top of page

名簿の値段

――ある百貨店外商部の記録

社内資料「2025年度下期 外商戦略会議」抜粋上位318口座 売上構成比 63.2%70歳以上顧客比率 54.8%今期不足粗利 6億2400万円重点分野 美術・宝飾・時計・葬祭返礼・住み替え・介護・信託基本方針 「物販から生活導線収益へ」

外商とは、金持ちに物を売る仕事ではない。相手の時間、体面、家族、病気、相続、孤独――そういう、本人が口にしたがらないものに先回りして、包装紙をかけ、請求書に変える仕事だ。

京央百貨店日本橋本店七階、外商サロン。開店前の売場は静かだったが、このフロアだけは別の緊張が流れていた。絨毯が足音を吸い、銀のコーヒーポットが湯気を立て、壁の向こうでは百三十二年続いた老舗の矜持が、今月の粗利不足に変換されていた。

桐生亮介は四十一歳、外商一課の課長代理だった。担当口座は二百六十七。うち年商一千万円超が三十九口座、五千万円超が八口座。会社はそれを「資産」と呼び、桐生はいつからか「名簿」と呼ぶようになっていた。

朝八時、戦略会議のスクリーンに数字が並んだ。上層部は、数字を出すときだけ誠実になる。

「今期、外商で埋めてもらう不足粗利は六億二千四百万円です」

財務担当の常務が、まるで天気予報でも読み上げるような口調で言った。続いて、昨年までメガバンクにいたという企画本部長がレーザーポインタを動かした。

「百貨店は斜陽です。しかし富裕層の生活は斜陽ではない。婚礼、進学、介護、相続、葬儀、住み替え。人生の節目は、すべて商機です。外商は“買い物の御用聞き”ではない。顧客の人生を面で取る部署です」

最後の一枚に、赤字でこう書かれていた。

承継案件の早期接触徹底

会議室の空気が、わずかに冷えた。承継案件。平たく言えば、近く資産が動きそうな家のことだ。もっと平たく言えば、亡くなるか、施設に入るか、相続が始まる家のことだった。

桐生の隣で、後輩の野坂が小さく息を呑んだ。だが誰も何も言わない。言えば正義感、黙れば人事評価。そういう部署だった。

会議後、桐生は麻布の高台にある真鍋邸へ向かった。真鍋志津、七十九歳。亡夫は非鉄金属会社の創業家出身で、本人も長く京央の最上位ランク「A+」に入っていた。年間購買額は平均八千万円。外商部では、客ではなく“口座”として知られていた。

玄関で出迎えた家政婦が、困ったように笑った。

「桐生さん、ちょうどよかったです。奥様、また“身に覚えがない”って……」

応接間のテーブルには、開けられていない箱が三つあった。フランス製のストール、色石のブローチ、現代画廊扱いの小品。伝票上の合計は一千八百六十万円。真鍋はソファに深く座り、桐生の顔を見た。

「これ、私が頼んだのかしら」

声は細かった。だが認知が崩れている人間の曖昧さではない。自分の勘定にまだ責任を持っている人間の、不快と警戒の混じった声だった。

桐生は端末を開いた。受注日は月末の三十日、夜の八時四十一分。受注者コードは自分のものではない。商品区分は「店預かり」。納品先は未記入。電話注文扱いで決済だけが走っていた。

背中に嫌な汗が流れた。

「確認します」

それしか言えなかった。

帰社して調べると、真鍋口座ではここ三か月で四千三百八十万円の高額品が同じ処理になっていた。店預かり。納品先未記入。受注時間はどれも営業時間外。決済承認者は、外商統括部長の黒瀬の配下にいる事務センターだった。

野坂が、誰もいない給湯室で声を潜めた。

「たぶん、月末調整です」「何の」「売上です。足りない分を、動きの鈍い口座に一回乗せるんです。あとで振替えるか、返品で落とすか。上は“預かり需要の先食い”って言ってますけど」

桐生は黙った。

外商には、表の仕事と裏の仕事がある。表の仕事は、誕生日に花を届けることだ。裏の仕事は、その誕生日が孤独の深い日だと知っていて、そこに高額時計の案内を差し込むことだ。

顧客カードには、好みの色や酒量だけではなく、もっと別のことが書いてある。長男は会社を継がない。長女の夫は資金繰りが悪い。本人は膝が悪く、最近は病院を変えた。孫は医学部浪人中。奥様は七月に施設見学。家政婦の交代あり。税理士は保守的。秘書は値引き交渉が雑。そして、ときどき、こんな一文もある。「本人確認は細かく求めないこと。気分を害する」

顧客の尊厳と、会社の都合が、同じメモ欄に並んでいた。

その週の金曜、コンプライアンス室の芹沢美月が桐生を訪ねてきた。三十二歳。金融庁出身の弁護士を親に持つ、と陰で言われていたが、本人は気の強い無名の社員にしか見えなかった。

「外商の返品率、見ました」

彼女はノートパソコンを開いた。グラフが出た。四半期末五日間に集中する高額受注。そのうち四五日以内に動く返品と口座振替。さらに、七十五歳以上の顧客で突出する利用額。家族からの異議申し立て件数、十二件。

「これは接客の問題じゃありません。構造です」「どこまで見た」「共有サーバーの“白百合”まで」

桐生の喉が詰まった。“白百合”は隠語だった。外商上層部しか触れないとされる、特別案件フォルダ。そこには顧客番号、限度枠、承認者、商品、実納品先、備考が並んでいた。備考欄には短いコードがある。

K政治H病院S返礼T承継M画廊仮計上本人確認省略

「これ、見ましたか」

芹沢が示した一行に、桐生は目を奪われた。

顧客番号A-00138 真鍋志津エメラルドセット 1億2000万円実納品先 Kハウス処理区分 仮計上→後日振替備考 本人負担感なし

本人負担感なし。それは売場で使う言葉ではない。会計と搾取が手を結んだときにだけ生まれる言葉だった。

「Kハウスって何だ」「確認できません。でも、別シートに“霞南担当”とあります」「官公庁か」「たぶん」

芹沢はそこで一度、画面を閉じた。

「桐生さん。外商って、お客様との信頼で成り立つ仕事だと思っていました」「昔はな」「今は違うんですか」「今は、信頼をコストゼロの資産だと思ってる連中が上にいる」

その夜、桐生は黒瀬に呼ばれた。統括部長室は、外商サロンよりさらに静かだった。黒瀬は五十八歳。スーツの皺ひとつなく、言葉にも皺がない男だった。外商畑三十年。上得意の葬儀に顔を出し、政治家の祝賀会に花を送り、院長夫人の誕生日に宝石をあてる。それを“段取り”と呼び、部下には“気配り”と教えてきた。

「余計なものを見たそうだな」

黒瀬は書類から目を上げなかった。

「真鍋口座の処理、説明してください」「月末調整だ」「本人の認識がない請求もですか」「本人は困らない」「困るかどうかを決めるのは店じゃない」「綺麗事だな、桐生」

黒瀬はそこで初めて顔を上げた。

「外商が売っているのは品物じゃない。便宜だ。時間を節約し、体面を守り、面倒を引き受ける。富裕層は、その曖昧さに金を払う。いちいち確認していたら商売にならん」「だから他人の口座で一億二千万を回すんですか」「店が潰れれば、お前の正義は誰の給料も払わない」

その言葉は安っぽい脅しではなかった。外商部だけで百四十人、非正規を含めれば三百人超。売上の急落は、そのまま店のリストラに結びつく。黒瀬はそこをわかって言っていた。

「もう一つ教えてやる」

黒瀬は薄く笑った。

「相続が始まる家は、誰よりも不安だ。遺品整理、香典返し、住み替え、施設、信託、資産売却。そこに一番先に入った者が勝つ。われわれは親切で先に行くんじゃない。競争だから先に行くんだ」

桐生は返事をしなかった。できなかった。

翌週、創業祭が始まった。外商部の目標は三日で八億七千万円。売場が金色のPOPで飾られるころ、七階では別の祭りが始まっていた。閉ざされた個室、シャンパン、時計のトレー、画商、ジュエラー、信託銀行員、介護施設紹介会社の担当者。客の人生を囲い込むための、業者の品評会だった。

二日目の午後、黒瀬が桐生の前に一枚の伝票を置いた。

「真鍋口座だ。ブルーダイヤのネックレス、一億二千万。今日中に切れ」「本人は入院中です」「印影は預かってる」「家族確認は」「不要だ。先方は今夜必要としている」

先方。その二文字で、誰のための売上かはわかった。店の上にいる誰か、あるいは店が頭を下げる必要のある誰か。物は豪奢だが、やっていることは飛ばしと変わらない。

桐生は伝票を見つめた。紙一枚で、人の信頼は簿外資産になる。百貨店の包装紙は厚い。だから中身の醜さが外から見えない。

「できません」

黒瀬の眉がわずかに動いた。

「担当を外れるぞ」「構いません」「このタイミングで逆らう意味がわかってるのか」「わかってます。だから、これ以上は無理です」

黒瀬は無言で伝票を引いた。その沈黙が、怒鳴り声より怖かった。

その夜、芹沢は外部弁護士宛てにデータを送り、桐生は真鍋の長女に電話をした。長女は翌朝、病院から直接店に来た。受付で怒鳴らなかったのが、かえって事態を悪くした。きれいな服を着た金持ちの家族が、静かな声で「母の口座を凍結してください」と言うとき、それはたいてい、もう内輪では済まない合図だ。

三週間後、経済紙が短い記事を打った。「老舗百貨店外商部で高額請求処理に不適切運用」

記事は小さかった。だが株価には十分だった。会社は記者会見を開き、「一部で本人確認手続きが不十分だった」と発表した。言葉はいつも都合よく痩せる。不正利用も、仮計上も、名義振替も、年寄りの信用を担保にした売上作りも、その一文に押し込められた。

黒瀬は更迭された。だが退職理由は「体調不良」だった。経営企画本部長は役員報酬を自主返上したが、三か月後には関連会社へ移った。外商部は組織改編され、「プライベートリレーション営業部」に名を変えた。新しいガイドラインが配られ、本人確認のフローが増え、電子署名システムが導入された。

店は生き残った。老舗は、だいたいそうやって生き残る。責任の輪郭だけを曖昧にして。

桐生は異動願を出した。受理される前に、真鍋志津の訃報が届いた。葬儀は家族葬で、香典返しは京央ではなく、競合の百貨店が取ったらしい。野坂が苦笑して言った。

「最後まで、囲い込みに失敗したってことですね」

桐生は笑えなかった。

帰り際、閉店後の店を見上げた。一階のショーウィンドーには、春の新作が並んでいた。光は柔らかく、値札は控えめで、夢だけがきれいに見えるようになっている。だが桐生には、あの光の裏で回る一覧表が見えた。年齢、家族構成、限度枠、病歴、贈答先、承継見込み。人間の人生を項目に分けて、買える順に並べた名簿だ。

百貨店は夢を売る場所だ、と昔、先輩が言った。違う、と桐生は思った。

ここは、他人の人生に包装紙をかけ、熨斗の下で値段を付ける場所だった。


 
 
 

最新記事

すべて表示
自動是正は「何を自動にするか」で9割決まる

〜情シス向け:Azure運用の“自動是正対象”をA〜Dで分類して、事故らないルールに落とす〜 ※本記事は一般的な情報提供であり、個別案件の法的助言ではありません。※当事務所(行政書士)は、規程・台帳・運用設計・証跡整備など「ガバナンスの型づくり」を中心に支援します(個別紛争・訴訟等は弁護士領域です)。 1. 情シスの現実:自動化は“正しく怖がらないと”事故装置になる Azureの自動是正(Azur

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page