Sラインの迷宮 第14章
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 10分
目次(章立て)
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中
第5章 柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者
第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言
第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点
第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口
第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差
第11章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
第12章 狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ
第13章 桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路
第14章 入江岡〔S14〕— 港町の仮面
第15章 新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル
※駅名と並びは静鉄公式サイトの駅一覧(S01〜S15)に基づいて

第14章 入江岡〔S14〕— 港町の仮面
1
午前五時五十一分。入江岡のホームに降りると、潮の匂いが鼻に絡んだ。空はまだ薄墨で、南から吹き上がる風が、遠いクレーンの先で霧笛の低音を崩す。線路はこの先で緩やかに右へ曲がり、新清水へ滑り込む。佐伯悠人は、ホーム端から港の方角を見遣った。川筋の白い帯、巴川の口。狐ケ崎で見た狐火の帯が、水の上ではすっかりほどけ、灰色の呼吸だけが残っている。
「ここで顔が変わる」真嶋が言った。「仮面の付け替えだ」群衆で溶け、橋で短絡し、坂で距離を稼ぎ、光で時刻を揃えた連中は、港で顔を変える。入江岡はその玄関だ。
2
駅前の角に、小さな仮面屋がある。祭礼用の天狗面や獅子、観光客向けの狐面が並ぶ。店主の籠島は、粘土の手を止めた。「港の観光案内所に卸してましてね。絵付け体験の素材。朝は荷の引き取りがある」「今朝の五時台に黒いマスクの男が来たろう」籠島は眉を動かした。「黒いマスクは大勢来るけど、今朝は変だった。喋らない。払うときにグローブをしたまま小銭を置いた。手袋の先に黒い粉が付いてた」ニトリル粉。佐伯は、レジ横のガラスの縁を指で撫でた。灰色の薄膜。桜橋で見た樹脂の兄弟のようなざらつき。
3
港町の仮面は、文字通りの面だけではない。法人の仮面、NPOの仮面、委託と協賛の仮面。顔を重ねるほど、責任の輪郭は薄くなる。由比がファイルを開いた。「『港町クリーン朝』という任意団体。朝の清掃ボランティアを名乗り、ベストを貸与。RFIDの**『VOL』タグは、ここの名義でした」S09で拾ったRFIDタグの印字。VOL。「代表者は不記載**。連絡先はレンタルオフィス。契約者は綿貫さんの関連財団」仮面はすでに用意されていた。
4
入江岡から巴川までの道に、吹き流しのような小旗が何本か立っている。港湾防災訓練の残り。木戸(県土木)が旗の根元を掘った。「ケーブルが短い。仮設で挿して抜いた跡。狐火の無線にも似ているが、こっちは有線」短絡の技術は、港にも持ち込まれていた。訓練の仮面を被って。
5
港のレンタルオフィスは、透明な壁と白い机でできた仮面の箱だった。受付に誰もいない。由比が入退室ログを出す。「05:49、法人カードの**『清掃団体代表』が入室。滞在三分で退室」「三分」S10で見た三分が、ここにもいる。部屋に残ったのは、紙の匂いと、机の角に付いた柑橘。比嘉の車の芳香は、会議室にも着くらしい。
6
机の上に、一枚の仮面が置かれていた。狐面。絵付けの途中。額に極細の亜鉛粉がかすかに散っている。志水(学芸員)がルーペで覗く。「S08の亜鉛片と似ています。北スロープの防滑材に混じっていたタイプ」仮面に貼り付く粒。駅から港へ、粉が旅をする。
7
港の空倉庫に、黒いマネキンの頭が二つ転がっていた。黒いマスクが装着されたまま。荻野(運送)が顔をしかめる。「イベント運営が**『防災啓発』で使う小道具です。霧笛の大音量でも声が通るマスクのテストに」市河(音響鑑識)がマイクを当てる。「マスクの繊維が高域を削り**、低域は通す。霧笛の逆位相を当てれば、声が浮く」仮面は隠すだけではない。選んで通す。港町の仮面は、声に顔を与え、別の声を消す。
8
港湾倉庫の壁に、吸音材が貼られている。その上から白い幕。表には**『港湾防災週間』のロゴ。木戸が吸音材の端を持ち上げた。裏に、薄いスピーカパネル。「逆位相を吹くための面だ。霧笛と逆の波形を出して**、外の耳には霧笛だけが残る。中では声が浮く」仮面は音にも貼れる。貼った音は、貼った者しか聞けない。
9
浅倉は、背広の襟を直した。「私は、ここで**『鳴らす』のを学んだ**。線路のベルと港の霧笛は親戚だ」「親戚の言葉を港に貸した。狐火ダイヤの**『05:33』、橋の『05:42』、ここの『05:49』。三分の最後**」浅倉は頷いた。「時間は移せる。音で、光で、紙で」「紙?」彼は封筒を出した。『港町クリーン朝—参加証』。VOLの大きな文字。裏に小さく『港湾都市文化財団』。仮面の裏に名前はある。小さく。
10
綿貫が、倉庫の奥から現れた。今日は作業着に白手袋。「ここは文化の倉庫だ。港の仮面、祭りの道具、防災の教育材」「仮面は顔を隠す。教育材は意図を隠す」綿貫は薄く笑う。「意図は見えるかね」佐伯は壁を指した。スピーカパネルと吸音材。「音を消して、声を見せた。それがあなたの意図だ」「証拠は」「声の波形と、あなたが出した****財団の伝票。『港湾防災週間 音響教材(逆位相パネル一式)』」仮面に宛先は印刷される。
11
入江岡の踏切が、港へ抜ける裏導線の手前で一度だけ鳴る。狐火の帯が遠くで細くなり、霧笛の低音が膨らむ。市河は波形を重ねた。「霧笛の基本波は80Hz前後。逆位相パネルは遅延を噛ませて位相を合わせる。港の風で少しずれる。ずれを人が補正する」「誰が補正した」「根津だ」由比が応える。「S08のケーブル、S13の短絡、S11の坂。全部、身体で補正するタイプだ」仮面の内側の顔が、また一つ見える。
12
仮面屋の籠島が、包みを持って駆けてきた。「忘れ物。黒いマスクの替えです。耳紐の縫いが粗い。量販の特価。糸の撚りが甘い」鑑識が受け取ったマスクから、黒い微繊維と、柑橘と僅かな魚粉。「港の空気が付く」荻野が言った。「夜に冷凍庫の扉を開け閉めするとこうなる」マスクは顔を守る。同時に顔を運ぶ。
13
レンタルオフィスの隣室で、Wi‑Fiルータが二台並んでいた。一台は財団名義、一台は匿名。南雲が画面を示す。「匿名はMACアドレスを毎時でランダムに変える設定。来客用と言いながら、実際は追跡を断つ」匿名の仮面。「二台のルータの時刻に三分のズレ」「三分」三分が宿る場所は、港にもある。
14
高砂は、手帳の端を撫でた。「匿名は善だと信じていた。被害者を守るための匿名。でも、あなた方は**『匿名化』と呼ぶ**」「匿名が**『外縁』の顔になったとき、善は仮面に変わる**」彼女は頷いた。「仮面は顔を消さない。顔の輪郭を少し動かすだけ」輪郭が動けば、時刻が動く。時刻が動けば、導線が変わる。
15
綿貫の机に、一枚の図面が置かれていた。
朝の導線(港区域)霧笛位相:−π(倉庫内)/+π(外周)匿名Wi‑Fi:MACローテ60m安全余裕:180秒佐伯は図面の端に親指を置いた。「位相で声を隠し、匿名で足を隠し、180秒で時刻を緩める」綿貫は目を細めた。「あなたは設計を犯罪と呼ぶのか」「あなたは犯罪を設計と呼ぶ」呼び名は仮面だ。どちらの仮面が正面か。
16
巴川の河口で、風が急に向きを変えた。市河が耳を澄ます。「逆位相が外へ漏れて、霧笛が薄くなった瞬間がある。05:49:32。レンタルオフィスの**『代表』が退室した時刻と一致**」仮面の顔は、風にも映る。その風に、声がひっくり返る。
17
入江岡の駅務室で、相良は壁に耳を当てていた。「私は、ここから港を見ていた。見ているだけだった」「言葉は投げた」「言葉は仮面だ」相良の声は小さかった。「仮面は剥がれると粉が出る」粉は、駅から港へ続いた。
18
根津は、倉庫の入口で立ち止まった。「仮面は便利だ。顔は一つで足りる」「あなたは何枚持っている」「三枚。荷役、ボランティア、『安全の人』」「『押す人』は」根津は首を振る。「俺は押していない」押した手は比嘉。押させる声は浅倉。消す光は高砂と根津。短絡は橋。仮面を変えるごとに、役は変わる。
19
志水が、仮面屋から預かった狐面を裏返した。端に黒い筆で小さな印。
W「誰の印?」籠島が肩を竦める。「名入れの注文が入ることがある。頭文字を入れてほしい、と」W。Watanuki。Wは仮面の内側にあった。
20
綿貫は、狐面を見つめていた。「記号だ。意味はあとから付く」「あなたが付けた」「付くべくして付いた。港は顔を揃える。揃った顔は美しい」「美しさは罪を覆う」綿貫は笑わなかった。仮面は微笑の形をしている。
21
検察協議。
逆位相パネル:財団伝票・設置写真・音響ログ(80Hz±、遅延補正)。
匿名Wi‑Fi:MACローテ、時刻ズレ180秒。
仮面類:狐面の亜鉛片、黒マスクの魚粉・柑橘。
仮面の印:W。
人的関与:根津(補正・短絡)/高砂(供与・閉鎖)/浅倉(声)/相良(言葉)/綿貫(設計・資金・外縁)。港町の仮面は、音・光・匿名の三層で顔を作り直す。顔が変われば、証言が変わる。証言が変われば、時間が変わる。
22
高砂は、港の風の中で目を閉じた。「私は、顔を守るために仮面を用意した。でも、顔を変えるために使われた」「善意は仮面に似る。表だけ見える」彼女は頷いた。「もう、剥がします」仮面が剥がれる音はしない。代わりに、波が割れ、風が変わる。
23
綿貫は、最後まで仮面を外さなかった。「私は、朝の導線を整えた。事故が減るように。街の顔を綺麗にするために」「綺麗の裏で、一人が落ちた」「統計」「名前」佐伯は、狐面の裏のWを彼の前に置いた。「統計の外にある、あなたの頭文字だ」綿貫は目を伏せた。それは仮面が揺れた瞬間だった。
24
夕刻。入江岡のホームに戻ると、港の風が少し生温かい。夜桜の季節は遠い。狐火は消え、霧笛は沈黙し、仮面は棚へ戻った。真嶋が静かに言う。「次は終点です」「新清水〔S15〕」「港の顔が表になる場所」佐伯は頷いた。「仮面が外で、顔が中なら、終点で裏表を入れ替える必要がある」最後の一拍が、まだどこかに残っている。
小結(捜査メモ/S14)
入江岡—港エリアは、**仮面(Mask)**を三層で運用:
音の仮面=逆位相パネル(霧笛に重ねて声を浮かせ、外へは霧笛だけを残す)。
光の仮面=狐火ダイヤの残照(巴川反射/橋の短絡タイミングと結節)。
匿名の仮面=MACローテWi‑Fi+法人/財団/任意団体の名義レイヤ。
物証:
狐面から亜鉛片(S08の北スロープ素材と整合)。
黒マスクから魚粉/柑橘揮発物(港由来)。
スピーカパネル伝票(財団名義・港湾防災週間)。
レンタルオフィス入退室(05:49)+逆位相漏れ(05:49:32)。
RFID『VOL』=港町クリーン朝名義(代表不記載、財団回線)。
人物整理:
綿貫=外縁の設計・資金・名義の提供(W印/180秒の思想/匿名の運用)。
根津=身体で位相補正・短絡実行。
高砂=装備供与・閉鎖操作(善意という仮面)。
浅倉=声の誘導(ベル→霧笛)。
相良=言葉の投擲(鍵・表示の言外)。
比嘉/上原=押した手/教唆の核。
結論(現時点):港町の仮面は、顔を守るための技術を顔を変えるために用いた設計犯罪。立件は物証層の積み上げで外縁(綿貫)へ接近。
未了:終点 新清水(S15)での「表と裏」の反転、資金・人・機材の合流点の確認。
— 第14章 了 —





コメント