緑走る台地 ~かすかな共鳴~
- 山崎行政書士事務所
- 2 日前
- 読了時間: 5分
第一章 落ち着かぬ早朝
昭和八年(1933年)六月下旬。 相変わらず曇天が重く垂れこめるなか、幹夫は下宿でゆっくり朝食をとりながら、机の上に広げたままの手紙や地図を見つめていた。父からの最新の便りは、茶畑再建の希望が高まりつつあることを伝え、井上や山岸の仲間から示唆される東京での抵抗はまだ終わらない。 「短い手紙や落ちたメモしか頼りがないけど、確かに何かが動いている……」 ふと、窓際に吊るした二つの風鈴に目をやる。静岡から持ち帰った錆びた鈴と、東京の下宿でずっと付き合ってきた鈴。それぞれが今は黙っているが、いつか大きく響き合うときが来るのだろうか。 「さて、今日も踏みとどまろう……」 そう自分に言い聞かせ、幹夫は布団をたたんで印刷所へ向かう支度を始めた。
第二章 社長の事情
印刷所に到着すると、いつにも増してバタバタと落ち着かない気配が漂っている。奥へ足を進めると、職人たちがひそひそ声で「社長が急用で帰ったらしい」と囁いていた。 「何だろう……また軍とのトラブルか?」 幹夫が不安に駆られると、堀内が擦れ違いざまに低く囁いた。 「社長、家族が体調を崩したって話だ。けど、この忙しさで離れざるを得ないってよ……。印刷所は今日から数日は俺たちが切り盛りする形になるな」 事実上、幹夫や堀内たち職人グループが工場の生産を回さなければならないのだが、これは軍の追加注文を抱えている状況では決して楽ではない。しかし、ここで“踏み止まる”と決めている幹夫は、ただ小さく決意を固めるしかなかった。
第三章 増産の嵐
軍からの注文はまた増えていた。納期はどれも厳しく、兵士向けの冊子や士気を高揚するポスターなど、内容はますます戦意を煽るものばかり。 「まったく……これを作るのが俺たちの仕事か……」 ある職人がつぶやくと、別の者が「黙れ。下手なこと言ってると聞かれるぞ」と制止する。 幹夫はギリギリのやるせなさを感じながらも、黙々と機械を回し続ける。 (こんな日がいつまで続くのか……。でもこの場所を捨てれば、いよいよ軍の息のかかった連中が牛耳ってしまうだろう) そんな思いが幹夫を支え続ける。だが、息苦しさは増すばかりで、たまにふと立ち止まれば、「ここをやめて静岡へ戻る方がいいのでは……」という囁きが頭をよぎらなくもない。
第四章 堀内の憂い
昼休み、幹夫が倉庫の隅で短い休憩をとっていると、堀内が疲れ果てた様子で腰を下ろした。 「……社長も不在だし、軍の監視は一層厳しくなるだろう。数日以内に“検査”があるかもしれない」 幹夫はただ黙って相槌を打つ。堀内は薄く笑いながら言う。 「まるで、あの頃の満洲の息苦しさを再び味わってるようだ。俺は軍で暮らしながら“こんなはずじゃなかった”とずっと思ってたよ。でも、ここでも似たような苦悩を抱えるとはな……」 その話に幹夫は胸が痛む。どこもかしこも戦争の影が迫り、一歩間違えば己の良心を打ち砕かれる――そんな時代なのだ。 「でも堀内さん、まだ踏み止まってるじゃないですか」 無理やり明るい声を出す幹夫に、堀内は肩をすくめ、「おまえがいるからな……」と小さく呟いた。
第五章 風鈴を磨く夜
夜、下宿で幹夫は“静岡から母が渡してくれた”錆びついた風鈴を少し磨いてみようと思い立つ。古びた金属部分を軽く布で拭き、潤滑油を少し塗ってみると、錆の表面が剥がれかけ、わずかに輝きが戻ってきた。 「ずいぶん傷んでるな……。東京の風鈴と比べると、こっちは歴史を感じるけど……」 ふと軽く揺らしてみる。最初はくぐもった音しか出なかったが、何度か振るううちに、**チリン……**という小さな鈴音が微かに響いた。 「あ……」 幹夫ははっとして耳を澄ます。まだ頼りない音だが、それでも鈴が鳴ったことが嬉しかった。 (父さんの茶畑だって、いつかこうして復活するんだ。いまは錆びついているように見えても、少しの手を加えれば……) そんな希望に胸を温めつつ、彼はもう一つの東京の風鈴を並べて眺め、「どちらもいつか同じ音量で、ちゃんと響き合う日が来るといいな……」とこぼす。
第六章 かすかな共鳴
窓を少し開けると、生暖かい夜風が吹き込み、二つの風鈴を同時に揺らす。 チリン……チリン…… 重なるような、ずれるような、かすかな共鳴が部屋に広がる。幹夫は思わず小さく息を呑んだ。 「今まではなかなか同時に響かなかったのに……」 わずか数秒で音は止まってしまったが、その一瞬はまるで静岡と東京が結びついたかのような錯覚を呼び起こす。「父さん……俺、もう少しここで粘るよ」と呟いて、床に就く。 昭和の不穏な風はますます強まり、軍の検閲や取り締まりが苛烈を極める前夜。けれどその闇のなかで、二つの鈴が短くかき鳴らされた音色は、幹夫の心に確かな炎を灯していた。
エピローグ
夜明け前、いつものように窓の外には曇りがちな空が広がり、人々の憂いを背負うかのように街路が白む。 「もし井上の仲間や山岸が動き出し、そして父が茶畑を取り戻すときが来たら……。この二つの鈴が一斉に高鳴るんじゃないか……そんな夢を見たい」 幹夫は微笑む。たとえいま、紙を通じた抵抗が一時的に途絶えていても、風鈴は鳴ることをやめてはいない。かすかな音であっても、東京と静岡を繋ぐ希望の合図となると信じて。 曇天を割るように、朝日の一筋が部屋に差し込むと、二つの鈴がまた小さく触れ合い、ほんの一瞬だけチリと重なったような気がした。それは幹夫に「まだ行ける。まだ踏み止まれる」と囁いてくれる、ささやかな奇跡だった。
——(続くかもしれない)
Comments