Sラインの迷宮 第6章
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 9分
目次(章立て)
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中
第5章 柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者
第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言
第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点
第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口
第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差
第11章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
第12章 狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ
第13章 桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路
第14章 入江岡〔S14〕— 港町の仮面
第15章 新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル
※駅名と並びは静鉄公式サイトの駅一覧(S01〜S15)に基づいてい

第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
1
午前四時四十六分。長沼の車庫は、まだ眠い。留置線の脇で空気圧縮機が低く脈打ち、検修庫の蛍光灯が一本だけ薄く点いている。構内無線のスピーカーが、時おり砂を噛んだような雑音を吐いた。佐伯悠人は、構内踏切の警報灯を横目に、信号扱所の階段を上がった。壁には古いアナログ時計が掛かっている。秒針は進むが、分目盛がわずかに右へ寄っている。「ここの時計、正時に鳴らないんだ」中から出てきたのは、車庫長の篠原。五十代、目元の皺が深い。「GPS中継のアンテナが時々落ちる。NTPの再同期が遅延して、十秒前後、ズレることがある」十秒。秒のズレは、合図を分に変える。
2
扱所の奥、合図盤の端に、透明カバーに収まった**『試験発報』のボタンがあった。「これが構内ベルの試験だ」篠原は指先でカバーを撫でる。「駅の放送と連動はしない**。するはずがない」「するはずがないが、した」佐伯は淡々と言った。新静岡と音羽町に届いた**『五時前の合図』は、構内の試験音の可能性がある。篠原が肩をすくめる。「昨夜、業者が配線盤を開けた**。広告サーバ側の音声系統を切り替えるテストだった。戻し忘れがあり得る」戻し忘れ。盲点は、人の手の間にできる。規程の外に音が漏れる。
3
午前四時五十八分。車掌見習い・川嶋が、検修庫の陰から控えめに顔を出した。「今朝、五時前に合図を短く」「やったな」佐伯は言った。「誰の指示」「先輩です。浅倉さん。入換の確認で、『試験を実車で一打』と」「扱所で押したのは誰」川嶋は篠原を見た。「先輩が合図盤。ぼくは構外の見張り」篠原が眉を寄せた。「合図盤に鍵が要る。昨夜、業者が持った共通鍵を返していないかもしれない」共通鍵。駅の鍵が動いたように、車庫の鍵も動く。鍵は時間を開ける。
4
業者の名は、波川電設。作業記録には23:48から0:37まで「広告音声系統ループ試験」。復帰確認のサインは未記入。「戻し忘れが濃厚だな」真嶋が言う。佐伯は首を振る。「『忘れ』ではなく、『使われた』可能性だ。五時前の一打が駅に乗ることを知っていた誰かが」篠原の表情が硬くなる。「扱所のログを見よう」合図盤の側面に、安っぽいUSBメモリが差さっていた。押下時刻の記録が、数字の列で吐き出される。04:59:42 試験一打時計は車庫の時計だ。遅れる。駅の時計では05:00前後。『ベルは鳴っていない』という言い逃れは、二つの時計に跨る。『駅のベル』は鳴っていないが、『車庫の試験』は鳴った。
5
佐伯は、音声解析の市河を呼んだ。「車庫ベルとホーム発車メロディは波形が違う。倍音の成分が別物だ」市河はうなずき、携帯スピーカーに短い音を流した。車庫の試験は鋭く短い。ホームは柔らかい旋律。「日吉町で拾えた音は車庫寄り。『鳴っていない』はホームのことだ。『鳴っている』は車庫のことでもある」盲点は言葉の隙間にあった。同じ『ベル』でも、意味がずれる。
6
浅倉を呼んだ。「合図盤を押した」「入換のためです」「駅に漏れることを知っていたか」浅倉は黙った。「昨夜、港で上原と会った。『朝の導線』の話をした。車庫の試験が駅に乗ることを言ったのは誰だ」浅倉はゆっくりと首を振る。「業者が復帰を忘れるなんて思っていない。ぼくは合図を押した。それは事実です」事実は一枚。意味は二枚。
7
扱所の盤の脇に、薄汚れたメモが貼られていた。
注意:広告系統切替中は構内試験音が外部に漏れる可能性篠原が苦い顔をした。「波川電設が貼ったものだ。昨夜、剥がれかけてた。戻すのを忘れた」「剥がれは誰の指でついた**」佐伯はメモをライトにかざした。黒い微細な粉が圧着面に残る。柚木で見た防滑材ではない。グラファイトの潤滑粉だ。篠原が言う。「パンタグラフ摺板の粉。検修庫の床に出る」「昨夜、検修庫にいたのは誰」「波川電設と夜間検修の二人。うち一人は根津と面識がある」根津。Xの背中。橋と自転車。車庫にも顔が利く。
8
午後、根津をもう一度呼んだ。「扱所のメモ、剥がしたな」根津は目を細める。「知らない」「指にグラファイト。検修庫の粉。あなたは荷役だった。摺板粉の匂いは知っている」根津は鼻で笑った。「証拠になるのか」「なるのは組み合わせだ。04:59:42、試験一打。メモの警告。昨夜の広告系統切替。あなたのプリペイド。『朝の導線』」沈黙。「あなたは押していない。押すのは浅倉。押させるのは上原。漏らすのはあなただ」根津の口角が、ほんの少しだけ下がった。
9
鍵の線も、車庫で束になった。構内簡易扉のIC施錠ログに、23:52と04:51の二回、来訪者カードが通過。名義不明の汎用業者カード。篠原が頷く。「波川電設は共通カードを持つ。返納は作業後だが、翌朝に回収は多い。その間が空白」「空白が盲点だ」駅の鍵がトレーから消えたように、車庫の鍵もカードで開く。『鍵』は物だけではない。アクセス権も鍵だ。
10
スーツケースの持ち手から、二硫化モリブデンの微量が出た。検修の潤滑に使う黒い粉だ。「持ち手を握ったのは誰」「浅倉です」川嶋が即答した。「手袋をしてましたが」「粉は布を通す」浅倉は静かに頷いた。「橋で受け渡したとき、比嘉から受け取った。検修庫の脇を通ってここまで運んだ。鍵を返すつもりだった」「返す? 誰に」「相良さん。駅で拾得にしたいと言われた」相良は即座に首を振った。「言っていません。『滞納ロッカーがある』と言っただけです」言葉の置き換えが、駅でも車庫でも連鎖する。
11
無線が鳴った。検修の道上が駆け込んでくる。「昨夜の検修ログ、抜けがあります。23:40–0:20、点検票が白紙のまま」「誰が担当」「交代の合間で名前がない。『見張り』とだけ」佐伯は波形の空白を思い出す。音羽町の05:26の後、裏通路の死角。空白は、いつも罪の温度に近いところにある。
12
夕方、波川電設の責任者を呼んだ。「昨夜の復帰確認」「現場に任せた。担当の名は失念」「共通カードの返納」「朝、回収した」「誰がどこで」「扱所で篠原さんへ」篠原は首を振る。「受け取っていない」「では、誰が受け取った」責任者は口をつぐみ、やがて言った。「相良さんが立ち会っていた」場の空気が揺れた。
13
相良は、静かに座った。「立ち会いました。駅の表示の件で相談を受けていたから。カードは受け取っていない。業者が**『机に置きます』と言って**、机の上に置いた」「机はどこ」「扱所の隅。メモの近く」メモが剥がれ、カードが置かれ、警告が忘れられる。「その場に誰がいた」「浅倉さんと川嶋くん。根津さんは見ていない」根津の不在は、必ずしも無実の証明ではない。空白はいつも、誰かの代理で動く。
14
市河が、車庫ベルと駅放送のミキシングの痕を示した。「昨夜の広告系統ループで、駅放送の入力に車庫ベルの戻りが混ざるよう設定が変わっている。復帰が未完。今朝の04:59:42の一打が新静岡側のラインへ漏れた」「故意か」「設定自体は故意でない。切替の途中で仮配線を残した。だが、その状態を利用するのは容易」盲点は偶然に生まれ、意思に拾われる。
15
比嘉は、押したことを覆さない。「押したのは俺だ。押せと言った声は上原。車庫のベルが鳴ったとき、『鳴っていない』と言えと教わった」「誰が**『車庫と駅は違う』と教えた**」比嘉は短く息を吐いた。「根津。港で働いてたときも、規程の外の言い換えは全部、あいつが教えた」言い換えは技術だ。車庫はその舞台になった。
16
根津は、最後に一つだけ新しい名を出した。「業者カードを受け取って動かしたのは、俺じゃない。『夜の鍵番』がいる**。扱所の合鍵を一時預かる人間。名前は道上」検修の道上は、昼間にログの空白を持ってきた男だ。道上は面談室で、しばらく手を見詰めていた。「鍵は預かった。波川が朝に回収に来ると言った。机に置かれていたのを、金庫にしまった**。ぼくがしまう前に、誰かが一度、持って行ったかもしれない」「誰が持って行ける**」「誰でも**。扱所に入りさえすれば」盲点は、『誰でも』という言葉が守る。
17
捜査線は、『故意の設定』ではなく、『作為的な拾い上げ』へ収束した。
波川電設:復帰未完(業務過失の疑い)
扱所:鍵管理の空白(管理過失)
浅倉:一打の押下(合図の不正運用)
根津:情報の媒介・警告の剥離(犯人隠避ほう助)
上原:教唆・隠滅
比嘉:傷害致死
相良:表示と導線への関与(過失の枠で継続精査)
車庫の盲点は、過失の重なりに似せた、意思の通り道だった。
18
夜、車庫の空気が冷える。佐伯は扱所の窓から、引上線の先にある暗がりを眺めた。そこにはカメラがない。最後に列車が息を吐く場所。「ここが**『最後の一秒』の隠れ家だ」真嶋が肩を並べる。「押した手はわかった**。一秒はどこに消えた」「消えていない。車庫と駅の間に溶けた。二つの時計が重なった瞬間に」05:00前後、04:59:42の一打。鳴っていないと言える余白。そこに嘘が育つ。
19
「次は?」「古庄」佐伯は地図を指でなぞった。「古い図面の**『踏切跡』と新しい歩行導線が交差する。古地図を持つ人が、新しい証言を持っている**」古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言。時間を動かす者が、空間を描き換えた痕が残っているはずだ。
20(小結)
車庫の合図盤ログ:04:59:42 試験一打(車庫時計基準)。
広告系統の復帰未完により、車庫試験音が駅放送ラインへ漏洩。
『ベルは鳴っていない』=ホームは鳴っていない/車庫は鳴った(言い換え)。
鍵/カードの一時消失:駅(トレー)と車庫(共通カード)で並行。
スーツケースのモリブデン粉、柚木粉、合図・表示・切符が一本の導線に。
上原(教唆)/根津(媒介・隠避)/浅倉(押下)/比嘉(押した手)/相良(過失)/業者(復帰未完)の役割分担が確定方向。
21(終)
明け方が、車庫の屋根の縁を銀色に撫でた。盲点は、地図に描けない。だが、音と粉と鍵が、そこに線を引いた。長沼で見えない時間を剥がした今、古庄で見えない道を剥がす番だ。次章――第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言。
— 第6章 了 —





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