光の墓標
- 山崎行政書士事務所
- 9月28日
- 読了時間: 18分

序章
台風が去った翌朝、港の空気は濃い潮と、どこか甘酸っぱい匂いで満ちていた。 水城遥は、取材用の古いハッチバックを「潮見第二埠頭」のゲート前に停めると、助手席の封筒をもう一度確かめた。差出人不明。中身は数枚の写真——積み上げられた黒いガラス板と、割れて剥き出しになった銀色の線材。片隅に小さく印字されたロット番号。写真の裏にはボールペンで乱暴に「ここから水が出る」とだけ。
ゲートの金網の向こうで作業員が数人、フォークリフトの上で固まっている。山積みのパレット、その上に帯鉄で括られた太陽光パネル。光を飲み込んだような鈍い表面には、昨夜の雨粒が小さな湖のように残っていた。遥は顔を上げ、曇りの切れ間から覗く薄陽に目を細める。光るのは空ばかりで、ここに並ぶ板々はもう陽を電気に変えない。
「関係者の方ですか」
背後から声。振り向くと、黄土色の合羽を着た男がいた。胸のワッペンには「東出」とある。五十代に見える、眼の下に頑固な隈を抱いた顔。
「取材の者です。連絡、いただいたのはあなたですか」
東出はわずかに首を横に振った。 「俺はここで管理をやってるだけ。けど、見せるもんはある」
彼に導かれ、フェンス沿いの細い通路を歩く。パレットの隙間から、薄く濁った水が縫うように流れ、側溝に落ちるたびに泡を立てた。雨水にしては粘りがある。鼻をくすぐるのは、木工用ボンドのような、酢のような、言い得ない匂い。遥は無意識にメモを取りながら、靴の裏がぬかるみに吸い付くのを感じた。
「昨日の夜、あの堤のとこが溢れたんだ」
東出が指差した先に、青いポリタンクがずらりと並ぶ小屋がある。簡易の濾過機と配管。手書きのプレートに「浸出水 一時保管」と墨で書いてある。 「運び込まれてくるパネルは、分別ができてない。ガラス、金属、樹脂、何でできてるのか表示もないのが多い。割れると、雨が降りゃあ、こうやって出る」
「ここにあるのは、どこから?」
「市内からも、県内からも、もっと遠くからも。撤去したやつ、壊れたやつ、在庫で死んだやつ。『中古として輸出予定』のスタンプが押してあるのに、ここで雨ざらしだ」
遥はフェンスの切れ目から、近づけるところまで寄って一枚のパネルを見た。表面のガラスは蜘蛛の巣のようにひび割れ、内部の細い銀色の筋が斜めにちぎれている。裏面の褐色のシートからは泡立った樹脂が滲み、指先で触れなくとも、酸っぱく金属っぽい匂いが立ち昇る。
東出は小屋の中に入り、透明なプラスチック瓶をいくつか出して見せた。どれも薄く色がつき、底に微粒の沈殿が見える。 「昨日採った。市に言っても、回されるばかりだ。『基準内です』って言うやつもいる。けど、ほら、これ」
彼が差し出したのは、手書きのメモだった。日付、採水場所、数値。何の数値かまでは書いていないが、どこかのラボのフォーマットを真似たような表が、殴り書きの数字で埋まっていた。遥が目を走らせていると、東出は言葉を続けた。
「ここに来る前は清掃工場だったんだ。燃やすものと、燃やせないもの。ルールがあって、現場は守ってた。だけどパネルは中途半端だ。ガラスのくせに普通のガラスじゃない。金属のくせに、鉄とは違う。電気製品のくせに、家電じゃない。分類の線を引いたやつが、未来のことを考えてなかった」
風が強まって、破片が触れ合うシャリンという音がした。遥はメモ帳を閉じた。写真の裏の文字、「ここから水が出る」の意味は、見ればわかった。だがまだ「誰が」も「どれほど」も、わからない。
「あなたは、何が心配で私を呼んだんですか」
東出は皮手袋の指先で帽子のツバを押し上げ、遠くの山並みを見た。 「ここの水は、谷に落ちて、川に出る。川は町の上水の取水口のすぐ下を通る。昨日の夜、雨で全部流れた。降る度にそうなる。心配ってのは、目の前にあるだろ」
その日、町の診療所に「水が変な味がする」という電話が何本も入っていたことを、遥はこの時まだ知らなかった。
***
山間の最終処分場では、夜のうちに警報が何度も鳴った。 田浦徹は、古い制御盤に額の汗を写しとりながら、緑や赤のランプが点滅する様子を見ていた。台風のたびに増え続ける数値に、装置は悲鳴を上げる。凝集剤のタンクは空に近い。沈殿槽の表面は灰色の泡で覆われ、かすかに油の反射が見えた。
若い同僚がメモを持って駆け込む。 「沈砂槽、濁度が下がりません。pHは六・八。導電率は——」
田浦は首を横に振った。 「数字はいい。流量を半分に落として、汚泥を先に抜け。二次のポンプは止めるな」
「でも、流し切れないと上から——」
「上は空を見て言ってる。現場は目の前の水を見ろ」
同僚が走って戻る。田浦は窓の外を見やった。金網の向こうで雨に濡れた斜面が鈍く光り、仮置きヤードの黒い山が小さく崩れるのが見えた。あれは軽い。ガラスの下に空気が入っている。雨を吸っても沈まない。だから流れる。どこまでも。
最初の頃、パネルは珍しい産廃だった。様子を見ながら慎重に扱った。だが今は違う。トラックは毎日やって来る。導入から十年、補助金の終わり、台風の増加、工事の乱暴、いろんな理由が重なって、ヤードはあっという間に黒い丘になった。 本来ならば、分解・分別・洗浄・封じ込め——そういう工程を踏むべきものだ。けれど、工程を踏めば踏むほど金がかかる。誰が払うのか、決めたはずだが、決めた側はもういない。会社は名前を変え、窓口は移り、責任は雲のように薄まって空へ消えた。
田浦は制御盤の端に貼られた紙を見た。「苦情対応マニュアル」。そこに書かれた言葉を、彼は何度も繰り返す——「安全です」「基準内です」「心配いりません」。 それが、今夜は喉の奥でつかえた。
***
遥は埠頭を離れ、河口に向かった。堤の上を走る県道からは、茶色に濁った川が迷路のように蛇行しながら、町のアパート群をかすめて海へ落ちていくのが見える。堤の下の桜並木では、散歩の老人が足を止め、川面に浮かぶ泡の帯を無言で眺めていた。
車を停めると、スマホが震えた。差出人不明の番号。 「水城さんですか」
女の声。硬い、しかしよく通る声だ。 「ええ。どちら様でしょう」
「北嶺大学の白井と申します。環境化学をやっています。昨日、あなた宛にデータを送りました。見ましたか」
遥は助手席の封筒を思い浮かべた。 「写真しか」
「紙の束も入っているはずです。簡易の溶出テストの結果。私的に集めたものですから、公にできる代物ではありません。ただ、見ておいてください。近々、市の議会で『太陽光パネル適正処理条例』の改正案が審議されます。そこで、数字が消される可能性がある」
「数字が、消される?」
「見ればわかります」
通話はそこで切れた。遥は封筒を開け、写真の間から小さなクリップで留められたコピー用紙の束を引き出した。採水日、採水地点、測定項目——並ぶ数字の中に、ところどころ黒いマジックで太く塗り潰された欄がある。上から押しつぶしたような、その黒の下で、かすかに曲がった数字の影が見えた。
遥はコピーの一枚を光にかざした。紙の向こうに、誰かの恐れと、誰かの都合が、薄い影になって透けた。
***
市役所の会議室では、ちょうどその頃、事業者と担当課と議員とが揃って、説明会の準備が進んでいた。 壁際のポスターには、青い空と太陽、笑顔の子どもたち。スローガンは明るい。「未来にいいこと」。 だが、机の上に積まれた資料の背表紙には別の言葉が並ぶ。「逆有償」「管理困難物」「広域移送計画」。 大手の再エネ企業の男性社員——名札には「海藤」とある——は、パソコンの画面を閉じる前に、数秒だけ逡巡した。社内チャットの窓に、昨夜遅く届いたメッセージがまだ残っている。
〈コスト上昇止まらず。北部ヤードは満杯。東南アジア向けの中古ルートは一時停止。新規の受け入れ条件見直しを〉
彼は口元を引き締めて、笑顔の練習をした。説明会では反対派が必ず「廃棄の話」を持ち出す。それに対する回答は、研修で何十回も叩き込まれた。「責任を持って」「適正に」「未来の子どもたちのために」。 言葉はいつも正しい。正しくないのは、言葉と現場の距離感だ。
会場の入口で、ボランティアらしい女性が来場者にペットボトルの水を配っている。「地元のおいしい水です」と言いながら。 その水が取水される地点に、昨日の夜、何が流れたかを知る者は少ない。
***
日が傾く頃、遥は河口の片隅で、バケツをぶら下げた少年に会った。小学校の低学年ほど。長靴のふくらはぎまで泥だらけだ。 「何をとっているの」
「エビ。台風のあと、いっぱいいる」
少年は自慢げにバケツを揺らし、中の透き通った小さな体を見せた。水面に泡が集まり、薄く虹色に光る。遥はしゃがみ込み、バケツの縁に目を近づけた。鼻腔に、さっき埠頭で嗅いだのと同じ、甘酸っぱく、どこか金属的な匂いがよぎる。
「お母さんに見せた?」
「うん。今夜、天ぷら」
遥はバケツの水をそっと指でかき混ぜ、泡が割れてはまた集まる様子を見た。言葉が喉まで来て、そこで止まる。何を、どれだけ、どう言えばいいのか。彼が今夜食べる数匹のエビと、埠頭に積まれた数万枚のパネルとを、同じ文に収められる言葉を、すぐには見つけられない。
少年は「じゃあね」と言って走り去った。泥の水しぶきが夕焼けを細かく裂いた。
***
夜、宿に戻った遥は、白井という研究者からのデータを一つ一つ読み込んだ。数字の並びは、単なる数字ではない。誰かがどこかで採った水。誰かがどこかで義務から外れて、別の誰かが補うために掬った水。 紙の端には、手書きでこうも書かれていた。
〈この町は、光で豊かになった。 だが、光の末路を見ないまま、私たちは次の光を欲しがっている〉
遥はデータの束を畳み、封筒に戻した。窓の外では、堤の上の街灯が連なり、流れる川を暗い帯に染めている。台風は通り過ぎた。だが、通り過ぎたものが残す輪郭は、今からゆっくりと浮かび上がる。
机の上でスマホが震えた。メッセージの差出人は、昼間の東出だった。短い文と、暗い写真が添えられている。 〈今夜も流れる。処理が追いつかない〉 〈フェンスの切れ目から、町のほうへ〉
写真の中で、黒い山の裾から白い筋が走り、側溝へと消えていた。手前の水溜まりに星は映らない。夜空は晴れているのに。
遥は深く息を吸い、キーケースを手に取った。 この町の水の味が変わったのは、昨日のことか、もっと前からか。どちらにせよ、明日にはもう遅いのかもしれない。 彼女はドアを開けて、夜の濃さの中へ出た。背後でテレビが流すコマーシャルが、遠くで明るく鳴った。「未来にいいこと」。 遥は歩きながら、小さく笑った。未来は、いつも正しい言葉を好む。だが、誰かが言葉の下に隠した数字と、地面の上を流れる水だけが、正直に重さを示す。
そして重さは、必ずどこかへ沈む。 そこに、町がある。 そこに、人がいる。
物語は、そこから始まる。
第一章 川の味
夜は、匂いから濃くなる。 水城遥が堤防の階段を降りると、潮と泥と、接着剤のような甘酸っぱさが、湿った草の間から息をしていた。東出から届いたメッセージの座標は、河口に近い側溝の切れ目。昼間見たフェンスの裂け目から伸びた白い筋は、今は街灯の橙に溶け、細い光の脈のように流れている。
「こっちだ」
闇の中から東出の声。彼は懐中電灯を伏せ、足もとだけを照らしながら歩く癖がある。光を上げると、誰かの目に入る。現場は、それだけで騒ぎになる。 側溝の鉄格子を外し、東出は伸びる棒で底をそっと突いた。膜が破れ、小さな泡がかたまりになって浮き、鼻に刺す匂いがわずかに強まる。
「雨が上がってからずっとこれだ。工場も台地のヤードも、排水を絞ってるはずだが、詰まったぶんが抜けてくる」
遥は録音機をオンにして、声に時間を与えた。 「昼間見たヤードから直に?」
「直じゃない。直なら俺が止める。あっちは一応タンクを通る。だけど、町には側溝が何本もあるだろ。どれがどれにつながっているのか、紙ではわかっても、雨の夜はわからない。水は一番くだらに行く。『一時保管』の文字より、重力のほうが偉い」
東出は片手で鼻をつまむ仕草をした。 「この匂い、覚えといたほうがいい。ガラスの下に閉じ込められてた樹脂が、濡れてほどけて、古い配線の塗料が溶けて、芯の金属に触る。雨は弱い酸になる。酸は金属を連れて歩く。水は何でも覚える」
「あなたは、その覚えたものの名前を知ってますか」
「みんな知ってる。現場は名前で呼ばないだけだ」
遠くで、夜釣りの人影が川面を覗く。見上げると、堤の上の街灯が風に震え、橙の円がいくつも重なって見える。遥は側溝の縁に小さな採水瓶を置き、スマホの画面で時刻と座標を撮影した。瓶の口が水面に触れる瞬間、薄い虹が指先にまとわりついた。 瓶を立て、ラベルに「No.1 河口/東岸側溝 22:18」と書く。ペン先がわずかに滑る。湿気のせいか、ためらいのせいか。
「これ、持っていっていいですか」
東出はうなずいた。 「持っていけ。俺は、俺が見たと言う。けど、数字は誰かに見せないと消える」
彼の視線が宙で止まる。その先に、フェンスの隙間から差し込む、港の倉庫の青白い光がある。 「ここに積み始めた頃、行政の人間が『再生可能の廃棄物も、再生可能なんだよね?』って笑って言ったんだ。俺は笑い返した。今も、返し続けてる」
遥は瓶をバッグにしまい、鉄格子を元に戻した。上流の黒い闇の向こうに、家々の四角い窓が規則正しく並ぶ。そのひとつひとつに、冷蔵庫のモーターがまわり、蛇口から水が落ち、子どもが眠っている。 水は、覚えたものを誰に渡すのか。 答えは、いつも流れるほうにある。
***
明けて、朝の診療所は軽いざわめきに包まれていた。 「味がする」「金属っぽい」「気のせいだと言われた」——受付の女性は、前夜から続く同じ種類の言葉を、軽やかな笑顔の奥で数えている。 奥の診察室で、白髪まじりの医師・大庭がカルテをめくっていた。遥が名刺を差し出すと、彼は眉間を寄せた。
「水の味の話なら、ここ二日で十件は来てる。腹痛や下痢は、季節柄いつもある。因果を一本線で結ぶのは、簡単じゃない」
「相談は増えていますか」
「うん。『匂い』とか『舌のビリビリ』とか。精神的なやつも混ざる。『テレビで見た』って言い出すと、急に増える。だが——」
大庭は窓の外の桜の葉を見た。 「俺は、水の味が変わる町が好きじゃない。味覚ほど人間の記憶に近い感覚はない。変わったと言う人が出た時点で、町はもう少し硬くなる。肩に力が入る。子を持つ親は、水の音に耳を澄ます。そういう変化は、病名にならない」
彼は机の引き出しから家庭用の浄水器のカートリッジを取り出した。患者が交換したばかりのものを持ち込んだという。それは中央に茶色の帯が出ていた。 「これを見て『気のせいだ』とは、俺は言えない」
診療所を出る廊下で、昨日の少年とすれ違った。脛に泥はないが、背中のランドセルに川の匂いが薄く残っているような気がした。少年は遥を見て口を小さく開けかけ、結局何も言わず、母親の手を強く握り直した。
***
北嶺大学。研究棟の四階、白井の部屋には、朝の光が実験台のステンレスを鋭く撫でていた。 白井は白衣の袖をまくり、手袋を外して、まっすぐに一礼した。彼女の声は電話のときと同じく硬いが、硬さの奥に疲れがあった。
「データを見てくれてありがとう。あの黒塗りは、公的な報告書のドラフトだ。最終版はまだ出ていない。出るときには、数字がまるごと別の表現に置き換わるかもしれない」
彼女は冷蔵庫から小さな箱を出し、ラベル付きの小瓶を並べた。 「これは私的な採水の結果。採水、前処理、測定、すべて記録してある。機器はICP-MSとイオンクロマトグラフ。項目は金属数種と陰イオン、とりあえずの簡易。有機物はTOCだけ。AOFは設備がないから外で頼んだ。だが、その数値が、黒くなっていた」
白井は一枚のコピーを差し出す。黒々と塗られた長方形の下に、薄い影。遥は紙を斜めに透かし、数字の骨のようなものが浮かぶのを見た。
「何の数字です?」
「フッ素系有機化合物の総量。正確に言うと、吸着性有機フッ素(AOF)の定量値。——これは『あるかないか』の話じゃない。どのくらいあるか、どこに分布しているか、処理で増えるか減るかの話だ。数字が消されると、論点が消える」
白井は採水地図を広げ、赤い丸で幾つかの場所を示した。 「港のヤードの下流側溝。処分場の下の沢。浄水場の取水口の千メートル下流。どれも金属は『基準内』の揺れ幅に収まる。でも、酸性度と導電率が妙に合わない。雨だけじゃ説明しづらい。EVAから出る酢酸だけでも説明しづらい。複合だと思う」
「誰が数字を消すんですか」
「誰か一人じゃない。手続きが、誰かの手で『より良い言葉』に揃えられる。『懸念はあるが直ちに影響はない』『現時点では確認されていない』——正しい言葉だ。でも、正しい言葉が正しい順序で並ぶと、現場の湿り気が抜け落ちる」
白井は窓の外を見た。キャンパスの銀杏が、まだ固い緑を乗せて揺れる。 「私は研究者で、あなたは書き手だ。数字はあなたの文章で体温を得る。けれど、あなたの文章は、私の数字で足場を得る。利害は一致しているようでいて、時々ずれる。今日は、ずらしたくない」
遥は、バッグから昨夜の採水瓶を取り出した。 「これを測ってもらえますか。サンプルの取り方は、あなたのマニュアルを真似た。ラベルと座標と時刻。保存は冷暗所」
白井は慎重に受け取り、冷蔵庫に入れた。 「正式な測定は、申請と手続きがいる。だけど、予備ならできる。——結果が出たとして、それをどこに置くか、あなたはもう決めている?」
「決めてない。ただ、誰が数字を押しつぶすのかを、顔で見たい」
白井は微かに笑った。 「顔は、いつも清潔だ」
***
市役所の環境課は、窓口のカウンターが新しかった。ポスターは同じスローガンで白く光る。「未来にいいこと」。 担当の若い職員は、遥の名刺を見てから、用意された言葉を丁寧に並べた。
「当市としては、関係法令に基づき適正な指導を——」 「昨夜の降雨時の流出については——」 「関係部署と連携し——」 「現時点で健康被害は確認されておらず——」
「『現時点』とは、いつですか」
遥が問うと、職員は一瞬目を泳がせてから、笑顔を整えた。 「本日の午前九時時点の確認事項です」
「確認は、どこで、何を、誰が」
「担当課の係長が、現地の写真および作業日誌を——」
遥は写真のコピーを求めた。職員は上司に電話し、数分後、裏紙にプリントされたモノクロ写真が数枚、カウンターの上に置かれた。白い筋は写っていない。フェンスの内側の整然としたパレットだけが並んでいる。 「こちらが現地の状況です」
「昨夜二十二時以降の写真は」
「ございません」
「作業日誌は」
「個人情報が含まれるため、開示には手続きが必要です」
隣の窓口で、年配の女性が水道課に食い下がっていた。 「味が変わったのよ。うちの孫がね、昨日の夜『舌がピリピリする』って——」 「検査の結果は基準内でして——」 「基準の話なんか、わたしにはどうでもいいの。孫が言ってるの。基準は孫の舌にあるの?」
その声は、ポスターの白をほんの少し暗くした。
帰り際、エレベーターを待つ廊下で、彼女は一人の議員に呼び止められた。肩書きは「市議会議員・井原」。小柄だが、目が笑っていない。
「あなた、水城さんね。記事、読んでる。明日の委員会、陳情が集中する。企業も来る。条例の改正案、廃棄物の定義を一部変える妙な文言が入っているの、気づいた?」
「どこですか」
井原は小さなメモ帳を取り出し、丸で囲った条文番号を書き写した。 「『広域移送』の条件緩和。『一時保管』の期限延長。『再資源化予定物』の扱いの拡張。これだけで、山は黒くなる」
「誰が推した?」
彼女は肩をすくめた。 「みんなで推すと、誰も推してないのと同じ顔になる。だから、あなたが『顔で見たい』って言うなら、明日来なさい。顔の間に、白い手袋をはめた手がいくつも見えると思う」
***
午後、処分場では、田浦が溜息でマスクを曇らせていた。 「二次、止めるなって言っただろ!」
若い同僚が汗で頬に張り付いた前髪をかき上げながら叫ぶ。 「でも、一次が溢れる!」
田浦はバルブを半回転戻し、ポンプの唸りのリズムを聞いた。水は機械の鼓動に似ている。少し早ければ、空振りする。少し遅ければ、詰まる。 コンソールの隅に貼られた「苦情対応マニュアル」が視界に入る。「安全です」「基準内です」「心配いりません」——紙の言葉は乾いている。指で触れると、剥がれそうだ。
扉が開き、背広が二人入ってきた。名札に「海藤」。もう一人は、県の環境事務所の職員だ。 「現場、どうです?」
海藤は言いながら、革靴の底で床の水を気にした。 田浦は簡潔に答えた。 「雨水の流入で処理能力を超えています。凝集剤の補充が遅れ、沈殿が不完全。pHは調整中。導電率が下がらない」
県の職員がクリップボードに何かを書き、確認するように言った。 「基準、守ってくださいね」
「守ってる。守ってると紙に書けるように流してる。けど、紙に書く速度と水の速度が違う」
海藤は穏やかに笑った。 「田浦さん、誤解のないように。われわれは敵じゃない。処理コストは上げられない。受け入れ停止はできない。だから、現場の工夫に期待している。——明日の委員会、うちの役員が説明に立つ。『適正に』の一枚絵で行く。あなたは現場のプロだ。現場のプロの顔で座っていてくれると、ありがたい」
田浦は、笑っているつもりなのに、顔が笑っていないのを自覚した。 「顔は、掃除してから持っていく」
***
夕方、港のヤードに黒塗りのワンボックスが入ってきた。運転席から降りたのは見知らぬ若い男で、フェンスの前でスマホを上にかざし、何度も角度を変えて写真を撮る。東出が近寄ろうとすると、男は軽く会釈をして名刺を差し出した。 会社名は初めて見る。都内の住所。肩書きは「資源循環ソリューション本部・調査役」。 「行政の紹介で、現地確認に」
「何を確認する」
「再資源化のポテンシャルです」
東出はその言葉を口の中で噛んで、飲み込んだ。 「ポテンシャルは、紙と会議室にある。ここには重さと匂いがある」
男は笑って、けれど目の奥は笑わない。 「重さと匂いも、ポテンシャルの一部です」
そのときフェンスの隙間から、濡れた猫がするりと入ってきた。黒いガラスの山の陰で鳴く。東出は無意識に近づき、猫を抱き上げようとして、指先にチリ、と走る感覚に気づいた。細いガラスの毛。猫は逃げ、フェンスの向こうの夕焼けに消えた。 指先の浅い傷から、薄く血がにじむ。東出はその指でワンボックスの名刺の角を押さえた。紙の白に、赤がごく小さく滲んだ。
***
夜、遥は宿の机にノートを広げた。 「味」「匂い」「誰の言葉か」「誰の数字か」「どこからどこへ」——箇条書きの列が伸びる。 スマホが震えた。差出人不明。短いテキストと、一枚の写真。
〈ロット番号:KJ-17-08-A〉 〈出荷元:光天トレード合同〉 〈ステータス:中古輸出予定/行先:SEA〉
写真には、パネルの裏面の剥がれかけたラベルが写っている。英数字の末尾に、見覚えのあるフェンスの錆が写り込んでいた。 遥は送り主に返信した。「誰?」 既読になるが、返事はない。 「光天トレード」を検索したくなる指を、彼女は抑えた。今はネットではなく、顔を追うべきだ。井原が言ったように、顔の間を白い手袋が通る。その手袋は紙を扱う。紙は、数字を覆う。
窓の外、川の面に街灯が落ちる。風が強まり、光がちいさく裂ける。 遥は、明日の委員会で質問するつもりの項目を書き出し、番号を振った。
1 『一時保管』の定義の変更意図 2 『広域移送』の必要性の根拠 3 『再資源化予定物』の監視と責任の所在 4 採水と測定の方法・項目・公開範囲 5 数字に手を入れた者の名前
ペンの先が止まる。最後の行だけ、急に重くなる。名前は、いつも最後に出てくる。最後に出てきたときには、もう遅いことが多い。
彼女はペンを置き、静かに息を吐いた。 明日、顔を見る。数字の影も見る。 そして、川の味を確かめる。舌の上の微かな金属を、言葉にする。 言葉は水より遅いが、沈む場所を指さすことはできる。
窓の外を、夜行バスの白い車体が滑っていった。誰かを乗せ、誰かを降ろし、町から町へ、数字から言葉へ。 彼女はノートを閉じた。 夜は、匂いから薄くなる。 朝は、顔から始まる。





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