Sラインの迷宮 第10章
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 11分
目次(章立て)
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中
第5章 柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者
第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言
第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点
第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口
第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差
第11章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
第12章 狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ
第13章 桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路
第14章 入江岡〔S14〕— 港町の仮面
第15章 新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル
※駅名と並びは静鉄公式サイトの駅一覧(S01〜S15)に基づいて
第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差

1
午前四時五十七分。草薙の森は、まだ鳥の声だけを受け入れていた。駅から東へ五分、緩やかな坂を抜けると、私鉄の単線を渡る小さな踏切がある。柵の向こうは、鬱蒼としたクスの樹群。地元ではこの一帯を**「草薙の杜」と呼ぶ。森の踏切は、周囲の空気をわずかに冷やす**。コンクリートまくら木の間に溜まった露が、カン、カン、と遠い金属の音に震える。
佐伯悠人は、踏切の木製ラベルに指を添えた。「K-07」。設備台帳の番号だ。「ここ、閉まるのが早いって評判なんです」案内した由比が、遮断機のハカマを指す。「予告警報が90秒くらい先行する日がある。朝霧が出るともっと早い。列車が来ないのに閉まったとSNSで騒ぎになったことも」「霧で回路が神経質になることはある。“誤差”は自然に生まれる」佐伯は視線を森へ向ける。誤差は、人に拾われるために生まれる。
2
午前五時一分。踏切のベルが一度だけ短く鳴った。遮断棒は降りない。試験か通電か。由比が時計を見て言う。「駅の発車標は05:06で始発。NTPで秒単位まで合ってる。車庫の合図盤は十秒の遅れ。運動場の人流センサは二秒の黒。美術館の回転角は十秒の幅。ここは何分だ?」「三分だ」佐伯は踏切の制御箱の古い銘板を指した。
時刻同期:近傍駅子局 自動追従(±180秒)±180秒。三分は機械の許す誤差。設計が認めた揺れ幅だ。
3
踏切のそばに、小さな祠がある。苔むした木柵に、夜の水滴が残っている。「朝、ここを渡った背中がいる」真嶋がメモを開いた。「ランナーの片岡さん。05:03、ベルが一打。05:04、遮断。列車は見えない。05:06、遮断解除。それから駅の始発が通り抜け。“逆”だ、と」逆。列車が来るより先に閉まり、開いた後に列車が通る。三分の誤差が、因果をひっくり返す。
4
森の踏切の先、獣道のような小径が神社裏に抜ける。その途中に、古い杭が一本。由比が杭の根元から、黒いビニール片を摘み上げた。「結束バンドの余り。斜めに噛み切られてる」根津の癖だ。佐伯は周囲の砂利を指で弾き、褐色の粒を拾い上げた。柚木とも運動場とも違う粒径。踏切の防滑材に混ざる古いスラグ。「ここを通った。列の腹に溶ける前の背中が」消失点に向かう前、背中は森の狭間に姿を残す。
5
午前五時十二分。踏切は静かなまま、遠くで始発の車輪音が山の腹を転がっていく。佐伯は踏切制御の仕組みを口の中でほどく。接近回路が列車の導通を感知し、点滅が始まる。だが、この森では湿気が回路を太らせ、人の足音や自転車の金属が微弱に重なる。±180秒の許容に、一瞬が吸い込まれる。「自然が作った誤差は罪にならない。誤差を使った人間が罪だ」佐伯は踏切の反射鏡に目を上げる。鏡面に、背中の残像がわずかに滑る——そんな気がした。
6
綿貫が、森の入り口に現れた。スーツの裾に夜露がついている。「ここは市の財産ではない。社有地だ。導線は管理外」「管理外は自由ではない」佐伯は言う。「『自由』は責任の反対語じゃない」綿貫は肩をすくめた。「三分。機械が許した誤差だ。人はそれを使っただけだろう」「あなたは誤差に人を乗せた」「証拠は」佐伯は彼を見返すだけだった。証拠はいつも、言葉の外側で育つ。
7
踏切の北側、茶畑の土手に、古い配電箱が一つ。南京錠の錆が新しい。由比が鍵穴の縁を嗅ぐ。「柑橘」「比嘉の車の芳香」配電箱の下の土から、ニトリル手袋の破片が出た。青。S08で使われたものと同じ型。S09で高砂が供与した箱と同じロット。森は静かに繋ぐ。装備を、人を、時間を。
8
午前五時十八分。音羽町で通話があった時刻に、森の風が一度だけ止んだ。市河が携帯を傾ける。「森は音を吸う。吸った音は低い。車庫の一打は届かない。届くのは声」「浅倉の声」彼の声は、発車案内の質感を持って群衆の腹に落ちた。森では、腹は一人だ。列になる前の背中が、声に従う。
9
草薙神社の裏手で、氏子総代の加瀬が待っていた。「三分、ですか。朝はいつも、少し早い。鐘の時刻もずれることがある」「誰が鐘を突く」「当番。今日は——綿貫さんの会社の方が見学に来ていた」綿貫は斜めに微笑んだ。「寄付の相談だ。導線ではない」寄付と導線は、いつだって見分けがつきにくい。
10
加瀬は続けた。「朝、踏切が閉まって、開いて、また閉まった。一度目は列車がない。二度目は列車」「一度目に渡ったのは誰」「黒い帽子の男。無地の背中。肩に白い点」根津。「もう一人、黄色い反射のベストが一瞬」Xの影。Xは森でも匿名になれる——三分の誤差の中で。
11
踏切の予告警報が鳴った。05:21を示す駅の発車標とずれて、踏切は05:18の顔をしている。佐伯は秒針を見る。駅の時計、車庫の時計、彫像の回転角、LIDARの黒——すべてが三分の幅を飲み込み、一つの朝に見せかける。三分は、嘘を本当にする最小単位だ。
12
浅倉を呼んだ。森の端に立たせる。「声はここに届いた」浅倉は頷く。「届くと思って話した。届かないと思って言ったことはない」「届いてはいけない場所がある」浅倉は黙り、足元の露を見つめた。合図を鳴らすことは職能だ。声を鳴らすことも職能だ。誤差を使うことは——職能ではない。
13
高砂は、森の祠の前で手を合わせた。「タグを返しに来たのです」「今じゃない」「返すことは善です」「あなたの善は、善の時間を選ばない**」彼女は唇を引き結んだ。「三分の幅があるから、私はいつでも善を返せると思った」三分は猶予ではない。三分は意図の幅だ。
14
根津は、踏切の遮断桿に手を触れた。「森は便利だ。見られない。三分は大きい。朝は誰も見ていない」「見ている」佐伯は踏切の試験ボタンの周囲の指痕を示した。ニトリルの粉と柑橘。「見えない目撃者はここにもいる。踏切が覚えている。誰が触ったかまでは言わないが、どんな手が触れたかは言う」根津は笑い、笑みを消した。「俺は押していない。閉まるのを待っただけだ」「待つことも操作だ」待つ。押す。鳴らす。抜く。消す。動詞は同盟を結ぶ。
15
市河が、踏切向かいの林床に小型の振動ピックアップを差し込んだ。「昨朝の地面の揺れを逆算できるかもしれません。枕木は揺れを残す」波形が立ち上がり、微かな山が二つ。0.42秒。S08と同じ間隔。群衆に溶ける前、森で試し打ちのように歩幅が刻まれた。歩容は引き継がれる。靴も引き継がれる。意図も。
16
加瀬が指差した。「あの竹、折れてる。昨日は真っ直ぐだった」折れ口は斜め。結束バンドの切り口と同じ角度。「押したのはここじゃない**。倒したのはここだ」佐伯はそう言って、春日町の段差を思い出した。押すのに必要な角度。意図の角度。森は練習に向いている。練習は本番の罪を軽くしない。
17
午前五時二十五分。駅の発車標が次列車を示し、踏切がまだ閉まっている。三分、ある。この三分で、誰かが駅へ戻り、誰かが森へ消え、誰かが祠で手を合わせ、誰かが配電箱へ手を伸ばす。三分は、複数の行動を同時に成立させる幕だ。幕の裏に、綿貫が立つ。外縁で。
18
検視補強が上がった。被害者・三輪の靴底に、草薙踏切のスラグが一粒。「駅と橋と運動場と美術館に続いて、森の粒が付いた」真嶋が言う。三輪は森に来ていない。粒は人から伝った。根津の靴か。高砂の手か。浅倉の声か。粒は距離を越える。誤差の中で。
19
綿貫が踏切の脇で、石の上に座った。「三分は設計だ。余裕だ。安全のためだ」「余裕は悪に使える」「なら、余裕をなくすのか。線を限界まで締め上げ、人を窒息させるのか」佐伯は首を振った。「余裕に名前を与える**べきだ。誰のための三分か」綿貫は目を細め、何も言わなかった。
20
駅に戻る。草薙の改札横に、掲示が一枚。
朝の踏切作動について霧の多い日は安全のため早めに作動します言葉は説明ではない。予防線だ。予防線の間に、意図が入る。
21
荻野が現れた。「根津に頼まれた。『森で待て』と。荷は運ばない。見張りだけだ」「見張りは操作だ」荻野はうなずいた。「三分が長いと初めて知った。見張るには十分だ。逃げるにも十分だ」三分は、知ってしまうと長くなる。
22
市河が、駅前の公衆時計の写真を並べた。05:00の緊急地震速報テストで一斉に振れた秒針。戻り方が時計ごとに違う。「三分は時計の癖の集積だ」車庫の十秒、LIDARの二秒、回転角の十秒、踏切の三分。癖が重なって、『朝』ができた。
23
相良を改めて問い詰めた。「『滞納ロッカーがある』と言った。『鍵はここにある』と見せた。誰のためか」相良は、ついに視線を上げた。「綿貫さんが来るから。質問されたら答えられるように」「彼は来た。あなたは答えた。それが朝の三分を作った」相良の肩が、わずかに落ちた。「私は言葉を投げただけだ」投げた言葉は、誤差の中で重くなる。
24
綿貫の事務所で、古いプロジェクトノートが見つかった。
朝の導線(案)安全余裕 180秒視線の節 2秒記録の穴 10秒線は最短を描かない。余裕の島を飛び石にする。飛び石の上に立つのは、彼の専門だ。
25
高砂は、最後に自分の言葉を選んだ。「私は、安全を守るために装備を渡した。二秒を作るためにケーブルを抜くのは安全ではないと言った」「でも、立ち会った」「立ち会いは善意だと思っていた」「善意の三分ほど危ないものはない」高砂は、答えられなかった。
26
森に戻る。踏切は、静かに、三分を抱えている。佐伯は枕木の一つに手を置き、自分の脈を重ねた。0.42秒。二秒。十秒。三分。朝は四つのリズムでできていた。
27
逮捕状が出た。根津——犯人隠避・証拠隠滅ほう助、妨害電磁的記録破壊の幇助。高砂——証拠隠滅ほう助。浅倉——犯人隠避・業務上過失。相良——業務上過失(鍵・表示・申し送り)。波川電設——業務過失(復帰未完)。上原——教唆・偽計。比嘉——傷害致死。綿貫——立件は見送り、ただし企図の線は生きる。三分の外に立つ者は、いつも紙一重で線を逃れる。
28
夜、草薙の森は、昼より明るい。街の反射が葉の裏に留まり、踏切の赤が静かに揺れる。佐伯は目を閉じ、朝を逆さに辿った。S01 新静岡——始発が告げた嘘。S02 日吉町——置き去りの切符。S03 音羽町——高架の足音。S04 春日町——交差点の背中。S05 柚木——八峰。S06 長沼——車庫の盲点。S07 古庄——古地図。S08 県総合運動場——二秒の黒。S09 県立美術館前——止まっている目。S10 草薙——三分の誤差。朝は、十駅の名でできている。
29
「終わりですか」真嶋が問う。「終わりじゃない。三分の先にもう一駅ある」由比が眉を上げる。「御門台」佐伯は頷いた。「出口だ。線が地図から外へ落ちる場所」三分で許された****余裕が、地図の外で何になったか。森の赤が、遠くで一度だけ点滅した。
小結(捜査メモ/S10)
森の踏切(K-07):±180秒の自動追従許容=三分の設計誤差。朝霧・湿度で先行作動。
証言:05:03 警報一打/05:04 遮断/05:06 解除→始発通過(因果の逆転)。黒帽の無地の背中+Xの閃き。
物証:結束バンド斜め切断片、踏切スラグ粒、ニトリル手袋破片(青)、配電箱に柑橘臭。
波形:林床の振動に0.42秒二峰(S08と一致)=群衆化前の歩容。
関与:
根津:森での待機・ケーブル操作・X匿名化の準備。
高砂:装備供与・タグ回収・現場同伴。
浅倉:森への声の誘導・車庫一打。
相良:鍵・表示・申し送りが三分の幅を可視化。
綿貫:安全余裕180秒を導線として用いる企図(状況証拠)。
統合:押す(S04)→運ぶ(S05)→鳴らす(S06)→抜ける(S07)→消す(S08)→写す(S09)→誤差で支える(S10)。
未決:外縁(綿貫)の法的責任の可視化。線を引かない指示の扱い。
終
三分は、朝に与えられた許しだった。誰かが許しを借り、一人が落ち、線が曲がった。踏切の赤が点る。誰も渡らない。渡らないことが正しさだと知っていても、誰かは渡る。渡るように設計された三分の上で。
— 第10章 了 —





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