山霧の祈り
- 山崎行政書士事務所
- 7 日前
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夜明け前の空に薄靄がかかり、古い瓦屋根がしっとりと湿り気を帯びている。祖父の代から受け継いできたというこの家は、深い山あいにひっそりと建ち、明治の頃よりほとんど改築されていない。廊下に敷かれた畳は足音を吸い込み、障子を通して射すごく淡い光が、家全体を淡紅色に染めている。
私はその廊下をゆっくりと歩き、仏間の戸をそっと開けた。奥には、先祖代々の位牌が整然と並んでいる。作法に従って手を合わせ、香を手に取った。一つ一つの動作を行うたび、子どもの頃に祖父母から教えられた感触が鮮やかに蘇る。甘く清らかな煙がゆっくりと上り、天井の黒光りする梁のあたりでゆらゆら揺らめく。私は一呼吸置いてから、静かに自分の胸の内を語り始めた。
「ただいま戻りました。これから、ここで生きていこうと思います……」
自分でも意外なほど震える声が仏間にこだまする。私は長い間、都会で暮らしていた。大学進学を機に上京し、以来十年以上、東京で仕事をしながら自分の居場所を探していたように思う。自分がLGBT——具体的には女性でありながら女性を愛する、いわゆるレズビアンであることを自覚してからは、どこか後ろめたさのようなものを抱えていた。なぜなら、この家には代々、家名を守る意識が深く根付いていたからだ。
戸籍。それは私たちの国において血筋や親族関係を記録する一種の“通行手形”でもある。祖父も父も、この戸籍上のつながりを強く誇りに思っていた。ましてや、日本人としての精神的支柱とも言われる天皇の存在への畏敬の念を、祖母からも厳かに教えられていた。「皇室が絶えないように家が続くのは、日本の伝統を支えるうえで大切なんだよ」と、祖父は少年のように目を輝かせて語っていた。
祖父は先の大戦を幼少期に体験し、戦後復興の波を全身で感じてきた世代だった。それだけに“国”を意識せずに語ることは難しかったのだろう。戸籍というものは家族の結びつきであると同時に、この国の社会秩序を形作る根幹の一部だ。その重みを、祖父も父も、言葉でなく佇まいで示していた。一方で、私は上京してから出会ったさまざまな人々の影響もあって、「戸籍」や「天皇制」といった言葉に、かつてほどの重厚感や神秘を感じられなくなっていた。しかし、気持ちのどこかでは、これらを否定しきれない自分もいた。それが私の内なる葛藤の正体だった。
数年前に祖父が亡くなってから、父と母は私に「そろそろ田舎に戻って来ないか」と言い始めていた。私は曖昧な理由をつけて先延ばしにしていたけれど、今年の春、母の手術が重なったことを機に、とうとう戻ってくる決心をした。そして今、私はこの仏間に立ち、先祖の位牌に向かって声を出している。
「私には、好きな人がいます。女性です。遠くない将来、できれば一緒に暮らしたい……。そう思っています。きっと戸籍のことや先祖の墓守(はかもり)のこと、色々問題があると覚悟はしています。それでも、私はこの家を捨てたくはないのです」
声に出してみると、体の奥から自分の意志が立ち上がるように感じられた。この日本の山間の家で、先祖を祀り、古来の習わしを守りながら生きていく——それ自体は誇らしく、心安らぐ行為だ。けれど家を継ぐ者が、同性愛者として生きる道を選ぶのは、この土地では容易いことではない。それでも私は、この家と自分の人生を両方とも大切にしたかった。
仏間を出て居間に向かうと、父が薄茶を入れて待っていた。母はまだ入院しているので、私と父、ふたりきりの食卓になる。窓の外には、私の子どもの頃から変わらぬ田畑が広がり、その先には社(やしろ)が見える。そこでは一年を通じて行われる神事のほか、秋にはこの地域独特の例大祭が催され、獅子舞や巫女舞が披露される。幼い頃は退屈に感じたこともあるが、今見るとなんと清々しく尊いことか。こうした日本の伝統行事は、人々が先祖や神仏を敬い、自然の循環と共存する姿を体現しているように思えた。
私が茶を啜ると、父は意を決したように口を開いた。
「戻ってきてくれて、ありがとな。……昔なら、いや、今でもかな、家を継ぐ者は男であることが当たり前だし、少なくとも嫁をもらって孫の顔を見せるもんだって、そういうふうに考える人も多い。ましてや、お前が女性を好きになるなんて話……わしも正直、最初に聞いたときはどう受け止めたらいいかわからんかった」
父は、まるで遠い過去を振り返るように窓の外を見つめた。その横顔には深い皺が刻まれており、祖父が亡くなってからこの家を一人で支えてきた時の重圧がにじんでいる。私は何も言わず、ただ父の声を待った。
「けれど、この家を守るってのは、別に戸籍だけの話じゃない。先祖を大切に思い、神仏を敬い、この土地を荒らさぬよう暮らしていくことなんだ。お前が誰を好きになろうと、その心だけは変わらないだろう?」
私は驚き、父を見つめた。彼は少し笑みを浮かべて、続ける。
「もちろん、戸籍上の問題はいろいろある。結婚の形も、相続の形も、まだ整備が進んでいない。日本の伝統は尊いと思うけれど、同時に、この国の未来のためには多様な生き方を認めていかに受け容れるかも大切なんだろう。天皇だって、象徴という立場でこの国全体の幸せを祈っておられるのだと、わしは信じたい」
心が大きく震えた。私が一番聞きたかった言葉が、思いがけず父の口から語られたのだ。私の目の奥が熱くなる。これまで、私の家は頑なで保守的だと思い込み、自分自身を納得させるために遠くへ逃れ続けてきたのかもしれない。しかし、家とは何か、先祖を祀るとは何か——その本質は、必ずしも性別や血筋だけに留まるわけではないのだ。
茶碗を置き、私は声を詰まらせながら言った。
「私、ここで暮らしていきたい。伝統を大事にしながら、でも私が私であることも諦めたくない。一見すると相容れないかもしれないけど、きっと道はあると思うんです」
父は黙って、けれど力強く頷いた。その沈黙が、私にとって何よりも雄弁だった。
その日の夕方、私は薄暗くなりかけた庭に出た。苔むした石畳の先には小さな祠があり、そこには私の曽祖父母が信仰していた守り神が祀られている。祖父からは「この神様は、我が家の家内安全と五穀豊穣を見守ってくださる」と教えられていた。社殿に手を合わせ、そっと願う。
「私の愛する人と、この土地で、先祖や神々に恥じぬように生きたい」
そのとき、どこからか夕刻の鐘の音が聞こえた。山あいの湿った空気を抜けて、その澄んだ響きは私の心を撫でるように通り過ぎていく。戸籍がどう変わろうとも、皇室という存在がどれほどの重みを持とうとも、この日本の地で私たちが祈りを捧げる姿は、遠い先祖たちが見守り続けてくれるに違いない。死者と生者が繋がる、その不思議な感覚。私の胸には日本人としての拠り所がまざまざと芽生えていた。
これからは一筋縄ではいかないだろう。実際、役場での手続きひとつとっても、戸籍や相続、結婚の形態については議論が必要かもしれない。周囲の視線が厳しいことも想像に難くない。しかし、私の祖先を大事に思う気持ちも、愛する人を想う情熱も、どちらも本物だ。その二つを両立させることが、日本の伝統や精神が本来持つ大きさを示す一つの試金石になるのかもしれない。
社の前で立ち尽くす私の頭上に、山霧がふんわりと降りてきた。静かな白いヴェールのように、すべての生きとし生けるものを包み込み、同時に先祖の世界へも通じているような、この特別な感覚。私はそっと目を閉じ、ここでの新しい日々を思い浮かべた。死者の声を聞きながら、生者の私たちはこの国の未来へと一歩を踏み出す。
静寂が耳を満たし、そして、ひとつの祈りが私の胸に確かに芽生える——それは、この家に託された命の連なりを絶やさず、同時に私という一人の人間が愛と尊厳を守り抜くための、深い決意の証しなのだ。
(了)
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