Sラインの迷宮 第9章
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 11分
目次(章立て)
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中
第5章 柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者
第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言
第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点
第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口
第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差
第11章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
第12章 狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ
第13章 桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路
第14章 入江岡〔S14〕— 港町の仮面
第15章 新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル
※駅名と並びは静鉄公式サイトの駅一覧(S01〜S15)に基づいて
第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口

1
午前五時四十八分。県立美術館前の広場は、まだ朝の色を留めていた。並木の影は短く、舗装の小石が薄く光る。駅から緩やかな坂を上がると、ガラスファサードの前に鏡面ステンレスの球体彫刻がひとつ、静かに置かれている。作品名は**《眼(EYE)》。直径一・五メートル、表面研磨。広場全体が球体の反射**に歪んで収まり、見る者が近づけば、風景は一点に吸い込まれる。
「止まっているものは、動いているものすべてを覚える」佐伯悠人は、球体の前で立ち止まり、目を細めた。S08の群衆で失われた輪郭は、ここならば戻る。止まっている目は、消失点の嘘を嫌う。
2
管理事務室。学芸員の志水が図面を広げた。「《眼》はゆっくり回転します。0.25rpm、四分で一周。夜間は停止。毎朝五時半に保守電源が入るので、そこから角度の基準が作れます」「角度が分かれば、映り込んだ対象の時刻を逆算できる」志水が頷いた。「反射の歪みから方位も出ます。映像ではなく静止ですが、秒単位までは無理でも、十秒の幅には収まる」
志水はさらに紙を一枚足した。「もう一つ。広場の端に黒御影のキューブがあります。上面が鏡面仕上げ。雨上がりは水膜が張って反射精度が上がる。昨朝は露が出ていました」
見えない目撃者が二つ。回る眼と濡れた石。
3
防犯カメラのモニタには、S08の5:33頃に北スロープで「二秒の黒」が発生した時刻に連動するように、ここでも短い同期乱れが記録されていた。しかし、彫刻は関係ない。「作品は電源を持たない**」志水が言う。「回転のための床下ユニットはありますが、反射そのものは電気に依らない」
だから、消せない。二秒の黒が群衆を匿名化しても、彫刻の反射は匿名化しない。
4
由比が受付の脇から戻ってくる。「広場の清掃が五時二十五分頃。担当は同じ班。昨日、球体の下端に繊維が絡んでいたそうです」「繊維?」「X型ハーネスの端布に似ている、と」
鑑識がキットを広げ、球体台座の溝から細い糸くずを二本抜き取った。蛍光黄色の微繊維。ハーネス肩ベルトの縁取りに使われる反射布の断片。広場の端、黒御影のキューブの角からは、ニトリル手袋に使われる極薄の粉末が検出された。
群衆の腹で痕跡は薄まった。彫像の足元で痕跡は濃くなった。
5
学芸員の志水が、スマホを掲げる親子を連れてきた。「開館前に散歩される常連の西方さん。今朝の写真を見せてくださるそうです」母親がアルバムを開く。5:33:08のEXIF。画面には、《眼》の曲面に映った広場全景。二つの背中が並んでいる。X型と無地。無地のほうはキャップに黒いマスク。「この二人が消える」由比が低く言う。「どっちが先?」志水は回転角を読み、太陽方位と合わせて向きを割り出した。「写真の右が北、左が南西。Xが先、無地が半歩後。北へ向かう」
列の腹で消えた二人は、《眼》の中で半歩の差を残していた。
6
市河が波形を重ねる。「S08の0.42秒の二峰と、写真の半歩。一致する」佐伯は西方親子に礼を言い、もう一度《眼》の表面を覗きこんだ。金属の歪みの中で、佐伯自身の肩が小さく揺れる。止まっているものは、動くものの揺れを拾う。
「もう一枚、5:33:22」母親が写真を送る。映っているのは、黒御影キューブの上面。薄い水膜に黒い影が落ち、縁で指先が二本、滑って掬うような動き。ケーブルではない。何か小さなもの。「タグだ」真嶋が言う。「識別タグ。Xを外す時に抜いた」
7
タグはどこへ行ったか。志水が手帳をめくる。「作品保守の倉庫に拾得物の箱があります。朝、清掃がいくつか入れていく」箱の中、小さなプラ片。黄緑のRFIDタグ。「VOL」の擦り切れた印字。「ボランティアのベストか」由比が呟く。「朝の体操会の貸出分」Xは、ここで別の“X”に紛れた。
8
ボランティアの主催者に当たる。貸出ベストは十着。今朝、一着が戻っていない。「返却はセルフの箱です」箱の側板に、擦過痕が一本。斜め。結束バンドで縛った物体が擦れた跡。根津の歯切りの癖が、ここにも残る。
9
無地の背中の正体。S08で柑橘系の揮発物が手摺から出ている。比嘉の車の匂い。写真の無地の背中の肩に、小さな白い点が一つ。拡大すると、刺繍の欠け。運送会社のパーカーで見たことがある安物の量販刺繍の剥がれだ。荻野が身を乗り出す。「根津だ。奴のパーカー。右肩に同じ欠けがある」Xと無地。根津は無地で、Xを寄り添わせた。Xは……誰だ。
10
警備員の証言を補強する。「通る声」。発車案内のような質感。浅倉は現場に来ていないという。声は電話で届く。無地の耳にはイヤホン。写真の反射の耳元に白い点。ケーブルは見えないが、片耳の膨らみがある。声が二人を動かし、二人がXを捨てた。
11
黒御影の表面を斜光で見る。微細な線傷が同心円を描き、その一箇所だけ縦に掻かれている。鑑識が角度を測る。「右手の人差し指の爪。短い。爪先が平ら。手袋の上からでも引っかかる」比嘉は爪を切りすぎる癖があった。根津は伸ばす癖。掻いたのは根津ではない。Xの相方——もう一人の背中は、根津以外。
12
志水が、もう一つの**「止まっている目」を出す。中庭のブロンズ像**《視線》——二体の半身像が互いに見つめ合う構成。目の穴に小さな水滴が残る。「朝露が目の縁に溜まるのですが、触れた跡が残ることがある」像の右の目の縁に、半月形の拭い跡。左手の甲の大きさに近い。小さめ、骨ばっていない。——弁護士の女。綿貫に寄り添っていたあの女の手だ。彼女はここにいた。《視線》の前で。
13
弁護士・高砂を呼ぶ。会議室で、彼女はきれいに笑い、きれいに否定した。「朝は自宅。六時半に出た」佐伯は写真をテーブルに置く。《眼》に映った横顔——帽子の庇と髪の生え際。同じ。さらに、ブロンズ像の半月形の拭い跡の写真。「これは証拠ですか」「直接ではない。だが、あなたの手がここにあったことは否定できない」高砂は小さくため息をつき、視線を落とした。「彼(根津)に手袋とタグを渡したのは私です。安全のためだと思った。群衆で混乱が起きないように」「二秒の黒は誰のアイデア」「イベント運営の経験から、カメラがフリーズすると列が止まることを知っていた。根津が**『二秒だけ』と言った**」事件は、経験の言い換えで出来上がる。
14
「綿貫は」高砂は唇を結んだ。「現場運用は一切関与しない。いつもそう言います」「言葉が線になる。外縁から押すための線だ」「線は契約の外に出ない」契約は地図だ。地図は真実を囲い込む。
15
根津を再聴取。「Xの相方は誰だ」沈黙のあと、根津は短く言った。「高砂」「あなたの役は」「タグを持ってくる。ケーブルを抜く。列に寄り添う。押さない」「押すのは比嘉だけだと」根津はうなずく。「指示は上原から受けて、声は浅倉から届いた。綿貫は、何も言わない」何も言わないという言葉。それが最も厚い指示であることを、佐伯は知っている。
16
高砂の端末から、夜間に**《眼》の回転角の資料が閲覧されていたログが見つかった**。「いつから知っていた」「きのう。志水さんが講演で話したスライドが共有されていた。角度が時計になると」「あなたは時間を読むためにここへ来た**」彼女は頷いた。「二秒では足りない。十秒の幅を埋めるのに、反射が要る」
止まっているものを動かすのに、止まっているものが必要だった。
17
志水は少し顔をしかめた。「作品を道具にされたのは腹立たしい**。ここは記録のための場所ではない」「記録になってしまうのが、作品の宿命だ」佐伯は言った。「作品は街の鏡で、街は作品の影だ」
18
物証が揃う。
《眼》台座の反射布繊維=ボランティアベストの肩布。
黒御影上面のニトリル粉と爪傷=高砂の手の特徴に一致。
RFIDタグ=貸出管理の欠番と一致。
S08手摺の黒粉と柑橘揮発物=比嘉車由来との一致。
S09《視線》の拭い跡=手の大きさ・習慣(左手甲)に基づく高砂比定の補強。
押した手は比嘉。押させた声は浅倉。消す手口を段取りしたのは根津と高砂。線を引いたのは——まだ言葉を持たない者。
19
相良は、依然として端末の前に立っていた時刻のログで守られている。だが、申し送りの言葉は、鍵を動かし、柚木の八峰を生み、S08の二秒を準備した。「あなたの言葉が、誰かの手を動かした」相良は小さく頷いた。「言葉が届く相手を、選べなかった」言葉は地図だ。地図は誰の足でも使える。
20
綿貫が再び現れた。「美術館は関係ない。ここは文化の場所だ」「文化は人の流れを設計する。あなたの言葉が導線の曲率を決めた」綿貫は無言で《眼》に近づき、自分の歪んだ顔を眺めた。「鏡は真実を写すのではない。像を作るだけだ」「それでも、像の輪郭は残る」残った輪郭が、あなただ——と言いかけて、佐伯は言葉を飲んだ。輪郭だけでは、立件には足りない。
21
高砂は、自分の役割を最小に語ろうとする。「タグを片付け、ベストを回収した。誰も怪我しないように」「誰かが死んだ」「それは——別の駅で」「『消す』は『押す』の延長だ」彼女は目を閉じた。「同じ動詞だったのかもしれない」
22
西方親子の写真が、小さな角度の違いで二枚並んだ。5:33:08と5:33:22。《眼》の回転は三度進み、影の位置も三度回った。二人の背中は、一度目には並び、二度目には1/3歩ずれている。その1/3は、電話の応答の遅延に近い。声が届くまでの時間が、像に刻まれていた。
23
市河が言う。「像は音も写す。金属は微小音を共鳴する。衝撃があれば、模様が出る」球体の一部に、指で弾いたような点列があった。1—1—2。短・短・長。「合図だ」浅倉が短—短—長の口笛で車掌合図を覚えていることを、由比が思い出す。彼は声を送ったが、癖は指にも残る。
24
S09で見えた手口は、S08の黒を補強し、S07の里道を地図に戻した。押す(S04)→運ぶ(S05)→鳴らす(S06)→抜ける(S07)→消す(S08)→写す(S09)。動詞が線になり、線が罪の形になった。
25
検察協議。
高砂:証拠隠滅ほう助/犯人隠避(タグ回収・装備の供与・現場同伴)。
根津:前同+建造物損壊軽微(ケーブル抜き・柵切り・箱の擦過)。
浅倉:業務上過失+犯人隠避(声の誘導・車庫一打)。
比嘉:傷害致死。
上原:教唆および偽計。
相良:管理過失。
波川電設:業務過失。
綿貫:企図の疑い(状況証拠)——映像も反射も輪郭しか与えない。
輪郭を塗りにするのは、次の章だ。
26
夕刻、広場に風が吹く。《眼》はゆっくり回り、街を飲み込み、吐き出す。志水がぽつりと言った。「作品は見ています。でも、証言はしません」「見たことを語るのは、人だ」佐伯は頷き、《視線》の前に立った。二体の目は、互いを見て、しかしこちらも見ている。見たことを語らせる。語らない輪郭に言葉を与える。その作業が、明日から始まる。
27
綿貫は去り際に、珍しく問いを投げた。「あなたは犯人を信じますか」「信じない。信じたいと言う気持ちも信じない」「私は設計を信じます。設計が最短距離を与える」「最短は最良ではない」綿貫は笑わず、歩き去った。止まっている目が、彼の背中を丸く歪め、広場の端に押し返す。
28
夜、県立美術館前の駅に戻る。ホームは静かで、列車の光が短く差して去る。止まっているものが見た。見たものを人が言葉にした。言葉が線を閉じていく。残るのは、三分の誤差が生む最後の逃げ道だ。S10 草薙の森の踏切。時間の森に、最後の一秒が隠れている。
小結(捜査メモ/S09で判明したこと)
《眼(EYE)》(鏡面球体):回転角=時刻の補助指標。5:33:08/5:33:22の反射で、X+無地の二人の半歩差と進行方位を確定。
黒御影キューブ:水膜反射と表面微傷で、手袋(ニトリル粉)と左手甲の爪形状を検出。高砂の関与を補強。
RFIDタグ:ボランティアベストの欠番と一致。Xを匿名化する手口が確定。
彫刻《視線》:目の縁の拭い跡→小さめ左手の甲の癖。高砂の比定補助。
音響の点列(短・短・長):浅倉の合図癖。声の誘導と符合。
役割整理:
比嘉=押した手(S04)。
浅倉=鳴らす声・列誘導(S06/S08/S09補強)。
根津=鍵・柵・ケーブル・群衆化(S07/S08/S09)。
高砂=装備供与・隠滅ほう助(S09)。
上原=教唆(S03以降)。
相良=表示と鍵の言外の誘導(S01/S06/S07)。
綿貫=外縁の企図(状況証拠)。
終
広場に、止まっている目が二つ。朝、街を見た。昼、人を見た。夕、沈黙を見た。沈黙は証拠ではない。だが、沈黙の縁に触れた指が、水膜に傷を残した。その傷の角度で、言葉は形を得る。
次章――第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差。最短ではない。必要な道を、三分の誤差で、終点まで。
— 第9章 了 —





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