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紅玉虫(こうぎょくちゅう)の手紙

  • 山崎行政書士事務所
  • 13 時間前
  • 読了時間: 4分

―幹夫少年とテントウムシの物語―


第一章:霧の朝に

春の名残がまだ山肌に残る四月の終わり。静岡の山間では、朝の空気に柔らかな霧がかかり、山桜の残り香がかすかに漂っていました。幹夫は学校の始業前、裏山の小道をひとり歩いていました。冬の終わりに別れを告げたトンボの夢を、いまも彼の胸は忘れていません。けれど、自然は立ち止まることなく、次のいのちを幹夫に紹介しようとしているようでした。

その日、小さな楓の若葉の下で、それは彼を待っていました。

幹夫が細い小道の曲がり角でふと立ち止まったとき、朝露に濡れた新芽の上で、赤い光を放つひとつの点が、そっと身じろぎしたのです。

「……テントウムシだ。」

その言葉は、風に交じってそっと葉の裏に落ちました。

小さな七星てんとう虫(ナナホシテントウ)は、まるで幹夫の言葉に頷くように、そっと羽を震わせました。赤い背中の黒い斑点は、霧の中でもはっきりと輝き、まるで夜空に浮かぶ星々のようでした。

幹夫は膝を折り、そっと葉に手を添えました。テントウムシは逃げもせず、じっと彼を見つめています。いや、それは“見つめている”というより、“確かめている”ように思えました。

「あなたも、春の精霊なの?」幹夫の声は、露に濡れた葉を伝い、てんとう虫の脚元へ届いたかのように静かでした。

すると、不意に風が吹き、楓の葉がさらさらと囁くように揺れました。その揺れの中で、テントウムシは一歩、幹夫の手の方へと歩み寄りました。

第二章:紅玉虫(こうぎょくちゅう)の便り

その日から、幹夫とテントウムシの朝の逢瀬が始まりました。

幹夫が裏山に行くと、いつも同じ若葉の枝先で、テントウムシは彼を待っていました。そして不思議なことに、幹夫が語る言葉に対し、テントウムシは羽音や小さな脚の動き、時には葉の先でくるりと回ることで、まるで返事のような反応を示しました。

「学校はどう?」と幹夫が尋ねれば、てんとう虫は翅を少しだけ開いて「まあまあ」とでも言うように揺れ、

「昨日の夕焼け、見た?」と聞けば、葉の上で光の反射に照らされて、まるで「忘れられないよ」と言っているような沈黙を返してきました。

ある日、幹夫は夢の中で、トンボに出会いました。夢の中のトンボはもう人間の言葉を話していて、こう言いました。

「春が新しい手紙を書いたよ。紅玉の封筒に包んで、朝露の切手を貼った。」

幹夫は目を覚ますと、すぐに裏山へ駆け出しました。

すると楓の若葉の先に、今までよりも少し大きく、艶やかに輝くテントウムシがとまっていました。彼の翅の上には、まるで文字のように見える黒い斑点が、新たな配置で光っていました。

それは、まるで暗号のようでした。

第三章:森の手紙配達人

幹夫は、テントウムシが“森の手紙配達人”なのだと信じるようになりました。

春の精霊たちが交わす見えない便り。風にまぎれて飛んでいく木々のうた。川のささやき。花の匂い。そうしたものを、テントウムシは受け取り、朝露に濡れた葉の上で幹夫にそっと差し出してくれていたのです。

ある朝、幹夫はてんとう虫にこう言いました。

「きみは、森じゅうを飛び回って、誰にも知られない小さな出来事を、ぼくに教えてくれているんだね。」

そのとき、テントウムシはふわりと飛び上がり、幹夫の鼻先に止まりました。まるで「正解だよ」と囁くように。

幹夫は小さく笑いました。鼻の上で羽音が震え、彼の心に小さな光が灯りました。

第四章:五月の別れ

しかし、季節は常に次の章をめくり続けます。

五月の終わり、幹夫が山に登ると、いつもの枝には誰もいませんでした。葉は大きく開き、もう赤い新芽ではなくなっていました。

幹夫はしばらく黙ってその枝を見つめていましたが、ふとその下の地面に、小さな卵のようなものを見つけました。

——テントウムシの卵。

「きみは、次の春への手紙を書いてくれたんだね。」

幹夫はその卵をそっと守るように、周りの草をかき分け、小さな木の枝で囲って風除けをつくりました。そして葉を一枚、ふわりと被せました。

その葉は、新芽のときにきみと出会った、あの楓の葉。

幹夫は目を閉じ、そっと言いました。

「ありがとう。また春に、会えるよね。」

風が吹きました。五月の風。夏の匂いが混じった風の中で、楓の葉がさらさらと歌いました。

そして、幹夫の耳に、小さな羽音が確かに響きました。

——それは、空へと舞い上がっていく、小さな紅玉虫の「ありがとう」だったのかもしれません。

 
 
 

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