『飢えた正義』——米不足列島崩壊
- 山崎行政書士事務所
- 1 日前
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第一章 主婦たちの静かな怒り
令和十年、四月。横浜市港北区、早朝七時。雨上がりの歩道に、小さな行列ができていた。
最前列に立つのは40代後半の主婦、沢渡玲子。パート勤務を休んでまで並ぶ理由は、たった一つ。「コメ」だった。
夫は都内の物流企業に勤める中間管理職。息子は高校一年生。決して貧困家庭ではない。だが、あらゆる生活者が今、同じ不安に晒されている。“次の食卓に白米が出せるかどうか分からない”。この新たなリアリズムに、日本中が急速に染まりつつあった。
「昨日の特売、8時前に完売だったって」「◯◯産の無洗米、メルカリで倍以上よ」「政府の備蓄米?あれ、どこにあんのよ」
スーパー前の会話は、まるで終戦直後の闇市だ。「異常気象による不作」「円安による輸入米の高騰」「買い占め」「パニック需要」「転売ヤーの暗躍」理由はいくつも挙げられていたが、根本の問題は一つ。
政府が、早すぎた「平時」を前提に制度を設計しすぎた。民間が、目先の利益を最優先に供給網を構築しすぎた。そして国民が、あまりに「食料安全保障」に無関心すぎた。
玲子の脳裏に、昨日のニュース映像がよぎる。地方都市のスーパーで、50代の女性が米を巡り口論となり、押し倒され頭を打って死亡。加害者は大学生。「母に頼まれ、ただ必死だった」と供述したという。
「……これ、もう事件じゃなくて、政策の帰結よ」
列の中で玲子が呟くと、隣の主婦が深く頷いた。
その瞬間、玲子の中で何かが動いた。この国が「統治不全」に陥っている。そう直感した。それは、いつかテレビで見た紛争地の「パンの列」と本質的に変わらなかった。
そして、その兆候は、彼女の家族の中にも既に現れていた。
第二章 見えない国家
霞が関・農林水産省 本館南側会議室令和十年四月十八日 午前九時三十分
「したがいまして、備蓄米の放出については、現時点での市場影響を慎重に見極めながら判断すべきであると――」
農水省食料政策課長・古川達郎は、マスク越しの声でそう結んだ。部屋の中には十数名の官僚、関係団体職員、そして商社や流通業者の代表が集まっていた。表情は一様に沈んでいる。いや、沈んでいるというより、漂っていると言った方が近い。どこか虚無的で、事務的な空気が室内を支配していた。
「“慎重に”って何なんですか?」
その沈黙を破ったのは、大手総合商社・泰信物産の食料部長・水谷だった。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけた彼は、書類を机に投げるように置き、声を低く荒げた。
「現場は地獄ですよ。地方の支店からも、系列スーパーからも、現場の責任者が毎日泣きながら電話してくる。米が棚にない。怒号、暴行、万引き、営業停止。昨日は物流センターが襲撃されましたよ。これが平時の“市場”ですか?」
「お気持ちは理解します。しかしながら――」古川が言葉を選びながら応じる。「過去の価格統制や市場介入の失敗を踏まえれば、農水省としては……」
「またそれですか」水谷の声が低く唸る。
「平成の米騒動の時と何が違うんですか。政府備蓄100万トン。そのうち可動可能なのは数十万トン。国が本気で放出すれば、少なくとも“大行列”は防げる。なのに、なぜ“市場の自律”なんて言葉がまだ出てくる?」
机の端で、全国農業協同組合連合会(JA全農)の理事・木戸が口を開いた。
「……供給は可能です。ただし、“出す米”が流通に乗った瞬間、既存の契約農家や中間業者からの強い反発が予想されます。特に、価格補償の調整が追いつかない状態で無理に流すのは、制度崩壊を招きます。農家は来年から作らなくなる。」
「だからって、国民が食えなくなっていいと?」水谷の語気が強くなる。
「私たちが背負わされているのは、“食えるか否か”の瀬戸際ですよ。『農業政策の安定性』は重要です。だが“今日の飯”を担ってるのは我々なんだ。物流が止まれば、思想も倫理も機能しない」
「現に、昨日の港湾でも騒ぎがありました」物流企業連盟の代表が手を挙げる。「コンテナヤードで荷下ろし中のベトナム米を、周辺住民が囲んだ。誤解が誤解を呼んで、倉庫に火炎瓶が投げ込まれたという報告もあります。もはや“事象”じゃない。国家の信用そのものが問われている」
空調の音が妙に大きく聞こえた。誰もが言葉を失っていた。
それは、「誰が動いても正解ではない」という構造的責任回避の空白だった。農水省は「市場の安定性」を言い訳に動かない。JAは「農家の信頼」を理由に出荷を渋る。商社は「流通責任」を盾に国を突き上げるが、自社の在庫確保に奔走している。物流業者は「治安悪化」を懸念して一部地域への配送を停止。一方、総理官邸は“政治リスク”を恐れて公式コメントを避け続けていた。
まさに“誰も動かぬ国家”。食料安全保障を司る者たちが、「それは我々の責任ではない」と互いを横目で見ている。その間に、炊飯器の底に張り付いた数粒の白米をかき集める主婦の指先は、震え続けているのだ。
――沈黙を破ったのは、若手官僚の一人だった。
「……一つ、提案があります」
全員が視線を向けた。農水省国際課・大塚。30代後半、東大法卒、経産省からの出向組。「緊急的に“無記名配布型”の米券制度を復活させてはどうでしょうか。中間流通を通さず、基礎自治体と組んで直接家庭に配る。政府の備蓄放出を伴えば、限定的ながら生活不安を和らげられるかと」
古川課長の眉がピクリと動いた。「票田に触れる政策ですよ。やるとなれば官邸と直接交渉が必要になる。前例がありません」
「その“前例”を理由に、もう三人が亡くなっています」大塚の言葉に、部屋が凍りついた。
沈黙。時間だけが虚空を滑っていく。この国は、誰のために存在しているのか。責任なき官僚制のなかで、米は“国策”から“管理対象”へと姿を変えていた。
会議は、そのまま結論を出せずに終わった。
大塚は帰り際、ふと資料の隅に書かれた言葉に目をやった。「緊急備蓄出荷量:231,000トン」それは、過去最大の放出可能量だった。だが、その数字が現実になる保証はどこにもなかった。
それでも、大塚の胸に去来していたのは一つ――この国には、いつから「飢える自由」しか残されていなかったのか。
第三章 少年たちの夜行(やこう)
令和十年四月二十三日 午後十一時五十二分神奈川県横浜市 湾岸地区・第二物流団地
空は濁った灰色、街灯の灯りは遠く、視界の隅がやけに青く見える。倉庫街の夜は静寂というより、“無関心の音”で満ちている。車の通りはほとんどない。警察も、この区域には極力近づかなくなっていた。
その影のなかを、五人の少年が歩いていた。
全員、フード付きのジャケット。リーダー格は高校二年・樋口健志。その隣には、沢渡登(のぼる)、玲子の一人息子。彼の視線は地面を捉えながらも、その奥には一点の緊張が宿っている。
「本当にやるのか?」
登が問うと、健志は頷いた。「もう“選ぶ余地”なんかないよ。うちの冷蔵庫、空っぽだった。母さん、飯の代わりに小麦粉水で団子作ってた。あれ、食い物じゃねえ」
笑う者は誰もいない。
今回のターゲットは、泰信物産の米保管倉庫――世間では“隠匿倉庫”と呼ばれはじめていた。情報源はTwitterで拡散された匿名の投稿。《横浜第2倉庫に大量の国産コシヒカリ確認。関係者以外立入禁止だが、管理甘め》
登がスマホで地図を確認しながら、フェンスの影に身を沈めた。周囲に警備の影はない。いや、正確には“目立つ警備”がない。赤外線センサー、監視カメラ――それらがあることは知っている。だが、健志たちが頼っていたのは「混乱」という最大の味方だった。
「こっから15メートルの地点にトラックがある。そこの後部が、常時鍵が甘い」
健志の言葉に、四人が頷く。そのままフェンスを乗り越え、音を立てずに進む。トラックの後部には、黒いカバーがかけられていた。鍵は――なかった。
「……マジで甘いな」誰かが低く呟いた。
中を覗くと、銀色の袋に包まれた“戦利品”が現れた。5kg、無洗米、銘柄:新潟産コシヒカリ。市場価格で一袋5,400円。ネットでは8,000円以上で転売されている品だ。だが彼らにとって、これは金ではない。命を繋ぐための、白い塊だった。
「3袋までな。欲張るなよ」
健志の声に全員が頷き、それぞれのリュックに袋を押し込む。登は、その重みに驚いた。5キロがこんなに重かったか?だがそれと同時に、妙な感覚が芽生える――「持って帰れる」「今日の飯がある」それは罪悪感ではなく、ある種の達成感。“無力な自分”からの解放。
そのとき――
「おい、誰だ!」
警備員の怒声。懐中電灯の光が闇を裂いた。少年たちは一瞬硬直し、次の瞬間には本能的に走り出していた。
登もリュックを背負ったまま、全力で駆けた。フェンスを乗り越え、転びかけながら着地。肺が焼けるようだが、構っていられない。後ろから警備員が何かを叫んでいたが、言葉はもはや意味を成していなかった。
五人は、それぞれ別の方角へ散った。
登は市街地の裏通りを選んだ。途中、路地裏で息を殺して隠れる。懐中電灯の光が遠ざかるまで、心臓の音が耳を支配していた。
――5分後。
人気のない住宅街の一角で、ようやく呼吸を整える。重さのあるリュック。中身は確かに“盗んだ米”だ。それでも登は涙を流した。恐怖のせいではなかった。それは、確かに“自分が役に立てた”という感覚に近かった。
“盗むしかなかった”
彼は、今の自分の在り方を正当化しようとは思っていない。だが、誰かのために手を汚すことが、こんなにも真っ直ぐで、救いになるとは思っていなかった。
そのとき、スマホが震えた。“健志→無事。2袋ゲット。明日、例の場所で配る”
それに続いて、他の仲間たちからも同様のメッセージが届く。皆、無事だった。そして、分け与える意志がそこにあった。
“例の場所”とは、近隣の団地に住む高齢者や母子家庭のための“非公式支援所”だった。登は、初めてスマホを握る手に、熱い血が流れているのを感じた。
彼らは罪人だ。だが、この国のどこかで、今この瞬間も米を買えずにうずくまる誰かの命を、彼らは繋ごうとしていた。
第四章 暴かれた備蓄
日本テレビ報道局・政治部デスク永田町記者クラブ控室令和十年四月二十四日 午後六時二十分
「うちが先に出せば、経産は黙っちゃいない。農水も“意図的な漏洩だ”と騒ぐぞ」編集長の口癖はいつも同じだった。「“報道は真実のためにある”なんて幻想だ。誰がどこで、どれだけ傷つくかを想像してから出せ」
だが、その日、政治部記者の榊原真由(38)は、編集部の「迷い」と決裂していた。彼女の机上には、一本の音声データと一通の内部メールのコピーが置かれている。
件名:《政府備蓄米の一部、優先出荷対象として民間企業へ“非公開割当”済》
添付:・農水省備蓄流通調整表(改訂第3版)・音声:農水省流通課長代理×泰信物産食品事業本部長 会話記録(3月18日)
榊原はヘッドホンを着け、3分56秒目の音声を再確認する。
「……ですから、泰信さんへの1.3万トンは、正式決定の前段階として“仮配”扱いということで」「助かります。先に地方の主要拠点へ落とします。都心は様子見で」「都心は…炎上しますからね」「はは、確かに。バカな主婦連中が騒ぐと厄介ですから」
音声の最後、会話の主は冗談めかして笑っていた。
榊原の手は震えていた。怒りではない。冷ややかな確信だった。これは、報道として“世に出すに値する事実”だ。
だが、社内は冷たい。この情報は、農水省の中堅官僚・大塚から得た。彼は「非公式であれば」と条件をつけ、現場の“止血”を目的に協力してくれた。その彼が数時間前、携帯にこう連絡してきた。
「上が動きました。たぶん、そろそろ内閣官房主導で“弁明パッケージ”が出ます。先手を打ってください。でなければ“正義”は潰される」
つまり、政府は“先出し報道”を前提に、炎上を“演出”しようとしていた。見せかけの危機対応、責任追及のポーズ、そして“安心を与える報道”。報道ですら、政権与党のシナリオの一部になる時代なのだ。
榊原は、黙ってUSBをポケットに入れた。
向かう先は――週刊新時代・編集部。
「うちじゃ流せないわ。系列が農水と癒着してるから。だから“外”に行く」
報道局デスクにそう告げたとき、編集長は何も言わなかった。ただ深く、深く息を吐いた。報道の矜持は、たいてい編集部の廊下に置き去りにされる。だが今夜は――そうではない。
翌朝:4月25日午前7時45分
『週刊新時代・緊急速報版』Web公開
《政府、緊急備蓄米を「一部企業に優先出荷」――独占音声入手》
政府の備蓄米、最大手商社に非公開配分農水省幹部が「都心への流通を意図的に遅らせた」と明言官邸は“報道が先行したことは遺憾”とコメントSNSでは「#備蓄横流し」が急上昇トレンド1位に
記事は3時間で160万PVを超えた。関連キーワード「農水省 泰信物産」「都心封鎖」「主婦デモ」「倉庫火災」午前10時、都内数か所のコンビニ前で抗議活動が発生。午後1時、首相官邸前に主婦グループの列ができた。
その頃――榊原は取材で横浜へいた。
目的は、あの倉庫街の中で起きた“もう一つの事実”――主婦・沢渡玲子による放火未遂事件の真相確認だった。
取材の途中、彼女は偶然、一人の高校生と出会う。名を聞いて驚く――「沢渡…登?」
彼の目は、母を見つめる子の目ではなかった。彼の言葉が、榊原の背筋を凍らせた。
「あの日、母さんは“おかしくなった”わけじゃないんです」「むしろ正気だった。誰よりも、正気でした」
第五章 母の決断
横浜市港北区 沢渡家令和十年四月二十五日 午後七時一五分
台所の明かりの下、玲子は黙って炊飯器の蓋を開けた。そこにあるのは、盗まれた米だった。倉庫から息子が持ち帰った――いや、「持ち出すしかなかった」米。白く、艶があり、香り立つそれは、まぎれもなく“罪の味”を帯びていた。
「母さん、今……テレビに名前出てた」
リビングから登の声がした。榊原真由の報道が公開され、ネットとSNSは蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。“倉庫火災の真相”に関する匿名の通報、そして現地映像から割り出された不鮮明な監視カメラの姿。玲子の顔はまだ報道されていないが、「主婦」「40代」「単独行動」などの断片が、すでに「探される存在」になりつつあった。
「登。聞いて」
玲子の声は、静かだった。
「母さんね……最初は、怒ってた。買い占めをしている人たちにも。企業にも。政府にも。でもね、途中から怒りじゃなくなったの。だって、みんな同じだった。“自分の家族を守るため”に動いてた。それは、私も同じ」
登は、何も言わなかった。玲子は続けた。
「でも、それだけじゃ駄目なのよ。“うちさえ良ければいい”って発想が、ここまで社会を崩したの。あの倉庫を燃やしたのは……正直に言うわ。私よ。でも、それは壊したかったんじゃない。“見せたかった”の」
沈黙。登が、ようやく口を開いた。
「見せて……何を?」
「この国の“良心の不在”よ」
玲子は初めて、涙を流さずに言った。強い目をしていた。家族のためでも、復讐でもない。「空腹が爆発した社会」で、誰も声をあげようとしなかった構造の異常さ。正義を装う人々が沈黙し、“冷たい合理”で人間を切り捨てる――その残酷な構造を、燃え上がる倉庫とともに“可視化”させたのだった。
「火を点けた直後、私は思った。“ああ、これで捕まる”。でもね、不思議と怖くなかった。むしろ、誇らしかった。ようやく私にも、この世界に対して“返す言葉”を持てた気がしたから」
登が、初めて母の方をまっすぐに見た。その目に涙が浮かんでいた。
「母さん、もう逃げないの?」
「ううん、逃げない。だって……この国が今、“逃げてばかり”だから」
同日 午後九時二五分
神奈川県警 港北警察署
受付に現れたのは、一人の女だった。黒いトートバッグを持ち、淡いグレーの上着を羽織っている。冷え込む夜、彼女の表情はどこか温かかった。
「放火の件で、お話したいことがあります」
その言葉に、警察官が目を見開いた。だが、彼女は微笑んで続けた。
「私は沢渡玲子。放火したのは私です」
翌朝 主要全国紙朝刊 一面(共同通信配信)
“私がやりました”主婦が放火自供沢渡玲子容疑者、自首。政府備蓄問題と関連か
「炎は、自分がこの世界に生きているという“証”だった」
その日の午後。官邸地下の危機対策室では、報道対応をめぐり与党幹部が怒号を飛ばしていた。「主婦一人の放火が、政府の食料政策の根幹に楔を打ち込んだんだぞ!」「農水潰す気か!?」
だがその一方、街頭では「#私は沢渡玲子に米を分けてもらった」という匿名投稿が急増していた。“犯罪”と“連帯”の境界線が、音を立てて崩れはじめていた。
第六章 官邸の沈黙
永田町・内閣官房地下第二会議室令和十年四月二十六日 午前九時三〇分
会議室には異様な熱気がこもっていた。壁には大画面モニターが三枚。1枚はテレビの地上波ワイドショー、1枚はSNSのトレンドランキング、1枚は警察庁の「都市部治安状況グラフ」。どの画面も、共通の単語を点滅させている。
《#沢渡玲子》《#正義の火》《#隠された備蓄》
「なんなんだこれは……この“主婦”一人に、内閣が揺らいでるぞ」
怒鳴ったのは内閣官房副長官・片岡英嗣。防衛出身のたたき上げで、メディアにも強硬姿勢で知られている。その横で、首相補佐官(政務)・中川慎一が沈痛な面持ちで言った。
「片岡さん、問題は“主婦”じゃない。これは“可視化された国家不信”だ。備蓄の私物化、配分の不透明、そしてメディアの沈黙――積み重ねた“無関心”が、一人の火で燃え上がったんです」
「結果論だ」
「そうです。だが、この結果をコントロールし損ねたのは我々です」
部屋の空気が凍った。
広報室長が口を挟む。「既に複数の海外メディアも取り上げ始めています。“Rice Riots 2025”との見出しで。“民主主義先進国での食料パニック”が既成事実化しつつある。イギリスBBC、アメリカCNN、中国CCTV、どこも扱ってます」
「で? 我々に打つ手は?」
「炎上は“共感”を媒介に拡大しています。今、世論調査を仕込めば、“火を点けた主婦を支持するか否か”という二択で、政府に反感が集中します」
「報道各社は黙らせられないのか?」
「逆です。抑えれば、むしろ“政府による報道統制”という燃料になる」
副長官・片岡は苦虫を噛み潰したような顔で、声を押し殺して言った。
「つまり、“対応しない”ことが最も安全だというのか?」
広報室長はうなずいた。
「“沈黙こそ最善のPR”です」
その日の午後一時。官邸公式会見――なし。
農水大臣によるコメント――“ノーコメント”。
首相動静――官邸執務、報告受領のみ。
テレビ局各社は動いた。だがその大半が、ワイドショー枠に「心理専門家」「コメンテーター」「防災アドバイザー」を並べ、“個人の暴走”“ストレス社会”といった論点にすり替えた。
ある報道局プロデューサーは本音を漏らしていた。「米の政治リスクなんて初めて扱ったよ。でもスポンサーが不快感を示しててね。特に大手流通系」
官邸が沈黙を選んだ瞬間、メディアも沈黙を選んだ。それは、巧妙な“報道の封じ込め”だった。
だが、街は黙らなかった。
午後五時、都内・中野区役所前。主婦たち数十名が手製のプラカードを掲げた。
《米を、政府は誰に配ったのか?》《火を点けたのは、飢えか、それとも希望か?》
この“静かなデモ”の様子を、若い動画配信者がライブで流した。再生数は20分で10万を超え、コメント欄は「ありがとう沢渡さん」「俺らも黙ってない」の声で埋め尽くされた。
やがてその映像は、NHKの国会中継の裏側で密かに取り上げられた。
翌朝。首相秘書官が官邸の執務室で、首相に耳打ちする。
「総理。最新の民意調査、出ました」
「……見せてくれ」
質問1:政府の食料対応に信頼を持っていますか?はい:12% いいえ:83% わからない:5%
質問2:沢渡玲子という人物の行動をどう思いますか?正当な抗議だった:61% 犯罪でしかない:29% わからない:10%
総理は、ゆっくりと資料を閉じた。そして呟く。
「……炎は、消えたと思っても、薪が乾けばまた燃える」
第七章 再配分の朝
令和十年四月二十七日 午前八時十五分神奈川県横浜市青葉区 あおば第3団地 集会所前
「一列で並んでください! リュック・バッグは開けたままで!」
拡声器から聞こえるのは、行政の職員ではない。防災ボランティアでもない。近隣の主婦、元教師、引退した元JA職員。誰もが名札も肩書も持たず、ただ“食料配布の責任者”として立っていた。
列の先頭にいたのは、小学三年生の少女とその母親。少女は紙の札を握っていた。手書きの番号「021」。
「はい、021番、白米1.5キロと野菜スープパック、乾燥わかめ入り。次の配布日は二日後です。大切に使ってね」
その声に、少女はぺこりと頭を下げる。母親も「ありがとうございます」と言った後、そっと目元をぬぐった。
彼女たちのような世帯が、朝から集まっていた。この日、「市民流通ネットワーク(CRN)」が正式に稼働を始めた。
発起人は、大学生・樋口健志。そして、彼と共に動いているのが、沢渡登だった。
倉庫から持ち出された“正体不明の米袋”。メルカリを通じて匿名で拡散された“提供可能な在庫”。家庭に眠る“不要不急のコメ”。それらを、匿名のLINEグループとGoogleフォームを通じて整理し、トラックを出せる者が運ぶ。
一切の政府関与なし。自治体の公式後援も、企業スポンサーもなし。それでも、そこには確かな“オペレーション”があった。
「市は何もしてくれない。でも、俺たちは分け合える」登が記者の質問に答えたのは、配布三日目だった。
「自分の母が燃やしたのは、倉庫じゃない。“孤独”だったと思うんです」
その発言は、ネットで拡散され、再び「#火の意味」がトレンドに浮上した。
同日 午前十時三十分
横浜地方検察庁 206号室(主任検事室)
「被疑者・沢渡玲子、現行犯性なし、自首あり、証拠固め済み。精神鑑定の予定なし」
主任検事の根津は、捜査資料に目を通しながら淡々と言った。
だが、同席していた副部長検事・金城が首を傾げた。
「“鑑定なし”で進めるのか? 感情的には理解されている事件だ。国民感情とのズレが大きい」
「……理解はしているが、“犯罪は犯罪”だ」
「だが、これは“メッセージ性”のある犯罪だ。検察の捜査は、時に国の方向性を決める。バランスを見誤れば、逆に司法が炎上する」
「君は、司法を感情で運用するのか?」
「違う。“司法が誰のためにあるのか”を忘れないようにしているだけだ」
言い合いは平行線だった。そのまま、起訴状の作成が進められた。
起訴内容(令和10年刑第2032号)
被告人:沢渡玲子(47歳)罪名:非現住建造物等放火、業務妨害、器物損壊
起訴理由:「公の流通秩序に重大な脅威を及ぼし、かつ社会的混乱を誘発する意思をもって火気を使用。正当な政治的抗議とは評価し難く、刑事責任を免れない」
その夜、報道ステーションでは弁護士・東山礼子がコメントしていた。
「今回の起訴、法的には当然でしょう。ですが、果たしてこれは“秩序の維持”なのか、それとも“秩序の更新”を妨げるのか――司法には、そこまで問われている」
SNSでは、この日の夜から「#火は裁けるか」「#秩序と正義」のタグが立ち上がった。
同時刻。あおば団地の一角では、登と健志がトラックを降ろしていた。荷台には、新潟の農家から匿名で送られてきた米袋が積まれていた。
段ボールに、こう書かれていた。
「わしらのコメが、必要な人に届くことを願ってます。火は燃やすだけじゃない。光にもなる」
第八章 燃え尽きたあとの光
令和十年六月三日横浜地方裁判所 第202法廷
裁判官が開廷を告げた瞬間、傍聴席の空気が一変した。満席の傍聴席には、メディア関係者、法律家、そして一般市民が詰めかけていた。その全員が注目する先、被告席に立つのは、沢渡玲子。
やや痩せたが、姿勢は正しく、眼差しに迷いはなかった。
検察官の論告は、端的であった。
「社会不安の中で市民が苦しむことは、国家として看過できない問題である。しかし、法を超えた個人の正義が許容されれば、社会秩序は崩壊する。本件は“善意の逸脱”であり、量刑上も看過できない」
一方、弁護人・佐原信吾(元東京地検特捜部)は静かに語った。
「この被告人の行為が“違法”であることに異論はない。だが、問われるべきは“なぜ彼女が行動せざるを得なかったのか”という、制度そのものの空白である。法に違反した者を裁くのは裁判所の役目だ。しかし、法が届かなかった領域を黙殺することが、果たして“正義”なのか――本日、その答えが求められている」
裁判長は、静かに量刑を告げた。
判決主文(要旨)
被告人・沢渡玲子を、非現住建造物等放火及び業務妨害の罪で有罪とし、懲役三年・執行猶予五年とする。
理由の中で、裁判長はこう述べた。
「本件は、法秩序を破壊しかねない行為でありながら、結果として社会的関心を喚起し、一部では行政の対応を促す契機ともなった。本判決は、その事実と“法の尊厳”との間で極めて重い判断を要したことを申し添える」
判決が言い渡されたとき、玲子は小さく目を閉じた。罪は背負う。だが、意味も背負う。その覚悟だけは、判決の前から彼女の中にあった。
退廷後、廊下で登が待っていた。「おかえり」玲子は微笑んだ。「ただいま」
その一言だけで、二人の間に言葉はいらなかった。
一ヶ月後
神奈川県横浜市青葉区 空き地
そこには、かつてプレハブが建っていた。今はその跡地に、小さな“こども食堂”が作られようとしていた。
「名前、どうする?」
登が、スケッチブックを見ながら訊いた。
「“はんぶんこ亭”なんてどう?」
健志が提案すると、近くにいたボランティアの中年女性が笑った。
「いい名前。私たちの今にぴったり」
その隅で、玲子は草を抜いていた。大地に触れる手は、あの夜の火の熱をまだ憶えていた。
だが、もう炎はいらない。今は、芽吹かせる番だ。
彼女が立ち上がると、遠くで小さな子どもたちの笑い声が響いた。白いごはんを頬張る顔――それは、あの炎の、もう一つのかたちだった。
エピローグ
『新潮45』令和十年八月号コラム:「あの火は何を変えたのか」
沢渡玲子は、犯罪者だった。だが、同時に“国家の空白”を可視化した当事者でもある。法が裁けるのは行為であり、意思ではない。だが、日本社会に今、最も欠けているのは、違法性ではなく“意思”である。彼女が放った火が、誰かの心に火種を残したとすれば――それは、まだこの国が変われる証明なのかもしれない。
― 完 ―
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