Sラインの迷宮(第1章)
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 17分
目次(章立て)
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中
第5章 柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者
第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言
第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点
第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口
第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差
第11章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
第12章 狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ
第13章 桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路
第14章 入江岡〔S14〕— 港町の仮面
第15章 新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル
※駅名と並びは静鉄公式サイトの駅一覧(S01〜S15)に基づいています
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘

1
午前四時五十七分。新静岡駅のシャッターは、まだ半分眠っている。ビルの吹き抜けには清掃機の低い唸りが漂い、自動ドアの向こうで始発前の空気が薄く冷たい。エスカレーターは停止中で、乗り場へ続く階段の足元だけが、非常灯に切り取られている。
構内警備の由比が、巡回の足を止めた。改札の奥、暗いホーム側に、人影が立っている。銀色のスーツケースを足元に置き、黒いフードを深く被った男。「始発待ち……にしちゃ、早いな」呟いた由比の耳に、構内放送の試験音がかすかに届く。ピン、ポン、パン、ポン。音量は最小。人に気づかせない程度の確認。通常の試験は四時半台に終えているはずだが、今日は長く続いた。
フードの男は、携帯を耳に当てたまま目を上げない。通話の相手に言う。「……まだだ。ベルは鳴っていない」由比は背筋を伸ばす。改札機のディスプレイは黒いままで、時刻だけが光る。05:00。秒は表示されない。五時一分、駅務室のシャッターが上がった。駅員の相良が姿を見せ、機器の電源を入れていく。券売機の冷たいファン音が目覚め、改札機のランプが順に点灯した。「おはようございます」由比が声をかけると、相良は軽く会釈し、始発の行先を表示板に出す。そこに躊躇いの指が一瞬走ったのを、由比は見た。05:21 新清水。相良はすぐに視線をそらし、端末の時計を見直した。表示板と腕時計の秒針に、微妙な、しかし気持ちの悪いズレがある。
05:06、シャッターが完全に開いた。フードの男が歩き出す。銀色のスーツケースが床を滑る音。改札の前で立ち止まると、男は通話を切り、顔を上げた。目が合った気がしたが、ライトの反射で表情は読めない。タッチ。高い電子音がひとつ。改札を抜けて消える男の背中に、由比は説明できない違和感を覚えた。――早すぎる。改札を開けるタイミング、駅の空気の目覚め、案内表示の点灯、それらの合間に染み込む「間」。男の動きだけが、そこから半歩先に出ていた。
2
五時三十一分。新静岡発の始発から二本目の電車が、反対ホームに滑り込んできた。鉄の息は静かで、朝の駅の輪郭をひとつずつ浮かび上がらせる。駅長代理の相良は、構内時計を睨んだまま首をひねる。腕時計の秒針が十二を指す瞬間、構内放送が遅れて始まった。数秒のズレ。今日に限って。機器の時刻合わせを今朝はやっていない。昨夜の終電後、設備点検が延びたせいで、引継ぎは書面で済まされた。「相良さん」背後から呼ばれて振り返ると、制服の女性がいた。清掃の班長、稲城だ。「南側のサービス通路に、忘れ物。……いや、忘れ物というより、置き去りかもしれません」稲城は声を潜め、鍵束を握り直した。「ロッカーの鍵と……切符が一枚。まだ濡れてなくて、新しいの」
相良は眉根を寄せた。ロッカーは昨日の昼に一つ滞納が出て、夜勤が開錠したばかりだ。鍵と切符――古い硬券ではなく、券売機発行の白い感熱券。拾得物台帳を手に、稲城とともにサービス通路へ向かう。換気のために半開きになった扉の内側で、銀色のスーツケースがひとつ、ひっそりと置かれていた。「鍵……このスーツケースの?」稲城は首を振る。「鍵はロッカー用の番号札。スーツケースには差さりません。切符は……『新静岡→日吉町』」相良の脳裏に、未明のフードの男がよぎった。スーツケースの持ち主。始発より前に改札付近にいた男。「相良さん、これ、警察に」稲城が言い切る前に、無線が鳴った。改札の自動ドアの向こう、駅前広場から警官の青いジャケットが駆け込んでくるのが見えた。
3
静岡県警捜査一課、佐伯悠人。五時五十七分、彼は新静岡駅の前で車を降りた。薄曇りの空の下、バスの出庫が始まっている。構内に入ると、駅員が目を丸くして迎えた。「通報がありまして。駅から西へ二百メートル、配送センターの裏で、男性が倒れていたと――」「死亡は確認?」「救急から。検視はこれからです」相良が続ける。「それと……こちらで拾得物が。スーツケースとロッカーの鍵、乗車券が一枚」佐伯は顎を引き、駅務室の片隅に置かれた銀色の鞄に目をやった。表面に擦り傷が多い。旅慣れた手の持ち物だ。「中身は?」「まだ開けていません。施錠も見当たりません」「触らないで。鑑識を呼ぶ」淡々と指示を出しながら、佐伯は改札へ歩き出した。タッチ音が、ひとつ、またひとつ。通勤の始まりが、ゆっくりと駅を膨らませていく。
「始発は何時?」「五時二十一分です。新清水行き」即答する相良の口調に、わずかな硬さが混じっている。「表示板の時刻と、腕時計の時刻、合っていますか」相良は一瞬視線を落とし、「念のため、今合わせました」と言った。「今?」「すみません、今朝は点検明けで。放送機器との同期が……少し」佐伯は改札脇の時計を見上げ、秒針の運びを見送る。数える。『一、二、三』。彼の胸の中には、時が積み重なってできた棚がある。時刻表の棚。経路、所要、停車、歩行、信号、改札の混雑。棚のどこに、今朝の数分が収まるのか。
「倒れていた男の身元は、ほぼわかった」部下の真嶋が駆け寄って報告した。「身分証があった。三輪俊介、四十八歳。市内の建設コンサルの技術部長。昨夜、会社の送別会があったらしい。帰途不明」「酒は?」「呼気はもう飛んでいる。頭部打撲。近くの段差で転倒……に見せかけた可能性」「ここから徒歩二百メートル」佐伯は駅の地図を指差した。「この時間に、この場所にいた理由は?」
相良が咳払いした。「先ほどのスーツケースですが、未明、改札の外でそれらしい人物を見ました」「特徴は」「フードを被っていて顔は……ただ、**『ベルは鳴っていない』**と通話していました。五時前です」佐伯は眉を動かした。ベル――発車ベル。始発の音。始発は五時二十一分。「その男は改札を通った?」「五時六分頃、ICで」「五時六分?」真嶋がメモに書き留め、顔を上げる。「早いですね」「早い」佐伯も繰り返した。駅は生き物だ。始発の前には、必ず前兆がある。駅員の歩幅、券売機の呼吸、清掃の音。それらの呼吸の外側にいる者がいるとしたら――。
4
鑑識がスーツケースを開けた。内部には衣類、ノートPC、封緘されたA4の資料封筒が二つ。封筒には**『清水港地区交通結節点再編計画—機密扱い』**のスタンプ。「企業のコンサルならあり得る中身ですね」真嶋が言う。「これが通り魔の置き土産なら、出来すぎだ」佐伯は封筒の角を見た。わずかに濡れて波打っている。駅前の空気に触れただけでなく、外に出ている。「切符は?」相良が提出した感熱券には、はっきりと印字がある。新静岡→日吉町 大人1 05:12発行。「五時十二分」佐伯は時刻を二度目に読み、切符を逆さにした。券売機の端末番号が小さく打たれている。「発行から――始発まで、九分」「始発の表示は05:21でしたから」相良が答える。「では五時十二分に乗れる電車は存在しない」「存在しません」「なのに買った。短区間を」真嶋が顔をしかめる。「新静岡から次の駅まで。歩いたほうが早い距離だ」「歩いたほうが早い距離の切符は、証明書になる」佐伯は言った。「改札の内側にいた証拠。いつ、どこにいたかを固定するために」
相良は黙り込み、やがて絞り出すように言った。「朝、放送の試験をやりました。点検のあとで。表示板の設定も。……秒の同期が、うまくいっていなかったかもしれません」「どのくらい」「一分弱……いえ、それ以上かもしれません。今朝は二度、合わせ直しました」始発が告げる時間。駅が一斉に信じる基準。そこに僅かな歪みがあるとすれば――嘘は、静かに膨らむ。
5
六時四十分。新静岡駅前。取材陣の車が一台、まだエンジンを切らずに待機している。報道関係者の姿は少ない。朝の通勤が優先される街で、ニュースはまだ眠い。そこへ黒のセダンが滑り込んだ。後部座席から降りてきたのは、四十代半ばの男。濃紺のスーツ、派手ではないが、靴は磨かれている。後ろに弁護士バッジを付けた女が続いた。「わたしの名は綿貫哲朗」男は名刺を差し出した。「三輪の上司だ。昨夜連絡がつかなかったので探していた。今朝のニュースで知った」佐伯は名刺を受け、目を上げる。「どこでニュースを?」「会社の車中で。五時半に出た」「あなたは今朝、どこに?」「自宅から会社に向かう途中、新清水で始発に乗った。五時四十七分だ」「始発?」「そうだ。新清水の始発」綿貫の目がわずかに笑う。「新静岡の始発とは違う。こちらは『折返しの一本目』になる」佐伯は内心で時刻の棚を組み替えた。新静岡からの始発と、新清水からの折返し。どちらが先か、どちらが遅いか。系統の起点が違えば、始発は複数あり得る。「三輪さんと最後に会ったのは?」「昨夜十時過ぎの店だ。彼は荷物を持って先に帰った」「荷物?」「銀色のスーツケース。いつも持ち歩いていた」佐伯は無言で駅務室へ視線を流した。机の上の銀色が、朝の光を鈍く返す。綿貫は続ける。「彼は今日、清水側の関係者と朝一で会う予定だった。新静岡ではなく新清水。七時前に」「どこで?」「港。再編計画の倉庫だ」真嶋が目で合図を送る。被害者が倒れていた場所は、実際には新静岡の駅から二百メートルの配送センター裏だった。だが、その搬入口には「清水港物流」と印刷された古いプレートが打ち付けられていた。地名の錯視。佐伯は質問を変える。「あなたは、今朝、どこで誰に見られた?」綿貫は肩をすくめた。「駅のカメラに残っているはずだ。新清水の改札。IC履歴も出る。疑うなら確認するといい」弁護士が口を挟む。「我々は協力的です。ただ、社員が亡くなった直後です。社内の聞き取りは、正式な要請の後に」
綿貫の「始発」は、彼自身の身を守るための語彙だった。発車時刻は、人の行き先と同じように、言葉の置き方で印象を変える。
6
八時十八分。構内の休憩室で、佐伯はICカードの入出場履歴の照会結果を受け取った。協力会社経由で、当日分の記録が簡易に出る。「これは?」真嶋が指差す。05:06 新静岡入場。名義は「無記名IC」。綿貫のものではない。「由比さんが見たフードの男の入場時刻です。05:06」「始発は05:21」「十五分、改札内で待っていた」「いや」佐伯は指先で紙を叩く。「05:06は改札機の時計の時刻だ。構内放送、表示板、券売機――今朝は同期が乱れた。誰が、どこで、どれだけのズレを生じさせた?」真嶋は黙り、別の紙をめくる。「拾得の感熱券、05:12発行。これも券売機の時計」「駅務室の時計は?」「相良さんの腕時計」駅の内部に、三つの時間が走っている。(1)駅務端末の時刻(表示板・放送)(2)改札機の時刻(3)券売機の時刻通常は同期している。だが点検明けの今朝、秒のズレは分に育ち、**始発の「基準」**を曖昧にした。
「フードの男は、改札を通ってから出ていないのか」「それが――記録がない。入場は05:06。出場は記録されていない。未明のロールが混み合っていて、抜けがある可能性も」「あるいは簡易改札を使った」昨日の夜、点検作業の都合で、ホーム中ほどの臨時ゲートに簡易改札機が設置されていた。そこは始発前に撤去されたが、時刻同期は最後に回された。ズレを抱えたまま動いていた可能性――。佐伯は、朝の巡回で由比が感じた「半歩先の動き」を思い出す。人は時間に住む。時刻の段差に気づくのは、そこを踏み外した者か、そこで暮らす者だけだ。
7
現場検証は、駅から西へ延びるバックヤードの通路から始まった。配送センターの鉄扉。センサーライト。段差。鑑識が粉を叩き、靴底の土を採取する。雨上がりの夜の湿りが、まだ地面に残っている。「転倒なら、ここで頭部を打ち、出血――だが……」佐伯は通路の奥に、わずかな車輪跡を見た。細く、硬いタイヤ。スーツケース。跡は駅方面へ続き、途中で途切れる。そこから先はタイル舗装で、輪郭は拾えない。「持ち主が自分で転んだのか。誰かが引きずったのか」真嶋が吐息を白くする。「引くときに、持ち主は歩かない」佐伯は輪郭をなぞる。「押すときに、押す者は呼吸を乱す。この跡――押したな」「つまり、被害者はここまで運ばれた」「駅から出たのか、戻ったのか。始発の前後に」
現場を離れ、佐伯は駅のコンコースに戻った。人の流れが太くなり、朝の言語が駅を満たしている。改札の脇の壁に、大きいデジタルサイネージがある。広告と同じ枠に、列車の発車案内が薄く重ねられている。佐伯はそこに立ち、五分間、何もせずに眺めた。広告が切り替わるたび、発車案内の数字がほんの一瞬、別の時刻に滲む。05:21が、05:20に。一秒もない点滅。同期の設定が広告サーバ側と競合している。「表示の基準が二つある」呟いた佐伯に、真嶋が身を寄せた。「基準?」「駅務端末と、広告サーバ。別の時計で動いている。始発を告げる時計がふたつあれば、嘘はそこから両方に広がる」
8
十時過ぎ、駅務室。相良は頭を抱え、同期ログをプリントしていた。昨夜二十三時四十八分、構内放送機の再起動。今朝四時五十五分、広告サーバのNTPエラー。五時二分、再同期。五時十二分、券売機の時刻自動調整。「五時十二分に、券売機だけ正しい時刻に吸い寄せられた?」真嶋が言う。「いや、正しいかどうかも怪しい」佐伯は紙の束を指先で滑らせた。「どれが正しい基準か、今ここでは誰もわからない。始発とは『最初に出る電車』のことだ。何時に出るかは、誰が『そうだ』と言うかで決まってしまう」
机の端に、拾得された感熱券が置かれている。新静岡→日吉町 05:12発行。「これを買った人物は、五時十二分という印字の時刻を、証拠にするつもりだった」「でも、乗る電車がない」「乗車のために買っていない」佐伯は言った。「入場の証拠にしたかった。改札にいることを示す。駅に縛り付けるための切符」「じゃあ、改札を通らずに? 切符だけ?」「入場記録は、『ICがある』。05:06――」「でも出場がない」「出場は、別の場所で、別の時刻にやれる」
真嶋の目が細くなる。「隣駅?」「歩ける距離だ」新静岡と日吉町の間は、徒歩で移動可能。始発前の静かな街路。駅を跨いで、入場と出場を別の駅で分割すれば、時間の帯は歪む。「05:06 新静岡入場。05:12 切符購入(証拠)。05:21 始発。05:24 日吉町出場――記録上はこう並ぶ。でも実際には、05:06よりも前に誰かが日吉町にいた可能性がある」「入場の前に?」「簡易改札を使えば、機械の時計が二つになる。先に出て後から入る――記録上は不自然だが、ロールの混雑に紛れれば穴になる」
相良がうなだれた。「そんな芸当、駅の内情を知らなきゃできません」「駅の内情を知る者か、駅の内情を買う者」佐伯の目が、机上の封筒に落ちた。『再編計画—機密扱い』。港と駅、バスと鉄道、歩行導線、結節点。交通を結び直す計画は、同時に切り離す技術でもある。人の流れは、少しの設計で変わる。
9
昼。駅前の喫茶店で、佐伯は砂糖を入れないコーヒーを冷ます。窓の向こうを、色違いの車両が通り過ぎる。「三輪の勤務履歴、出ました」真嶋が席に滑り込む。「ここ数カ月、清水側の関係者と早朝の打合せが増えています。港湾関係者、商工会、物流会社。彼が持っていた資料は、その束」「敵と味方は、もう分かれている?」「再編に反対する商店街もある。バスのダイヤに口を出したい人たちも。駅前の導線が変われば人の流れは変わる。カネも」佐伯は頷き、さきほどの綿貫の言葉を思い出す。『新清水で始発に乗った』。「綿貫のIC履歴は?」「05:46 新清水入場、06:12 新静岡出場」「じゃあ、彼は本当に乗っている。問題は――」「フードの男」「そうだ。05:06 入場。出場なし。スーツケースと切符。**『ベルは鳴っていない』**と言った男」
喫茶店の時計が正午を告げる。佐伯は立ち上がった。「午後、現場再現をやる。歩くぞ」「どこから?」「駅から隣駅まで。始発前の想定で」
10
午後一時。駅に戻ると、構内は昼の静けさに移りつつあった。朝の慌ただしさが去り、薄い余白が人の間に漂う。佐伯は駅務室で由比を呼んだ。「未明、見た男と、このスーツケース。同じと思うか」由比は迷いなく頷く。「同じです。擦り傷の位置も、持ち手のテープ補修も」「男は05:06に入った。05:12に切符が出た。05:21に始発――表向きはな」由比は唇を噛む。「ベル、鳴りました。二回。五時前と、二十一分前」佐伯が目を細める。「五時前にも?」「試験音じゃない。発車の短いメロディ。誰かがテストしたのかもしれないけど、車掌の合図に聞こえました」駅は、合図で動く。音は記憶になる。嘘は、記憶の隙間に忍び込む。
「行こう」佐伯は由比と真嶋を連れ、新静岡→日吉町を徒歩で移動した。昼の人宿町通り。交差点。短い坂。信号待ち。「早朝なら、信号の待ちは少ない。十分でいける」佐伯は歩幅を一定にし、九分三十秒で日吉町駅の入口に立った。「五時に新静岡の改札前。05:06入場。すぐに出る。地上に戻る。歩く。05:16には日吉町。簡易改札が撤去前なら、05:18には出場できる。その後、再び新静岡へ戻る――05:29に戻れば、05:32の二本目にも間に合う。記録上は、05:06に新静岡入場、出場は日吉町で05:18。「駅に居続けた」感を残しながら、外では別の動きをとれる。「スーツケースは?」「途中で預ける。ロッカーの鍵。切符。拾得物に仕立てる」「倒れた場所は?」「駅から出た通路。押した跡。誰かが押した」「誰が?」佐伯は、駅の暗がりに残った音を思い出した。『ベルは鳴っていない』。鳴っていることを、知っている者の言葉だ。
11
夕刻、県警本部の会議室。ホワイトボードに三色の線が引かれている。赤は駅務端末の時刻。青は改札機。緑は券売機。「三輪俊介の行動は、今のところこうだ」真嶋が読み上げる。
昨夜22:15 送別会を出る(証言)
23:10 自宅方面に向かった形跡なし(スマホ位置情報)
05:00-05:10 新静岡駅付近で端末が動く
05:30前後 駅西の裏通路で転倒・頭部打撲、死亡推定は05:30±10
銀のスーツケースは駅務室に拾得(05:40)
資料封筒(機密扱い)を所持
「フードの男は?」「05:06 新静岡IC入場(青)。出場記録なし。05:12 券売機で短区間券発行(緑)。05:21 始発表示(赤)。ベルの記憶は由比さん二回」「カメラは?」「広告サイネージの反射に、顔の輪郭。マスク。帽子。特徴なし。ただ――携帯。スライド式の古い端末」「古い端末で、電話。『ベルは鳴っていない』」佐伯は肘を組む。「鉄道の合図が生活になっている者。業者か、駅に出入りする者か」「清水港の関係者?」「結節点に絡む仕事なら、駅にも出入りする。導線をいじる人たちだ」
会議は粛々と進むが、佐伯の意識は、朝の一秒に戻っていく。05:21の表示が05:20に滲んだ瞬間。駅の嘘は、一秒から一分に育つ。始発は、誰が「最初」と言うかで、入れ替わる。
12
夜。新静岡駅の人波が細くなった頃、佐伯はもう一度、改札の前に立った。相良が出てきて、気まずそうに笑う。「今日一日で、時刻の怖さを学びました」「駅は時計に乗って走る。時計が二つあれば、線路も二つになる」「直します。全部、合わせ直します」「――直す前に、ひとつ。今朝、五時前にベルを鳴らしたのは誰だ?」相良は言葉に詰まり、やがて小さく言った。「車庫からの連絡が遅れて、試験を実車でやったかもしれません。長沼方から入換が来る時、合図が必要で……」「駅の外に鳴らす理由はない」「はい」「誰が鳴らした」相良は顎を引いた。「車掌見習いがひとり。今日から担当の子が。名前は……」
駅務室の端末が、軽く唸った。サーバログが更新される。佐伯は視線を落とし、05:00-05:10の間に人為的な操作が三つ、四つ、散るのを見た。試験と誤操作と同期。嘘は、悪意だけでは育たない。慌てと善意と習慣が、背骨を作る。
13
帰路につく前に、佐伯は切符売り場に立ち寄った。自販機に硬い指を入れて、新静岡→日吉町を一枚、購入する。時刻が印字される。今の正しい時刻。紙片は温かい。佐伯はそれを、そっと財布に滑り込ませた。証拠とは、枠の中に押し込まれた時間だ。印字が正確である必要は、意外とない。正確だと信じられていること――その信仰が、アリバイを作る。
階段を下りると、夜風が額を撫でた。駅前の薄暗がりに、人影が立っている。昼間見た黒のセダンの運転手。佐伯に軽く会釈し、視線を逸らす。綿貫の車だ。まだ帰っていない。彼が守ろうとしているのは、会社か、計画か、それとも自分か。始発が告げた嘘は、一人のためでは大きすぎる。街の流れごと少し、向きを変える。
14
その夜、佐伯は自宅の机で、地図を広げた。新静岡—日吉町—音羽町。線路の最小曲線。徒歩ルート。坂の勾配。踏切。赤ペンで矢印を描き、05:00—05:30の帯を、五分刻みで塗り分ける。05:06(新静岡入場)→05:12(切符発行)→05:18(日吉町出場/仮定)→05:24(新静岡戻り/仮定)→05:30(死亡推定)帯の中に、一分の穴がある。05:21。始発が告げたはずの瞬間。そこに鳴ったのは、本当のベルか、試験の合図か。ベルが鳴っていないと言った声は、鳴ったことを知っている。鳴らせる位置にいるから、否定できる。駅の内側で、音を管理できる者。
佐伯は赤ペンを置いた。次に向かうべきは、日吉町。路地裏に置き去りの切符。短い距離の証拠が、長い嘘を支える。
15(終)
夜更け、窓の外で遠く電車の音がした。都市は線路でつながり、切り分けられている。始発は、毎日最初の物語を告げる。そして、誰かがその物語を、少しだけ、自分の都合に書き換える。今朝、新静岡で起きたのは、そんな小さな書き換えだ。一分の滲みが、ひとつの死を隠す。
翌朝、佐伯は日吉町に立つだろう。坂道のアリバイ崩しが、そこから始まる。
— 第1章 了 —





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