Sラインの迷宮 第8章
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 11分
目次(章立て)
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中
第5章 柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者
第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言
第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点
第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口
第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差
第11章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
第12章 狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ
第13章 桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路
第14章 入江岡〔S14〕— 港町の仮面
第15章 新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル
※駅名と並びは静鉄公式サイトの駅一覧(S01〜S15)に基づいて
第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点


1
午前五時三十四分。県総合運動場駅のコンコースには、群衆の前兆だけがいた。フォームローラーを抱えたランナー、背中にX型反射ハーネスを付けた数人、部活のジャージに身を包んだ高校生たち。スタンドへ続くスロープのコンクリートが、淡い灰色の面で空を受け止めている。佐伯悠人は、「消えるための導線」がどう設計されるかを想像した。線が面になり、面が点に収束する場所。視線が自然に集まる消失点は、人の痕跡も自然に薄める。
「管理事務所は上です」由比が案内する。階段を上がるにつれて、歓声のない観客席が広がり、風の音だけが大きくなる。
2
管理事務所のドアを開けると、施設管理課の南雲が待っていた。「人流カウンタを今年から付けたんです。LIDARとサーモの複合。個人は識別しませんが、人数と向きは取れる。5:30前後に妙な谷間が一つある」南雲はディスプレイに棒グラフを出した。5:32:10—5:33:20にかけて、流入18/流出17。ただしカメラ映像では消える背中が一つ。「流入−流出は**+1**。見かけ上、一人がここで消えたことになる」「消失点」佐伯が呟く。「同刻に北スロープのカメラが一瞬固まる。切替遅延で二秒の黒が出ています」南雲が映像を回す。黒の間に、何が通ったかは映らない。
3
市河(音響鑑識)が到着した。「群衆の足音は混合波になります。個体識別は難しい。ただ、X型ハーネスの反射が光学マイクに針のようなピークを立てることがある」「反射が音になる?」真嶋が首を傾げる。「照明の定常ノイズに瞬間的な変調を与える。光と音は別だが、センサーには同じ波として出ることがあるんです」市河は5:33付近の環境波形を拡大した。二本の鋭いピークが間隔0.42秒で立ち、以降が群衆ノイズに吸い込まれる。「Xの二人が並走して、消失点に吸い込まれた」「並走の一方が根津」佐伯は言った。「もう一方は誰だ」
4
南雲が別の画面を出す。「北スロープ上のオーバーヘッドカメラはAI追跡を使っています。トラックの隊列が来ると、人影をひとつの塊に統合してしまうことがある」映像には、学校ジャージの列が小走りに上がり、Xハーネスをつけた二つの背中が列に寄り添って消える。AIは枠を一つにまとめ、IDを付け直す。「識別IDがここで新しく生まれ直す。以前のIDは消える」群衆は、個人を匿名化する。意図があれば、なおさら。
5
井出(自治会長)が合流した。「ラジオ体操の荷物置き場をここに移してから、朝の導線が変わったんですよ。北スロープに集まり、南側に抜ける。スロープの中腹で渋滞ができる」「消失は渋滞の腹で起きた」佐伯は手帳に記す。「5:33にバスが一台入った記録もある。港ロゴ。搬入のチラシがあったのでゲートを開けた」港は、ここにも来る**。
6
荻野(運送)が呼ばれてきた。「今日は来てない」「昨日は?」「搬入は7:00以降。5:30台は走ってない」井出が腕を組む。「港ロゴのバスはいつもと違った。無人で入ってきて、すぐに出た」「無人?」南雲が記録をめくる。「入庫と出庫の差は一分二十秒。誰も降りない映像。登録番号は貸切の相互持ち先」車が人の代わりに出入りする。鍵やカードと同じ抜け道。
7
木戸(県土木)が持ち込んだのは、舗装の骨材の袋だった。「北スロープの防滑は昨年更新。粒の角が鋭い。Xハーネスの肩ベルトに擦れ粉が乗る」鑑識が根津のハーネスを回収し、顕微鏡で褐色の粒を見せた。S08特有の亜鉛めっき片が混じる。「根津はここを通った。問題は一緒にいた背中だ」由比が画面の列を指差す。「列の先頭に比嘉の姿勢が似てるのが一つ。内股で足が外削れ」「比嘉は拘置中だ」「朝練のコーチが似た歩容の人を連れてきてるかも」代役。群衆に紛れるための歩容のコピー。
8
市河が歩容音を抽出した。「0.42秒間隔の二峰、踵の金具音が一瞬入る。柚木で拾った**『階段金属音』に近い**」「上原の靴だ」真嶋が言う。「上原は勾留中。靴だけが流転している」靴は歩容を偽装する。他人の歩き方を借りる。
9
綿貫が姿を見せた。黒のスーツ、鞄は軽い。「ここの導線は市のモデルだ。流入と流出を滑らかにする。群衆の安全のため」「安全であることと、匿名化であることは別です」佐伯は言う。「匿名化は悪ではない。個人情報保護の規範でもある」「あなたは**『背中』を使って通り抜ける。ここは背中のための設計だ」綿貫は笑わず、周囲を見回した。「やり方が雑だ。犯人がこの場所を選んだのは、たまたまだ」たまたま。導線はたまたまではできない**。
10
南雲が人流のログを拡大する。「5:33の黒の二秒は、切替ではなく、入力切断。物理的にケーブルが抜かれた可能性」井出が眉を上げる。「ネジ、固いやつに替えたはずだが」「誰でも**。コネクタのツメを押せば二秒で黒になる**」誰でも。盲点はいつもこの言葉から生まれる。
11
稲城(清掃班長)が呼ばれた。「ここの清掃は5:20—5:45。北スロープの手摺に黒い粉が少し。拭き取りました」「摺板粉?」「ゴムというよりグラファイト系。車庫の匂いに近い」車庫の盲点が、運動場にも跳ねた。根津の指か。上原の靴か。誰の手でもいいように、粉は黒い。
12
佐伯は自販機の列の前に立った。「テレメトリ」南雲は頷いた。「購入ログはクラウド。5:33に一件、同時刻に二台で接続エラー。通信線が一瞬落ちました」「落ちた二秒で背中が消えた」黒は、同じ時間に別の場所でも黒になる。偶然が重なるとき、意思が透けて見える。
13
南口ゲートにいた警備会社の社員が証言した。「5:33に高校生の列が駆け上がり、反射ハーネスのおじさんが列に声をかけました。ランナーへの注意だと思って」「声は」「落ち着いた男。発車案内みたいな通る声」浅倉の声。彼は鳴らした。声も鳴らす。
14
浅倉は、ここに来ていないと言った。「車庫にいました**。04:59:42の一打を押して、入換の指示。運動場には行っていない」「声は届く。電話で。『Xの背中』に」浅倉は俯いた。「根津に**『列に寄り添え』と言ったのは誰だ」「……私です」声は導線になる。背中は声で曲がる**。
15
根津の供述は、塗り分けのように薄い色から濃い色へと変わった。「橋で鍵を渡し、里道を抜け、運動場で列につけ。ケーブルは二秒だけ抜いた。上原の靴は借りた。比嘉の歩容を真似した**」「誰の指示」「上原。そして、『安全のための導線』を作る人」「綿貫」根津は否定も肯定もしない顔で沈黙**した。
16
綿貫は、設計図の上で話をした。「群衆は点だ。点を安全に流す。それが私の仕事だ」「点は人だ。人が**『押された』ら、点は血になる」綿貫は手帳を閉じた。「比喩が過ぎる**」比喩に逃げる人間は、現場を歩かない。
17
検視補強。三輪のスーツの背中から、防滑粒が新たに二種検出された。柚木と古庄に加え、S08北スロープ特有の亜鉛片。「駅と橋と運動場がひと続きになった」真嶋が言う。「群衆に当てられた粉だ」群衆は証拠を運ぶ**。犯人は触れず、群衆に触らせる。
18
南雲がバスの記録を追う。「無人で入って無人で出た貸切バス。登録はイベント運営会社。電話は不通」井出が口を挟む。「このバス、帰りに北の交差点で一旦停止。そこに自転車が一台。Xハーネス」「積んだのか」「積んでない。走り去った。自転車は逆方向へ」囮。目線を引き受ける背中。
19
市河は、群衆の波形に数学を当てた。「5:33の前後で、群衆ノイズの位相がずれている。二秒の黒で演算がリセットされ、IDが付け直される。同じ人が別人になる」「人を消す技術だ」「安全のための匿名化を、犯人は応用した」善の道具は、悪にもなる。
20
荻野がふいに言った。「根津から聞いた。『消失点は階段の踊り場じゃない。列の腹だ』って」「腹は見えない。一番近い人しか見ない」「その一番近い人が目線をくれる。教わったのは**『声』だ」声は腹に届く**。見えない場所に指示が降る。
21
佐伯は現場再現を提案した。高校生の列に協力を頼み、Xハーネスを付けた二人を中腹に立て、AI追跡を切り替え、ケーブルを二秒抜く。結果、IDは二つから一つに統合された。二秒後に別のIDが生まれ、過去は消えた。「トリックはこれだ」群衆の消失点は、二秒の黒で作れる。
22
ただし、二秒を作るには手がいる。根津はケーブルを抜いたと供述したが、同刻の指紋は出ない。「手袋」「掃除用のニトリル。稲城の棚に同じ箱」手はどこにでもある。二秒は誰のものでもない。
23
綿貫は最後まで**「外縁」を歩いた。「設計は私の名で行わない。委託だ。運用は現場**。二秒の黒は事故だ」「事故の形を知っていなければ、事故は待ってくれない」綿貫は何も言わず、視線だけを遠くへやった。スタンドの消失点。群衆が溶ける場所。
24
比嘉に群衆映像を見せた。「俺はここにいない」「歩容はあなたじゃない。だが、その歩容はあなたから借りた。靴と内股を真似て」比嘉は長く息を吐いた。「背中は持ち運べるのか」「持ち運ばれた。消失点を越えて」比嘉は目を閉じた。「俺は押した。背中は誰のでもよかったのかもしれない」罪は、形を選ばない。
25
浅倉は観客席で風を受けていた。「声を届かせたのは事実です。列の腹に指示を落とした。でも、押せとは言っていない」「押すのは別の動詞ですか」浅倉は小さく笑った。「合図は鳴らす、列は寄せる、証拠は置く。全部、違う動詞でした」違う動詞が同じ結果をつくる。
26
南雲が、もう一つの**「見えない目撃者」を持ってきた。「非常口の足元灯、微振動センサーが付いてます。5:33に規定外の揺れ**。列の腹で誰かが****急に向きを変えた」「手を伸ばすため」「押すため」由比が言った。押すは二度あった。春日町と、ここだ。前者は倒すため、後者は消すため。
27
鑑識が出した。北スロープ手摺の黒粉に、柑橘系芳香剤の揮発物がごく微量。「比嘉の車の匂い」「群衆の中で擦れた」匂いは流れる。消失点では匂いまで薄まる。
28
起訴案の整理。
比嘉:傷害致死(押した手)。
上原:教唆/隠滅工作(靴・声・演出)。
根津:犯人隠避・証拠隠滅ほう助(鍵・柵・ケーブル・群衆化)。
浅倉:犯人隠避/業務上過失(合図・列誘導の声)。
相良:業務上過失(表示系の混線と鍵の管理)。
波川電設:業務過失(復帰未完)。
荻野:置き直しの手(善意の誘導)。
綿貫:現時点で立件困難(外縁の企図。意図の示唆は状況証拠のみ)。
群衆は、法の外縁もまた曖昧にする。
29
最後の一秒は、ここにはない。04:59:42の車庫。05:21の始発表示。05:24—25の切符。05:26の階段。05:30±10の裏通路。県総合運動場は、その後の**「消す」ための場所だった。押したのは先**、消したのは後。犯人は時間を二回、曲げた。
30
夕方、風が観客席を掃いていった。佐伯は消失点に目を細める。「群衆は目撃者にも犯人にもなる」真嶋が頷く。「善のために生まれた設計が、悪のために使われる」「だから、設計には責任が要る」背中は群衆に溶け、群衆は設計に溶ける。責任だけが溶けない——残る。
31
夜。スタジアムの照明が点き、白い面が浮かび上がる。観客はいない。二秒の黒は、人を殺さない。二秒の黒に寄り添う者が、人を殺す。消失点の向こうに、まだ誰かが立っている。外縁に。
佐伯は手帳に次の行を記した。第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口。群衆ではなく、静止した目が必要だ。
小結(捜査メモ/S08の論点)
S08人流カウンタ(LIDAR+サーモ):5:32–5:33に流入−流出=+1、黒画面二秒(入力切断)。
AI追跡の統合:列の腹でID統合→再付与。同一人物が別IDになる。
音響痕跡:Xハーネス反射由来の二峰ピーク(0.42秒)。柚木の金属音に類似。
物証:北スロープ防滑粒(亜鉛片)と摺板由来黒粉・柑橘揮発物がスーツ背面/手摺に一致。
目撃要素:警備員の「通る声」(浅倉の声質と合致)、港ロゴのバス入出(無人)。
操作:ケーブル二秒抜き(根津の供述/指紋なし=ニトリル手袋)。
結論:S08は「消す」ための現場。**押す(春日町)→消す(S08)**の二段。
未解決:**外縁の企図(綿貫)**の立件化は状況証拠止まり。
— 第8章 了 —





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