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『凍土の喉』

以下は小説です。


三月二日 午前九時十二分 丸の内

案件番号はP-317/RUS。あとで私は、その四文字を何度も夢に見ることになる。

その朝、東明銀行プライベートバンキング部の五十嵐俊は、濡れたコートのまま私の会議室に入ってきた。三十九階の窓からは皇居の木が見えたが、男の顔はそれどころではなかった。机に置かれた革の封筒から、GIAの鑑定書コピー、売買条件書、送金依頼書、英語の来歴説明が滑り出た。

「先生、意見書が欲しいんです。黒を白にしてくれとは言いません。せめて灰色で」

私は資料をめくりながら言った。「灰色に印鑑を押すのが弁護士の仕事だと思っているなら、依頼先を間違えています」

五十嵐は笑わなかった。「顧客は榊原修司さんです。ご存じでしょう。海運とリサイクルの榊原グループの創業者。七十手前。今回の対象は、ロシア産ピンクダイヤ、三・一七カラット、Fancy Vivid Pink、無処理、GIA付き。価格は四億八千六百万円。送金先はドバイのFZE。ですが、うちのコンプライアンスが止めました」

止める理由は、私が最後まで読み切る前から分かった。石そのものではない。来歴が汚れていた。

ヤクーツク産と記された原石。二〇二二年にアントワープ経由の加工。二〇二三年にドバイのシェル会社へ移転。その間の十一か月だけ、所有者が空白。空白のある高額資産は、だいたい人間関係も空白では済まない。

「榊原さんは何のためにこれを?」私が聞くと、五十嵐は声を落とした。

「本人は“相続の調整”と言っています。奥さまに悟られない形で持ちたいと」

それで十分だった。銀行が嫌がるのは金額ではない。隠したい理由だ。

三月三日 午後六時四十分 虎ノ門・榊原事務所

榊原修司は、テレビで見るより小さかった。人間は金を持つと大きく見えるが、追い詰められると急に骨の輪郭が出る。

濃紺のスーツに、爪だけが妙に綺麗だった。長く金に触ってきた男の手だと思った。

「銀行が騒ぎすぎだ」ソファに深く座ったまま、彼は言った。「現金は説明がうるさい。株は値動きがある。不動産は重い。その点、石は小さい。黙っていてくれる」

「黙っていてほしい相手は、銀行ですか。税務署ですか。奥さまですか」

榊原の頬がぴくりと動いた。その一瞬で、だいたい分かった。

「弁護士先生、説教は要らん。法的に買えるのか買えないのか、それだけ教えてくれ」

私は鑑定書を机に置いた。「買えるかどうかは、石の色では決まりません。所有者の履歴と資金の流れで決まります。この書類では足りない」

榊原は鼻で笑った。「足りないなら足せばいい。そういう仕事だろう」

その言い方が嫌だった。法律を盾ではなく、洗剤だと思っている人間の言い方だった。

会議が終わる直前、ドアが開いた。入ってきたのは榊原の長男、広平。四十二歳。グループのCFO。目の下に濃い隈があった。

「父さん、もうやめてくれ」私の前で、彼は父親に敬語を使わなかった。「メインバンクが借入条件を見直し始めてる。こんな時に四億八千万の石なんて、頭がおかしい」

榊原は椅子から半分立ち上がり、息子の胸倉をつかんだ。「会社は俺が作った。俺の金を何に使おうが勝手だ」

「会社の金なら、俺の首も飛ぶんだよ」

その瞬間、私はこの案件が宝石売買ではなく、親子の延命治療だと理解した。死にかけているのは会社か、家族か、その両方だった。

三月五日 午後三時二十分 東明銀行・コンプライアンス室

銀行のコンプライアンス室は、どこも似ている。窓がない。乾燥している。紙だけがよく滑る。

責任者の三田玲は、私より少し若い女だった。髪を後ろで固くまとめ、説明の時だけ眼鏡を外した。

「顧客担当は“優良顧客を逃がしたくない”と言いますが、こちらの判断は変わりません」彼女は資料の一枚を私に回した。「売主側の実質的支配者に、ロシアの通商代表部関係者の親族が出ています。正式な制裁対象かどうかだけの話ではありません。銀行として触りたくないんです」

「送金は?」「保留です。すでに一部の説明も食い違っています」

彼女はそこで声を低くした。「先生、榊原さんの秘書が、送金の組み方を変えれば通るかと何度も聞いてきました」

私は何も言わなかった。三田は軽く肩をすくめた。

「石の色は綺麗でも、やり口はいつも同じです」

その部屋を出る時、私は自分が依頼人のために働いているのか、依頼人から距離を測っているのか分からなくなっていた。

三月七日 午後八時五分 赤坂のホテルラウンジ

榊原の妻、朋子は一人で来た。黒のワンピースに細い真珠。笑わない女だった。

「夫を止めてください」席に着くなり、彼女はそう言った。「若い女に渡すつもりです」

私は黙っていた。黙ると、人は勝手に喋る。

「相手はロシア人です。通訳をしていた女。娘がいる」朋子は水だけ飲んで続けた。「うちの息子は会社を守りたい。私は遺産を守りたい。夫は見栄を守りたい。その女は娘の将来を守りたい。守りたいものが四つあるのに、石は一個しかない」

その言い方に、私は少しだけ背筋が寒くなった。彼女は嫉妬しているのではなかった。配分の話をしていた。

別れ際、朋子は言った。「先生、夫の味方をするのは自由です。でも、銀行と警察は愛人契約では動きませんよ」

三月九日 午前十一時四十分 霞が関

外務省から電話が来た時、私はいたずらだと思った。だが、指定された部屋に行くと、本当に外務省欧州局の名刺を持つ男がいた。

中村健介。四十代半ば。色のないネクタイ。色のない声。省内の会議室には、紙コップのコーヒーの匂いだけがあった。

「榊原案件で動かれている真木先生ですね」彼はファイルも出さずに言った。「これは正式な要請ではありません。記録にも残しません。ただ、在京ロシア大使館から、ある宝石の所有関係について非公式の照会が来ています」

私は顔を上げた。

「ダイヤですか」「ピンクダイヤです。もともとの保有名義に、セルゲイ・ロバノフという人物が関わっている。ドバイの通商ルートにいた人間です。昨年死去。その未亡人と親族間で揉めている。一方で、この石を扱った日本人ブローカーが先月モスクワで一時拘束されている」

「だから、私に何をしろと?」

中村は少しだけ笑った。官僚の笑い方だった。責任を負わない笑い方。

「何もしなくて結構です。ただ、依頼人が“民事の買い物”のつもりで触れると、外交案件の泥を持ち帰るかもしれない。それだけ伝えておきたかった」

「書面は?」

「出せません」

外務省の介入は、たいてい口頭から始まる。紙に残せない時ほど、匂いだけが強い。

三月十二日 午後十時十八分 品川・ビジネスホテル

警視庁捜査一課の藤村警部補が名刺を出した時、ホテルの廊下はまだ漂白剤の匂いがしていた。

死んだのは荒井匠。四十四歳。宝石の持ち込みと仲介をしていた男。私の名刺が財布に入っていた。

部屋は狭く、ベッドのシーツだけがやけに白かった。安い壁紙。空のミニボトル。洗面台に血の混じった痰。そして、カーペットに落ちた一本の前歯。

「暴行の痕があります」藤村は低い声で言った。「誰がこの男に会う予定だったか、知っていますか」

私は答えなかった。知っている名前が多すぎた。

榊原。広平。ユリア。ドバイの売主代理人。銀行を通さず現物だけ見たいと言った人間は、全員怪しかった。

「先生」藤村が窓の外を見たまま言った。「人は現金のためには嘘をつきます。石のためには黙るんです。今回、みんな黙ってる」

その時点で、銀行はすでに警察に必要な届けを出していた。銀行は顧客の秘密を守るが、自分の首よりは守らない。

三月十三日 午後七時 赤坂・サービスアパートメント

榊原が全員を集めた。

私、榊原、妻の朋子、長男の広平、ロシア人のユリア、それに東明銀行の五十嵐。全員、顔色が違った。共通していたのは、眠っていない目だけだった。

ユリアは想像より若くなかった。三十代半ば。頬に薄い肝斑。膝の上で指を握り潰すようにしていた。

「私は自分のためじゃない」彼女は日本語で言った。「娘のためです。あの人は、形になるものを残したいと言った」

朋子が笑った。「形? あなた方、いつも形だけでしょう」

広平が机を叩いた。「荒井を呼んだのは誰だ」

「お前だろ」榊原が怒鳴った。「会社の金を守るためなら何でもする目をしてる」

五十嵐だけが座ったまま青くなっていた。銀行員は、人が壊れる場に慣れていない。壊れるのは数字だけだと思っているからだ。

そこへ、インターホンが鳴った。入ってきたのは藤村だった。私服の刑事二人を連れていた。

「任意で結構です。携帯を見せてください」彼は部屋を見回し、最後に榊原を見た。「それと、お伝えしておきます。荒井匠の司法解剖結果が出ました」

空気が止まった。

「死因は窒息。殴打のあと、自分で何かを口に入れ、それが気道に入り込んでいる。摘出物は鑑定中ですが――」

彼は、わざと一拍置いた。そして私たち全員の顔を、順番に見た。

三・一七カラットのピンクダイヤでした

誰も動かなかった。ユリアが口を押さえ、五十嵐が吐きそうな顔をし、広平だけが目を逸らした。

荒井は奪われると思って、石を飲んだ。その前に殴られていた。誰に殴られたかは、その場の沈黙がほとんど答えていた。

藤村は広平の前に携帯のスクリーンショットを置いた。荒井宛てのメッセージ。「今夜、現物だけ。余計なことを言うな」送信者は、広平の部下の警備会社役員だった。

広平の唇が震えた。「脅すだけのはずだった」

榊原が息子の顔を見たまま、ゆっくり座り込んだ。その時の彼は、会社の創業者でも父親でもなかった。ただ、自分の家の中身が人前で割れていくのを見ている、年を取った男だった。

七月二十八日 午後四時十五分 東京地裁の裏口

広平は傷害致死と強要未遂で起訴された。実行役の二人は先に認めた。「現物だけ回収しろ」と言われたと。

榊原グループはメインバンクから新規与信を止められ、秋まで持たなかった。会社更生の申立て。役員総入れ替え。東明銀行は記者会見では何も言わなかったが、顧客リストから榊原家の名前を静かに消した。

ユリアは娘を連れて日本を出た。外務省の中村は一度だけ電話をよこし、「ロシア大使館からの照会はそれ以上来ていません」とだけ言った。外交の世界では、死人が一人出れば、面倒の半分は黙る。

朋子は裁判所の裏口で、私を見つけると立ち止まった。以前より痩せていたが、歩き方は崩れていなかった。

「結局、石はどうなるんですか」彼女が聞いた。

「証拠品です。しばらく動きません」

朋子は少しだけ笑った。「よかった」

「よかった?」

「ええ。あの石、誰の手にあってもろくなことにならなかったから」

私は返事ができなかった。彼女は続けた。

「夫は娘に愛情を渡す代わりに石を渡そうとした。息子は会社を守る代わりに人を殴らせた。私は妻の尊厳を守る代わりに、夫が壊れていくのを黙って見ていた。みんな、まともなものを渡せないから、固いものに執着したんです」

裏口のコンクリートに、夏の熱が残っていた。遠くで救急車の音がした。

私は最後に、証拠写真で見たあの石を思い出した。透明の袋の中で、ピンクダイヤは思ったほど綺麗ではなかった。血の色でも花の色でもない。凍った内出血みたいな色だった。

弁護士が入り、銀行が止め、外務省が口を挟み、警察が押さえても、最後まで人間の欲だけは鑑定書が付かなかった。

喉から出てきた石は、証拠袋の中で静かだった。最初から最後まで、いちばん騒がしかったのは、いつも人間のほうだった。

 
 
 

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