた。幹夫は驚いて身を引いたが、不思議と恐ろしさはなかった。旋風は幹夫のまわりを一巡りすると、ふっと消えた。残された花びらが彼の肩に舞い降りる。幹夫はそっと肩からそれを摘み取り、掌にのせた。花びらは日差しに透けて、淡いピンク色に輝いている。
「……みきお。」誰かが呼んだ気がした。風の音か、木の葉の擦れる音か、それとも全くの空耳か。幹夫ははっとしてあたりを見回した。しかし、家の中から母が台所で立てる音が聞こえてくるほかには、何の気配もない。「今、確かに…」幹夫は自分の胸が早鐘のように鼓動しているのに気づいた。今のは風の声だったのではないか――そんな突拍子もない考えが頭をよぎる。
幹夫は心を落ち着けるように深呼吸した。胸いっぱいに吸い込んだ空気は、さっきよりも温かさを増している。「風が…呼んだ?」自分でも馬鹿げていると思いながら、幹夫は口の中で繰り返した。そのとき、また一陣の風が吹き抜け、庭先の草がさらさらと音を立てた。まるで誘われるように、幹夫は家の門を出て茶畑の方へ歩き出した。
第四章 茶畑で迷子
昼下がりの茶畑は、朝とはまた違った表情を見せていた。太陽に照らされ、畝の影は短く濃くなっている。幹夫は一人、畑のあぜ道を歩いていた。家の仕事を手伝うでもなく、学校の勉強をするでもなく、ただ胸の内のざわめきに突き動かされるように。先ほど感じた風の呼び声が、忘れられなかった。
普段なら家族と一緒に作業をしている時間帯だったが、今日は父も母も特に何も言わなかった。幹夫が縁側を出て行く姿に気づかなかったのかもしれないし、気づいていて黙認してくれたのかもしれない。茶畑の緑の海を進むほどに、周囲の音は静かになり、風の音だけが耳に残った。蝶々がひらひらと畝の上を飛んでいき、幹夫はそれを目で追った。気づけば、自分がどこまで来たのか、見当もつかなくなっていた。
いつもは見えるはずの家の屋根も、振り返っても見当たらない。周囲はどこを見ても背の低い茶の木が続くばかりで、目印になるような大きな木もない。幹夫ははっとして立ち止まった。辺りは静まり返り、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。軽いめまいのようなものを覚え、幹夫は額の汗を手の甲で拭った。
「落ち着け、落ち着くんだ。」幹夫は自分に言い聞かせた。慌てて走り回るのはよくないと頭ではわかっている。高い場所に登れば位置がわかるかもしれない。そう考えて、小高い丘のほうへ向かってみることにした。畝と畝の間を抜け、細い道をたどっていく。だが、焦る気持ちとは裏腹に、進めば進むほど見知らぬ景色が広がるばかりだった。
ふと、空模様が変わってきたことに気づいた。いつの間にか雲が広がり、太陽の光が陰っている。午後特有の山風が吹き下ろし、茶の葉がざわざわと騒ぎ始めた。幹夫は足を速めたが、不意に石につまずいて転んでしまった。膝に鋭い痛みが走り、思わずうめき声をあげる。恐る恐る裾をめくると、膝小僧がすりむけて血がにじんでいた。
幹夫はなんとか起き上がり、膝の土を払った。痛みと不安で胸がいっぱいになり、目尻に涙が浮かびそうになる。「こんなところで泣いちゃだめだ」自分に言い聞かせ、唇を噛みしめる。それでも、心細さは募るばかりだった。風はますます強く吹き、茶の木のざわめきが耳を満たす。まるで畑全体が何かを訴えているようにも感じられた。
第五章 不思議な老人
ふと、背後から穏やかな声が聞こえた。「坊や、大丈夫かい?」幹夫は驚いて振り返った。いつの間にそこに現れたのか、ひとりの老人が立っていた。灰色の作業着に身を包み、手には竹で編んだ笠を持っている。畑で作業をしている村の人だろうか。しかし、不思議なことにその顔には見覚えがなかった。
「あ、はい…」幹夫は尻もちをついたまま、戸惑いながら答えた。老人はにこやかな目を細めると、ゆっくりと幹夫に歩み寄った。「ケガをしたのかね。」老人の声には、不思議と心を落ち着ける響きがあった。幹夫は黙って膝を見せた。血が筋になって流れているのを見て、老人は腰に下げた巾着から布切れを取り出した。「少ししみるかもしれんが…」そう言うと、布切れに水を含ませて幹夫の膝を優しく拭った。
幹夫は「ありがとうございます」と小さな声で礼を言った。老人は「かまわんよ」と微笑み、傷口に布を当てたまましばらく押さえてくれた。痛みが少しひいてくると、幹夫の心にも余裕が戻ってきた。「こんなところで何をしていたんだ?」老人が優しく尋ねる。幹夫は言葉に詰まりながら、「家に戻る道がわからなくなって…」と正直に打ち明けた。
「ははあ、道に迷ったのか。」老人は納得したようにうなずいた。「どこの家の子だい?」幹夫は苗字を名乗り、自分の家がどのあたりか説明した。老人はしばし空を仰いで考えていたが、「なるほど、だいぶ来すぎたようじゃな」と呟いた。「すぐに案内してあげたいところだが、まぁ少し休んでいきなさい。焦って歩いてもよくない。」そう言って、老人は近くのあぜに腰を下ろした。
幹夫も促されるまま、草の上に座った。膝の痛みはまだ少しあったが、不思議と先ほどの不安は薄らいでいた。老人の横顔を盗み見る。日に焼けたしわだらけの顔だが、瞳は澄んでいてどこか若々しい。「しかしまあ、一人でこんなところまで来るとは大胆だな。」老人が感心したように言う。「何か探し物でもあったのかい?」その言葉に、幹夫の胸がどきりとした。
幹夫は答えに窮した。自分でも何を求めて歩いていたのか、はっきりとはわからなかったのだ。「その……特に何かってわけじゃ……」言葉を濁す幹夫に、老人は静かな笑みを浮かべていた。「そうか。まあ、ゆっくり考えてごらん。」老人はそれ以上問い詰めることもなく、そっと目を閉じて風に当たっている。
幹夫は老人の横で、吹き抜ける風にじっと耳を傾けた。茶の葉が触れ合い、さやさやと音を立てている。その音色に混じって、確かに何かが囁いているような気がした。「…風が、呼んだ気がしたんです。」幹夫はぽつりと漏らした。自分でも奇妙だと思ったが、一度言葉にしてしまうと不思議と恥ずかしさはなかった。老人は目を開け、ゆっくりと幹夫の顔を見た。
「風が呼んだ…か。なるほど。」老人は驚くでもなく、穏やかにうなずいた。「坊やは風の言葉がわかるのかい?」その問いに、幹夫は首を横に振った。「いえ、言葉なんて…ただ、そんな気がしただけです。」老人はふふっと小さく笑った。「それで十分さ。世の中にはな、耳をすましても何も聞こえない者もおる。だが、本当に大切な声というのは、耳ではなく心で聞くものじゃよ。」
幹夫には、老人の言葉の意味がすぐにはわからなかった。それでも不思議と、その言葉が胸にすとんと落ちる気がした。「心で…聞く?」幹夫は自分の胸に手を当ててみた。脈打つ鼓動がゆっくりと落ち着いていくのを感じる。老人は続けた。「わしら人間も自然の一部じゃ。風や土や草木と、本当は皆、繋がっとる。だから耳を澄ませば、そりゃあ声も聞こえるさ。」
老人の言葉を聞きながら、幹夫の胸には次々と問いが浮かんできた。「でも…」幹夫は口を開いた。「みんなが同じように風の声を聞けるわけじゃないですよね。僕は…家族とも友達とも、どこか違う気がして…」ぽつぽつと漏らした言葉に、老人は静かに耳を傾けている。「皆と違う…か。」老人は少し考えるように間を置いてから、口を開いた。「違っていて当たり前じゃよ。十人十色という言葉があるようにな。」
老人は周囲の茶の木に目をやった。「見てごらん。この茶の葉だって、一枚一枚形も大きさも違う。だけど、どれが欠けても美味いお茶にはならんのじゃよ。」幹夫も自分の掌に目を落とす。先ほど拾った桜の花びらが、もうしおれて色を失いかけていた。幹夫はそれを指先でつまみ、そっと風に放ってやった。花びらはくるりと宙を舞い、見えなくなった。
日が西に傾きかけていることに、幹夫はそこで気づいた。「帰らないと…」幹夫が呟くように言うと、老人はゆっくりと立ち上がった。「そうじゃな。そろそろ家の人も心配する頃合いじゃろう。」幹夫も慌てて立ち上がるが、膝に力を入れるとまだ少し痛む。「無理せずゆっくり行こう。ちょうどあそこの祠まで一緒に行こうか。」老人が指さす先を見ると、小高い丘の上に小さな神社の祠が見えた。
幹夫は老人と並んであぜ道を歩き出した。夕方の風は昼間よりも涼しく、汗ばんだ肌に心地よい。西の空は茜色に染まり、雲が金色の縁取りを帯びている。遠くからはカエルの合唱が聞こえ始め、一日の終わりが近いことを告げていた。二人はしばらく言葉も交わさず、周囲の音に耳を傾けながらゆっくりと丘を登っていった。
丘の上の小さな祠に着くと、そこには一本の古い桜の木が寄り添うように立っていた。日はほとんど沈みかけ、辺りは薄紫の夕闇に包まれている。それでも桜の花は幽かな光を帯びるように浮かび上がり、まるで宵闇に灯る幻のようだった。幹夫は息を飲んだ。昼間の光の中で見る桜とは違う、不思議な美しさがそこにあった。
老人は祠の前で手を合わせ、静かに頭を下げた。幹夫も見よう見まねで柏手を打ち、今日一日の無事を感謝する。その間にも空はすっかり藍色に染まり始め、桜の花がぽうっと宵闇に浮かぶ。「綺麗だ…」幹夫が思わず呟くと、老人は穏やかに笑った。「そうじゃろう。この桜は村でも古い木でな、年に一度、こうして夜に花を光らせるように咲くと言われとる。」
幹夫は老人の横顔を見上げた。「今日は…ありがとうございました。」心から礼を言う。老人はうなずき、「いいんじゃよ。さて、坊やの家は…ほら、あそこに灯りが幾つか見えるじゃろう」と遠く谷間を指さした。眼を凝らすと、確かにちらちらと家々の明かりが瞬いている。「あれが集落の方角じゃ。帰り道は分かるな?」幹夫は「はい」と頷いた。もう大丈夫だという安心感が湧いてくる。
「じゃあ、わしはここで失礼しようかの。」老人はゆっくりと立ち上がった。「気をつけて帰るんじゃぞ。」幹夫も立ち上がり、深々と頭を下げた。「本当にありがとうございました。」顔を上げると、老人は静かに微笑んでいた。その背後で、桜の花びらがひとひら、ふわりと舞っている。幹夫が瞬きをした刹那、老人の姿は桜の木の陰にすっと消えていた。
第六章 星空の対話
老人が去り、幹夫は一人祠に残された。夜空には無数の星がまたたき始め、辺りはすっかり静寂に包まれている。遠くで虫の声が細く響き、先ほどまで吹いていた風もいまは穏やかだ。幹夫は桜の木の下に腰を下ろし、空を見上げた。澄んだ夜気を胸いっぱいに吸い込むと、不思議と心が落ち着いていく。
頭上の桜の枝がそよと揺れ、花の香が微かに漂った。幹夫は今日一日の出来事を振り返った。朝の茶畑、家族の笑い声、風の呼び声、そして不思議な老人との出会い…。全てが不思議につながりあって、自分をここへ導いてくれたように思える。胸の中のもやもやは消えてはいない。だが、それを抱えたままでも自分はきっと大丈夫だ――そんな気がしていた。
「僕は…僕のままで、いいんだよね。」静かな声で、幹夫は自分に問いかけた。夜の闇にその言葉が消えていく。答えはない。ただ、さらさらという葉擦れの音が返ってくるだけだ。だが幹夫には、それがまるで「もちろんだとも」と言ってくれているように感じられた。家族の中で自分だけが違うかもしれない。けれどそれは、自分だけが持っている宝物なのかもしれない。
草むらのほうで、小さな気配がした。幹夫が目を凝らすと、一匹の狐が桜の木の陰からこちらをじっと見ていた。闇の中で光る瞳が、一瞬星明かりを反射してきらりと輝く。幹夫と狐の視線が合った。だが不思議と怖さはなかった。狐はゆっくりと頭を下げると、音も立てずに森のほうへ消えていった。まるで「おやすみ」と挨拶してくれたかのように。
幹夫はそっと立ち上がった。夜空には細い三日月がかかり、周囲を朧な光で照らしている。遠くに見える集落の灯りを頼りに、ゆっくりと坂を下り始めた。足元の小径は暗かったが、不思議と迷う気はしなかった。星空と風と大地――すべてが見守ってくれているような安心感があった。
第七章 夜明けの光
坂を下りきる頃、空はすっかり白み始めていた。東の空が薄桃色から黄金色へと移り変わり、やがて澄んだ朝の青が広がっていく。ふと顔を上げた幹夫の視界に、遥か遠くの空の下に聳える富士の姿が飛び込んできた。その山頂は朝日に染まり、白い残雪が光を受けて輝いている。幹夫は思わず足を止め、その雄大な光景に見入った。
「幹夫!」遠くから自分を呼ぶ声がして、幹夫ははっと現実に引き戻された。振り向くと、茶畑の向こうに人影が見える。父だった。父がこちらに向かって大股で歩いてくるのがわかった。幹夫は「父ちゃん!」と声を張り上げ、その声は朝もやの中に吸い込まれていった。
父は息を切らしながら駆け寄ると、幹夫の肩にがっしりと手を置いた。「どこをつき歩いとったんだ!」その声は厳しかったが、父の目に涙が浮かんでいるのを幹夫は見逃さなかった。幹夫は「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も頭を下げた。父はしばらく息を整えるように黙っていたが、やがて幹夫の頭に大きな手を置いてぐりぐりと撫でまわした。「無事でよかった…馬鹿野郎…」最後の言葉は震えていた。
二人の後ろでは、兄や姉たちもこちらへ走ってくるのが見えた。皆、口々に幹夫の名を呼んでいる。幹夫は父の胸に飛び込み、堪えていた涙をぼろぼろとこぼした。父の体温と土の匂いが鼻をくすぐり、懐かしさが胸に満ちる。「本当に…ごめんなさい…」幹夫は父の作業着を握りしめながら泣きじゃくった。父は何も言わず、ただ強く幹夫を抱きしめていた。
第八章 新しい朝
幹夫が家に戻ると、母や兄弟たちが心配そうに出迎えた。皆寝ずに待っていてくれたのだと知り、幹夫の胸は熱くなった。母は涙を浮かべながら幹夫を抱きしめ、兄弟たちも口々に安堵の声を上げた。「もう心配かけるなよ」と兄が軽く頭を小突き、皆が笑った。その笑い声に囲まれながら、幹夫は「ああ、自分は一人ではないのだ」としみじみ思った。
朝食の席で、母が改めて尋ねた。「一体どこにいたの?」幹夫は箸を握ったまま、少し考えてから答えた。「丘の上の小さな祠のところで…迷子になってたら、通りがかったお爺さんに助けてもらったんだ。」父と母は顔を見合わせた。「祠?」父が首をかしげる。「あそこら辺に人家はないはずだが…誰だろうな、そのお爺さんは。」兄が不思議そうに言った。幹夫は何も答えなかった。昨夜の出来事は、まるで遠い夢のように感じられていた。
それから数日後、茶畑では八十八夜の茶摘みが最盛期を迎えていた。幹夫は家族とともに畝の間にしゃがみ込み、次々と新芽を摘んでいく。青空の下、あの日と同じように茶葉の香りが漂い、風がそよそよと吹き渡っていた。幹夫の心は不思議と静かだった。指先に伝わる新芽の感触が心地よく、土から伝わるぬくもりを全身で感じる。
「夏も近づく八十八夜…」隣で姉が童謡『茶摘み』の一節を口ずさみ始めた。それに気づいた弟が面白がって声を合わせ、やがて家族全員で歌うように広がっていく。幹夫も小さな声でそれに続いた。茶畑に明るい歌声が響き渡り、新芽を揺らす風がそれに応えるかのように吹き抜けていく。
幹夫は空を見上げた。いつの間にか心にかかっていた靄は晴れ、透き通った風がまっすぐ胸に吹き込んでくる。「ありがとう。」幹夫は心の中でそっと呟いた。それが誰に対してなのか、自分でもよくわからなかった。ただ、あの日出会った老人や、狐や、夜の風や、そして今自分を支えてくれている家族――そのすべてに向けた感謝の言葉だった。風がふわりと吹き、幹夫の頬を撫でる。その風の中に、あの日聞いた子どもの笑い声がほんの微かに混じっているような気がした。幹夫は目を細め、もう一度そっと「ありがとう」と繰り返した。
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