Sラインの迷宮 第7章
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 13分
目次(章立て)
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中
第5章 柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者
第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言
第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点
第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口
第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差
第11章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
第12章 狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ
第13章 桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路
第14章 入江岡〔S14〕— 港町の仮面
第15章 新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル
※駅名と並びは静鉄公式サイトの駅一覧(S01〜S15)に基づいて
第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言

1
午前四時四十三分。古庄駅のホームは、草むらから上がる白い息のような霧におおわれていた。北口の脇に、古い踏切跡がある。柵は新しく、注意看板も更新されているのに、足元のアスファルトだけが旧い線路の角度で斜めに切れている。夜露を吸ったその斜線は、地図の上でしか残っていない通り道を、まだ足裏に伝えてきた。
佐伯悠人は、折り畳みの古地図を広げた。昭和三十五年の市街地図。薄黄の紙に赤い路線と黒い点線が重なる。点線には細い文字で「里道」。「里道は人の地図だ」隣で真嶋が、現代の地図アプリを見せる。「今は行き止まりですね。フェンスが塞いでる」佐伯は古地図を重ね、指でなぞった。古庄—春日町の間に、踏切が三つ。一つは廃止、一つは歩行者専用橋に置換、もう一つは「仮締切」の判子が押され、後年の地図で消えている。「仮は、仮のまま消える」仮とはいつでも元に戻せるという嘘だ。戻らないなら、それは地図の嘘になる。
2
北口の植え込みから、白い手袋の男が出てきた。土木事務所の木戸だ。肩から銀色の管を提げている。「架道橋の八峰(はっぽう)に続いて、踏切跡も見ておきたいと」木戸は路面の骨材を小さなスコップでかき取り、袋に入れた。「ここの防滑は柚木や春日町と配合が違う。粒の角を覚えておいてください。車輪に付けば、どこを通ったかが逆算できる」「古庄も覚えておけ、ってことだな」木戸は破顔した。「見えない目撃者は、橋だけじゃありません」
3
駅舎内の掲示板に、落書きのような矢印が二つ。赤い矢は「工事車両通行不可」、青い矢は「住民通路」。由比が矢印の先を見て、ふっと息を漏らした。「ここ、昔、踏切番の小屋があったって聞きました。杉村っていうおじいさんがまだ近くに住んでる」「会おう」古い地図は、古い記憶の鍵だ。
4
杉村は、濃いチェックの寝間着に作業用ジャンパーを重ねて現れた。「踏切は三つあった。こっちの小さいやつは通学路。閉まるのが早いから、子どもがくぐる。大きい方はトラックも通った」「仮締切の印がある踏切、いつ消えました?」「平成の終わり頃だ。事故が続いてね。警報機だけ先に外して、人は橋を回れと。柵は何度も切られた」「切られた?」杉村は手で斜めの形をつくった。「結束バンドで仮止めした頭が斜めでね。ハサミじゃない。歯で噛み切るとこうなる」春日町で見た斜めの切り口が、ここにもある。
5
「誰が切る?」「夜に現場を横切っていく荷役だよ。港の人たちさ。トラックが遅れると、歩きで抜ける。悪気はないが、危ない」佐伯は里道の線を指で追い、踏切跡から裏導線へ。柚木の架道橋へ上がる小径とつながる。比嘉と根津が04:52にそこを渡った可能性。古い線が、今朝を縫っている。
6
新しい証言は、古い地図の逆側から来た。駅前のコンビニに置かれた地域通報掲示板。自治会長・井出がスマホを掲げる。「防犯灯の人感センサ、今月からログを取るようにしてみたんだ。自治会のお試しでね。四時台に反応が三回。04:49、04:52、05:06。方向は踏切跡→柚木方向、それから駅方向」「角の灯だな」由比が外に出る。「春日町へ続く裏道の入口」井出は続ける。「もうひとつ。05:33に駅前の灯が反応。短い。一度だけ**」05:33は柚木のログでも人が渡った時刻だ。戻った者がいる。橋→駅。八峰→一峰。灯も覚えている。
7
新しい証言は、もっと新しい場所からも現れた。「ランニングクラブの片岡さんがスマートウォッチの軌跡を提供してくれました」真嶋が紙を広げる。04:45–05:15のラン。軌跡は踏切跡の手前で二度、速度が落ち、心拍が上がる。「警報音みたいな短い音が聞こえたとメモがある。二回。片岡さんは耳がいい。一度目は直線の途中、二度目は音羽町の高架の入口」車庫ベルと階段の反響。人ではない音の足跡が、ランナーの心拍に刻まれている。
8
古庄の南西に、小さな稲荷がある。鳥居の脇に、見守りカメラが新設されていた。自治会の補助で写るのは石段の半分だけだ。井出が映像を早送りする。「顔は映らないが、背中が二つ。04:52。一つはX型反射。もう一つは反射なし。四輪の影は見えないが、肩の上下が重い」比嘉と浅倉。柚木の橋で揺れた肩が、古庄でも揺れている。
9
波川電設の若い作業員・藤巻が、深々と頭を下げた。「昨夜、扱所の机にカードを置いたのは自分です。復帰確認は先輩の指示で後回しに……すみません」「カードは朝まで机の上?」「そうです。戻しに来たらなかった。篠原さんに怒られて」「誰が持ち出せる?」「出入りは誰でも。夜は人が少ないから」鍵は物でも情報でもカードでもない。「出入り」そのものだ。
10
相良は、古庄の踏切跡を前にして、いつもよりも口数が少なかった。「この先、踏切が残っていたら、今朝の導線はもっと短かったでしょう」「だが、残っていない。残っていないものを**『あった』ように使うのが地図の犯罪だ」相良はきっぱり言った。「私は、踏切に触れていません」佐伯は頷き、別の角度へ振った。「あなたは『滞納ロッカー』の話を浅倉にした**。鍵の価値を置いた」「申し送りです」「言葉は地図になる。申し送りは案内図です」相良は黙り込んだ。言葉で人を動かすことの重さが、今さら肩に乗ったのかもしれない。
11
古地図の端に、濃い鉛筆で書き込まれた小さな×印がある。里道と私有地の境。戦後の区画整理で消えた接道。木戸が指を置いた。「ここ、昔は田の畦。暗渠が一本、今は宅地の下を通る。音は吸われるが、振動は伝わる」「センサーは**?」「ないが、地耐力計測のデータが倉庫に眠っているはず」古い測量の紙束も、見えない目撃者だ。地面が覚えている。
12
都市計画課の福地が、段ボール三箱を担いできた。中は測量野帳と地耐力試験表、紙の透明方眼。福地は額の汗を拭きながら言った。「古庄の再開発で一度引っ張り出した資料です。港側が**『歩行導線』を気にしていて」「港側」福地は頷く。「綿貫さんの会社です。『古い里道の復権』って言葉を使っていた」復権という美しい名の上で、地図は書き換え**られる。
13
測量野帳には、昭和四十七年の鉛筆字が踊っていた。
里道幅員 1.8m/私有地寄与 0.4m(応諾)暗渠音 低い・振動 高い(歩行時)踏切跡 柵仮設・仮締切・復旧検討(未了)
「仮締切のまま放置」「仮は、いつか必ず**『本』に変わる。忘れられた仮は、誰かが本にする**」佐伯は野帳を閉じ、里道の線を頭の中で起こした。04:49に車道橋を自転車が渡る。04:52に踏切跡で二つの背中。05:06に駅。里道が今朝を通した。
14
新しい証言は、運送の端末からも出た。荻野が着信履歴を見せる。「根津から、04:53。『柵は切ってある**。灯は一つ目で反応。二つ目は接触不良』」井出が眉をひそめる。「二つ目の灯、昨日取り替えましたよ。接触不良じゃない。電源を一度抜かれてる」「誰が抜いた」「誰でも。ネジは固くない」盲点は、どこにでもある。ネジ一つで。
15
髪の主が根津であることは、柚木でほぼ固まっていた。古庄では、靴が彼を示した。小さな靴屋の主が、踏切跡の砂に残った足跡を見て言う。「外側が削れてる。膝が内に入る。片減りの仕方が似てる。この辺で買った靴じゃない。港の売店の安いのだ」港は、音だけでなく、靴でも痕を残す。
16
上原は拘置の中で、相変わらず言葉を選んだ。「里道は誰のものだ」「誰のものでもない」「なら、誰のものにもできる」「あなたのものではない」上原は目を細めた。「『復権』は善だ。導線を戻す」「戻すために**『押した』。善に見せたのは言葉だけだ」上原の沈黙は、まるで古地図**の余白のように白かった。
17
綿貫は、古庄の地図の上で初めて足を止めた。「里道の復権は市のためだ。古い道を生かし、人の流れを戻す」「戻す先に誰が立っている」綿貫は答えない。「あなたは**『線』しか見ない**。『線上の人』を見ない。だから、背中で通り抜けられる」綿貫は眼鏡を外し、布で拭いた。「私は逮捕されない」「あなたは地図の外に立っている。外から押す者は、責任が薄くなる」薄い責任は、濃い結果を生む。
18
新しい証言がもう一つ。配達ボックスのセンサログ。井出が紙を手渡す。「踏切跡の角の家の宅配ボックス。04:52に扉の微振動。人がすれて当たったか、何かがぶつかった」木戸が頷く。「暗渠の上はわずかに弾む。荷を引くと横振れが増える」八峰の手前に、小さな撥ねが一つ。地面すら覚えている。
19
浅倉の言葉は少ないが、場所の記憶は正確だ。「橋で受け渡しのあと、古庄の踏切跡を抜けた。『地図にない道』を歩くのは、罪の匂いがした。戻れない道だと感じた」「戻ったのは05:33の一度だけだ」浅倉は首を振る。「ぼくは戻っていない。鳴らすために車庫にいた」05:33は誰だ。根津か、相良か、第三の手か。
20
相良のアリバイは、端末のログで守られている。では、05:33に駅前の灯を反応させたのは誰か。由比が手を挙げた。「稲城さんです。朝の点検で古庄を回るようになったと言ってました。清掃ルートの変更」稲城は慌てて首を振った。「その時間は別の駅でした」「記録は**?」「清掃アプリで打刻してます」打刻の地図に、別の駅名。05:33の灯は、やはり別人。
21
自治会の古いアルバムに、踏切番小屋の写真があった。小屋の壁に、黒い塗料でかすれた線。
——→ 港「遊び心でしょうね」井出が笑った。佐伯は写真の端を指で押さえた。矢印は地図よりも正直だ。『人が向かった方向』しか描かない。今朝、人は港に向かった。背中で。言葉ではなく。
22
港に戻る。守衛が新しい出入り台帳を差し出した。「今朝の五時台、短い出入りが一件。名簿は**『根津の来客』。来客名は空欄**」空欄は、名前ではない。意図の形だ。「入って、出て、何をした」「倉庫の二番に立ち寄っただけ。鍵は根津が開けた」鍵。また鍵だ。
23
倉庫二番の床には、細いタイヤ痕が二つ。台車ではない。スーツケースでもない。自転車だ。佐伯はしゃがみ込み、指でなぞった。油の匂いに、柑橘が混じる。比嘉の車の芳香。根津が**『来客』を自転車で通した**。橋の前に。
24
新しい証言は、さらに新しい。スマホの緊急地震速報アプリ。片岡が言う。「05:00ちょうどにテスト配信があったんです。バイブが鳴るのと同時に、短いベル音が重なった。二重に」車庫と駅。二つの時計が重なる瞬間。音は揺れる。人も揺れる。
25
里道の復権という言葉が、検察の机の上で色を失っていく。善の名で押されたものは、善ではない。押したのは比嘉。押させたのは上原と根津。押せる状態にしたのは浅倉と相良と波川の混線。見えない目撃者は、橋と灯と地面とアルバムとランナーの心拍。
26
比嘉は、古庄の踏切跡に立たせると、しばらく目を閉じた。「俺は押した。でも、押せと言ったのは声だ。顔じゃない。背中のままの声だ」「声に顔を与えるのは裁判だ」比嘉は小さく笑い、それから消えるように笑いを収めた。「俺はここに戻るべきだった。押す前に」道は戻らない。戻るのは人だけだ。
27
浅倉は、古地図をまっすぐに見つめた。「合図は必要だった。そう言い聞かせてきた。でも、必要だったのは俺たちのためじゃない」「計画のためか」「誰かのためだ。名前のない誰かの」空欄は、誰かの名前の形をしている。
28
相良は、最後まで自分の言葉を磨こうとしていた。「表示は乱れた。私はそれを直した。切符は知らない」「鍵は**?」「知らない」「『知らない』は、言葉の鍵だ。開くにも閉じるにも使える」相良は視線を落とし、短く言った。「知らない」その鍵は、まだ閉まったままだった。
29
井出が、自治会の会館から古い掲示物を持ってきた。
歩行者の皆さまへ古庄—春日町 間の里道は仮締切です通行はお控えください/復権検討中復権検討中。検討はいつも、出来事より遅い。出来事は、検討の前に人を落とす。
30
市河が、音で締める。「踏切跡の暗渠の上で録った音、低いですが、人の足音の周波数がわずかに上がる瞬間がある。荷を持ち上げたときです」「04:52の二人のどちらが持ち上げた**」「後ろの足音。浅倉さんのほう」浅倉は黙って頷いた。
31
検察は、傷害致死で比嘉の勾留を延長。教唆と隠避で上原と根津の追起訴を準備。浅倉は犯人隠避と合図不正、相良は業務上過失。波川電設は業務過失。綿貫は、まだ、外だ。
32
夕暮れ。古庄の空気は、昼よりも静かだ。踏切跡の斜線に、長い影が引っかかる。斜線は、地図から消えても、光の中で現れる。佐伯は古地図を畳んで言った。「次は県総合運動場。群衆の消失点だ」真嶋が頷く。「線が点に変わる場所」「点になれば、背中は群衆に溶ける」第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点。そこでは、一人の背中が、百人の背中になる。
小結(捜査メモ)
古地図(昭和35・47年):古庄—春日町間の里道と踏切の実在、仮締切のまま消滅した導線。
新しい証言①(自治会 防犯灯ログ):04:49/04:52/05:06/05:33の反応。踏切跡→柚木→駅の向き。
新しい証言②(ランナー心拍・メモ):短いベル音二回(車庫一打/音羽町反響)。
新しい証言③(稲荷カメラ):04:52 背中が二つ(X反射/なし)。
新しい証言④(配達ボックス微振動):04:52、踏切跡角で横振れ。
物証:柚木と古庄の防滑粒子、二硫化モリブデン、靴の片減り、髪一本(根津)。
通信:04:53 根津→荻野、プリペイドの柚木周辺接続。
関与:比嘉(押した手)/上原(教唆)/根津(媒介・鍵・柵・里道利用)/浅倉(受け渡し・合図)/相良(表示・申し送り・過失)/波川電設(復帰未完)。
綿貫:里道復権を掲げる外縁の推進者。地図の外に立ち続ける。
終
古庄の夜風は、紙の端をめくるように静かだった。古い地図に新しい証言を重ねると、今朝の薄明が透けて見える。斜線は消えない。人の足が消さない。次章――第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点。線が人を集め、人が証言を曖昧にする場所で、最後の背中を追う。
— 第7章 了 —





コメント