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山影の街

  • 山崎行政書士事務所
  • 10月28日
  • 読了時間: 19分
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序章 夜明けの叫び

午前四時十三分。郊外の住宅地にある行き止まりの路地で、犬がとつぜん金属を引っかくように吠えはじめた。濡れたアスファルトに街灯の輪が落ち、見慣れた柿の木の影が異様に長い。ゴミ集積所に貼られた「クマ注意」の黄色い紙は、昨夜の雨で角が丸まり、テープの端がはためいている。

「おい、戻れ!」

誰かが叫んだ。耳鳴りのような静寂が割れて、走る足音、倒れるプラスチックの箱、金属の蓋が舗道を転がる音。影が二つ、交差する。大きいほうは黒く濡れて、地面から立ちのぼる土と腐葉土の匂いを連れてきた。もう一つの小さな影は人だった。間を裂くように、犬が吠え続ける。柿の甘い匂いが、急に鉄の味に変わった。

          *

地方紙「みなもと日報」の社会部デスクに電話が入ったのは、その少し前──四時過ぎだった。出勤前の仮眠を切り上げ、記者の石田晴奈はポケットにボイスレコーダーを突っ込み、車のキーをつかんだ。眠りの浅い町の灯が、国道沿いに点々と続く。ラジオは朝のニュースを繰り返し、決まった言葉の並びが、なにか取り返しのつかないことを予告する呪文に聞こえた。

到着した路地は封鎖され、青いシートが風に膨らんでいた。警察官が二人、立ち入り線の外で住民に対応している。柿の木の根元近く、黒い泥の上を、のたのたとした足跡が斜めに横切っていた。指のような五本の跡、踵の丸み。晴奈はしゃがみ込んで、泥についた柿の果肉の粘りに眉をしかめた。街灯の光で、糞と胃液の酸っぱいにおいが強くなる。

「見たのは誰ですか」

「高校生。新聞配達の途中だって。救急車で」

近所の男性が小さく首を振った。「今年は柿がやけに多くなってね。あれだって、ほら、去年から山が削れて、猿も鹿も降りてくるようになった。まさかクマまでとは思わなかったが」

晴奈は黙ってメモをとる。男が言う「山が削れて」は、町の南の斜面一帯のことだ。そこには、外から見てもわかるほど大規模な造成地がある。数か月前、黒い杭が等間隔に打たれ、保安林の看板が外され、古い踏み道がフェンスで断たれた。やがて高所作業車が入り、斜面がパッチワークのように剥がれていった。

「何の工事かご存じですか」

「太陽光だとさ。でかいのができるらしい。うちにも説明会の紙が来たよ」

太陽光。晴奈の耳に、デスクの顔が浮かぶ。固定価格買取制度再エネ賦課金事業者──紙面で見慣れた単語が並ぶ。電気料金の明細にひっそり載るあの項目が、遠くの海の向こうにある資本の断片と繋がっていることを、街は知らない。知らないまま、毎月自動引き落としで払っている。そのお金がどこへ流れていくかも。

          *

斜面の中腹にある仮設ゲートには、白い看板がいくつも取り付けられていた。「朱鷺(とき)ソーラー第七合同会社 発電所建設工区」「設計・調達・施工:東亜新電エナジー・ソリューションズ株式会社」「主要協力:北辰建設神楽林業 ほか」その下、小さな文字で英語と中国語の表記が重なっている。施工会社は日本法人だが、親の親は海外にいる。法人口座は国内、資金の出入りは別の都市、受益権はさらに別の場所。看板は、複数の現実の継ぎ目をきれいに覆い隠す。

ガードマンに名刺を差し出すと、仮設事務所から若い女性が出てきた。「通訳兼調達の**張 雪(ジャン・シュエ)**です。現場監督は出払ってまして」

張の日本語は柔らかく、抑揚に中国語の影がある。机の上には工程表。梅雨明けまでに一段目の基礎を打ち、秋雨前線が下りてくる前に配線の幹線を通す。赤いマーカーが踊る。

「工期が詰まっていますね」

「どこも、そうです。買取価格の期日があるので。遅れると採算が変わりますから」

晴奈は視線を工程表から外に移す。斜面の下方では、ユンボが茶色い土を押し、法面の端にベージュの植生シートが貼られていた。根の浅い若木が、一本だけ傾いている。林床の腐葉土は剥がれ、斜面の水脈が明るみに出た。その水がどこへ行くのか、図面には描かれているのだろうか。紙の上では、雨は平均化されて降る。現実では、たった一晩で線を越える。

「保全帯は、どのくらい?」

環境配慮指針に従っております。評価書も所管に提出済みです」

張は機械的に答えたが、その目はどこか遠くを見ていた。背後の山から、薄い雲が流れてくる。どこかの枝に鳥の巣があり、うっかり切ってしまったらしい。押しのけられた巣材が、事務所の裏の泥に混じっていた。張はそれをちらりと見て、何も言わず、靴の先でそっと寄せた。

          *

市役所の会議室には、いつもの顔ぶれが集まっていた。危機管理課、農林課、環境政策課、教育委員会、そして「再エネ推進室」。表情の筋肉の動かし方まで似てくるほど、何度も繰り返してきた災害対策会議の型。違うのは、机の上に電力会社の担当者の名札が加わっていることだ。

「被害は?」

「一名、重体。出血性ショック。目撃は配達途中の男子高校生」

危機管理課長の声は低い。「本件は動物の問題に見えるが、背景には土地利用の急変がある。林地開発許可、景観条例、砂防指定の境界。所管が跨る。連携を密に」

「学校は?」

「午後から臨時休校に。保護者への連絡網は回しています」

机上の資料の最後に、「再エネ賦課金の推移」と印刷されたグラフがひっそり差し込まれていた。誰が持ち込んだのか。課長はそれに触れない。触れれば議論が逸れるのを知っているからだ。あれは国の制度で、明細書の小さな一行が、遠い投資家の配当と、斜面の一本のを引き剥がす力に変わる。だが役所の机の上では、線が交わらないことになっている。

          *

山の反対側で、山科玲奈はドングリを割っていた。ブナの果実は軽く、指で押すと簡単に割れる。中身の入っていない「虚果(むなぐさ)」が多い年は、クマが山から降りる。統計はそれを示すが、住民は統計では動かない。玲奈は地図に赤い点を打ちながら、里へつづく古い獣道を確かめる。造成地のフェンスが、道のを絞めるように曲がっていた。

「人間のルールに合わせて、道を直線で描くから、こうなる」

同行していた獣害対策員の斎藤茜が吐き捨てる。「山が一枚の板なら、好きに切り出せるのにね。実際は布なんだよ、織り目がある。一本でも糸を強く引っ張ると、別のところが縮む」

茜はフェンスの下を指差した。泥に混じった、黒い毛。低い声が腹の底で鳴るような感覚が、玲奈にも伝わってくる。クマはすでに、この町の匂いの地図を書き換えつつある。柿の木、保育園の給食室、パン屋の油、社員寮の生ゴミ。織り目のほつれ目から、匂いが漏れ、行動圏が街へ染み出す。

          *

晴奈は編集部に戻ると、資料室で合同会社の登記簿を引っぱり出した。代表社員は都内のコンサル会社。職務執行者は別の会社。資本金は小さいが、匿名組合出資の項に妙な影がある。受益権の譲渡契約が、別の信託会社の名義で処理されている。住所は──都内のオフィスビル、バーチャルで検索すると、複数の企業が同一フロアを名乗っていた。

メールの受信箱が光る。差出人不明、件名に「排水計画について」。本文は短く、唐突だった。

予定していた調整池の容量が、見積もりの半分になっています。工期優先で、流出先の河川の出水計算が昨年の平均に差し替えられました。記録のある最大値ではありません。名前は出せません。図面だけ見てください。

添付ファイルを開くと、CADのスクリーンショットが三枚。法面下の調整池の角に、赤で「省略可」と書いてある。省略可。誰が、何の名義で、その選択肢を図面に書き込んだのか。晴奈はプリンターにデータを送り、紙が吐き出される音を待ちながら、窓の外を見た。国道を砂利トラックが過ぎるたび、編集部の窓ガラスが震える。

          *

その夜、自警団が結成された。赤い腕章、貸与の懐中電灯、狩猟免許のない男たちの昂ぶり。古参の猟友会員は首をすくめ、「やめとけ」と言ったが、やめる理由は誰にも届かない。恐怖は、最短距離で意味を求める。意味は、最短距離で敵を求める。「俺たちの山を、よそ者が荒らしたからだ」誰かが言い、別の誰かが頷く。その「よそ者」とは、どこの誰のことなのか。重機のハンドルを握っていたのは、隣町の青年だったかもしれないし、図面に「省略可」の印を入れたのは、都内のオフィスで翌朝の会議に追われていた技術者かもしれない。資金の流れに印を押したのは、海の向こうの年金基金かもしれない。顔のない「誰か」は、常に複数だ。

張 雪は寮の共同キッチンで、鍋を火にかけていた。湯気の向こうで、テレビが臨時ニュースを流している。スマホが鳴る。上海の母からメッセージ。──寒くなってきたでしょう。体に気をつけて。張はスタンプで返し、片手で工程表の修正案を打ち直す。調達の納期、港の遅れ、雨の予報。期限という言葉が、メールの中で何度も強調されている。張は、窓の外に感じる気配に気づいて、ふっと顔を上げた。闇が厚い夜だった。窓枠に映る自分の顔の背後で、何かがさっと横切った。

          *

山科玲奈は、夜の学校の体育館に集められた保護者に向かって、言葉を選びながら話した。「クマは、学習します。人間の動きも、匂いのありかも、一度成功体験があると、繰り返す。重要なのは町全体で動線を変えることです。ゴミの出し方、移動のタイミング、柿の木の管理。短期の対策と同時に、長期の土地利用を見直さないと、根本的には変わりません」

「じゃあ、発電所はやめさせられるの?」

一人の父親が手を挙げた。「私は生態の専門家で、契約許認可は専門外です。ただ、保全帯とコリドー(生態回廊)をきちんと設計せずに斜面を広く剥がすと、被害は増えます。誰が費用を負担するか、がいつも曖昧になります」

「結局、払うのは俺たちだろ」

言葉に苦笑が混じる。電気料金の明細の末尾にある小さな数字──再エネ賦課金。それが払える家と、払えない家。払えるが、納得できない家。納得は、説明の総量ではなく、関与の総量で決まる。計画が降ってくる町では、納得は育たない。怒りだけが育つ。

          *

翌朝、晴奈は編集長室に呼ばれた。机の上に前夜の臨時版が広がり、見出しの字間の詰め方に編集長の癖が出ている。「お前、山の会社、どう見る」

合同会社の背後に、いくつかのSPVが見えます。親は国内に見せていますが、実質は海外の資金と国内の資金が混ざって、外に配当が抜ける形です。設計・施工は国内の下請けに降ろし、地目変更林地開発の許認可の境目で責任が曖昧になっている」

「名指しはできんぞ」

「わかっています。事実で積み上げます。排水計画の縮小保全帯の未整備調整池の容量工程表の期日。それから、住民説明会の記録。空白の時間があるはずです」

編集長は頷き、窓の外を見た。雨雲の腹が重くなっている。「この町は、善と悪の物語じゃ救えん。手続の物語を書け」

          *

午後、造成地の下の谷で、最初の濁りが出た。前日に貼ったばかりの植生シートが、一部で剥がれ、茶色い水が細い筋になって流れ込む。下流の用水路では、老女がざぶざぶと水門を開けていた。「昔は山が水を溜めて、少しずつ返してくれたんだよ。いまは怒ったみたいに一気に来る」

老女は言い、濁った水面に映る空を見た。そこに、規則正しい四角の影が、薄く浮かんだ。まだ設置されていないのに、未来のパネルの影が、もう水面に投影されている──晴奈は、そう感じた。

          *

夜。町の高台から見下ろすと、造成地の仮設灯が点々と燃えている。自警団の懐中電灯の光が、山際で落ち着きなく動く。遠くで犬が吠える。晴奈は車の中で、録音を再生した。高校生の息が荒い。「黒い影が、最初は人だと思った。でも、音が違った。地面が震えて……」彼の声は途中で切れ、救急隊員の指示が入る。録音を止めると、闇が濃くなった。

晴奈は手帳を開き、ページの端に小さく書いた言葉に目を落とす。省略可。紙の上の二文字は、現実のどこを省略し、誰の呼吸を可とするのか。線と線の継ぎ目で、町の時間が僅(わず)かに狂い始めている。その狂いは音もなく、しかし確実に、人と獣と水と金の流れをずらしていく。誰もが少しずつ、自分の範囲だけを守った。その積み重ねが、守られない範囲の外側を広げた。

遠くで雷が鳴った。最初の雨粒がフロントガラスに当たり、丸い輪を作った。この町の物語は、まだ誰にも責任が帰属していない。だからこそ、誰もが、他人の名前を探している。晴奈はワイパーを動かし、エンジンをかけた。青いシートの向こうで、夜明け前の雲がわずかに明るくなる。叫びの後に来るのは、たいてい、説明だ──そして、説明の後に、いつも少し遅れて現実が来る。

彼女はギアを入れ、山裾の仮設事務所に向かった。工程表の赤い線は、雨の夜も動き続ける。動く線と、動かない線。その交差点に、人と獣と、町の時間が、もう一度、集まろうとしていた。


第一部 兆し

第1章 住宅街の足音(視点:記者・石田晴奈)

午前九時、封鎖線は片側だけ外され、路地の端に新しい黄色のテープがゆるく垂れていた。玄関先で住民が低い声で言葉を交わし、昨日の夜の音の記憶を擦り合わせている。「ドスン」「かすれた鳴き声」「金属の蓋」──表現は微妙にずれるが、土と鉄の匂い、湿った草の手触りだけは共通していた。

晴奈は配達途中だった高校生の友人に連絡を取り、駅前の喫茶店で話を聞いた。「最初、人だと思ったのは、柿の木の下に黒いカバンが見えたから。近寄ったら、違った。地面の震え方が、体に来る感じだった」少年は、スプーンを指で回しながら、震えを言葉に変えようとしていた。「音の記憶」を文章にするのは難しい。晴奈は録音を止め、代わりに地図を広げた。路地、柿の木、ゴミ集積所。数日前、別の場所で犬が吠え続けたという通報が自治会に入っている。印を打つ赤い点が、市街地の端でじわりと増えはじめていた。

編集部に戻ると、匿名メールの差出人から再びメッセージが届いていた。

調整池の容量、現場では「梅雨明けまでに仮設で回す」と言っています。仮設は設計の外。現場写真を送ります。添付された写真には、ブルーシートで囲われた浅い窪みと、そこへ導く仮設の塩ビ管が写っていた。周囲の斜面は裸。雨にやられれば、すぐに筋状の溝が刻まれるだろう。

写真を眺めながら、晴奈は机の引き出しから古いファイルを取り出した。三年前、別の町で似た構図を追ったときの記録だ。あのときは、「軽微な変更」という言葉が鍵だった。図面上は同じ面積、だけど斜面の切り方や水の逃がし方を変更扱いにして、審査の厳度を避ける。「誰が、どこで“軽微”を判定した?」ファイルの最初のページに自分で書いた赤字が目に入った。今回も同じ質問から始めればいい。質問はいつも、どこかへ必ず通じる。

夕方、警察発表が届いた。未明の被害者は意識回復、容体は予断を許さず。発表文の硬さの裏で、住民の感情はもっと柔らかく、もっと鋭く動く。晴奈は紙面の割り付けを見直しながら、説明会の日程を探した。町内会掲示板の写真がSNSに上がっていて、そこに小さく、**「朱鷺ソーラー第七合同会社・住民説明会」**とあった。

説明会まで四十八時間。彼女は手帳に、太い線を引いた。

第2章 山を忘れた町(視点:市長・田所剛)

市長室の窓の向こうで、雨がカーテンの糸のように垂れている。田所は電話を切り、机に並ぶ資料に目を落とした。観光消費額の推移人口動態固定資産税の内訳。数字は容赦ないが、数字だけでは町の息遣いは測れない。「クマの件で、午後に議会対応です」秘書が告げる。「発電所の件は?」「推進室から“計画通り”と。説明会で住民の理解を得る、との一点張りです」

田所は背もたれに深く座り直した。再エネの旗は、数年前に自分が掲げた。脱炭素地域経済を同時に語れる、めずらしく前向きなテーマだった。国の補助金、電力の固定価格、企業のCSR、大学の連携。異なる言語が一瞬同じ方向を向く。この町の古い製造業は疲れていて、新しい柱が欲しかった。だが、柱を立てるときに基礎を横着すれば、軒が先に傾く。

「保全帯の幅は? 調整池の設計は?」問いを重ねると、各課はそれぞれの所管を丁寧に説明する。林地開発は県、景観は市、砂防はまた別。田所は、縦割りという便利な言葉で片付けたくなる衝動を抑えた。これは責任回避の問題ではない。制度設計の想定外の組み合わせが、現場に現れているだけだ。「想定外が起きているのなら、想定を更新するのが“政治”だろう」

ひとりごとが口から漏れた。議会では、与党も野党も、この問題を簡単な“賛成・反対”の軸に乗せたがるはずだ。田所は窓の雨をもう一度見た。山は濡れて、静かだ。静かなものほど、壊れるときは速い。

第3章 小さな痕跡(視点:生態学者・山科玲奈)

山科玲奈は、カメラトラップのメモリカードを交換し、車の中でノートPCに差し込んだ。幾つかのフレームに、夜の影が残っている。鼻先を地面に押しつける姿、肩の筋肉の弾み。成獣の雌らしい。もう一枚には、丸い影が二つ、母の後ろを転がるように続いている。子グマだ。「今年は虚果が多い」助手のメモには、ブナとミズナラの調査結果が並んでいる。豊凶の周期がずれ、山のベンチにあたる谷の実りが薄い。さらに斜面が剥がれれば、土壌中の菌根のネットワークが切れる。切れた糸は、すぐには繋がらない。

里に降りたクマを追い返すのは、単純な力の問題ではない。匂いの記憶を塗り替える作業だ。ゴミの管理、収穫のタイミング、通学路の動線。「人も学習します。だから、時間がいる」玲奈は、教育委員会に提出する資料に赤字を入れた。写真の選び方、言葉の強さ。恐怖を使えば早い。でも、早さは長続きしない。2週間で緊張が弛むのを、何度も見てきた。資料の最後に、生態回廊の図を入れた。造成地の周囲に、最低限必要な緩衝地の幅を示す。コストはかかる。発電量も減る。その分を誰が負担するのか、いつも議論が止まる地点だ。

山の稜線に雲がかかり始める。雨の気配に、森の匂いが濃くなる。玲奈はふと思い立ち、造成地の下で拾った黒い毛をルーペで見た。光沢と太さ。やはりクマだ。フェンスの基礎と地面の隙間を潜ったのだろう。人間の直線は、動物の体の形に合わせて曲がってはくれない。だから隙間ができる。隙間は、地図には滅多に描かれない。

第4章 入札の季節(視点:県庁職員・岩崎勇人)

県庁三階の会議室。蛍光灯の白さが紙の肌理を強調する。岩崎は、机に積み上がった入札公告を一枚ずつめくっていた。林地開発の付帯工事、搬入路の拡幅、雨水排水の仮設──件名は細かく分割され、発注者の欄には「朱鷺ソーラー第七合同会社(代理:東亜新電ES)」とある。民間の工事でも、道路占用や県管理河川の工事に絡めば、申請は県に上がってくる。

「最小構成で複数発注、か」岩崎は独り言を洩らした。複数の小口に分けることで、審査のハードルを跨ぎやすくする。守っているのは形式で、趣旨ではない。書類は法に従って美しい。美しい書類ほど、現場の泥に弱い。申請書の片隅に、**「工期優先」**という文字が見えた。誰かが不用意に書き込んだのか、それとも暗黙の前提を言葉にしただけか。固定価格買取制度の期日。その線の内側で、すべてが決まる。

午後、開発側の担当が来庁した。首に掛けた入館証が二枚重なって揺れる。名刺は日本法人、だが背後の資本は混ざり合う。「仮設の排水は、梅雨明けまでの暫定措置です」担当は笑顔で言う。「暫定措置が崩れることも、想定に入っていますか」岩崎は笑わずに返した。「もちろん、想定しています」「想定し、説明し、責任を取る先の名前を、紙の上に明記してください」

担当は笑顔の角度を崩さないまま、メモをとった。会話は、たぶん録音されている。録音を嫌う理由はない。むしろ、言葉を紙に定着させるのは、正直、役所のほうの武器だ。だが、紙の上で強いほうが、現場で強いとは限らない。岩崎は窓の外を見た。灰色の雲が低い。雨は「工期」を知らない。

第5章 請負の鎖(視点:土木会社社長・三上正義)

三上建設の事務所は、国道沿いの倉庫にくっつくように建っている。社員数二十、重機は中古のユンボが二台、ダンプが三台。三上は、見積書の数字を何度目かで見直した。最低制限価格に触れないギリギリの線。燃料費は上がった。人件費も。値切られれば赤字だ。「社長、あの現場、うちが受けるんですか」若い現場監督が不安げに聞く。「元請けは東亜新電ES。さらに上に“どこか”がいる」三上は曖昧に笑った。誰もが知っていて、誰も紙に書かない名前が、現場の空気に浮いている。

「山を崩すのは嫌ですけど、仕事は必要です」監督の言葉は正直だ。三上も同じだ。町の仕事は減った。公共事業は細い。若いのを雇えば、すぐに街へ出て行く。重機を動かす音は、三上にとって生活のリズムだ。「排水の仮設、持つかね」監督が図面を指でなぞる。「雨次第だな。上から来る水は、計算より意地が悪い」「仮設で回す、と元請けは言ってますが」「仮設は、壊れる前提で作るものだ。壊れても、誰がいつ直すかが決まっていれば持つ。決まってなければ、持たない」

三上は、机の引き出しから古い写真を取り出した。父の代、山の道を直したときの写真だ。手作業の砂利敷き、丸太の土留め。遅い仕事は金にならない。でも、遅いからこそ、山の機嫌に合わせる余地があった。携帯が鳴る。元請けから、工期前倒しの連絡だ。期限は、山にも人の体にも容赦しない。三上は短く返事をして、窓の外の雲を見た。重機の爪が、雨の前にどこまで進めるか、頭の中で計算する。雨と、金と、体力の計算式は、いつもぎりぎりだ。

第6章 住民説明会(視点:張 雪/記者・晴奈)

公民館の大ホールに、パイプ椅子がびっしり並び、最前列には「関係者席」と貼られた白い紙がいくつか置かれている。張 雪は壇上の脇で、翻訳機材のマイクをテストし、手元の原稿を整えた。工程表環境配慮事項安全対策。言葉は整っている。整い過ぎているとも言える。

「本日はお忙しい中──」事業者側の責任者が挨拶を始め、張は淡々と訳す。誠意法令順守地元との共生。最初の質疑で、自治会長が立ち上がった。「保全帯の幅は、なぜ三十メートルではなく、十五メートルなのか」「基準に基づき、地形条件を勘案し──」張は訳しながら、胸の奥で小さな違和感を覚えた。基準は下限で、最適ではない。けれど現場では、下限がいつの間にか最適に化ける。次の質問。「調整池の容量が、計画書の改訂で半分になっている。なぜだ」事業者の技術担当が答える。「流域の出水計算を最新のデータで見直した結果──」会場の後方で、誰かが小さく笑った。張は訳しながら、あの赤い文字を思い出した。省略可。図面の端に、誰かが書いた二文字。

場内の空気が重くなる。手が何本も上がる。「パネルの反射は農地に影響しないのか」「イノシシ避けのフェンスは、クマには無力では」「工事車両の通学時間帯の規制を」「用水路の濁りを誰がチェックする」張は機械のように訳し続けた。通訳は、意味の運搬だ。運搬するうちに、荷物の重さが手に伝わる。最後列に、晴奈が立っていた。手に小さな録音機。質問の合間に、目が合う。晴奈は目だけで「後で」と言った。

説明会が終わると、廊下は小さな会議の連続になった。自治会長と市の職員、猟友会の古参と教育委員会、事業者の技術者と若い母親。張は水を飲み、壁にもたれて息を整えた。「張さん」晴奈が近づいて来た。「調整池、仮設の塩ビで回すって、本当ですか」張は一瞬だけ迷い、言葉を選んだ。「梅雨明けまでの暫定です。正式な施工までの」「梅雨は、予定表に合わせて明けません」晴奈の声は静かだった。

外に出ると、雨が本降りだった。公民館の庇から見える道に、仮設の泥よけが置かれている。傘の花がいくつも開き、住民はそれぞれの方向へ散っていった。張はスマホを取り出し、上海の母からのメッセージに返信を打とうとしたが、やめた。言葉が見つからなかった。代わりに、工程表の赤い線を指でなぞる。線は日にちを跨いでも、濡れない。濡れるのは、人間の靴と、山の表土だけだ。

晴奈は庁舎の方へ歩き出した。情報公開請求の書式は、もう何度も書いた。今回も同じだ。許可の文書、改訂履歴、審査の記録、メールの発信者ログ。紙を重ねれば、赤い線の下にある素手の作業が見えてくる。見えるまで重ねる。雨音が強くなり、側溝が低く唸った。遠くで犬が一声吠え、すぐに止んだ。町の空気は、音を飲み込んでいる。飲み込んだ音は、どこかで必ず反響する。晴奈は、手帳の端にまた小さく書いた。省略可──省略していいものと、いけないものの境界線を、誰がどこに引いたのか。

ここまでの要点(物語の芯) 「工期」と「雨」は交渉できない二つの時間。そこに人の都合をねじ込むと、綻びが出る。 「基準」は下限値であって“最適”ではない。現場では下限が最適に化ける瞬間がある。 住民の恐怖は、早く効くが持続しない。持続させるには関与の総量(手続・情報・実地の対策)を増やす必要がある。 役所・事業者・地元請負・研究者の誰もが“自分の範囲”を守る。その積み重ねが範囲外を広げる。

 
 
 

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