Sラインの迷宮 第１１章

目次（章立て）

• 第1章　新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘

• 第2章　日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符

• 第3章　音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音

• 第4章　春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中

• 第5章　柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者

• 第6章　長沼〔S06〕— 車庫の盲点

• 第7章　古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言

• 第8章　県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点

• 第9章　県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口

• 第10章　草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差

• 第11章　御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し

• 第12章　狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ

• 第13章　桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路

• 第14章　入江岡〔S14〕— 港町の仮面

• 第15章　新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル

※駅名と並びは静鉄公式サイトの駅一覧（S01〜S15）に基づいて

第11章　御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し

1

午前五時四十二分。御門台のホームから北側の斜面を見上げると、石垣が段を刻み、その上に細い私道が横たわっている。雨上がりの舗装は、ところどころ銀を塗したように暗く光る。線路は谷を縫って東へ逃げ、草薙の森がまだ淡く息をしているのが見える。

佐伯悠人は、ホーム端から坂道の角度を目で測った。「六％。電動アシストなら降り六分・登り八分。徒歩なら降り十分・登り十五分」由比が手帳に書き留める。「三分がどこへ消えるか、ですね」三分。草薙の踏切が許した**±180秒の揺れ幅は、坂に乗せれば距離に変わる。罪は、距離にしてしまうと見えにくい**。

2

御門台の改札横には、小さなシェアサイクルポートがある。銀色のフレームにモーターカバー。ハブの黒い樹脂に微細な砂が噛んでいた。管理の担当者が端末を操作し、今朝のログを出す。「05:34:11、S10草薙の公園前ポートで車体28が解錠。05:41:29、S11御門台の坂下ポートで施錠。使用時間は7分18秒。速度プロファイルがあります」モニタに滑らかな山型が現れる。0—16—28km/hでピークに達し、回生ブレーキの電流が一瞬だけ立つ。「下りです。ペダル入力は少なめ。回生ピークは急カーブで出ます。ここの二度曲がりが一致」由比が地図をなぞる。「森の踏切から坂。七分で御門台」佐伯は05:33の二秒の黒と、05:41の施錠の間にあるものを思い浮かべた。群衆の腹でIDを消し、森で三分を借り、坂で距離に換えた。車体28。誰が乗った。

3

綿貫のアリバイは、六時前に御門台の事務連絡会へ顔を出した——それだけだった。「五時四十七分のタッチ。ゲートのICログで入館は合っている」真嶋が言う。「草薙から坂を下り、ここのポートで施錠して五時四十一分。徒歩六分で五時四十七分」佐伯は指で線をつなぐ。「車では到達困難な時間帯だ。深夜規制や朝の通行止めが多い」電動アシストは規制を受けない。導線は細いほど早い。

4

坂道の中腹に、古い防火水槽のステンレス札が埋め込まれている。札は磨かれた鏡面で、通り過ぎるものを歪めて映す。「S09の球体と同じ。止まっているものは覚える」志水（美術館の学芸員）が肩で笑った。「市の備品にも反射が宿るわけですね」札の左上に指先のこすれた跡。ニトリルの粉で灰色に曇る。「高砂が坂にもいた」由比が低く言う。彼女は、S09で反射に触れ、S11でも反射に触れた。善意は坂を選ばない。

5

シェアサイクルの利用規約には、法人コードでの一括精算の欄がある。「御門台—草薙間の朝の移動は、この法人コードで三件。連続三日」管理担当者が言う。コードは、イベント運営会社名義。S08の貸切バスと同じルートだ。「コードの発行を頼んだのは誰」「委託元の企業の総務。綿貫さんの会社です」綿貫の線は相変わらず、外縁を歩く。現場に立たない——線だけを貸す。

6

根津は御門台の坂が好きだと言った。「下りは足が勝手に回る。電動なら背中を押してくれる。七分あればどこへでも行ける」「誰の背中を押した」根津は肩をすくめた。「誰のでも。坂が押す。俺は隣にいるだけ」並走——S08の二峰。根津は隣にいた。御門台でも、隣にいた。

7

浅倉は、坂の上で腕を組んだ。「ここから車庫の合図は届かない。僕の声も届かない。電話が必要だ」「誰に電話をした」「根津。高砂。坂の下で待てと」「あなたは声を鳴らした。坂は動かす」浅倉は目を閉じた。声と坂で人を運ぶことは、彼にとって合図と同じだったのかもしれない。だが、合図は義務だが、坂は義務ではない。坂のスピードを人に押し付けるのは、罪だ。

8

「坂道のアリバイ」は、二つの前提で成立する。ひとつ。上りは遅い。ふたつ。降りは誰でも同じ。佐伯は、その両方が嘘だと知っていた。電動アシストは上りを短くする。降りは恐怖心と路面で速度が変わる。恐怖の小さい人の降りは早い。根津の降りは早い。高砂の降りは遅い。二人が並走すれば、坂は分離器になる。二人の差がログに残る。

9

車体28のモーターログ。トルクセンサの微振動は人の踏み替えを数える。「05:38:19—05:38:27に八回の踏み替え。右強め。内股気味」比嘉の歩容が自転車に移植される。05:39:04に一瞬のバースト。回生が強く立つ。「防火水槽の前の段差。高砂が恐れて、ブレーキを強く握った**」並走の二人が、一箇所で違いを見せる。アリバイは揺らぐ。

10

綿貫の主張は、五時三十五分に会社の運転手に電話を入れ、御門台の会場の鍵確認をしていた、というものだった。「発信の履歴はある。基地局は丘上。坂下でも同じだ」真嶋が肩をすくめる。「通話は時間を固めるが、場所は固めない。坂の途中でも会社の横でも同じ」固まるのは声だけだ。足は動く。

11

志水が、美術館の資料からもう一枚持ってきた。「御門台の防火水槽は磨き直しの記録があります。三ヶ月前、地元有志と企業協賛。協賛名は綿貫さんの会社」彼は、反射を磨いた。反射が証言するとは、思っていなかっただろう。線は外縁から伸びる。磨く手は中へ届く。

12

自治会長・井出が坂の上から手を振った。「新聞屋の少年が見たって。『黄色い帯のベスト、坂で脱いで箱に押し込み、タグを切って投げた』って」箱は坂下ポートの返却箱**。タグはS09で回収された欠番。「投げた方向は」「谷。草に引っかかったって」草むらから、黄緑のタグの残りが出た。切り口は斜め。根津の歯。高砂の手。浅倉の声。綿貫の線。坂は四つを重ねた。

13

坂道のアリバイ崩しは、移動時間だけを問題にすると負ける。速度は変えられる。道は選べる。誤差は借りられる。崩すべきは、「怖さ」だ。怖さは個人差だが、物理に影を落とす。ブレーキの圧、回生の電流、ペダルの踏み替えのリズム。高砂の怖さはログに残る。綿貫の怖さは——残らない。彼は乗っていない。外縁の人に怖さはない。

14

高砂は、坂の中腹で立ち止まった。「私は、怖かった。二度、止まった。根津さんが**『行け』と言うから行った**。それだけです」「二度の停止はログにある。あなたのアリバイは、『怖かった』で崩れる」彼女は目を伏せ、頷いた。怖さは嘘をつかない。

15

綿貫は、会場で落ち着いていた。「自転車に乗ったという証拠はない。法人コードは会社のもの。誰でも使える」「あなたは磨いた。防火水槽の札を。反射を彼らに用意した**」「地域貢献だ」「地域のどの部分に貢献した**」綿貫は沈黙を選んだ。沈黙は責任を薄める。だが、薄い責任は複数積むと重くなる。

16

市河が、摩擦熱の僅かな温度上昇まで拾ったモーターログの解析結果を持ってきた。「05:36:48、バックログに一瞬の温度跳ね。右後輪。歩道の目地に金具が引っかかったときの型」坂の半ば、目地の欠けに金具の粉が残っていた。「誰の金具」「上原の靴の金属。S08で使われた」靴は流転する。歩容と金属音と恐怖心を連れて。

17

浅倉に問いを詰めた。「誰が上原の靴を持っていた」「根津です」「誰が履いた」「高砂さんが一度。『足が合わない』と言った。根津が履いた」坂は靴を選ぶ。靴は坂を選ばない。合わない靴で降りた恐怖は、二度の停止として残った。

18

検察協議。

• 高砂：証拠隠滅ほう助（装備供与・タグ回収）に加え、共同正犯の余地（坂での偽装・匿名化の実行）。

• 根津：犯人隠避／証拠隠滅ほう助＋電子計測器妨害（S08のケーブル）＋危険行為（坂での高速走行誘導）。

• 浅倉：犯人隠避＋業務上過失（車庫一打・電話誘導）。

• 相良：管理過失（鍵・表示）継続。

• 上原：教唆。

• 比嘉：傷害致死。

• 綿貫：立件はなお困難——線を引いたが自らは踏まない。ただし、法人コード発行・協賛による反射面の提供など状況の積層は記録する。

坂は一人を速くする。速くした速度を共同で使えば、責任も共同になる。

19

新聞屋の少年が、坂の上で手を振った。「今日の配達で見たんです。五時三十八分、二人ともペダルを踏んでない。車輪だけ回ってる。『追い風』だと思った」「坂だ」風ではない。重力だ。重力は証言しない。だが、人に語らせる。

20

坂道のアリバイは、地形への信仰でできている。地形は神ではない。計測できる。速度、温度、電流、反射、粉。佐伯は五時三十四分から五時四十七分までを、七分の電動と六分の徒歩で編み直し、綿貫の入館タッチへ繋げた。線は一本になる。綿貫は沈黙でその線から降りた。だが、線は消えない。坂に残る。

21

午後。御門台の斜面に西日が差し, 防火水槽の札が赤く呼吸した。志水が静かに言った。「止まっているものは、動いているものすべてを見てしまう。だから、止まっていることも責任なんですね」「責任は動かない。人が動くと、責任は浮かぶ」浮いた責任が、向かう先は一つだ。

22

夕方、綿貫が最後に言葉を出した。「坂は誰のものでもない。使う者の技術だ」「技術には倫理がいる」「倫理は設計外だ」「なら、設計は倫理外になる」綿貫は笑わなかった。外縁で立つことの冷えが、彼の襟を少し固くした。

23

逮捕の順番は坂の傾斜に似た。浅倉が先で、根津と高砂が同時。相良と波川電設は書類で進む。上原は別件の供述が揃い、比嘉は勾留延長。綿貫の名前は、どの紙にも書かれない。坂の上で、風が止んだ。

24（小結）

• 坂＝速度の差を証拠化する舞台。

• シェアサイクル車体28：草薙05:34解錠→御門台05:41施錠、回生電流ピークと踏み替えリズムが並走二人の差を記録。

• 反射面：防火水槽札（企業協賛＝綿貫）、ニトリル粉（高砂）、斜め切断のタグ（根津）。

• アリバイ崩し：「上りは遅い／降りは同じ」という信仰を、電動と恐怖ログで破る。

• 導線の重ね：二秒の黒（S08）／十秒の回転角（S09）／三分の誤差（S10）を七分の坂で繋ぐ。

• 責任の配分：押す（比嘉）／声（浅倉）／媒介（根津）／装備（高砂）／混線（相良・波川）／設計外の線（綿貫）。

25（終）

夜更け、御門台の坂は、昼よりも長く見えた。坂は人を早くし、早さは言い訳を作る。言い訳は三分を借り、二秒で消え、十秒で磨かれる。佐伯は坂の下に立ち、次の駅の名を小さく記した。第12章　狐ヶ崎〔S12〕— 河岸段丘の影。川が作る段は、足跡を隠す。隠れた段に、最後の名が書かれているはずだ。

— 第11章　了 —