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ノリオー二の雨に溶けるコート

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月21日
  • 読了時間: 7分
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噂その一。ノリオー二は、入店の合言葉を季節ごとに変える。春は「若芽」、夏は「磯風」、秋は「初摘み」、冬は「鍋の締め」。噂その二。値札は数字ではなく俳句で書かれており、五・七・五の合計音数×千円が価格になる。噂その三。素材は企業秘密だが、たまに店内がやけにおにぎりの香りになる。

 私、木場ハナ(27)は、その噂の真偽を確かめるため、表参道のノリオー二・ポップアップに並んでいた。行列はまるで初詣。前に三脚を立てたインフルエンサー、後ろにルーペを首からさげた真贋判定士、横には「ノリオー二専用雨雲レーダー」を見せびらかす転売ヤー。みんな目が真剣だ。高級ブランドの前では、人間はだいたい少年か原始人になる。

「合言葉は?」と、ドアマン。「……磯風!」「発音がいい。どうぞ」

 店に入ると、空調が「海辺の朝」に設定されているのか、ほのかに潮の香り。マネキンが着ているのは黒いロングコート。遠目にはシルク、近寄ると光沢が微妙にザラつく。「波のテクスチャーです」とスタッフ。タグにはこうある――

取扱注意:濡らさないでください(濡らすとおいしい)

 誤字かな? でも俳句の値札は確かにあった。

「波たたみ 夜風に鳴いて 星を着る」……17音=17,000円?

 いや、違う。スタッフが片眉を上げる。「秋の限定は、五・七・五のブロックが千円単位です」 つまり五+七+五=17,000円ではなく、5,000+7,000+5,000=17,000円。合ってた。自分を褒めたい。

 私は試着室へ。スタッフが囁く。「本日のおすすめは『Ame-02/非常食コート』でございます」「ひ、非常食?」「サステナブルの究極です。所有は消えるが、記憶は残る。レオナルド・ノリオー二の哲学でございます」

 レオナルド・ノリオー二。顔は誰も知らない。SNSでは「イタリアの海と有明海で育った謎のデザイナー」と噂され、インタビューはいつも影だけ。影がやたら丸いので、私は勝手に“おにぎり型の人”だと思っている。

 鏡の前でコートを羽織ると、軽い。やけに肩が落ち着く。裾がふわりと揺れて、海面の反射みたいに微細なテクスチャが光る。私は思わず口をついて出た。

「……お腹、すいた」

 スタッフの目がキラリ。「グルメな感想、ありがとうございます」

 そのとき、外がゴロゴロ鳴った。秋の空は油断ならない。店員たちが慌て始める。「入店のお客様、退店はお早めに。本日は降雨の予定がございます」 え、雨だと困るの? と思いつつ、私は会計に向かった。

「お会計、俳句でよろしいですか?」「え?」「現金、カード、俳句からお選びいただけます。俳句は当店が季語を指定します」

 私の人生で一番意味がわからない質問ベスト3に入る。だが私はうっかり「俳句で」と言ってしまった。スタッフが渡してきた季語は「磯汁」。難易度が高い。

「磯汁や 袖口しみて 恋覚え」「お見事。甘口ですね。では7,000円オフです」

 オフになるんかい。気が大きくなった私は、コートを抱えて店を出た。と、突然の豪雨。都会の雨は、挨拶なしで来る。

 私は慌ててコートを着た。濡らさないように――のはずが、袖先がしゅわ、と鳴った。 しゅわ? コートが、わずかに膨らんでいる。え、なんで。生地はふくらみ、テクスチャはより海苔っぽく、香りは決定的になった。おにぎり屋の前を通ったときと同じ匂い。私は人間で初めて「服におにぎりの気配を感じる」という体験をした客になった。

「お客様、濡らさないでください――!」と店からスタッフが飛び出す。すでに遅い。肩はしっとり、裾ははっきり、膝に至ってはもう握り飯だ。通行人が二度見する。

「ねえ、それ食べられるの?」「ちょっとちょうだい」「ダメです、これは高級なんです!」

 私はとっさに、手首の端っこを少しだけちぎって舌にのせた。 ――うまい。 困るほどにうまい。海の底から引き上げたばかりの、初摘みの香り。祖母の店で毎朝焼いていた海苔を思い出した。そうだ、私の家は江東区の海苔問屋の孫だった。子どもの頃から海苔をおやつにして怒られた。まさか、服でリベンジの機会が来るとは。

 雨は強くなり、非常食コートは頼もしく膨張し、私は歩く巨大おむすびになりかけていた。ファッションと炭水化物の境界は、たぶん防水だ。しかし境界は今、柔らかく崩れている。私は軒下へ避難し、コートの裾で隣の子どもを軽く包んだ。寒くないように。子どもは笑う。

「お姉ちゃんの服、おいしい匂い!」「非常時にのみ、ちょっとだけね」

 そこへ黒いバンがキキーッと止まり、降りてきたのはサングラスの男。耳に無線。「確保します」 いや何を。私は非常食コートだが犯罪ではない。男は私に傘を差し出し、小声で言った。

「レオナルド・ノリオー二が、お会いしたいと」「へ?」

 連れて行かれたのは、表参道から少し外れた、古い木造の建物。のれんに「ノ」。高級ブランドの裏口にしては、やけに下町感。奥に進むと、背中の丸い人影があった。影が……三角形だ。

「よう来たな。お前さん、木場の孫じゃろ」

 影が振り返る。顔は丸い。おむすび系ではあるが、目はすっと細く、笑うと皺が海図みたいに走る。

「わしがレオナルド・ノリオー二。だが昔は**海苔男(のりお)**じゃった」「海苔男……のりお?」「二回イタリアに行こうとして、二回空港で引き返した。だからノリオー“二”。一回目はパスポート忘れ、二回目は海苔の入札日と被ってな。縁ってのは潮の満ち引きみたいなもんじゃ」

 私は口を開けたまま固まる。祖母の仕入れ先の、あの頑固なおじさんの甥っ子が、世界を騒がすブランドをやっている? レオナルドは、私のコートを指差した。

「それ、非常食コート『Ame-02』。売るたびに炎上する」「文字通り、濡れると……」「うまい。そういうことじゃ。転売が嫌いでな。服は人を飾るが、人を飢えさせちゃならん。だからうちの服は“美味しい一点物”。濡れたら食える。腹の足しにならんファッションなんて、磯の香りがしない味噌汁みたいなもんじゃ」

「でも、お店の人は濡らすなって……」「売り物のうちはな。買ったら、生き延びるための道具に変わる。今日のお前さんみたいに」

 レオナルドは、棚から細長い箱を出した。箱書きは「コートの正しい食べ方」。「麺つゆでもいいが、いきなり浸すと溶けるから、まず端から。飾る日は乾燥剤と一緒に保管。非常時は周囲と分ける、ここ大事」

 私は笑ってしまった。こんな真顔で「服の食べ方」を教わる日が来るとは。レオナルドは続ける。

「今度、地元の商店街でショーをやる。ランウェイはアーケード。モデルは近所の子ら。豪雨決行じゃ。見ていけ」

 ショー当日、空は期待どおりの曇天。アーケードに敷かれた赤いビニールの上を、モデルたちが進む。衣装はノリオー二の最新作――「巻くダウン」「三角むすびバッグ」「海風トレンチ」。子どもモデルが袖を振ると、客席から「おいしそ……じゃなくて、かっこいい!」の声。曲は波の音、時々、ラッパの替わりに貝殻の合図。

 途中、レオナルドが拡声器で叫んだ。「それでは非常時演出、入りまーす!」 天井のミストがふわり。控えめな霧雨。すると衣装の端々が、ほんのちょっとだけふくらむ。モデルが足を止め、袖を一口。客席も、袖を一口。みんなが笑って、少しだけ泣いた。隣のおばあさんが呟く。「うちの初摘みの味だわ」

 祖母が腕を組んでうなずいた。「やっと世の中、腹に落ちるオシャレを思い出したね

 ショーの最後、レオナルドは私にウィンク。「お前さん、雨天監督やれ」「なんですか、その役職」「降らすタイミングを決める。ファッションに必要なのは、布と、物語と、適量の雨じゃ」

 私はミストスイッチの前に立った。客席の顔を見た。高級ブランドのショーなのに、みんな袋を開けるみたいな顔で期待している。私は、指をそっと動かした。

 霧がふわり。袖がふくらみ、笑いがふくらむ。 ファッションは腹の足しにならない――たしかに、昨日までそう思っていた。だがノリオー二は、そこへ一つ、反論の俳句を置いたのだ。

「おしゃれとは 腹に落ちゆく 磯の道」

 今では、商店街の防災訓練にノリオー二が参加する。非常食コートは自治体と共同で「雨天限定配布」。転売ヤーは来ない。濡れたら価値が増える服なんて、転売に向かないからだ。レオナルドは相変わらず影だけで出演し、丸い影はますますおむすびになっていく。

 私はというと、たまに表参道の店を覗く。スタッフは相変わらず俳句で割引してくれる。

「季語は『梅おかか』でお願いします」「難しい……『梅おかか ポケットに忍び 雨待ちぬ』」「お見事、しょっぱ甘い。2,000円オフです」

 店を出ると、小雨。私はコートの端っこを指先でつまみ、ちぎらないように、そっと撫でる。まだ非常ではないから。非常のときにこそ、おいしくなるものを、人は本当に大切にできるのだと思う。

 今日も都心のどこかで、ノリオー二のコートが雨に溶け、だれかの空腹をほんの少しだけ満たしている。 そして誰かが、笑っている。 それで充分。ファッションは世界を救わないかもしれないが、雨の日の機嫌なら救ってくれる。ノリオー二は、その機嫌の取り方を知っている。そういうブランドなのだ。

 
 
 

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