日本平の青い実
- 山崎行政書士事務所
- 2 日前
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昭和二十年の六月。朝のうちに風があって、山の上の空は薄かった。幹夫は八歳で、母に手渡された竹の小さな籠を抱え、日本平の段々を上っていった。石垣の目地には、乾いた苔が細く張りつき、指で触れると粉のように崩れた。下をふりかえると町は白く、遠いところだけ光っていた。海はさらにその向こうで、息をひそめるように青かった。
ミカン畑の葉は厚く、風が通るたび裏の銀色がちらついた。ところどころ、摘果で落とされた青い実が草の上に転がっている。幹夫はしゃがみ、掌でひとつずつ集めた。指先に乳白色の汁がつき、傷に触れると少ししみた。匂いは新しい畳の縁に似て、もっと鋭かった。
「皮だけ干せば、冬の薬になるよ」
母が石垣の影から言った。柔らかい口調だった。幹夫は頷いた。頷くと胸が軽くなる。籠の底に小さな青い実が音を立てずに増え、重さの見えない重さが腕に集まった。
畑の主は、藁帽子を深くかぶった年寄りだった。黙ってうなずき、摘果ばさみをひと振りして見せると、また黙った。幹夫は挨拶の仕方を迷い、帽子の縁に少し頭を傾けた。年寄りはそれにも黙ってうなずいた。
段をもう一段のぼると、風が変わった。潮の匂いが細く混ざり、葉の擦れる音が明るくなった。葉陰に、遅れて咲いた白い花がいくつか残っていた。五弁の白は薄く、中心の黄色が小さく見える。幹夫は手を伸ばすのをためらい、花の下に落ちていた青い実を拾った。その小さな重みで、籠がまた少しだけ重くなった。
遠くで汽笛が短く鳴った。音は山腹の棚田を撫で、石垣の角で少し曲がって届いた。幹夫は耳を澄まし、音が消えるのを待った。音の消えたあとの静けさは、さっきまでより濃く、葉の影が深くなったように見えた。
母は腰を下ろし、拾った実を布に広げ、皮を薄くむきはじめた。包丁の刃先が白い筋を引き、皮は帯のように長くほどけた。幹夫は真似て、小刀で一つむいた。上手くゆかず、ところどころ白いわたがちぎれて残る。指に汁がまたついて、今度はその匂いの中に、ほんのわずか甘さが混ざった。
「それでいいよ」
母は言った。褒めてはいない。けれど、足りないとも言わない。布の上の皮はほどかれたまま乾きはじめ、風でゆっくりと揺れた。揺れるたび、匂いが近づいて、また遠のいた。
休みたくなって、幹夫は石垣に背をあずけた。すぐそばに、蜘蛛の糸が一本だけ斜めに張られている。糸は目に見えるか見えないかの太さで、風がふれると、ほんのわずか、光る。糸の端に小さな虫の翅が乾いて残り、翅脈だけが透きとおっていた。幹夫は息で吹いたが、翅は動かなかった。吹いた息の匂いに、自分の指の青い匂いが混ざって戻ってきた。
段の上の方から、子どもの笑い声がした。見上げると、畑の境の細い道を、二人の兄弟が籠を揺らして走っている。籠の中の実が跳ね、緑の光が点々とこぼれた。年寄りが「落とすな」と低く言うと、二人は一度だけこちらを見て、すぐにまた走った。笑い声は石垣の角で折れ、斜面の向こうへ消えた。
幹夫は立ち上がり、もう少し拾った。籠の重さは腕に同じ形で残り、慣れてくると重さは重さでなくなる。葉陰の地面は冷たく、踏むたびに草が納得するようにしなった。
昼を過ぎると、光が強くなって、葉の影がはっきりした。母は布の端を結び、むいた皮を風通しのよい枝にかけた。細い帯がいくつもぶら下がり、風に揺れている。遠目には旗のように見え、近くでは魚の骨のように見えた。どちらでもない、と幹夫は思った。どちらでもないものが、風の中で揺れている。
帰る前に、幹夫は小さな青い実をひとつ、石垣の隙間にそっと置いた。誰に見せるわけでもない。見えないところに、見えるものを置いておくと、心が静かになった。母はその様子を見ていたが、何も言わなかった。
坂を下りはじめると、海が少し広がって見えた。船は見えない。ただ、青さだけが確かで、見ているあいだに少しずつ色を変える。町のほうは霞んで、屋根の黒さがそろっていない。幹夫は、きのうの夜の壕の匂いを思い出した。土と、湿った布の匂い。ミカンの皮の匂いは、その上に薄く重なって、違う匂いになった。
家に戻ると、母は縁側に紐を渡し、皮をひとつずつ洗ってから吊した。細い影が障子に映り、午後の光で伸びたり縮んだりした。幹夫は籠から残りの実を出して、一つだけ手元に残した。その実を頬に当てると冷たい。冷たさが頬から耳へ、耳から肩へと移った。
「ひとつ残したの?」
母が問うと、幹夫は頷いた。母は、そう、とだけ言って、湯をわかしに立った。湯の音が台所で小さくはじけ、庭の土に影が増えた。吊るされた皮は風に揺れ、時々触れ合って、乾いた音を鳴らした。音は短く、すぐ消えた。
夕方、風鈴を出すかどうか母は迷っているようだった。今は音を立てない方がよいのかもしれない。幹夫は縁側に座り、手の中の青い実をころがした。指の腹に、昼間の匂いが戻る。目を閉じると、石垣の隙間の暗さが、実の青さと同じ場所に来た。そこは静かで、音があとから来る。
夜になると、障子の白が濃くなった。母は皮を数え、糸に通して束ねた。束の真ん中に、幹夫のむいた不揃いの一本が混ざっている。母はそれを真ん中にそのまま置いた。整えず、ただ置いた。幹夫はそれを見た。見ているだけでよかった。
寝床に入る前、幹夫は石垣の隙間に置いた実のことを思い出した。雨が降ったらどうなるだろう、と考えた。考えると、眠気がやってきた。雨が降るかどうかは、明日の風が知っている。彼は残しておいたひとつを枕のそばに置き、目を閉じた。香りは弱くなり、しかし無くならず、夜の中で形を変えた。遠くで汽笛がもう一度鳴り、今度は届かないところで止んだ。
朝になれば皮は少し乾き、色が変わる。冬になれば湯に浮かべられ、咳の夜に湯気の中でほどけるだろう。幹夫は、その冬の湯気の白さをまだ知らない。知らないまま、胸の奥で、青い匂いだけが確かに息をしていた。
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