Sラインの迷宮 第2章
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 13分
目次(章立て)
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中
第5章 柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者
第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言
第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点
第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口
第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差
第11章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
第12章 狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ
第13章 桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路
第14章 入江岡〔S14〕— 港町の仮面
第15章 新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル
※駅名と並びは静鉄公式サイトの駅一覧(S01〜S15)に基づいています
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符

1
午前五時四十八分。日吉町駅の始発は過ぎ、ホームに薄い静けさが戻っていた。線路の向こうで、配達員のオートバイが片足で器用に停車し、新聞を束ね直す。駅前の通りは短く、角を一つ曲がればすぐに路地だ。舗装がところどころ古い。雨樋が低い屋根の縁を走り、夜露が乾き切らずに鈍い光を残す。
佐伯悠人は、改札の内外を測るように視線を送った。改札機は二台。簡易改札は、昨夜の点検でここにも仮設された形跡がある。電源ケーブルのゴム跡が、床のタイルに薄い直線を刻んでいた。撤去は夜明け前――。「何時に外しました?」駅員の若い女性が答えた。「五時十五分頃です。工務の方が来て、二人で」五時十五分。新静岡から徒歩で来たなら、出場を刻めるぎりぎりの時刻だ。
「由比さん」佐伯は背後に声をかける。新静岡の構内警備員・由比は、夜勤明けの目を細め、ホームの端から通りを眺めた。「この路地、朝は人が少ない。新聞屋とパン屋くらい。音がよく通る」「ベルも?」「はい。新静岡のベル、時にここまで届きます。風向きで」音は、距離を短縮する。記憶に残る合図は、場所の境界をぼかす。
2
改札脇の売店はまだ開いていない。代わりに、駅前の角にある小さな喫茶店が暖簾を半分だけ出していた。「カジワラさん」真嶋が呼ぶ。地域の見回り役のような初老の店主が顔を出した。「今朝、変わった客は?」「変わった客は毎日だよ。だが今朝はね……路地に、小さな紙切れが一枚。切符さ。新静岡→日吉町。雨でふやけてなくて、逆に新しい匂いがした」カジワラは白い布巾で手を拭きながら、店の横手に続く路地を指した。「電柱の陰。早朝の五時半前後。新聞屋が『落ちてましたよ』ってドアに挟んでいった」「まだ保管してますか」「熱で文字が消えるタイプだろ。だから冷蔵庫に入れた。癖でね、レシートもそうしてる」佐伯は苦笑し、礼を言って店内に入った。冷蔵ケースには瓶牛乳と缶コーヒー、その横に小さなチャック袋。袋の中には、感熱の乗車券が一枚、息を潜めるように横たわっている。
袋の口を開け、紙片を取り出した。印字:新静岡→日吉町 大人1 05:12発行端末番号:VM-02(前章で見たものと一致)「発行時刻が同じだ」真嶋が息を漏らす。「二枚ある」佐伯は紙の反りを指で感じ取った。「駅務室にある一枚と、ここにある一枚。同一の発行時刻、同一端末。短区間」由比が路地に目を向ける。「置き去りというより置き直しだな」「置いた者は、発行時刻を証拠にしたい。場所だけ差し替えるために」証拠は、抜いたピンの穴を別の場所に挿し直すことができる。
3
喫茶店のテーブルに、白いハンカチを広げ、その上で切符を検める。印字は濃い。角にわずかな黒い縁取り。佐伯はライターを近づけないように注意しながら、指先の温度だけで紙の反応を探った。感熱紙は熱に敏感だ。ポケットの熱でも薄くなる。「冷蔵に入れてたのは正解だ」カジワラが鼻を鳴らす。「レジをやってりゃ覚える。朝の紙は弱いんだよ」「拾ったのは誰?」「新聞屋の少年だ。いつも通る。挨拶の声が少し高い子だよ」「呼べますか」「もう配り終えて、コンビニでカップ麺啜ってる頃だ」
真嶋が店を出て行き、ほどなくして少年と戻った。制服のジャージに蛍光ベスト。眠たげな目が、警察手帳に少し怯える。「この切符、どこで見つけた?」「電柱の根元。猫が臭いを嗅いでて、鼻で押したときにカサって言った」「何時頃」「五時二十五分。二十四分かも。時計、見たんすよ。あと二束で終わりだって」05:24—05:25。佐伯は時刻表の棚にその数字を置いた。05:21に新静岡の始発。徒歩なら九〜十分でここに来られる。切符を先に発行しておき、ここに置く。「濡れてた?」「乾いてました。砂がちょっと。端に黒い粉、靴のゴムみたいな」「ありがとう。助かった」少年が出ていくと、店内に再びコーヒーの匂いが満ちた。
「粉は鑑識へ。紙の繊維に入った砂は路地の砂だ。駅構内の砂と粒が違うかもしれない」佐伯は袋に切符を戻した。「置き直しの意図は明白だ。入場は新静岡で05:06、切符の時刻は05:12、置いたのは05:24-25。記録を場所に接続するための杭」由比の眉が上がる。「誰の杭?」「アリバイを作りたい人。あるいは誰かのアリバイを壊したい人」
4
日吉町駅のカメラは、改札内に二機、外に一機。路地にはない。代わりに、喫茶店の出入口上に古い防犯カメラが一つ。カジワラがリモコンを取り出す。「録画は上書きが早いが、今朝分はまだ残ってる。顔は映らんが、腕は映る」映像には、05:24台に電柱の前で動く影。猫が短く跳ねる。手が紙片を下に押し込むように置く。袖口は作業着の色。反射テープが一瞬だけ光る。「工務か清掃か配送か」真嶋が言う。手つきは慣れている。落とすのではない。置く。角を指で抑える癖。「誰かは分からないが、いつ置いたかは分かる」佐伯は映像の時刻に目を細めた。「喫茶店の時計は正確か?」「時報で合わせてる」「なら、05:24。ベルが鳴ったかどうかで迷う時間じゃない」
5
駅務室の日誌。簡易改札の撤去は05:15。作業者は工務課の二人。作業完了のサイン。佐伯は工務の詰所へ電話を入れた。「五時十五分に日吉町で撤去。作業後、どちらへ?」『音羽町に回って設備箱の点検。その後長沼』「作業服は?」『反射テープ付きの紺。袖口に蛍光』反射。映像の光と一致する。
「作業員が全員、共犯とは限らない」佐伯は受話器を置いた。「移動中に頼まれて置いた。『落とし物を拾ったからここに置く』――善意の誘導」由比が唸る。「言いそうなやつ、いるな。駅の顔みたいな人。お願い上手で、頼まれれば断れない」「誰だ」「狐ケ崎の清掃の主任。朝の一便に同乗して、ここで降りて点検を手伝うことがある。反射ベストの色が似てる」
6
午後。佐伯は狐ケ崎の清掃事務所を訪れた。主任・小谷。五十代、声が大きく、お願いが上手そうな笑顔。「日吉町?今朝は寄ってないはずだが」「五時二十四分頃、路地に切符が置かれました。反射の袖。置き直しです」小谷の笑顔が一瞬だけ硬くなる。「拾得物なら駅へ届けますよ。置きはしない」「頼まれたなら?」「誰に」「駅の内情に詳しい誰か。試験音の時間まで知っているような」小谷は目を逸らし、壁の時計を見た。秒針が十二を指す。「車庫の若いのがいますよ。朝の合図、緊張で早めに鳴らしたって言ってた。見習い。名前は川嶋」
7
長沼。車庫の片隅に、控えめな眼鏡の青年が立っていた。車掌見習い・川嶋。「今朝、ベルを鳴らしましたね」「試験で……先輩の指示で」「五時前にも?」川嶋は唇を湿らせ、「……はい。入換の合図が必要で。短く」「駅の外まで届くことがある」「そう、みたいです」佐伯は一歩近づいた。「あなたに『置き場所』を頼んだ人がいる。日吉町の路地。切符。05:12の印字。あなたは頼みを受け、別の人に『拾ったらここに置いて』と伝えた**」川嶋は首を振った。「違う。ぼくは何も――」「嘘をつくと、時間が歪む」佐伯の声は低い。「今朝のあなたの時計は三つある。車庫の時計、自分の腕時計、駅の表示。どれで動いた?」川嶋の目が揺れた。青年は時計を見ない。合図だけを見る。「頼んだのは誰だ」沈黙が落ちる。やがて、川嶋は小さく言った。「港の人です。新清水側の倉庫の。昨夜、先輩と一緒に食事して……相談を受けたと」「先輩の名前」川嶋は言い渋ったが、最後には吐いた。「浅倉です」
8
浅倉。長沼の車掌。勤続十年。几帳面、規程にうるさいと評判。佐伯は勤務表を追い、浅倉の昨夜の行動を洗った。終電の添乗、点検立会い。新静岡へ戻り、引継ぎ。その後――空白。「港の人と会った」川嶋の証言。綿貫が言及した**『朝一の港側の会合』。駅と港を結ぶ線は、時刻と導線の設計だ。浅倉が合図を前倒ししたのなら、ベルの記憶は二重になる。『鳴っていない』と言える**位置にいる――鳴らしたから。
9
日吉町の路地に戻ると、午後の日差しが角度を変え、電柱の影が切符の位置に重なっていた。佐伯は路面に膝をつき、砂を指で弾く。金属粉が混じる。自転車のブレーキの削り粉。「朝、新聞屋が言ってた黒い粉」鑑識が顕微鏡写真を持ってきた。切符の端の黒は、ゴムではなく樹脂。ワゴンのキャスターの削れ。「押し込んだのは手。だが角を押さえたときに、キャスターが紙に触れた。誰かが荷物を押しながら置いた」「配送か」「駅の台車かもしれない」置き直しは、動きのついでに紛れる。
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「日吉町にロッカーは?」「ない。新静岡と新清水だけ」由比が即答する。「なら、ロッカーの鍵は新静岡のもの。鍵と切符を別々に拾得させ、場所を分散させる。ロッカーは駅の証拠。切符は路地の証拠」佐伯は地図を広げた。新静岡—日吉町。徒歩ルートの変種が三本。
最短の直線(九〜十分)
裏通り経由(十一〜十二分、人目が少ない)
川沿い(十三分、音が抜ける)置き直しの人選は、裏通りに詳しい者。配送や清掃や工務。頼まれれば普通にやるくらいの関係。
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夕暮れ前、浅倉が勤務を終えて詰所に戻る。佐伯は正面から切り出した。「今朝のベル。鳴らしましたね」浅倉はカレンダーに視線を泳がせた。「入換の合図です」「五時前にも鳴らしている。駅外に届く」「必要でした」「必要だったのは、『鳴った事実を曖昧にすること』だ」浅倉の肩が微かに上下する。「港の人と会った?」「昨夜、食事を一緒にしただけです。仕事の話を」「仕事の話に、切符は出た?」沈黙。「05:12に発行された短区間券。二枚。一枚は駅の拾得。もう一枚は日吉町の路地。あなたが**『置いておいてくれ』と頼んだ**」浅倉の視線が硬く、細くなった。「証拠は」「証拠は、時間だ。あなたは合図を早め、駅の時計を揺らした。切符の時刻に人の動きを貼り付け、場所を入れ替えた。それができるのは、誰だ?」駅は合図で動く。合図を動かせる者は、動線を設計できる。
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その夜、綿貫から電話が入った。「社員のご遺体は、明日、司法解剖。会社としても全面協力する」「港側の会合の相手の名簿をほしい」「出せる分は出す。だが政治が絡む。慎重に」「あなたは今朝、新清水の始発に乗った。05:46入場、06:12出場。隙は十五分しかない」「隙は作らない。それが私の仕事だ」電話は静かに切れた。隙を作らない人間は、隙を作る技術を知っている。誰がそれを学んだのか。
13
佐伯は切符の紙質を再確認した。駅務室の一枚は、角がわずかに波打つ。朝の湿気に晒された形跡。喫茶店の一枚は、冷蔵により硬く、反りが少ない。置いたのは乾いた時間。05:24-25。「05:12という数字は、証拠ではなく道具。いつでも取り出せる道具を用意した」「誰が用意できる**?」「駅の内側に入れる者。券売機の位置、端末番号、監視の穴を知っている者」由比が頷く。「浅倉かその周辺」「ただし――置き直しの手そのものは別人だ。善意の中間役を挟んだ。『頼まれて置いた』人。犯罪の自覚がない人」
14
深夜。日吉町駅前の喫茶店は灯りを落とし、路地は街灯と自販機の白が支配する。佐伯は電柱の根元にしゃがみ、朝の角度を想像で再構成した。新聞屋の視界。猫の動き。手の置き方。キャスターが紙に触れる瞬間。「置いたのは、軽い台車を押していた人。配送の途中。頼まれて、ここで**『見つけやすいように』置いた」誰に頼まれた**?駅で顔が利く人。『善意で』と言えば人を動かせる人。浅倉。小谷。綿貫。港の人。結び目は、どこだ。
15
翌朝。浅倉は事情聴取に応じた。弁明は規程通り、合図は必要、切符は知らない。だが、川嶋の証言は変わらない。『先輩が頼まれたと話した』。頼んだのは港の人物。新清水の倉庫。綿貫は否定する。『朝の港の会合は事実だが、夜の会食は知らない』。嘘は重ねるほど薄くなる。時間の縫い目が透けてくる。
16
佐伯は港へ向かった。倉庫の並ぶ敷地に、古いプレートがある。「清水港物流」。被害者が倒れていた配送センターの古いプレートと同じ書体。倉庫の守衛が言う。「昨夜、スーツの二人組が打合せに来た。二十三時過ぎ。『朝の導線の確認』だと」「名簿に名前は?」守衛が逡巡した末にメモを見せる。浅倉の名字。そして、もう一つ。浅倉とは別の名前。相良。佐伯は固まった。新静岡の駅長代理。朝、表示板を操作した本人。
17
相良は、警察署の面談室で静かに座っていた。「昨夜、港に行きましたね」相良はわずかに顎を引いた。「導線の説明を求められた。個人的な付き合いだ。会社は関与していない」「表示板の同期が乱れた。試験音が重なった。05:12の切符が二枚。一枚は駅。一枚は路地。あなたは時計を揺らし、浅倉は合図を動かした。港の人は置き直しの人を用意した」相良は目を閉じた。「三輪さんは来るはずだった。朝一で。再編に同意する条件が揃ったと聞いていた」「彼は死んだ。駅の裏通路で」「それは事故だと」「あなたは事故を事故に見せかける技術を持っている。駅の時間を動かせるから」相良の指先が微かに震え、やがて重ねられた手が静かになった。「私は、人を殺していません」「なら、誰が」相良は一点を見つめたまま、別の名前を出した。「綿貫さんが連れてきた『港の調整役』。名刺には別の会社の名前が書いてあった」
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名刺。港の調整役――上原。連絡先は携帯のみ。会社住所はレンタルオフィス。上原の通話履歴には、古いスライド式端末への発信が今朝四時台に二度。『ベルは鳴っていない』。フードの男の声。上原は合図と表示の揺らぎを知っていた。駅の内側と港の外側を針金のように繋げる****役。
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日吉町の路地に戻る。電柱の根元の砂。切符の反り。キャスターの粉。新聞屋の少年の記憶。置き直しという小さな工作が、大きな嘘の支柱になっている。支柱を抜けば、全体が傾く。佐伯は手帳を閉じ、次のページに書いた。第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音。足音は誰のものか。駅の内側と港の外側を行き来できる靴を持つ者。上原。浅倉。相良。綿貫が開けた扉の向こうに、もう一人がいる。
20(終)
夜、日吉町のホームに一両が滑り込む。ベルが短く鳴り、扉が開き、閉じる。合図は街を動かす。切符は時間を留める。誰かが合図をずらし、誰かが切符を置き直し、誰かが人を押した。足りないのは、押した手の温度だけだ。その温度は、次の駅で必ず残る。
— 第2章 了 —





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