Sラインの迷宮 第4章
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 13分
目次(章立て)
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中
第5章 柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者
第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言
第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点
第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口
第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差
第11章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
第12章 狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ
第13章 桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路
第14章 入江岡〔S14〕— 港町の仮面
第15章 新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル
※駅名と並びは静鉄公式サイトの駅一覧(S01〜S15)に基づいています
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中

1
午前五時二十七分、春日町交差点はまだ眠気の残滓を抱いていた。四つ角を挟む建物の外壁が、ほの暗い空と同じ色をしている。南北に走る幹線は車がまばらで、東西は商店街へ続く細い筋。電柱に取り付けられた押しボタン箱の小さなランプが、呼吸するように弱く点滅していた。
佐伯悠人は、交差点の中央を見据える位置に立ち、耳を澄ます。ピッ、ピッ——歩行者用の微かな確認音が、風に削られて届く。音羽町の高架にこだました足音とは違い、ここでは音は平たく、光が主役だ。「現示サイクル、体で覚えます?」真嶋が笑いかける。「覚えるのは遅れだ」佐伯は信号柱の上部に目をやる。車両用、右折矢印、歩行者、どれも僅かな段差で切り替わる。段差は時間の階段だ。どの段を踏んだかで、どこにいたかが変わる。
2
交差点の角に、夜勤明けのタクシーが停まり、窓が少しだけ下がった。「警察さん、朝のログ取りかい」運転手は顔を出さずに言った。「今朝五時半前後、ここを横切った背中を見ませんでしたか」「背中? リュックのひもが斜めに食い込んだX型のやつなら、トラックの影に消えた」「何時です」「五時二十八分台。バスの始発と被ったから間違いない」「どっち向き」「東から西。駅側から裏通りへ。信号は歩車分離の歩行者青」佐伯は頷く。X型の肩掛けは、工事の誘導員や荷役の簡易ハーネスで見かける。袖に反射テープではなく、背中で反射させるタイプ。
3
交差点の北西角に、小さなコンビニがある。店長の椿は背の低い女性で、紙コップのコーヒーをカウンタに置いたまま、防犯モニタを遡ってくれた。映像の隅に、背中が一瞬写る。X型の反射材が肩甲骨の上で交差し、左のストラップにほつれ。「05:28:37に横断。05:28:44で画面外」「直後に何が」「タンクローリーが左折でかぶる。ロゴは港の系列。ここ、夜間だけたまに回るのよ」港。また港が滲む。映像を止め、背中の輪郭を拡大する。顔は映らない。歩幅は一定、走っていない。迷いのない背中。
4
交通管制から受領した現示ログを、佐伯は歩道の縁石で広げた。
05:27:19 押ボタン入力(北東→南西)
05:27:25 現示G2(車両青)→黄
05:27:29 全赤(安全余裕)
05:27:33 歩行者青(全方向)
05:28:23 歩行者点滅
05:28:33 歩行者赤/車両青復帰
タクシー運転手の証言「五時二十八分台」と、コンビニ防犯「05:28:37」は、歩行者赤復帰直後。「ギリギリを抜けた」真嶋が言う。「押ボタンの時刻が鍵だ。05:27:19、誰かがここにいた」由比が押ボタンに目をやる。「軍手越しだと跡は出にくい。手の甲で押すやつもいる」「誘導員の癖だ」佐伯は短く返し、05:27:19を時刻表の棚に差し込んだ。05:26に音羽町の階段で降りた軽い足音、05:27にボタン、05:28に背中が西へ。
5
バス会社のドラレコは、予想以上に鮮明だった。05:28:32、バスのフロントガラス越しに、背中が画面右から左へ滑る。X型反射。黒い帽子。マスク。左肩のストラップに黒い結束バンドが一本、余りを切っていない。「結束バンドの癖がある」佐伯は画面を止め、拡大した。ハサミを使わずに歯で噛み切ると断面が斜めに残ることがある。「港の倉庫でもそういう切り方が多い。荷札の使い回しで荒れるんです」真嶋が頷く。「上原の連絡網にいた荷役なら、癖が似る」「似るだけでは足りない。一致が要る」
6
交差点の西、裏通りの入口。朝一で開くパン屋の前に、小さな跡が並ぶ。新品のゴム底で踏んだ濃い影と、砂を撫でた薄い掠れ。佐伯はしゃがみ込み、指で砂を弾いた。「走っていない。だが振り返っている。影が二回、重ねられてる」「誰かを確認した?」「背中は消える前に一度だけ情報を落とす。『見る』という動作の気配だ」防犯の死角を補うのは、行動の癖だ。見る癖は職業を呼ぶ。誘導員、運転手、駅の人。どれも見る仕事だが、振り向く位置が違う。
7
交通誘導警備の会社に当たりをつけると、春日町の夜間工事は前夜で終了し、誘導員は四時半に撤収したという。「X型ハーネスは使いますが、反射ベストが主流。結束バンドは現場で出せない。危ないから」つまり、背中は誘導員ではない。「小さい運送の荷役か港側の臨時」由比が言う。「港ロゴのローリーが左折で被る瞬間を選んだなら、港の内情を知ってる」港は重なる。背中はいつも港の影へ消える。
8
荻野をもう一度呼んだ。「X型の反射ハーネスは使いますか」「持ってない。ベストだ。バンドは荷札には使うが、ハーネスは会社が用意したやつで、余りは切る」「05:28、春日町の横断で誰を見た?」「見てない。その頃は売店裏の荷渡し。台車を押してた」伝票と動線は嘘をつかない。荻野は**『置き直し』の手だったが、背中ではない。背中は、別の手**だ。
9
相良の聴取。「05:20前後から35まで、端末のログは途切れてないな」「はい。表示と放送のリカバリで端末前から離れてません」「春日町の押ボタンの入力は05:27:19。この時刻にそこに居たのは誰だ」「工務か清掃が通る時間です。誘導はいない。港の車は五時半に一台」「あなたは昨夜、港の倉庫で導線の説明をした。名簿にあなたの名」相良は眼鏡を押し上げ、短く言った。「説明はしました。背中ではありません」背中は無言で消える。言葉の針は刺さらない。
10
浅倉。「X型の反射ハーネス、使うことは」「ありません。車掌はベスト。港との接点は昨夜の会食のみ」「05:27、押ボタン。05:28、横断。05:30、裏通路。誰かが押し、渡り、消えた」浅倉は黙り込む。合図の責任を抱えた肩は、背中の話に弱い。「上原は逮捕。あなたは否認。相良は端末前。荻野は裏。小谷は狐ケ崎。残るのは港の臨時か会社外縁の調整役」浅倉の目が、一瞬、何かに反応した。「綿貫の車の運転手だ。朝、新静岡にいた」「名は」浅倉は首を振る。「わからない。顔は覚えてる。背中はもっと覚えてる。姿勢が良すぎるんだ」姿勢。誘導でも荷役でもない、企業の運転手の背中。
11
綿貫に再度問う。「運転手の氏名」「人材会社の派遣だ。今週からの代打。名簿は総務に」「X型の反射ハーネスを使うか」「使わない。運転に不要だ」「押ボタンを手の甲で押す癖は」綿貫は笑った。「警察は背中を取り調べるのか」「背中は顔より雄弁です」綿貫は笑みを消し、「名簿は渡す。だが私を敵に回すな」とだけ言った。
12
総務から届いた運転手の名簿に、一人、耳に引っかかる名があった。比嘉泰臣。元・港湾荷役。昨年退職。現在は運転業務。港と車。背中が繋がる。「比嘉を呼ぼう」佐伯の声に、由比が頷いた。「背中の姿勢、港じゃ浮く。企業ドライバーの教育が染みてる」
13
面談室に現れた比嘉は、姿勢がよかった。椅子に座っても背骨が真っ直ぐで、肩が沈まない。「今朝、春日町を渡りましたね」「配車の仕事で通りました」「05:27:19、押ボタン。05:28:37、横断。X型の反射、左ストラップに結束バンド。余りを切っていない」「反射は自転車用です。夜間の安全のため」「港の癖が残っている。荷札の結束を歯で切る癖」比嘉の目がわずかに揺れた。「押したのはあなた。渡ったのもあなた。消えた背中はあなたの背中です」「押しただけです」比嘉は言った。「誰も押していない**。人は押していない」言葉は丁寧に並べられたが、意味は並ばない。押したと押していないが隣り合って座っている。
14
「港で誰に雇われました」「派遣の会社から配車の依頼」「上原の名刺は持っている」比嘉は沈黙。佐伯は視線を落とし、05:26の階段の音を思い出す。軽い足音。比嘉の靴は軽い。「05:26、音羽町の階段で止まりましたね」「電話が鳴った」「誰から」比嘉は唇を結んだ。「上原は逮捕された。あなたが今、守ろうとしているのは誰だ」背中は守るために硬くなる。
15
市河が、交差点の環境音と音羽町の波形を突き合わせて持ってきた。「05:27:19の押ボタン音、微弱ですが拾えてます。人差し指の腹ではなく、手の甲。押す時間が短い」「癖が一致」さらに、05:26:12の階段で靴の外側が踏板に当たる音がある。内股の癖。佐伯は比嘉の脚の開きを観察した。膝が僅かに内へ寄る。「階段で外側を擦る癖がありますね。走ると顕著になる」比嘉は黙った。背中の筋肉が固まる。
16
「今朝、何を運びました」「何も」「手は空だった?」「はい」「なら、なぜ『押した』と言った」比嘉の顔に、初めて困惑の影が走った。「……押ボタンのことを」「人を押したのではないと、先回りして言った。あなたは**『押す』という単語に敏感になっている」敏感は記憶の表面に出る。触れたところが熱を持つ。
17
配送センター裏通路で、段差の角の欠けと樹脂痕は、人を押したときの足の置き方を語っていた。右足で前**、左足で支え、手は左で背中、右で肩。内股の癖が左側の足運びに出る。「比嘉は右利きの左寄り。背中への手は左で回す」由比が呟く。「港で荷を押し回すとそうなる。台車も左で押し出す」
18
押した手の温度を探すには、指ではなく背中を触らせるしかない。佐伯は比嘉に再現を依頼した。人を押すのではない。同じ段差で自分がつまずく直前まで動く。比嘉の足は、段差の手前で止まる。左の股関節が僅かに遅れる。「港では誰の指示で上原に繋がった」「綿貫さんの運行表に付随していた。朝の導線の確認」やはり、綿貫の線は外縁を走る。内側に入らず、背中を使って通り抜ける。
19
綿貫は淡々としていた。「運転手個人の善し悪しは関与外だ。私は、『朝の導線の確認』を求めただけ」「朝の導線に**『背中』を使った**。顔を使わない導線は、人を消すための導線です」綿貫は肩をすくめた。「比喩が過ぎる」比喩ではない。背中は実在し、交差点で消えた。
20
小谷が狐ケ崎から戻り、春日町を通った朝の清掃ルートを紙に描いた。「この時間、ここに落ち葉はない。誰かが踏んだら、砂の筋が残る。パン屋の前の筋が二本、新しい」二本。「比嘉と——もう一人」「もう一人は軽い。靴も新しい。駅の人かな」駅の新しい靴。川嶋の靴は安い合皮ですぐ削れ、新しくない。浅倉の靴は硬い。相良は端末前。新しい靴を履くのは——弁護士。綿貫に付き添っていた弁護士の女。背中は細い。だが、X型は似合わない。二本目は別だ。新聞屋の少年——あの時間は日吉町にいた。誰だ。
21
港の守衛から、新しい証言が入った。「昨夜の二十三時過ぎ、スーツの二人のあとに、もう一人。黒い帽子にマスク、背中にX。名簿には載せていない」背中は夜にも港にいた。比嘉の背中が夜から朝へ伸び、交差点で切れる。切れた先は、裏通り、配送センター。05:30±10——三輪の転倒。つじつまが合う。
22
比嘉は、押したと言わない。押していないと言い続ける。佐伯は別の角度で押した。「あなたは**『押す』の意味をずらした**。押ボタンを押したから人を押していない。言葉の置き換えだ」比嘉はうつむき、両手を組む。背中が崩れない。「港では押すのは台車だった。人は押さない。だから、あなたは**『押していない』と言える」背中に言い訳は貼り付かない**。姿勢は真実を持ち運ぶ。
23
検視補強が出た。三輪の肩に微かな繊維片。黒、化繊、細い。X型ハーネスの肩ベルトの端と一致し得る。さらに、段差の欠けに黒い樹脂粉。結束バンドの断片が混入。比嘉は肩に当てた左手で、ハーネス端の余りを擦った。繊維が落ちる。押したと言わなくても、押した痕は残る。
24
比嘉は、黙ったまま頷いた。「押したのは一度だけです。転ばせるつもりはなかった。振り払うように背中へ手を当てた。足が段に掛かった」「誰に頼まれた」「上原」「直接に?」「はい。昨夜、港。朝は音羽町の階段で電話」「上原の上は」比嘉は視線を伏せた。「知りません」上は綿貫である必要はない。上は空気のように配られる。誰も自分が上だと言わないように。
25
上原に対する立件は厚くなった。教唆、隠滅、偽計。だが、計画の骨を立てたのは他だ。駅の時間を揺らし、切符を置き直し、足音を遮る。背中は交差点で消え、音は高架で折れ、紙は路地で冷える。三つの消しゴムが一人の死の線を薄くした。
26
綿貫との最後の面談。「比嘉は押した。上原は指示した。あなたは導線を求めた」綿貫は静かに言った。「導線は正義だ。人の流れを良くする。一人の事故で止めるわけにはいかない」「事故に見せるために時間をいじった。それは導線ではない。脚色だ」「言葉遊びだ」「背中は言葉を持たない。だから嘘が乗りにくい。あなたは背中を使って通り抜けた」綿貫はしばらく黙り、やがて立ち上がった。「私は逮捕されない」「今はな」導線を描く者は、線の外側に立つことを覚える。内側に立ったとき**、線は縄になる。
27
春日町交差点に戻ると、朝の喧騒が通常運転に切り替わっていた。ピッ、ピッ。佐伯は押ボタン箱にそっと指を置き、言った。「05:27:19は押された。05:28:37は渡られた。05:30は落ちた。『背中』は記録を跨いだ」真嶋が頷く。「背中が消える場所を選ぶのは、いつも『角』ですね」「角は時間の曲がり角だ。曲がると姿は斜めになる」「次は柚木」佐伯は視線を上げ、北へ向かう線路を見た。「架道橋の影で、背中じゃなく顔が映るかもしれない」
28(小結)
背中(X型反射+結束バンドの余り)=比嘉泰臣。
05:27:19押下→05:28:37横断の現示ログとドラレコで行動確定。
05:26音羽町の足音の内股癖と階段金属音が比嘉の歩容と一致。
裏通路の繊維片/樹脂片=ハーネス端と結束バンドに一致。
押した事実は比嘉が自白(意図は否認)。教唆/隠滅=上原。
時間歪曲(表示・合図・切符)=相良(表示)/浅倉(合図)/荻野(置き直し)が各々の1秒を動かした疑い。
企図の骨は**『再編の朝一導線』。綿貫は外縁で責任の輪郭をぼかす**。
29(終)
夕刻、交差点に長い影が落ちる。信号の赤が、路面の小さな砂一粒にまで届く。背中は、いつも正面の代わりに真実を背負う。春日町では、それが交差点のど真ん中で消えた。消えることは、現れることだ。別の場所に、別の駅に。次の駅——柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者。見えない目が、今度はこちらを見ている。
— 第4章 了 —





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