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障子の星

  • 山崎行政書士事務所
  • 2 日前
  • 読了時間: 3分

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六月の中旬。静岡の空は、洗いざらしの布のように薄かった。幹夫は八歳で、焼け残った縁側の釘の頭に指を置き、その冷たさで朝を測った。庭の隅には背の低い茶の木があり、つまんだ葉の匂いが指に移った。母は黙って針を運ぶ。糸は細く、音は小さい。

昼過ぎ、裏の物置で小さな桐箱を見つけた。蓋は片方だけ蝶番が生きていて、閉めると乾いた音がした。幹夫は箱の側面に針で小さな穴をいくつか開け、数を数えた。十もあれば足りるだろう、と心の中で決めた。

夕方、駿府城のお堀まで歩いた。水は濁っていないが、光は少なかった。草むらの縁に腰を下ろすと、指先の周りを小さな灯がひとつ、またひとつ、上がっては沈んだ。蛍だ、と幹夫は思い、息を止めて手を伸ばした。掌に収まったのは二つ。箱の中に入れると、蓋の隙間がほのかに明るんだ。

帰り道、幹夫は箱を胸に抱えた。軽いのに、抱えると心が静かになった。家に着くと、母は布で窓を覆い、灯火管制の支度を整えていた。幹夫は障子の前に箱を置き、そっと蓋を少しだけずらした。針穴の点から、黄緑の光が滲み出て、障子紙に散った。星のようだった。数えれば十。増えもしないし、減りもしない。

「きれいだね」

母が低い声で言った。幹夫は頷いた。頷くと、箱の中の灯りがゆっくり移り、星座が少しだけ形を変えた。母は針を置き、障子に映った小さな点を指でなぞるふりをした。触れないで、なぞるだけ。音はしなかった。

「夜が明ける前に、返しておいで」

母はそれだけ言った。約束の形は簡単だった。幹夫は箱のそばに腰を下ろし、膝を抱えた。外では遠くの列車が小さく鳴り、近くでは蛙が途切れ途切れに鳴いた。町は暗く、暗さは静かだった。箱の中の灯は、ときどき強く、ときどき弱くなった。呼吸と同じ早さで、幹夫の胸も上下した。

夜半を過ぎると、灯りはさらに穏やかになった。眠気が来るたび、幹夫は数を数え直した。十。間違えない。数えることは、失うことと別の道だ、と幼いながらに感じた。やがて母が薄い上着を彼の肩に掛けた。布の重さで、意識が少しだけ眠りに沈んだ。

まだ東が白む前、幹夫は立ち上がり、箱を抱えて外に出た。風は乾いて、土の匂いを薄く運んだ。お堀まで行く時間はない。裏手の用水を選んだ。水は細く、音は低い。箱の蓋を開けて、そっと傾ける。灯は一拍ためらってから、湿った空気の中へ出た。ひとつ、ふたつ。目が暗さに慣れると、光はたしかに空へ昇り、見えなくなった。

幹夫は箱の中を覗いた。何も残っていない。ただ、指先にわずかな冷たさが移った。蓋を閉めると、乾いた音が再びした。その音は夜と朝の境に落ち、沈んだ。

家へ戻ると、母は湯を沸かしていた。湯気が窓に薄い曇りをつくり、指でなぞると、すぐに消えた。幹夫は箱を机の隅に置いた。もう光らない。それでも箱は軽く、役目を終えたように静かだった。

「返せた?」

「うん」

それだけの会話が、台所の狭い空気におさまった。朝日が障子に入り、夜の星は紙の表から消えた。幹夫は膝に手を置き、何もない障子を見た。何もないのに、目には点が少し残っている。消える前の像は、心の奥の浅いところに留まる。そこに水があるわけでも、音があるわけでもない。ただ、残る。

昼近くになり、母は針仕事に戻った。幹夫は箱の穴をもう一度数え、十であることを確かめた。足りている。足りなくても、増やさない。そういう決まりが、自分の中にひとつできた気がした。

その日の空は終始うすく、町は静かに働いた。夕方になればまた風が出るだろう。蛍はどこかで上がり、どこかで沈むだろう。幹夫は箱に触れず、障子を見た。光のない障子は白く、白さは空に似ていた。彼はただ、座っていた。黙って、座っていた。

 
 
 

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