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蕗の葉の声


第一章 フキの葉のささやき

朝靄(あさもや)の立ちこめる里山(さとやま)。幹夫(みきお)は小さな木戸を押し開け、祖母と二人で暮らす山裾(やますそ)の家を出ました。周りには昨夜の雨粒が残り、フキ(蕗)の大きな葉が露(つゆ)を受けて輝いています。葉先からぽとりぽとりと滴(しずく)が落ち、地面の苔(こけ)をしっとりと潤しています。

朝の空気はひんやりとしていて、耳を澄ますと遠くで鳥がさえずる声がします。近くの沢からは水がさらさらと流れる音。そして何より、辺りのフキの葉同士が触れ合って さわさわ… と優しい音を立てていました。その音はまるで内緒話をする妖精たちのささやきのように聞こえます。

幹夫は足を止め、そっと耳を傾けました。すると、風に揺れるフキの葉の陰から、かすかな声が聞こえた気がしました。「…おはよう…」誰かが挨拶をしたような、その微かな響きに、幹夫の心臓がどきりと高鳴ります。しかし周りには誰の姿もありません。あるのは朝日に透ける緑の葉と、静かに漂う白い靄ばかり。

「今、誰かいましたか?」幹夫はそばにいた古い楢(なら)の木に尋ねてみました。もちろん木は何も答えません。ただ、枝葉をそよがせて さらさら と鳴るばかり。まるで笑っているかのようにも感じられました。

不思議に思いながらも、幹夫は少しわくわくし始めました。祖母から昔聞いた言葉を思い出したのです。「森ではね、目に見えない生き物たちが歌ったりお話したりしているのよ。風や木々の声に耳を澄ませてごらん」 祖母はそう言って、いつも優しく微笑んでいました。

幹夫は輝くフキの葉を手でそっと撫でました。「おはよう」と小声で挨拶してみます。すると、葉についた露がひとしずく、ちょんと跳ねて手の甲に転がりました。まるで返事をするかのようでした。

家の方から縁側(えんがわ)を掃く箒(ほうき)の音が聞こえてきます。祖母が起きて家事を始めたようでした。幹夫は「ただいま戻ります」と森に小さくささやいてから、朝の支度を手伝うため一度家へと駆け戻りました。

こうして静かな里山の朝が始まりました。幹夫は胸の奥に小さな期待を抱きながら、今日という日がいつもと違う特別なものになる予感を感じていたのです。

第二章 風の子

朝の支度を終えた幹夫は、祖母からおにぎりをひとつ手渡されて裏山へと出かけました。日差しは次第に強くなり、空には絹のような白い雲がゆっくり流れています。谷間を吹き抜ける風が頬(ほお)に心地よく、フキの葉がまた ざわわ… と揺れていました。幹夫は森の小径(こみち)を辿りながら、朝のささやきの正体を確かめたいと思っていました。

ふと、足元から小さな渦巻きが起こり、落ち葉や枯れ草が宙にふわりと舞い上がりました。その渦はくるくると踊りながら幹夫の周りを回ります。次第に風が強まり、木々がざわめき、フキの葉が大きく揺れました。どっどど どどうど どどうど どどう… ——突然、耳に飛び込んできたのは不思議なリズムを刻む風の音。幹夫は驚いて立ち止まりました。

「やあ、やあ!」高く澄んだ声が風の中から響きました。幹夫が目を凝らすと、フキの葉陰から透き通るような小さな姿が現れます。まるで風そのものが少年の形をとったような、不思議な子どもでした。髪は白い雲で編んだよう、瞳は青空のように澄んでいます。衣服は木漏れ日の模様を映したかのように揺らめき、足元は見えないほど軽やかです。

「あなたは…誰?」幹夫が恐る恐る尋ねました。

すると、その子どもはくるりと宙で一回転して笑いました。

「ボクは風の子。ここらの森や野原を走り回っている、風の精さ!」そう言うと、風の子は幹夫の周りをまたひと回り、ふわりと飛び回りました。その度に幹夫の髪やシャツがはためき、草花が一斉に揺れてはざわめきます。

「今朝、お前が挨拶してくれたの?」幹夫が訊ねると、風の子はにっこり頷(うなず)きました。

「うん、おはようって言ったんだよ。君みたいにちゃんと聞いてくれる人は珍しいから、嬉しくなってね!」風の子は手を打って喜びます。幹夫もつられて笑いました。不思議な存在への驚きと、森で友達ができたような嬉しさが込み上げてきます。

「風の子さん、君はいつも森にいるの?」幹夫が訊くと、風の子は首を振りました。「ボクは森だけじゃなく、野原にも川辺にも、空の高いところにも行くよ。世界中を旅する風のひとかけらだからね。今は夏だから、南から暖かい風に乗ってここに来たんだ。春にはね、フキの白い綿毛の種をいっぱい運んであげたんだよ。ふわふわの綿毛が空を飛ぶのは楽しいんだ!」風の子はそう言って、小さな手で丸い輪を作り、吹く真似をしました。すると本当に暖かな風が吹き、周りの草花が気持ち良さそうに揺れました。

幹夫は思わず手を叩きました。「すごいや!風ってそんなふうに遠くまで旅してるんだね」――自分が普段感じている風に、こんな可愛らしい友達がいたなんて。幹夫の胸は喜びでいっぱいになりました。

「ねえ、もっといろんな風の話を聞かせて?」幹夫が言うと、風の子は「いいよ!」と答え、二人は並んで小径を歩き始めました。風の子が歩けば周りの草が道をあけ、蝶々(ちょうちょ)が風に押されてひらひら舞い上がります。歩きながら風の子は話してくれました。遠い海の上ではどんな風が吹いているか、高い山の峠では風が雲をどう運ぶか、春一番のいたずらや木枯らしの子守歌のこと……幹夫はその一つ一つに目を輝かせ、まるで冒険談を聞くように耳を傾けました。

やがて木立が開け、二人は丘の上の開けた草原に出ました。眼下には幹夫の暮らす集落と田畑が広がり、穂を揺らす稲の緑、その間を縫うように小川が銀色に光っています。風の子は大きく息を吸い込むと、「ふーーっ!」と前方に吹きかけました。すると風が草原を一直線に駆け抜け、稲穂(いなほ)や木々が一斉にざわめきました。遠くで驚いたように鳥たちが舞い上がります。

「ははは!」風の子が声をあげて笑います。「今のでみんなに挨拶できたよ。ボクがここにいるよって。」幹夫もつられて笑いました。「本当だ、みんな答えてるみたい!」

しばらく二人は草原で風と遊びました。幹夫が走れば風の子が追いかけ、追いつかれそうになると風が背中を押してくれます。草の上に寝転べば、風の子が木の葉を吹き集めて幹夫の上に降らせました。日差しで火照った頬に、優しい風が吹きつけるたび、幹夫は生き生きとして森と一つになったような気持ちになりました。

やがて日も傾きかけ、山の端が黄金色(こがねいろ)に染まってきました。風の子がふと耳を澄ませて「そろそろ行かなくちゃ」と呟きます。「どこか行くの?」幹夫が尋ねると、風の子は西の空を指差しました。「夕方にはあっちの町にも風を届けに行く約束なんだ。またきっと会おうね!」

名残惜しいけれど、幹夫は頷きました。「うん、今日はありがとう。」風の子はくるりと宙で舞い、最後に「またね!」と言うと、夕焼けに向かって一陣の風とともに飛び去りました。ひゅるる… と草が揺れ、あとには静かな夕暮れの気配が残るだけ。

幹夫は丘の上に立ち、去って行った風の子に向かって小さく手を振りました。頬にはまだ風の余韻が残っています。空には橙(だいだい)色の陽が傾き、薄紫の雲がたなびいていました。幹夫は今日一日の出来事が夢ではなかったことを心に刻みながら、そろそろ家に帰ろうと森の道を下り始めました。

第三章 苔の番人

次の日、幹夫は風の子との再会を期待しつつも、別の不思議を求めて森の奥へ足を延ばしました。昨日より雲が多く、林間は薄暗い緑の陰影に包まれています。湿った土の匂いが濃く、昨夜小雨が降ったのか、森の奥はひんやりとした空気に満ちていました。

沢沿いに進むと、苔むした大岩が姿を現しました。岩肌にはふかふかと厚みのある苔がびっしりと生え、一面が緑の絨毯(じゅうたん)のようです。幹夫は思わずその上に手を乗せました。柔らかな苔の感触に、心まで優しく包まれる気がします。

「おや、おや…」どこからか、しわがれた小さな声が聞こえました。幹夫が驚いて手を引っ込めると、岩の苔の上に豆粒ほどの老人が立っていました。髪や髭(ひげ)は白い綿毛のようで、体は苔の葉をまとった服に包まれています。背中は少し曲がっていますが、瞳は深い森の湖のように澄んでいました。

「あんまり踏まないでおくれよ。せっかくの苔の寝床が潰れてしまう。」豆粒老人——苔の番人が、小さな杖(つえ)をつきながら言いました。その声は小さいのに不思議とはっきりと幹夫の胸に届きます。

「ご、ごめんなさい!」幹夫は慌てて謝りました。「君が苔の番人さんですか?」そう尋ねると、老人はゆっくりと頷きました。

「左様(さよう)。わしはこの森の苔を守り、育てておる者じゃよ。」

幹夫は苔の柔らかな絨毯に膝をつき、小さな番人の目線に顔を寄せました。「苔の番人さん、苔って不思議だね。こんな岩の上でも生きている。」幹夫が感心して言うと、番人は「うむ」と誇らしげに胸を張りました。「苔はな、土がなくとも岩の上でもどこでも根づくことができる。不思議な植物じゃろう。遥か昔、他の草木がまだ海の中にいた頃、最初に陸に上がったのが苔の仲間なのじゃよ。言うなれば、苔は地上の生命を育んできた古(いにしえ)からの母なる植物というわけじゃ。」

「へえ…!」幹夫は目を見開きました。そんな小さな苔が、実はこの大地の先駆けだったとは知りませんでした。

苔の番人は幹夫にさらに語ります。「苔にはの、根っこと呼べるものがない。だから水も養分も、体全体で空気や雨から直接もらうんじゃ。土がなくても平気なわけじゃな。それに苔は乾燥にも強くてな、カラカラに乾いてもしぶとく生き延び、雨が降れば息を吹き返す。ゆえに何百年でも生き続けることもある。歳月など、苔にとってはさして問題ではないわい。」

幹夫は苔の絨毯にそっと指を滑らせました。確かに、触れるとほんの少し湿り気を感じます。「この苔は、雨上がりで嬉しそうですね。」

番人はニコリと笑いました。

「ああ、雨は恵みじゃとも。苔はたっぷり水を含んで蓄え、少しずつ地面に染み渡らせる。そうやって森全体が喉を潤し、土砂が流れるのも防いでおる。苔の絨毯があるおかげで、この森はしっとり落ち着いておるのじゃよ。さらには、苔の下では小さな虫や微生物たちがせっせと働いて土を作っておる。朽ちた葉っぱや倒れた木も、苔とともにゆっくり土に還っていく…。森の命はそうして巡っておるのじゃ。」

幹夫はその話を聞きながら、苔の絨毯の中をじっと覗き込みました。肉眼ではわからないけれど、その下では沢山の小さな命が動いているのでしょう。頭の中に、小人たちが土をこねたり小さなスコップで穴を掘ったりしている光景が浮かんできます。

「苔の番人さん。この森の土は苔が作ってるんだね」幹夫が言うと、番人は「うむ、わしら苔と菌(きのこ)や虫たちとな、一緒になって豊かな土をこしらえておるのじゃよ。だから森はいつまでも新しい芽を育てられるというわけじゃ。」と誇らしげです。

幹夫は苔の緑に目を落としました。ふかふかの苔の上には、小さな茶色い胞子(ほうし)のうがいくつも顔を出しています。それは苔の赤ん坊たちが、新たな地へ広がろうと準備している証です。「この苔たちも、風の子さんに運んでもらって遠くへ行くのかな?」幹夫が尋ねると、苔の番人は小さく笑いました。「かもしれんな。苔の胞子はの、風に乗って旅をすることもある。だが苔自身は歩けぬぶん、じっと時を待つのじゃ。芽吹くのに良いときをな。」

苔の番人はコホンと咳払いをしました。「さて、わしは巡回の途中じゃで、そろそろ行かねばならん。この森中の苔たちの様子を見て回らねばならんでな。」幹夫は名残惜しく思い、「今日は教えてくれてありがとう、苔の番人さん」と丁寧に頭を下げました。番人はうなずき、「お前さんのように苔を大事にしてくれる子がいて嬉しいよ。苔を踏むときは優しくな。」と目を細めて笑いました。

気づくと、苔の番人の姿はふっと苔むした岩の上から消えていました。代わりに小さな緑色の虫が一匹、苔の上をゆっくり横切っていきます。幹夫はまるで先程までの出来事が夢だったかのように感じながらも、掌(てのひら)に残る苔の柔らかさから、それが確かな現実であったことを噛みしめました。

森を出る頃には空は夕暮れ色に染まりかけていました。今日も貴重な出会いがあった、と幹夫の胸は暖かな感謝で満たされます。苔の番人に教わった森の仕組みを思い返しながら、幹夫は静かに家路につきました。

第四章 夜光の蝶

その夜。幹夫は床についたものの、昼間の興奮でなかなか眠れませんでした。風の子や苔の番人のことを思い出すと胸が高鳴り、瞼(まぶた)を閉じても森の情景が浮かんできます。外を見ると、窓の向こうに満天(まんてん)の星が瞬いていました。月のない夜で、天の川が白く帯のようにかかっています。「こんな綺麗な夜、外に出てみたいな…」幹夫はそっと布団を抜け出しました。

家の戸口を静かに開けると、ひんやりとした夜気とともに、草むらから虫たちの合唱が聞こえてきます。森の方へ目を凝らすと、闇の中で緑がかった小さな光がふわり、と舞いました。一つ、また一つ…ホタルでしょうか。幹夫は惹きつけられるように足を踏み出しました。

里山の小径は夜露(よつゆ)でしっとりと濡れ、草いきれの匂いが漂います。足元でカサカサと落ち葉が音を立て、遠くでフクロウがホーホーと低く鳴きました。そんな闇夜の静けさの中、ふと幹夫の目前に ふわり… と大きな光の蝶が現れたのです。

その蝶は手のひらほどの大きさで、羽は淡い翡翠色(ひすいいろ)に輝き、縁にかけて星明かりを映す銀の模様がきらめいています。羽ばたくたびに、静かに鈴が鳴るような音が周囲に広がりました。幹夫は思わず息を呑みました。「夜光の蝶…!」以前祖母から聞いたことのある、不思議な蝶の伝説を思い出します。夜の闇に現れ、星の光を纏(まと)って飛ぶ蝶——目の前の光景はまさしくおとぎ話そのものでした。

夜光の蝶はゆっくりと円を描くように幹夫の周りを舞いました。その光がちらちらと幹夫の顔や手を撫で、まるで誘うように森の奥へ飛んでいきます。幹夫は夢心地でその蝶を追いました。暗闇の中でも蝶の放つ淡い光が道しるべとなり、幹夫の足元を照らしてくれます。

やがて木々の切れ目に出ました。そこは小高い丘の上で、周りを低い草原に囲まれています。昼間に風の子と遊んだ草原とも少し違う、別の場所のようです。夜光の蝶は幹夫の肩にふわりと留まりました。翡翠色の光が肩越しに揺らめき、幹夫の頬を柔らかく照らします。

「上を見てごらん。」——耳元で誰かが囁いた気がして、幹夫はそっと顔を上げました。そこには、眩いばかりの夜空が広がっていました。先ほど家の窓から見えたよりも、ずっと多くの星々が煌(きら)めいています。天の川は天空を横切るように白くぼんやりと光り、その流れに沿って無数の星粒がきらめいていました。

幹夫の胸は感動でいっぱいになりました。「なんて綺麗なんだ…!」夜光の蝶が一声、小さく鈴を振るような音を立てます。幹夫にはそれが「そうだろう?」と返事をしているように感じられました。

ふと幹夫は祖母の言葉を思い出しました。「天の川っていうのはね、実は空にある無数(むすう)の星が集まったものなんだよ。あそこに見える淡い帯の中に、何億という星が輝いているんだってね」 祖母は夜空を指さしてそう教えてくれたことがありました。今、幹夫の目の前に広がる光の川は、まさしくその言葉の通りでした。自分が住む地球も、あの川を作る星々のひとつなのだと考えると、幹夫は頭がくらくらするような不思議な感覚を覚えます。

空の低いところでは、さそり座の赤い星が静かに瞬いているのが見えました。その赤は他の星とは違ってどこか温かみがあり、幹夫は思わず指さしました。「あの星、燃えてるみたいに赤い…」すると肩の蝶がひらりと舞い上がり、幹夫の前でゆらゆらと踊りながら、夜の静寂に溶け入るような声で囁きました。「あれはアンタレス。年老いた星が最後に燃える、命の火なの。」

幹夫は星空に向かってそっと手を伸ばしました。届きそうで届かない無限の光の粒たち。しかし確かにその光は幹夫の瞳に降り注ぎ、心に語りかけてきます。夜光の蝶もまた幹夫の周りを舞いながら、星々の物語を紡ぐように羽を震わせています。

さらさらと銀の河原(かわら)を光が流れ幾億(いくおく)の星が瞬く砂粒(すなつぶ)夜風にのって光の蝶が舞うひらひら きらきら 森も草原も眠りの中

幹夫の耳には、そんな詩が聞こえたような気がしました。それは夜光の蝶が歌った子守唄(こもりうた)だったのかもしれません。星々と蝶に囲まれていると、森も草も皆眠りについているはずなのに、世界全体が生きて呼吸しているように感じられます。

どれほどそうして佇んでいたでしょう。ふいに夜光の蝶が幹夫の眼前で大きく羽ばたきました。翡翠の光が強まったかと思うと、蝶の姿はふっと闇夜に溶けるように消えていきました。残された幹夫は、満点の星空の下、一人静かに立っています。しかし、その肩には確かな温もりが残っていました。まるで蝶がしばし留まっていた印(しるし)のように。

「ありがとう…」幹夫は消えてしまった蝶に向かって小さく囁きました。そしてもう一度空を仰ぎます。夜空の星々は変わらず瞬き続け、幹夫を見守っているようでした。やがて幹夫はゆっくりと森を下り、家へと戻りました。布団に入った彼の目には、いつまでも星の残像が瞬いていました。その光のひとつひとつが、優しい言葉で語りかけてくれるような気がしながら、幹夫は静かな眠りに落ちていきました。

第五章 祖母の知恵

翌朝、明るい日差しとともに幹夫は目を覚ましました。昨夜の星空の余韻がまだ胸に残っています。表に出ると、澄んだ空気の中で山々がくっきりと見えました。庭先では祖母が朝顔に水をやっています。

「あら、おはよう。よく眠れたかい?」祖母がほほ笑みかけました。幹夫は「うん!」と元気よく頷きましたが、頭の中には昨晩の不思議な出来事が渦巻いていました。風の子、苔の番人、夜光の蝶…。すべて夢ではないかと、自分の腕をつねってみたほどです。

朝食の後、幹夫は祖母の隣で縁側に座っていました。打ち明けたい思いがありながら、どこから話せばよいのか迷っていたその時、祖母がぽつりと言いました。「ねえ幹夫、昨日あたり森で何かあったんじゃないかい?」幹夫は驚いて祖母を見上げました。祖母は微笑んで、「あんたの顔を見ればわかるよ。何か大事なことがあったんだね」と続けます。

幹夫は意を決して、これまでの出会いを祖母に話しました。朝に聞こえたフキの葉のささやき、風の子と草原を駆け回ったこと、苔の番人に苔の秘密を教わったこと、そして昨夜の夜光の蝶と満天の星。祖母は静かに相槌(あいづち)を打ちながら、その一つ一つを穏やかに聞いていました。

話し終えると、祖母は嬉しそうに目を細めました。「そうかい、幹夫は森の精たちに会ったんだねえ。」その言葉に、幹夫の胸の中の迷いはすっと消え去りました。祖母は信じてくれたのです。

縁側には爽やかな風が吹き抜け、庭のフキの葉が揺れています。祖母はゆっくりと続けました。「幹夫、森で感じただろう? 自然というのはね、ただ静かにそこにあるようでいて、実はお互いに支え合いながら生きているんだよ。木も草も風も土も水も、人間もね。」

幹夫はうなずきました。「うん。風の子も苔の番人さんも、みんな繋がって助け合ってた。」

「そうさ。」祖母は温かい声で言いました。「雨が降れば草木が潤うし、水はまた川から海へ流れて、やがて蒸(じょう)気になって空に戻っていく。そうやって巡り巡って、水も命も循環しているんだ。森の木々も、倒れて朽ちれば土に還(かえ)り、その土がまた新しい芽を育てる。命は形を変えながら続いていくんだよ。」

幹夫ははっとしました。苔の番人も同じようなことを言っていたのを思い出したのです。「朽ちた葉っぱや木も土に還るって苔の番人さんが…。」

祖母は頷いて、「そうとも。朽ちたものは無駄にならない。この森では、何一つ捨てられる命なんてないんだよ。全部が次に繋がる大事な役目を持っている。」と優しく語りました。

幹夫は庭の大きなフキの葉を見つめました。そこには小さなテントウ虫が止まって羽を休めています。雨粒が溜まった葉の窪みに、テントウ虫が口を近づけて水を飲んでいました。「本当だ…」幹夫は呟きました。「森の中ではみんな助け合って生きているんだね。」

祖母は幹夫の頭にそっと手を置きました。「そして森はいつだって私たち人間にもたくさんの恵みをくれている。木の実や山菜、美味しい水やきれいな空気…自然があるから私たちも生きていけるんだよ。」

幹夫は胸がじんと熱くなるのを感じました。「ぼく、もっと森のみんなと仲良くなりたい。もっとお話を聞きたいな。」

祖母は微笑んで、「きっとまた会えるさ。幹夫が森を愛している限り、森も幹夫の友達でいてくれるよ。」と言いました。

その日の午後、幹夫は祖母と一緒に裏山の神社まで散歩に出かけました。夏の日差しの中、田んぼの横のあぜ道には赤とんぼが飛び交い、蝉(せみ)しぐれが降り注いでいます。二人はゆっくりと歩きながら、四方山話(よもやまばなし)をしました。祖母も幼い頃、森で不思議な体験をしたことがあると教えてくれました。夜、山道でホタルに導かれて迷わず帰れたことや、大きな栗の木から声をかけられた気がして立ち止まったら落雷を免れたことなど——「今思えば森の精が守ってくれたんだねえ」と祖母は笑いました。

幹夫は「僕も森に何か恩返ししたいな」とつぶやきました。祖母は「そうだねえ」と空を仰ぎ、「恩返しというのはね、特別なことをするんじゃなく、自然を大事に思う気持ちを忘れないことさ。それが一番なんだよ」と教えてくれました。

幹夫は「うん」と力強く頷きました。青い夏空には入道雲が湧き、山並みにゆっくりと影を落としていました。フキの葉を渡る風が心地よく、幹夫は森や空やすべてに向かって静かに感謝を送りました。

第六章 嵐の夜

それから数日が過ぎ、夏の終わりの気配が近づいてきました。ある日の夕方、空一面に鉛色(なまりいろ)の雲が広がり、不気味な静けさが里山を包みました。蒸し暑い空気の中、遠くで雷鳴が低く唸ります。祖母が戸締りをしながら言いました。「嵐になりそうだよ。今夜は外に出ないでおこうね。」幹夫も縁側の植木鉢を軒下に避難させるのを手伝いながら、嫌な胸騒ぎを感じていました。

夜になると風が唸(うな)り始め、雨がぽつぽつ降り出しました。幹夫は布団に入っていましたが、とても寝付けません。窓の外で木々がざわめき、家の軋(きし)む音さえ聞こえてきます。やがて雨脚は激しさを増し、ざああああ…! という土砂降りの音が屋根を叩きました。風も一層強くなり、ごおごお と獣のように唸りを上げています。時折、稲妻が空を真昼のように照らし、続いて ゴロゴロゴロ…ドーン! と大地を揺らす雷鳴が轟(とどろ)きました。

幹夫は布団の中で震えていました。それは恐怖だけではなく、森への心配で胸が締め付けられていたのです。風の子や苔の番人、夜光の蝶たちは無事だろうか? 外で木々や草花は苦しんでいないだろうか? 耳を塞(ふさ)いでも、風の音がまるで森の悲鳴のように聞こえてきます。

「森が呼んでいる…」幹夫はいても立ってもいられなくなりました。意を決して布団から飛び起きると、雨合羽(あまがっぱ)を羽織り、玄関へと向かいます。その時、台所で起きていた祖母と鉢合わせになりました。祖母は心配そうな顔で幹夫を見つめます。「…行くのかい?」幹夫の決意を察したのでしょう、その声には叱るような調子はありませんでした。幹夫は静かに頷きました。「森のみんなが心配なんだ。」祖母はしばらく黙って幹夫を見つめていましたが、「無理はしないでね。気をつけて。」と優しく言いました。

そして軒先に吊るしてあった大きなフキの葉を一枚、幹夫に手渡しました。

「これを傘にお行き。蕗の葉は雨を集めて根元に流すからね、きっと君を守ってくれるよ。」

祖母は微笑みました。

幹夫はフキの葉をしっかりと握りしめました。葉は既に雨を受けて濡れていましたが、大きくて頑丈そうです。幹夫は深く頷き、「行ってきます!」と祖母に叫ぶように伝えると、横殴りの雨の中へ駆け出しました。

外はまさに嵐の真っ只中でした。闇の中で吹き荒れる風が容赦なく幹夫に襲いかかります。先ほど渡されたフキの葉を頭上に掲げると、葉は皿のように雨を受けて幹夫の顔を守ってくれました。幹夫は顔をしかめつつも、なんとか森への道を進んでいきます。

「風の子! 苔の番人さん! 聞こえますか!」嵐の轟音の中、幹夫は大声で呼びかけました。しかし風の唸りと雨の音にかき消され、返事は聞こえません。ただ、風の中にかすかに誰かの声が混じっている気がしました。それは泣いているようにも、叫んでいるようにも聞こえます。幹夫は必死でその声の方へ歩みを進めました。

激流と化した小川が道を横切り、靴が水に浸かります。足を取られて幹夫は転びそうになりましたが、すぐ傍の木の根につかまって踏みとどまりました。稲妻が幹夫の背後の森を白く照らし出します。一瞬の光の中で、見慣れた大木がぐらりと揺れ、轟音とともに倒れるのが見えました。幹夫は息を飲みました。大地に伝わる振動。土の匂い。倒れたのは祖母が「森の長老」と呼んでいた杉の古木です。

「ああ…!」幹夫の心に悲しみが広がります。しかし立ち止まってはいられません。幹夫は雨に濡れた顔を上げ、再び前へ進みました。先程大木が倒れた辺りに近づくと、突然足元がずるっと滑りました。土砂が崩れ、小さな斜面が崩壊して生まれた泥の流れに幹夫は足を取られてしまったのです。「うわっ!」幹夫の体が斜面から滑り落ち、泥と一緒に宙に投げ出されました。

その瞬間、強い風が幹夫を背中から受け止めるように吹きつけました。まるで誰かが抱きとめてくれたような不思議な感触。そのおかげで幹夫は勢いを少し殺され、泥の海にどさりと落ちました。身体は汚れましたが、大きな怪我はないようです。幹夫が顔を上げると、横倒しになった杉の幹の上で、小さな光が瞬いているのが見えました。緑がかった翡翠色——夜光の蝶です! 激しい雨の中、あの蝶が震える羽で光を発していました。

「大丈夫!」幹夫は泥を払い立ち上がりました。蝶の光に照らされて、すぐ傍に苔むした岩が見えます。先日苔の番人と出会った岩です。ところが、岩の上の苔は激しい雨で剥がれ落ちかけ、茶色い地肌が露出していました。幹夫は走り寄り、フキの葉の傘をそっと岩の苔にかざしました。冷たい雨が容赦なく幹夫の背中を叩きます。しかし幹夫は歯を食いしばりながら、必死に大きな葉で苔を守ろうとしました。

「森のみんな…頑張って…!」幹夫の瞳からぽろぽろと涙がこぼれました。それが雨なのか涙なのか、自分でもわかりません。ただ夢中で葉を支え、目の前の小さな苔の緑に語りかけます。「大丈夫だよ、もう少しの辛抱だよ…!」すると、その苔の緑の中から微かに光が灯りました。豆粒ほどの人影が立ち上がり、幹夫に向かって小さく頷いたのです。苔の番人でした。嵐の中、番人は必死に苔の塊を押さえながら、震える手で幹夫に敬礼してみせました。その顔にははっきりと「礼」を示す笑みが浮かんでいます。

その瞬間、幹夫の背後で突風が巻き起こりました。「もういいよ、幹夫!」と澄んだ声が叫びます。振り向くと、風の子が嵐の中に現れていました。風の子は必死に手を伸ばし、幹夫を指さしています。「早く、安全な所に!」幹夫も限界でした。大きく頷き、苔の番人に向かって「また後で!」と叫ぶと、近くのしっかりと根を張った樫(かし)の木の陰へ避難しました。風の子は幹夫の周囲を渦巻き、まるで壁のように雨風を防いでくれています。

激しい嵐はそれからしばらく続きました。幹夫は樫の木の根元に身体を丸め、風の子が作ってくれた一時の静穏(せいおん)の中でじっと耐えました。意識が朦朧(もうろう)とする中、彼は祈るような気持ちで夜空を仰ぎました。雲の切れ間から、一瞬だけ星が瞬いた気がしました。あの夜光の蝶が導いてくれた星々です。「どうか、みんなをお守りください…」心の中でそう唱えたとき、遠くで雷鳴が一つとどろき、それを最後に嘘のように風雨が衰えていきました。

やがて嵐の息が静まり、雨音もポツリ、ポツリと小さくなっていきます。東の空がほのかに白み始め、夜が明けようとしていました。風の子が「終わったよ」と囁き、幹夫の頬をそっと撫でます。幹夫が顔を上げると、雨雲の切れ間から一筋の朝日が差し込み、森の蒸気が金色に輝き始めていました。

第七章 朝の光

夜明けとともに、嵐は嘘のように去っていきました。降り続いた雨の雫が森全体から一斉に滴り落ち、朝日に照らされてキラキラと輝いています。里山には霧が立ちこめ、その合間から黄金色の光の帯が射し込みました。空には大きな虹が弧を描いています。

泥と雨でずぶ濡れになった幹夫は、ゆっくりと森の中を歩き出しました。嵐の爪痕は生々しく、あちこちに折れた枝や倒れた木が散乱しています。昨夜倒れた杉の古木——祖母の言う「森の長老」——は、根を天空にさらし横たわっていました。幹夫はそっとその幹に触れました。長老の杉は何十年、何百年とこの森を見守ってきたことでしょう。その肌に手を当てると、不思議と温かく感じられました。

「ありがとうございました…」幹夫は木に向かって呟きました。すると、風がさっと吹いてフキの葉が一斉に揺れました。さらさら、ざわざわ… ——それはまるで木が「どういたしまして」と答えているようでした。

ふと、昨夜苔の番人と別れた岩を見やると、苔の様子が気になりました。駆け寄ってみると、苔の一部は剥がれ落ちていましたが、残った部分は朝日の下でしっかりと岩に張り付いています。小さな緑の葉先には雫がいっぱいついて、まるで宝石の粒のようです。「苔さん、よかった…」幹夫は胸を撫で下ろしました。その時、苔の上に小さな虹色の光が現れました。豆粒大の苔の番人です。番人は幹夫に向かってにっこり頷き、岩の上に腰を下ろしました。疲れた様子ですが、その表情には安堵(あんど)が浮かんでいます。

「生き残ったんだね、苔の番人さん。」幹夫が囁くと、番人は静かに目を閉じました。その姿は朝日に溶けるように見えなくなりましたが、幹夫には苔全体がふっと明るく輝いたように感じられました。

そのとき、背後から「幹夫!」と祖母の声がしました。振り返ると、祖母が山道をこちらに歩いてきます。幹夫は駆け寄り、「おばあちゃん!」と叫びました。祖母は幹夫の泥だらけの姿を見ると、ほっとしたように笑って「無事でよかった」とつぶやき、ぎゅっと抱きしめてくれました。濡れた体ごと包み込まれる祖母の温もりに、幹夫の目から涙が溢れました。

祖母と一緒に家に戻る途中、幹夫は昨夜森で見たことを話しました。嵐の中で風の子や苔の番人、夜光の蝶が助けてくれたこと、森の長老の木が倒れて悲しかったこと。でも、今朝その木にお礼を言ったら森が応えてくれた気がしたこと——祖母は静かに頷きながら、幹夫の話に耳を傾けました。

家に着くころには朝日は高く昇り、雲間から青空が広がっていました。祖母は囲炉裏(いろり)に火を入れ、幹夫に乾いた服と温かいお茶を用意してくれました。ほっと一息ついたところで、祖母がゆっくりと話し始めました。「森の木も草も、風も水も、みんな命があって繋がっている…。昨日あなたが見たことは、全部本当のことだよ。あなたが自然を想う優しい心を持っていたから、森の精たちも力を貸してくれたんだね。」

幹夫は湯飲みを両手で包みながら、しみじみと頷きました。「ぼく、森のみんなに守られてる気がしたよ。風の子が守ってくれて、苔の番人さんもいて、蝶も光をくれて…。ぼくも何かお返しがしたい。」

祖母はニコニコと笑いました。「その気持ちが何より大切なんだよ。森はね、人間が何か特別なことをしなくても、いつも私たちにたくさん与えてくれているんだ。ただ森を大切に思う気持ちを持って、生きていくこと。それが一番の恩返しになるのさ。」

祖母は縁側から外の庭を指さしました。昨夜の雨で畑の野菜は皆生き生きとして葉を輝かせています。「見てごらん。雨が降って、水は川から海へ流れて、また蒸(じょう)気になって空に戻っていく。命もそれと同じように巡り巡っているんだよ。森の長老の杉の木も、きっとまた新しい命として森に帰ってくる。朽ちた木は土に還り、土は芽を育み、やがて新しい木が伸びていく。この里山も、そうしてずっと生き続けてきたんだ。」 幹夫は祖母の言葉を聞きながら、昨日倒れた大杉の跡地を思い浮かべました。あの場所にも、いつかまた若い苗木が根を張る日が来るのでしょう。

「おばあちゃん、ぼく大きくなったら森を守る人になりたい。」幹夫は真っ直ぐな眼差しで祖母を見つめて言いました。祖母は驚いたように目を瞬(しばた)たきましたが、すぐに優しい顔になって「それは素敵だねえ」と頷きました。

「きっと森の精たちも喜ぶよ。幹夫なら立派な森の守り人になれるさ。」

その日の午後、幹夫は祖母と連れ立って森へ向かいました。嵐で倒れた木々の様子を見るためです。二人で歩く山道には、ところどころ小枝や葉っぱが散乱していましたが、空は澄み渡り鳥たちがさえずり始めていました。

昨夜倒れた杉の古木の前で立ち止まると、祖母は手を合わせて静かに祈りました。「長い間ありがとう。この森であなたの子供たちがまた育つでしょう。」幹夫も隣でそっと目を閉じ、同じように祈りました。その時、どこからか風が吹き、足元のフキの葉がさわりと鳴りました。幹夫は目を開けて葉を見つめました。朝日を受けた蕗の葉は明るい緑色で、まるで命の光を宿しているようです。葉の陰から、小さな風の子が顔を出してこちらを見ていました。苔の番人も岩の上から帽子を振っています。夜光の蝶が木洩れ日の中をひらりと舞いました。

幹夫は静かに笑みを浮かべました。祖母にはそれらの姿は見えなかったかもしれませんが、幹夫にははっきりと感じられます。森のみんなはこれからもずっと自分と共にある——そう思うと、心が暖かさで満ちていきました。

家へ帰る帰り道、幹夫は風に揺れるフキの葉の音に耳を澄ませました。それは初夏のあの日、自分をこの不思議な冒険へ誘ったささやきの音です。さわさわ…さらさら… 森が歌う子守唄のように、その音は優しく幹夫の胸に響きました。幹夫はそっと目を閉じ、その音に静かに答えました。「うん。僕は忘れないよ。ありがとう。」

こうして、里山の森と幹夫との新しい日々が始まったのです。自然とのつながりと命の循環を胸に刻みながら、幹夫はこれからも大地と共に成長していくことでしょう。

 
 
 

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