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『名前のない石』――百貨店外商・黒田紗英の記録

以下、小説です。

二月十四日 20:46

その夜、私は「資産性の高いピンクダイヤモンドにつきまして」という件名で、山下勝也にメールを送った。

送信前にいちばん長くカーソルが止まったのは、「マイナンバーに直接紐づかない形で保有が可能です」という一文だった。

そこまで書けば、もう宝石の案内ではない。逃がし屋の文章だ。それでも送った。母の施設費は二か月分滞納、娘の塾の引き落としは来週。五億の商談でも、外商の私に落ちる金はせいぜい数百万円だと分かっていた。それでも、喉が鳴るには十分だった。

百貨店の外商は、客の暮らしを整える仕事だと新人研修で教わる。実際は、客の欲望に領収書をつける仕事だ。

別れ話の直後に届く高級時計。選挙前にだけ増える胡蝶蘭。遺産分割でもめている最中の骨董。客はみんな、品物そのものより、そこに貼れる言い訳を買っていく。

ピンクダイヤの話を持ち込んだのは堀江慎吾だった。香港とアントワープを行ったり来たりしている、顔色の悪い男だ。時計だけはいつも異様に高そうなものをつけていた。昔は本当に良いブローカーだったらしいが、私が知る堀江は、締切の近い借金みたいな目をしていた。

「一カラットなら表の市場でも動く。九千万円台からある。けど山下さんが欲しいのは見栄じゃない。逃げ場だ」

そう言って堀江は、封筒から数枚の写真を滑らせた。三カラット超。Fancy Intense Pink、もしくはFancy Vivid Pink。GIA鑑定付き。無処理。ロシアかアフリカの出どころ。予算は五億前後。

「こういう石は、値段より先に事情がつく」

私は写真を見ながら、送るべきではない文面を打ち込んだ。そして最後に、何も考えないようにして送信ボタンを押した。


二月十八日 16:10

帝国ホテルのラウンジで初めて山下勝也と会った。

六十二歳。美容クリニックを全国に広げ、不動産も持ち、地方銀行に顔が利く男。雑誌では「再生医療の風雲児」と書かれていたが、実物はもっと湿った印象だった。白いシャツの襟元にだけ、妙に疲れが滲んでいた。右の薬指だけが白い。長年指輪をしていた跡だと思った。

彼は座るなり、資料より先に私の顔を見た。

「黒田さん、名前を前に出さずに持てるのが条件です」

相談ではなく、確認の口調だった。

堀江はすぐに調子を合わせた。如月真一――山下の税理士でもあり、ほとんど身内みたいに出入りしている男――は、水を一口飲んでから柔らかく言った。

「最近はどこも確認が細かいですからね。紙に残るものは少ないほうがいい」

私はその場で言い直せた。そういう趣旨ではありません、と。できたのに、しなかった。

あとで知ったことだが、その時の山下はかなり追い詰められていた。銀行から資金移動の説明を求められ、長男の透とは会社の資金繰りで揉め、妻の怜子とは離婚調停の準備に入っていた。金がないわけではない。だが、金に名前が付き始めていた。

「一カラットならオークションも現実的です」と私が言うと、山下は鼻で笑った。

「小さいな」

その一言が、この男の本音をいちばんよく表していた。欲しかったのは価値ではなく、重量だった。握ったときの実感だ。

話が終わる頃、彼は資料の端を指で叩きながら言った。

「いったん、あなた名義で預かる形も取れる?」

堀江は笑った。如月は黙った。そして答えたのは、私だった。

「条件が合えば、調整は可能です」

自分の声が、誰か別の女のものみたいに聞こえた。


三月三日 11:20

石が入った日、私は外商サロンの奥の照明室でそれを見た。

広告写真では可憐な桜色に見えていた。実物はまるで違った。もっと嫌な色をしていた。

薄い氷の下に、傷口から滲んだ血を閉じ込めたみたいな色だった。綺麗というより、生々しかった。宝石なのに、肉を連想させた。

「三・〇八カラット。Fancy Vivid Pink。無処理。GIAも問題なし」

堀江はそう言ったが、その声は石よりも請求書のほうを見ていた。山下は現物確認だけして、その日のうちに全額は入れなかった。時期をずらしたい、分割したい、銀行の返事が来てからだ、と言い始めた。

堀江のこめかみに青い筋が浮いた。

「じゃあ、七十二時間だけです。黒田さん名義の預かり。そこから先は無理です」

その場で私の一時預かりの書類が作られた。署名をした瞬間、手のひらがじっとり濡れた。五億の石より、自分の名前のほうが重たかった。

その夜から、山下は私に直接連絡してくるようになった。

「黒田さん、あれは表に出せない」「息子は金しか見てない」「うちの奥は、もう俺の顔じゃなく帳簿しか見ない」「別の子に、残してやりたいものがある」

別の子。

午前一時十三分、山下のスマホから電話が来た。出ると、女の声だった。

「あなた、石の人?」

若くはないが、声だけが妙に瑞々しかった。あとで分かった。美南。山下のクリニックで広報をしていた女で、九歳の男の子がいた。

「あの人、また隠すんですね。私たちのことも」

私は返事ができなかった。切ったあと、手元の石が急に不潔なものに見えた。

さらに二日後、山下怜子から連絡が来た。件名も挨拶もなく、「お時間ください」とだけ。

ホテルのティールームに現れた怜子は、夫の浮気の話を一度もしなかった。メニューも見ず、常温の水だけ頼んだ。

「三カラット以上ですって?」「はい」「五億前後?」「条件次第ですが」「そう」

そこで一度、彼女は私の目を見た。嫉妬ではなく、計算の目だった。

「主人は昔から、現金より石が好きなの。握れるから。人は握ったものを、愛だと勘違いするでしょう」

彼女は夫のことを“あの人”とも“主人”とも呼ばなかった。ただ一度だけ、低く付け加えた。

「息子は会社を欲しがってる。夫は外に子どもを作ってる。娘だけが、いつも勘定から外される」

その時私は、この家族の中心にいるのは金ではなく、配分だと知った。誰がどれだけ傷つくかを、全員が電卓みたいな顔で見ていた。


三月十七日 23:08

麻布台のサービスアパートメント1704号室。あとで全員に時間と場所を流したのが如月だったと知った。誰が勝っても、自分だけは切られない位置にいたかったのだろう。

部屋には最初、山下と私と堀江と如月しかいなかった。黒いベルベットの上にピンクダイヤが置かれ、堀江は腕時計を何度も見た。

「今日中に決めてください。向こうも待てません」

山下はウイスキーを飲みながら言った。「だから、少し時期を――」

そこでインターホンが鳴った。

怜子が先に入ってきた。濡れたコートも脱がず、石を見るなり言った。

「そんな小さいもので五億?」

次に長男の透が来た。父親の顔を見るなり怒鳴った。「会社の金まで隠す気かよ」

最後に美南が来た。誰が呼んだのか、今でも確認できない。だが、あの夜あの部屋にいた全員が、誰かひとりを消したがっていたのは確かだ。

部屋の空気は、五億円の商談から一気に相続会議へ変わった。

「その子に残すつもりだったの?」怜子が言った。「認知もしないくせに」と美南が返した。「運転資金を抜いてんだぞ」と透が父を睨んだ。「皆さん、落ち着いて」と如月は言ったが、誰も聞いていなかった。堀江だけが、顔色をなくしていた。石が人間関係に巻き込まれるのを、商売人は何より嫌う。

山下は急に立ち上がった。顔を真っ赤にして、唇の端に泡を飛ばしながら叫んだ。

「俺の金だ――」

そこで言葉が切れた。右の口角だけがすっと下がり、グラスが床に落ちた。人は五億円の話をしている最中でも、脳の血管一本でただの肉に戻る。

救急隊が来て、部屋は急に狭くなった。シャツが裂かれ、胸にパッドが貼られ、担架が通るためにテーブルがずらされた。怜子は一歩も下がらず、透は署名の紙を奪い合うように受け取り、美南は泣きながら壁に張りついていた。私は石の載ったベルベットだけ見ていた。

担架が出ていったあと、そこは空だった。

残っていたのはGIA鑑定書の透明ファイルと、割れたグラスの水だけだった。


三月十八日 04:15

誰も警察を呼ぼうとは言わなかった。

呼べば全員が困るからだ。

夜明けまでに、私は五人から同じことを別の声で言われた。

石を出せ。

堀江は低い声で言った。「五億の石は、失くしたで済む額じゃない」

如月は笑って言った。「そもそも最初から存在しなかったことにしましょう」

透は机を叩いた。「親父が隠す気だった証拠になる。こっちに渡せ」

美南は泣きながら言った。「うちの子だけ何もないのは、あんまりです」

怜子だけは脅さなかった。ただ静かに聞いた。

「黒田さん。あなたが持ち出した、と言われたらどうします?」

その言い方が、いちばん堪えた。

山下は死ななかった。死なないまま、話せなくなった。ICUのベッドで片目だけが動き、誰の言葉にも反論できない肉の塊になった。部屋の外では、妻と息子と愛人が順番に面会時間を争った。

私の娘の塾帰りに、見慣れない男が二日続けて立っていた。堀江の人間だと直感したが、証拠はなかった。母は面会室で私の顔を見るなり、「指輪、似合わないよ」と笑った。認知症のくせに、その日だけ妙に正しかった。

病院の看護師が、何気なく言った。

「奥さま、救急車が来る前にご主人の右手を開かせてましたよ。何か握ってたんですか?」

そこで初めて、私の背中に冷たいものが走った。

その週、母の施設から未納解消の連絡が来た。娘の学校には匿名の寄付が入った。私は送り主を確認できなかった。いや、確認したくなかった。

山下は六月のはじめに死んだ。最後まで一言も話せなかった。


六月十二日 19:30

四十九日が終わった夜、怜子から呼び出された。

場所は、式場と同じホテルのバーラウンジだった。黒のワンピースに真珠。髪は乱れていない。夫を亡くした女というより、長い交渉を終えた女の顔をしていた。

私が座ると、彼女は酒も頼まずに言った。

「あなた、ずっと私を疑ってたでしょう」

私は黙った。

「取ったわ」

それだけで十分だった。喉の奥が渇いた。

「救急隊が来たときに。あの人、最後まで右手に握っていた」

私はようやく声を出した。

「そのあと、どうしたんです」

怜子は少しだけ笑った。勝った人間の笑い方ではなかった。ずっと前に壊れたものを、今さら確認するみたいな笑い方だった。

「切ったの。三つに」

「価値が落ちます」

その瞬間、彼女は初めてまともに私を見た。

「家族もそうでしょう」

返す言葉がなかった。

「一つは整理のために手放した。ひとつは娘に残した。最後のひとつは、あの子に届くようにした」

“あの子”が誰か、説明はいらなかった。透には何も残さなかったらしい。あの男は会社ごと飲み込むつもりだったからだろう。怜子は続けた。

「あなたの分も払ったわ」

「私を買ったんですね」

「違う」

彼女はきっぱり言った。

「あなたは、最初のメールを送った夜に、自分で値札をつけたのよ」

痛いほど、正しかった。

帰り際、私は怜子の胸元に、ごく小さな淡い桃色の石がひとつだけ光っているのを見た。元の三カラットには到底見えない。ただ、あの嫌な、生々しい色だけは残っていた。治りかけの傷口みたいな色だった。

私はあの夜、宝石を売ろうとしたんじゃない。あの家の嘘を、持ち運べる大きさに固めただけだった。

名前のない石は、最後まで誰のものにもならなかった。ただ、関わった人間の卑しさだけを、やけに正確に映していた。

 
 
 

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