光の墓標6
- 山崎行政書士事務所
- 9月29日
- 読了時間: 44分

第十七章 影の鍵
朝は、図と“なし”から始まった。 市役所の大会議室。壁のスクリーンに、古いロール図面と半透明のレイヤーが重なる。基礎排水、旧雨水吐け、CY末端。昨夜の音の波形の上に、薄く「なし」と書かれた一枚の写真——矢印が出なかった格子の水面——が置かれた。
井原が簡潔に言う。 「止水栓の仮設で、末端の“矢印”は消えました。別グレーチングに微光が一度。音は薄化。——『死角の九分』は今夜も動いたが、影で済んだ」
白井が続ける。 「封水は“ある・ない”ではなく“保てるか”。床の目地からの吸い込みは、基礎のドレンへ直通していました。点検枡の仮止水で一次的に遮断。今後、恒久対策として——」
水道局の南が言葉を受けた。 「掲示の継続。給水車の準備は“念のため”に。町の『舌の記録』も並行して増やします」
最後に、海藤が短く息を吸い、立った。 「図面の“任意封水”“想定外浸入なし”という古い言い回しは、今日から無効に。封水は常時、点検枡は封印、死角の“九分”は申請制に。——今日中に、紙を追いつかせます」
傍聴席。老女が小さく手を挙げ、係員に制されながら漏らした。 「きのうは、ねむれた」 短い言葉が、薄い白をすこしだけ重くした。
***
廊下。 桐生が笑顔を崩さず立っている。右の親指の付け根が白い布越しに、いつものようにわずかに沈む。 「止水の“文書化”は進めます。——安全のため」 「九分の“点検”は」 遥が問うと、桐生は視線を帳面に落とした。 「申請制に。……ただし、緊急時は別」 「緊急は、誰の言葉で始まる」 「安全のため」 同じ言葉だけが、廊下の空気を薄くした。
***
北嶺大学。 白井は〈No.15〉〈No.16〉の速報をまとめた。 ——No.15(旧桟橋直下/雨開始):導電率やや上昇。酢酸の肩。 ——No.16(CY末端/雨中):“矢印なし”と時刻一致。AOF速報は夜。 メールの最後に一行添える。 〈“なし”の記録は、次の雨で試される〉
机の端の「町のカルテ」には、子どもの字で〈きょうもねむれた〉、小さな丸が増えていた。
***
港。 A-3脇の点検枡。膨張式の止水栓は静かに息をして、圧の針は昼の位置を保っている。床の目地に撒いた灰は湿って固まり、吸い込みは戻らない。 東出がしゃがみ込み、耳で床を聞く。 「呼吸、浅い」 海藤が頷いた。 「午後、圧をわずかに上げる。——夜の“九分”に備える」
神谷はIT室からのメールを受け、短く言った。 「CAM-5、レンズ清拭済み。パン・チルトは“申請制”に変更ログ。——でも、別系統の端末IDが残ってる」 「別鍵」 東出が顔を上げる。 「鍵は紙の外にもある」
***
昼。診療所。 大庭は、壁の「町のカルテ」に新しい欄を加えた。〈ねむれた〉の列。 若い父親が書く。〈ねむれた/きのうより〉 老女が書く。〈おとはない/でもみみはきく〉 大庭は頷いて言った。 「“なし”は、大事です。——“なし”を書いてください」
***
午後。処分場。 田浦徹は、C-2とB-7のタグをもう一度指で押し、D-1の南京錠に新しい赤い印を追加した。 匿名の封筒。中は短い紙。 〈九分、今夜も。別系統の鍵〉 〈止水、外させに来る〉 田浦は電話を取らずに、机の引き出しから黄色いペンキを出した。 「ウィットネス・ペイント。——触れば、割れる」 西根が頷き、港へ走った。
***
夕刻、A-3脇。 点検枡のフランジに、黄色い細線が走った。止水栓のバルブにも、小さく印。割れれば一目でわかる。 「紙は遅いが、色は速い」 海藤が呟いた。 桐生が遠巻きに立ち、白い手袋の右手でチェックリストを辿る。 「臨時の封印色、記録します」
猫が黄色い線をまたぎ、格子の上で短く舐め、去った。東出が時刻をメモに書く。 〈16:32 猫、ひと舐め〉 音は浅い。風は陸から海へ——今夜も「九分」は来るだろう。
***
日が沈む。 神谷が接触マイクを貼り、ジオフォンを沈め、時刻を合わせる。 「二十一時一〇分前」 白井は“矢印”の瓶をしまったまま、今夜は光を使わないと決めた。音と“なし”だけを見に来た。 海藤は無線を握り、東出は金網の影、遥はCY末端。西根は保管庫の扉を遠くから見張る。
欄干がふっと太る。 「来る」 神谷の声。 歯打ち七。ひと休み。七。 同時に、港湾管理のログ。 〈CAM-3:21:10 “点検”開始/九分〉 〈CAM-5:同時〉
CY末端は静かだ。水面は雨の輪を忘れ、猫の耳のように平たい。 「矢印、なし」 遥は息を吐いた。 別グレーチングにも緑は出ない。止水は、保っている。
そのとき。 A-3脇の点検枡の影で、かすかな金属音。 「こちら動き」 西根の声。 影が二つ。白い手袋ではない。暗色の手袋。頭にフード。 ひとりが腰を落とし、バルブに手を伸ばす。——黄色い細線に、手がかかる。
「だめだ」 東出が影から出、声を低くかけた。 「触れば色が割れる」
暗色の手袋が一瞬止まり、今度は、止水栓のホース側に手が伸びた。バルブではない。ラインを切る気配。 「離れて」 海藤の声。 桐生が遠くから駆け寄り、「点検中です」と声を張る。フードの男は振り向かない。 西根が一歩踏み出し、低く言った。 「その鍵、どこで手に入れた」 男の肩がぴくりと動く。暗色の手袋がポケットから細い“合わせ鍵”を出しかけ——次の瞬間、黄色い線が“ピン”と割れた。
「記録!」 神谷の声と同時に、遥のシャッターが短く刻まれる。角度を揃え、線の割れを押さえる。 「やめろ」 海藤が前に出る。 男は躊躇したが、もう一人が腕を引き、「点検でーす」と棒読みの声を残して影の中へ消えた。
静けさ。 黄色い細線は、確かに割れている。止水栓の圧は——針の振れは、許容範囲内。 「持ってる」 白井が息を吐いた。 「でも、割れは記録に残る」
桐生が顔色を変えずに帳面を開き、印を落とした。角は、やはり欠ける。 「“破損箇所、確認。臨時補修”と……」 「破損じゃない」 東出が遮った。 「“介入痕”だ」
桐生は一拍だけ黙り、細い声で「介入痕」と書いた。
***
その頃、処分場。 田浦は、窓の外の黒い丘の呼吸を聞きながら、D-1の南京錠を指で押した。「静」 彼は引き継ぎ用の紙に短く書いた。 〈D-1 静。タグ三。介入なし〉 西根から短い文。 〈港、止水は持った。——色、割れた〉 田浦は頷き、ペン先で「色」を二度なぞった。
***
夜半、宿。 神谷がフレームを並べる。止水栓のバルブとフランジ、黄色い細線、割れの瞬間。影の手。 「角度は悪いが、色は嘘をつかない」 白井から速報。 〈No.16 AOF速報:背景+α。末端“なし”の時間帯と矛盾なし〉 南から。 〈掲示、継続。——『介入痕』の言葉、使います〉 井原から。 〈明朝の追補、“介入痕”先頭に〉
そこへ、非通知。 「——見た」 海藤の声。 「黒い手の鍵。合わせ鍵だ。……“別鍵”の出どころ、あたる」 「桐生は?」 「顔は清潔だ。印はいつも角が欠ける。——君は、色を出してくれ」
通話が切れた。 遥は机の上で紙を並べ直した。 ——“なし”の水面/波形の薄化。 ——基礎の図/仮止水。 ——黄色い細線の割れ=介入痕。 ——黒い手の合わせ鍵。 ——死角の九分。申請制ログ。 ——町のカルテ:〈きょうもねむれた〉。
そして、一行。 〈角度は嘘をつく。色は嘘をつかない。——鍵は、音の前に割れる〉
窓の外、堤の街灯が濡れた路面に円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、格子の上で一度だけ舌を出し、飲まずに去った。 舌は、警戒も記憶する。 紙は遅い。 だが、遅い紙に“介入痕”の色が乗れば、手は隠れにくくなる。 朝は、色から始まる。 色の割れ目に、名前の影が差し込む。 鍵を回す前に、その影の鍵束を見つけ出す。
第十八章 別鍵の名簿
朝は、名簿から始まる。 港湾管理事務所の小会議室。白い蛍光灯が紙の繊維を浅く浮かせ、長机の上に三冊のバインダーが置かれていた。「鍵管理台帳」「封印出庫記録」「委託業者出入申請」。どれも角が丸く、めくられるたびに乾いた息を吐いた。
水城遥は、最初の一冊の背に指を当て、神谷亮と目を合わせる。若いIT職員がドアの影に立ち、短くうなずいた。 「閲覧は三十分。撮影は、ページの隅のみで」 桐生が笑顔の形を崩さず言い、白い手袋でページを押さえる。右の親指の付け根は、いつものように薄く沈む。印影の角の欠けと同じ癖が、そこにある。
ページをめくる。 ——マスターキー保管者一覧:港湾管理課補佐・桐生/警備委託・二名(氏名黒塗り)/保守委託・浦辺商事(倉庫A-1〜A-4区画限定) ——副鍵(非常用):「必要時貸出」(貸出簿参照) ——保管庫キー(保守部材):「複製禁止」——ただし「緊急対応用の予備は保守委託責任者に限り貸与可」
遥は、小さな鉛筆で余白に印を付けた。〈複製禁止/予備貸与〉。禁止と許可が同じ行に並ぶとき、紙は自分の矛盾を見ないふりをする。
神谷が二冊目を開く。封印出庫記録。 「QL 908374〜378、出庫先:保守部材保管庫。承認印:桐生。——返納記録なし」 彼は囁くように読み上げ、ページの端を軽く撮った。端だけが、ゆっくりと真実に触れる。
最後のバインダー。委託業者出入申請。 ——資源循環ソリューション本部・“調査”:夜間カメラ点検(21:10〜21:19)/担当者:西根(カードID末尾「483A」) ——警備委託・臨時:夜間安全巡視(No.3〜5地区)/担当者名、黒塗り ——保守委託・浦辺商事:倉庫A-3清掃・封水投入(9:20)
「黒塗りは今朝のインクだ」 神谷が紙の表面に光を斜めに滑らせた。まだ乾ききらない艶がある。 「“臨時”の名が、昨日の影だ」
桐生がページを閉じ、薄い笑顔で言った。「必要な範囲で、必要な情報は開示しています」 「必要じゃないきれいさも、混ざってる」 遥は言い、笑わなかった。
***
廊下に出ると、東出が待っていた。作業服の袖に白い粉の線が薄く残る。 「床の目地、灰が固まったまま。吸い込み、なし。猫、今朝は二度舐めた」 彼の報告は、町の気温のように正確だ。 「止水は?」 「圧、安定。黄色い細線、割れたまま——追い線、上から入れた」
海藤が合流した。ネクタイは緩み、目の下の隈は薄い。 「午前、臨時止水の“文書化”、出した。申請制の“九分”も。——ただ、別の鍵が紙の外にある」
「どこから」 遥が問うと、海藤は一拍だけ黙り、名刺の裏に短く書いた。 〈錠前業・槙塚〉〈“船舶用合鍵・緊急”〉 「港の外。——委託の下の下。書類の尾が切れる場所だ」
***
北嶺大学。 白井は、昨夜のNo.16(雨中/CY末端)のAOF速報を受け取り、数字の列に指を置いた。 〈No.16:AOF 38 μg F/L(BG 14±3)〉 〈No.15(旧桟橋直下):AOF 72 μg F/L〉 「末端は“なし”の時間に下がる。桟橋は雨に乗る」 彼女は呟き、机の端の「町のカルテ」に「ねむれた」の丸が増えているのを見た。 南へ短いメール。 〈掲示、継続。“なし”の時間に数字も寄る〉
***
昼下がり、港の外れの古い商店街。 「鍵」とだけ書かれた細長い看板。金属の削り粉と油の匂い。 槙塚錠前。年季の入った作業台に、小さな刻印とディンプルキーのブランク。 「船舶用の合わせは、ここじゃない」 店主は、顎で路地の奥を指した。 「港の“緊急”、こないだは夜だった。若いのが二人、印紙を持って来た。見たことない“委託番号”だった」
神谷が静かに言葉を継ぐ。 「番号、覚えてますか」 槙塚は薄い紙片を引き出しから出した。仕事の控え。 〈委託:港湾管理・保全補助(臨時) No.13-5〉 〈依頼:保管庫キー・視認確認のみ〉 〈実作業:なし〉 「“なし”?」 遥が聞くと、槙塚は肩をすくめた。 「鍵は見せてくれなかった。番号の控えだけ書かされて、夜に“やっぱりいい”って」
「影は、鍵を頼むまねをする」 海藤が低く言った。 「証拠は、何もしないで残す」
店を出ると、路地に猫がいた。黄色い線はないが、猫は足を濡らさない場所を知っていた。
***
港へ戻ると、若いIT職員が駆け寄ってきた。額に汗。 「CAM-5のログ、別系統の端末IDがやっぱり残ってました。GUEST-PTZ。権限は“閲覧+視野調整”。申請ログは、なし」 神谷は即座にスマホで控え、低く唸った。 「港内Wi-Fiのゲスト枠。——死角は、紙の外で作れる」
「GUESTの端末、どこから」 海藤が問うと、職員は顔を曇らせた。 「駐車場の端から届くんです。一番角。——“鍵”はいらない」
遥はフェンス越しに、その角を見た。昼の光が、ペイントの白を薄くした。 「夜、そこで待つ」
***
午後。処分場。 田浦徹は、匿名の封筒を開けた。中に、古いメールのプリント。 〈件名:B-7点検時の排砂運用〉 〈差出:資源循環ソリューション本部・保守統括〉 〈宛先:港湾管理課補佐・桐生、浦辺商事CC〉 〈本文:“雨天時の一時的逃しは『点検』の範囲内。現場判断で柔軟に”〉 田浦は唇を引き結び、ペンで“逃し”に線を引いた。 「現場判断——現場の名が、紙の逃げ道に置かれる」
彼は西根に電話を入れ、短く言った。 「夜、九分。港の角、見る」 「行く。——色、用意する」
***
夕刻、地区センター。 井原は「追補:介入痕」を印刷し、掲示板に貼った。黄色い細線の割れ。“破損”ではなく“介入”。 老女が細い声で言う。 「きいろ、わかりやすいね」 若い父親が隣に書く。〈きょうもねむれますように〉 紙は遅い。だが、色が紙に乗ると、遅さは形になる。
***
夜。港の風は冷たく、海は低い鉄の音で息をする。 神谷が接触マイクを貼り、ジオフォンを沈め、時刻を合わせた。 「二十一時〇九」 白井は今夜も“矢印”を使わず、音だけを待つ。 海藤は無線、東出は金網の影、遥は駐車場の角。若いIT職員が遠巻きに位置を示した場所——GUESTが届く端の白線の上。 西根は保管庫の扉の前の影。
欄干がふっと太り、低音が喉に立つ。 「来る」 神谷の声。 歯打ち七。ひと休み。七。 同時に、若い職員の端末に小さな通知。 〈GUEST-PTZ 接続〉 駐車場の端に、ライトの小さな影。フード。暗色の手袋。 遥は息を止め、耳だけで足音を追った。砂利の浅い咀嚼音。 影が、三脚に小型ルーターのようなものを立て、スマホをかざす。 「死角、作る」 彼女は喉の中でつぶやき、シャッターを切らない。角度を見失わないためだ。
「介入、枡の前」 西根の声が低く入る。 影がふたつ。昨夜と同じ暗色の手袋。 ひとりがバルブに手を伸ばす——黄色い細線は、今夜は二重。東出が昼に足した追い線だ。 手袋がためらい、ホースに手が行く。 「やめろ」 海藤の声は乾いていた。 桐生が遠くから、「申請制です」と強く言う。 暗色の手が一度止まり、保管庫のほうを見た。扉は閉じている。鍵は回らない。 そのとき、駐車場の角で、若い職員のアプリにもうひとつの通知。 〈PTZ:PAN+3°/TILT −1°〉 「九分、動き」 神谷が波形と時計を同時に睨む。 欄干の低音が一瞬だけ細った。 「止水、生きてる」 白井の声は小さく確かだった。
影が一度だけ、黄色い線に触れた。ピン。 二重のうち、外側だけが割れた。内側は残る。 「記録」 遥は角度を合わせ、一枚だけ切った。 影は、昨夜と同じ棒読みの「点検でーす」を残し、消えた。
駐車場の角で、フードの男が小型ルーターをポケットに戻し、白線から一歩離れた。 その足が、薄い蛍光の粉を踏んだことに、彼は気づかなかった。 ――西根が、昼のうちに撒いておいた微量の発光粉だ。光は嘘をつかない。
***
夜半、宿。 神谷が波形を送る。 〈基底40Hz、維持。歯打ち七、薄。——“九分”の視野操作、同期〉 若い職員から、GUEST-PTZのアクセスログ。 〈端末MAC:末尾2F:7A〉〈接続強度:駐車場北端〉 白井から、短いメッセージ。 〈“なし”の音。——猫、格子でひと舐め〉 東出から。 〈二重の黄、外だけ割れ。内、生き〉
そこへ、非通知。 「——色が、付いた」 海藤の声。 「何に」 「靴。発光粉。——明日の朝、門のゲートで拾える」
遥は息を吐いた。 「色は、嘘をつかない」 「鍵は、音の前に割れる。——名は、色の後に出る」 海藤はそう言って、通話を切った。
***
明け方、処分場。 田浦徹は、夜勤の記録に短い行を足した。 〈港、介入痕(二重の外)。止水、生。〉 〈D-1 静。〉 窓の外の黒い丘は、雨を脱いだ匂いで息をしている。 西根から短い文。 〈門のセンサー、立ち上げた。——光る靴、待つ〉
***
朝は、名簿から始まった。 次の朝は、名から始まる。 色の線が、人の線に触れる。 紙は遅い。 だが、遅い紙に色が乗れば、遅い名前も、少しずつ現れる。 鍵を回す前に、鍵を持つ足を見つける。 足に付いた色が、扉の前で光る。 ——そして、その光を、紙に置く。
第十九章 門の光
朝は、門の光から始まった。 港の南ゲート。金属探知機の枠に、薄い箱形のセンサーが仮付けされ、脇のポールに小さなUVライトが忍ばせてある。若いIT職員が配電盤の蓋を半分だけ開け、ノートPCを抱え、神谷亮が隣で周波を読む。 「しきい値、最低。——光れば、わかる」 彼は画面の隅にピクセルの小さな四角を立て、遅い朝の風に肩をすくめた。
水城遥はゲートの白線の上に立つ猫を見た。猫は、光のない朝に、光の位置を知っている顔をしている。 海藤が短く頷いた。 「”名”は、光の後に出る。——早くても、遅くても、出る」
ゲートに人の流れが始まる。港湾管理、保守、警備。白い手袋は朱肉の匂いを纏い、作業靴は夜露を踏む。 最初の点検。何も光らない。 二人目。何も光らない。 三人目——靴底の縁が、一瞬だけ、浅い緑を吸い込んで返した。 「止めて」 IT職員の声は震えたが、出すべき高さで出た。
男は、臨時の警備腕章。フードはないが、暗色の手袋をポケットに丸めている。名札には「野坂」。委託会社名は略号。「安全巡視」。 「おはようございます。巡視——」 彼は言いかけ、UVライトの影で自分の足もとを見た。白線の上に、薄い蛍光の縁。昨夜、駐車場の角に撒かれた微量の発光粉。 「こちらで、少しお時間を」 海藤が柔らかい声で遮り、桐生が笑顔の形で加わる。 「安全のために」
小さな応接室。蛍光灯の白が染み込む。 神谷がノートPCで昨夜のアクセスログを開き、若い職員が端末の接続履歴を示す。「GUEST-PTZ 接続」。MACアドレス末尾「2F:7A」。時刻。「21:10—21:19」。 「この時間、あなたは」 「巡視——」 野坂は、言葉を選ぶ時間が足りない顔をした。 遥は、机の端に並べられたカードを見る。臨時入構許可証。スタンプの角が、ほんの少し欠けている。印影は、桐生の癖を覚えている。 「昨夜の巡視は、申請制に変わったはず」 桐生の目が、紙面から顔に戻る。 「緊急です。安全のための——」 「だれの言葉で“緊急”が始まる」 海藤の声は浅い。 桐生は笑顔を崩さず、ほんの一瞬だけ黙った。
「靴、見せてください」 白井から借りたUVライトが、小さく唸って光る。野坂の靴底の縁が、一度だけ緑を返す。 「昨夜、駐車場の角に立ちましたね」 神谷が言い、野坂は目を伏せた。 「上から、”見えないようにしろ”って……角度を。——“点検でーす”って言うだけでいいと」 「上は、誰だ」 「名簿には、ない名前」 彼は吐息のような声で言い、ポケットから折り曲げた紙片を出した。 〈保全補助(臨時) No.13-5〉 槙塚錠前店で見た番号。 「いつ渡された」 「昨日の昼。港の外で」
桐生は、笑顔をそのままに、紙片の端だけを指で押さえた。 「その紙は、正式ではありません。——安全のために、正しい手順で」 「手順は、”九分間”を作った」 遥が言うと、空気が浅く動いた。
***
北嶺大学。 白井は、昨日のNo.15/16の正式レポートをとりまとめ、南に送った。 ——No.15 AOF 72 μg F/L(旧桟橋直下/雨開始) ——No.16 AOF 38 μg F/L(CY末端/雨中) 「”なし”に数字が寄る。——舌の”ねむれた”に、数字が寄る」 机の端の「町のカルテ」には、子どもの字で〈ねむれた〉の丸が増え、老女の字で〈でも、みみはきく〉とある。 白井は短くメールを打った。 〈今夜も”九分”が来れば、矢印は使わない。止水と音で見る〉
***
処分場。 田浦徹は、匿名の封筒をまたひとつ受け取った。中には、短いメモ。 〈B-7 “書類上”点検、今夜はなし〉 〈D-1 静〉 〈港、”別鍵”は外に〉 「外」 田浦は窓の外の黒い丘を見、古い扇風機を止めた。静けさは、音を浮かび上がらせる。
***
昼。港の駐車場の角。 若いIT職員が、昨夜の立ち位置に小さな円を描いた。粉はもう見えないが、白線の端に、磨かれたような艶だけ残る。 「この角だけ、Wi-Fiが届く。GUEST枠のSSID。——紙の外の扉」 海藤が顎に手を当て、短く言う。 「塞ぐ。——紙の中で」
港湾管理の回線担当者が駆けつけ、GUESTの発信出力を落とし、PTZのゲスト権限を切った。 「申請制ログに戻します」 桐生が笑顔で書き、印を落とした。角は、欠ける。
***
地区センター。 井原は「別鍵の名簿」の追補を壁に貼り、「名簿にない名」を空欄の枠で示した。 「空欄は、紙の責任だ」 東出がぼそりと言い、老女は〈きいろのせん、わかりやすい〉と書いた紙の横に、〈なまえは、あとから〉と書き足した。
***
午後、A-3脇。 点検枡の黄色い二重線は、外側だけ割れたまま、内側は生きている。止水栓の圧は安定。床の目地に撒いた灰は、湿って固まり、猫は格子の上で短く舐めて去った。 海藤が言う。 「”九分”が来ても、ここは持つ。——”名”が来る」
西根は、保管庫の扉の前に立ち、鍵穴の縁に新しい擦り傷がないことを確認した。「在庫、ゼロのまま。封印の番号じゃなく、”手”の番号が必要だ」
神谷のスマホが震えた。若いIT職員から。 〈GUEST-PTZ 切断完了。端末MAC 2F:7A、再接続なし〉 〈”九分”の申請は未発行〉
***
夕暮れ、旧桟橋。 接触マイクが鉄の喉に貼り付き、ジオフォンは脚の根もとに沈む。風は陸から海へ。 「二十一時〇九」 神谷が時刻を読み上げる。 白井は、今夜も光を使わない。音と水面。 遥はCY末端で息を整え、東出は金網の影で足音を聴く。海藤は無線、桐生は遠巻きに帳面。西根は保管庫。
欄干がふっと太る。 「来る」 ——歯打ち七。ひと休み。七。 だが、今夜は、上の歯がさらに薄い。 「基底は同じ。——呼吸が軽い」 白井が呟き、神谷が頷く。 「”九分”の視野操作は——」 若いIT職員の端末には、何も上がらない。 「なし」
CY末端の水面は、猫の耳のように平たい。緑は出ない。 「矢印、なし」 遥の声は、夜の手前で止まる。 別グレーチングも、今夜は光らない。黄色い線のある枡は、息をひそめて静かだ。
そのとき、南ゲート。 ゲートのセンサーに、弱い緑が一度だけ走った。 「来た」 若いIT職員が無線で言う。 海藤がゲートへ走り、桐生が帳面を抱えて続く。 ゲートをくぐろうとしたのは、臨時の腕章の男——野坂ではない。別の男。名札に「木暮」。 靴底の縁に、昨夜の粉。 「止めてください」 海藤の声は、今夜いちばん低かった。
小さな応接室。 神谷がログを開く。GUEST-PTZの接続はなし。CAM-3/5の申請もなし。 「あなたは、昨夜——」 「”巡視”だ。角度を——」 木暮は、野坂と同じ言い回しを出しかけて止めた。 「紙を見せて」 遥が言うと、彼は折り曲げた紙片を出した。 〈保全補助(臨時) No.13-5〉 同じ番号。 「この番号は、どこで」 「港の外で。——”緊急”だから、角度を九分、って」 「誰が」 木暮は、野坂より少しだけ短い沈黙をした。 「”桐生さんのところから”って言われた」 空気が薄く鳴った。 桐生は笑顔をそのままに、声を低くした。 「私のところに、そのような手配の記録はありません。——安全のために」
白井が口を開いた。 「安全のために、止水を入れました。安全のために、九分を申請制にしました。安全のために、黄色い線を引きました。——その安全に”角度”を入れたのは、誰ですか」
桐生は黙り、印を押す右の親指の付け根だけが、白い布越しにわずかに沈んだ。 海藤が低く言う。 「”No.13-5”。——委託の下の下。紙の尾が切れる場所。そこに”名”がある」
若いIT職員が、恐る恐る差し出した。 「昨夜の駐車場のカメラ、視野の端ですけど……粉の足跡がゲートの外へ」 画面に、白線から外へ出る足跡が、点の列で薄く光る。道路の端で消える前に、一度だけ曲がる。 「港の外、北へ」 神谷が地図に指を置いた。 「槙塚の路地とは逆だ。——”保全補助(臨時)”の箱に行く線」
***
深夜、診療所。 大庭は、壁の「町のカルテ」を見上げた。「ねむれた」の丸が増え、〈でも、まだこわい〉の行は、丸の隣で小さく縮む。 「”なし”を続ける」 彼は自分に言うように呟き、受付に声をかけた。 「書きに来た人がいたら、時間を取って。——”なし”は、丁寧に書く」
***
宿。 神谷が波形の重ねを送る。 〈21:35–42、基底40Hz、歯打ち薄化。視野操作なし〉 〈ゲート:粉、二例。MAC 2F:7Aの再接続なし〉 白井から。 〈”なし”の夜。——数字は明朝〉 井原から。 〈明日、委員会に”名簿の空欄”と”No.13-5”を〉 南から。 〈掲示、継続。給水車は”念のため”待機解除。——でも耳は開いておく〉
遥は紙を並べ直した。 ——門の光:野坂/木暮。粉。——No.13-5:港外。 ——GUEST-PTZ:切断。 ——黄色い線:外だけ割れ。内、生。 ——音:歯打ち、さらに薄い。 ——矢印:なし。 ——町のカルテ:〈ねむれた〉。
最後に、一行を書いた。 〈角度は嘘をつく。色は嘘をつかない。——”名”は、光の後に出る〉
窓の外、堤の街灯が静かに円を落とし、猫がその縁をまたいで歩いた。猫は立ち止まり、格子の上で一度だけ舌を出し、飲まないで去った。 舌は、警戒を記録する。紙は遅い。 だが、遅い紙に門の光が乗れば、遅い名前も輪郭を持つ。 朝は、名から始まる。 名は線になる。 線の先に、鍵の束がある。 鍵を回す前に、その束の持ち手を、紙の中へ連れてくる。
第二十章 名の線
朝は、空欄の隣に置かれる小さな文字から始まる。 市役所の小会議室。壁のモニタには、昨日の追補——「名簿の空欄」「No.13-5」「門の光」が並び、紙の白は、少しずつ輪郭を得ていた。
井原が短く言う。 「空欄は、紙の責任です。——『保全補助(臨時)No.13-5』の名を、紙の中に連れてくる必要がある」
神谷が続けた。 「GUEST-PTZのゲスト権限は切断済み。『九分』は申請制に復帰。——昨夜、視野操作はなし」
白井は最後に一文、静かに重ねる。 「『なし』は続いています。——町の『ねむれた』の丸が増えています」
後列で海藤が立った。 「今日、港外にある『No.13-5』の窓口を確認します。紙の尾が切れる場所を、地図に戻す。——“安全のために”」
廊下に出ると、桐生が笑顔を崩さず立っていた。右の親指の付け根は、白い布越しにやはり少し沈む。 「ご協力に感謝します。——本日も安全のために」 「安全の言葉で、空欄を埋めないで」 遥は言った。桐生は目だけで笑った。
***
港の外れ、北の運河沿い。 古い倉庫を改装したレンタルオフィスの入口に、小さなプレート。「港湾保全補助・臨時窓口(サテライト)」。ポストの差し込み口には、薄い透明のシール。新しい。 受付に人影はない。扉はカードで開く。中は一間だけの机と椅子、共用プリンタの低い唸り。壁のラックに、薄いファイルが四冊。
海藤が名刺を置き、声をかけ、返事がないことを確認してから、机上の「受付票」を指で示した。 ——〈緊急点検 受信票〉 ——〈担当:No.13-5〉 ——〈連絡元:**(黒塗り)〉 右下の印影の角が、ほんの少し欠けている。 「ここでも」 遥が呟く。 神谷がプリンタのジョブ履歴を覗く。 「昨夜22:03、『臨時巡視・入構確認』一枚。出力端末IDは“GUEST-PRINT”。——登録は今日の朝」
机の引き出しから、小さな封筒が出てきた。薄いカードキー。「倉庫A-1〜A-4区画」。裏にボールペンの走り書き。 〈予備返却待ち〉 「返ってこない鍵は、ここで『返却待ち』になる」 海藤の声は乾いた。 「鍵束の位置は、紙の外に置かれる」
入口の猫が伸びをして、運河側の薄い日の射す隙間をまたいだ。足を濡らさない場所を選べるのは、場所の匂いを知っているからだ。
***
昼前、港湾管理事務所。 若いIT職員が、紙コップのコーヒーを両手で抱えながら近づいた。 「昨夜のGUEST-PTZ、切断後の不審な試行はゼロ。でも……駐車場北端のWi-Fiは、車内機器からも届く。——別回線の”扉”は、まだ閉じていないかも」
「扉を全部、紙に戻す」 海藤が頷き、港湾回線の担当者に電話を入れた。 神谷は別の端末で、南ゲートの発光センサーのログを呼び出し、粉の反応が二例だったことを確認する。 「野坂、木暮。粉は二人。——”上”は、まだ名前を隠している」
東出が廊下の端から手を上げた。 「A-3、止水の圧、安定。灰線は湿ったまま。猫、今朝二度舐めた」 彼の報告はいつも短く、確かだ。
***
午後。 白井は大学で、昨夜から今朝にかけての「町のカルテ」を並べた。 ——〈ねむれた〉の丸が増え、〈おとはない〉が三つ、〈でもみみはきく〉が二つ。 彼女は南に短い文を送る。 〈「なし」を続ける。——今夜も、矢印は使わない〉
機材棚から、薄いフィルムの封筒を取り出す。 〈蛍光粉・微量/回収用ワイプ付き〉 昨夜の門の光は、足跡を線にした。今夜、その線の先に、名を置く。
***
夕方。港の駐車場北端の白線。 神谷が小さなケースを開いた。中には、金属の円板に固定された簡易の指向性アンテナと、ログ保存用の端末。 「”九分”が来ても、視野は動かない。——でも、外からのWi-Fiは来るかもしれない」 若い職員がうなずく。 「今夜はここに”耳”を置きます。MACの末尾が昨日と同じなら、線がつながる」
海藤はA-3脇の点検枡で、黄色い二重線の上にさらに細い透明のテープを一筋乗せた。 「色に、もう一段階。——割れれば、層でわかる」
桐生が遠巻きに見て、帳面に「臨時措置 継続」の文字と印を足した。角は、やはり欠ける。 「安全のために」
「安全のために、色を増やす」 東出が短く笑った。
***
夜の前。 井原からメッセージ。 〈明朝、“名簿の空欄”と“No.13-5”を議会に。——『門の光』の写真、添付する〉 白井から。 〈今夜、音だけ。——”なし”の夜を、もう一度〉 南から。 〈掲示、継続。給水車は待機解除。——耳は開いている〉
遥は息を整え、ノートの端に短く書いた。 ——No.13-5=紙の外の扉。 ——粉=線。 ——色=層。 ——音=”なし”かどうか。
***
夜。風は陸から海へ。 旧桟橋。接触マイクが鉄の喉に貼り付き、ジオフォンは脚の根もとに沈んだ。 「二十一時〇九」 神谷の声。 欄干がふっと太る。基底四十ヘルツ。——歯打ちは、昨夜よりさらに薄い。
「来る」 若い職員の端末に、小さな通知。 〈GUEST-PTZ 接続試行〉→〈拒否〉 〈SSID外部試行〉→〈拒否〉 アンテナの端で、わずかな電波の脈。 「外から叩いている。——入れない」 神谷が低く言う。
A-3脇。 点検枡の影に、二つの影。昨夜と同じ暗色の手袋。 「申請制です」 桐生の声が、遠くからはっきり届く。 影は、今夜は躊躇が長い。 黄色い二重線の上に置かれた透明の細線に、暗色の手袋が触れ——“ピン”。 内側は生き、外側と透明の細線が、同時に割れた。 「記録」 遥は角度を同じに、一枚だけ切る。 「色、二層で割れ」 東出がメモに短く書く。
影は、棒読みの「点検でーす」を残して消えた。 その直後、南ゲートで、扉の光。 「光った」 若い職員の無線。 男は臨時の腕章、名札に「三輪」。靴底の縁が、一度だけ緑を返す。 応接室。 紙片。 〈保全補助(臨時) No.13-5〉 ——同じ番号。 「どこで」 「北の運河のサテライト。机の上の、『受付票』に挟んであった」 「だれから」 「電話。女の声。早口。『桐生さんのところから』と言っていた」
桐生は笑顔を崩さない。 「私のところに、その記録はありません。——安全のために」
海藤は「安全のために」という言葉を、喉の奥で一度だけ転がし、机に置いた。「明日、その”女の声”の回線を探す。——番号が残っているはずだ」
若い職員が手元の端末に視線を落とす。 「駐車場の角、今夜のMAC末尾は『2F:7A』じゃない。……『4C:19』。——別の手」 神谷が短く息を吸った。 「線が、二本になった」
***
処分場。 田浦徹は、D-1の南京錠に触れ、タグの切断痕を一度数え、窓の外の黒い丘の呼吸を数えた。 「静」 彼は引き継ぎの紙に書き、受話器を取らずに置いた。 西根から短い文。 〈港、色は二層。止水、生〉 田浦はうなずき、ペン先で「二層」を二度なぞった。
***
深夜、大学。 白井は、音の波形の”薄い歯”と、末端の「なし」を並べ、南に送る文の最後に一行足した。 〈今夜も「なし」。——町の『ねむれた』に、数字が寄る〉 机の端の「町のカルテ」には、子どもの字で〈きょうもねむれた〉、老女の字で〈でも、あしたもみみはきく〉。 紙の白は、少しずつ、怖さの形を薄くする。
***
宿。 神谷がフレームを揃えた。 ——黄色い二重線と透明の細線。割れ。 ——南ゲートの緑。三人目の名。 ——GUEST-PTZ拒否ログ。SSID外部試行の痕。MAC末尾「4C:19」。 「線が二本。——名も二つ」 遥はノートに書いた。 ——野坂/木暮/三輪。 ——No.13-5——同一。 ——”桐生さんのところから”という声。 ——MAC 2F:7A/4C:19。
海藤から非通知。 「明朝、運河のサテライトに”受付票”の回線が残る。——電話会社の協力を申請する。『安全のために』」 「安全のために、名を出す」 「そう。……”安全のために”という言葉を、やっと正しく使う」
通話が切れた。 遥は窓の外を見た。堤の街灯の円の縁を、猫がまたいだ。 猫は立ち止まり、格子の上を一度だけ舐め、飲まないで去った。舌は、警戒も記憶する。 紙は遅い。 だが、遅い紙に、線が二本になれば、遅い名も浮かび上がる。
彼女は最後に、一行を足した。 ——名の線。一本は粉、一本は電波。 線の先で、同じ番号が揺れる。 番号の向こうに、声がいる。 朝は、回線の番号から始まる。 鍵を回す前に、声の持ち主を、紙の中へ連れてくる。
第二十一章 番号の声
朝は、番号から始まる。 市役所の法務課奥の小部屋。薄い緑のブラインド越しに、曇りの光が紙の繊維を起こしている。机の上に三通の文書が並んだ。「通信事業者協力要請」「港湾回線運用変更届」「臨時安全対策報告」。どれも“安全のために”という同じ言葉を、冒頭に抱えていた。
井原が短く言う。 「“No.13-5”の回線。発信元を出させる」
海藤は、社章を指先で一度だけ押さえ、頷いた。 「名を紙の中へ戻す。——安全のために」
水城遥は、法務課長の横で文面の角を整え、右下の欄に目を落とした。「理由:港湾施設および周辺住民の安全確保のため」。 紙の“安全”は、ゆっくり動く。だが、今朝は動いた。
廊下の突き当たりで、桐生が笑顔の形を崩さないまま待っていた。白い手袋の右親指の付け根が、やはり薄く沈む。 「協力、感謝します。——本日も、安全のために」 「安全の言葉を、角度の中に入れないで」 遥は言い、通り過ぎた。桐生の笑顔は、紙の白のように変わらない。
***
午前十時。通信事業者の地域協力センター。 会議室のガラスの向こうで、若い担当者と技術支援の男がターミナルを開く。壁面モニタに、灰色の一覧が走った。 ——着信先:050-XXXX-XXXX(港湾保全補助・臨時サテライト) ——着信日時:昨日 13:12/17:40/20:06/21:02——発信元:クラウドPBXトランク(番号非通知)/SIP-ID:「sv13-5/proxy-NE」 担当者が言う。 「クラウド側で匿名化。——ただ、発信の経路に“折返し用ガイダンス”が挟まっている。音声ファイルのハッシュ、提供できます」
神谷が前に身を乗り出した。 「音、ください」 「個人情報は伏せます。——音だけ」 ほどなく、USBメモリに入った短いwavが机に置かれた。 〈——桐生さんのところから。緊急の角度調整です。二十一時十〇分から、九分——〉 “角度”という語だけが、妙に硬い。音節が、他の言葉より深く刺繍されている。
白井は顔を上げた。 「合成、かもしれない」 神谷がノートPCで波形を開き、スペクトルを走らせた。 「母音の峰が揃いすぎてる。『角度』だけフォルマントがずれる。——貼り付け?」
担当者が補足した。 「クラウドPBX側に音声案内のテンプレートがあります。『緊急』『点検』『角度』『桐生』——単語単位で差し替え可。発信元、請求は“保全補助(臨時)”名義。実体は代理店の束ね。所在地は港の外、運河の北」 海藤が低く息を吐いた。 「紙の尾が、そこに切れる」
「音は、嘘をつかない。——貼られた音は、嘘の形を残す」 白井が静かに言い、USBを両手で包んだ。
***
港の外れ、北の運河沿い。 レンタルオフィスの「サテライト」の扉は、今朝と同じ静けさを保っていた。受付の机。共用プリンタ。壁のラック。 海藤は、電話機の裏側の型番を指で押さえ、ケーブルの先を辿った。安いゲートウェイ。貼られたシールに、代理店名。 「ここは、声の倉庫だ」 遥が呟く。 神谷はプリンタのジョブログを再確認し、排紙トレイの中から薄い紙片を一枚拾い上げた。 〈受付票(控え)/保全補助(臨時)No.13-5〉 右下の印影の角が、やはり少し欠けている。 「印の癖は、紙の端まで来る」
外へ出ると、路地の猫が、運河の縁の乾いた部分だけを選んで歩いた。薄い日差しが、ひげの先で二度ほど跳ねた。
***
昼前、A-3。 点検枡の黄色い二重線は、外側と透明の細線が割れたまま、内側は生きていた。止水栓の圧は安定。床の目地に撒いた灰は湿って固まり、猫は格子の上で二度舐めた。 東出が時刻を書き、海藤が頷いた。 「“なし”を続ける」
桐生が遠巻きに立ち、チェックリストに「臨時止水 継続」の行を増やし、印を落とした。角は、欠ける。 「安全のために」
遥は、印影の角と猫の舌の角度を、同じノートに並べて描いた。 角度は嘘をつく。舌は嘘をつかない。——同じ紙に置かれると、差が浮かぶ。
***
午後。 北嶺大学。白井はUSBの音声ファイルを実体顕微鏡の隣のPCで開き、短く切り出した。「緊急」「点検」「角度」「桐生」。 母音の峰は均一に揃い、子音の立ち上がりだけが不自然な硬さを持つ。「桐生」の「り」の前に、極小の切断。 「単語が、貼られている」 白井はそう言い、南へメールを打った。 〈“女の声”は編集。——『桐生』の単語のみ別録音の可能性〉 〈掲示、継続。『ねむれた』の丸が増える〉
机の端の「町のカルテ」に、小さな丸がまたひとつ増えた。 〈きょうもねむれた〉 その下に、老女の字。 〈でも、みみはきく〉 “なし”の音は、静けさの形を持つ。
***
港湾管理・IT室。 若い職員が、駐車場北端の指向性アンテナのログを示した。 〈21:10 試行:SSID-GUEST→拒否〉 〈MAC末尾 4C:19→1回/2F:7A→不在〉 〈別SSID 試行→拒否(車載機器)〉 「“扉”は叩かれるが、入れない」 神谷が頷く。
海藤は、電話協力センターから得たもう一つの紙を机に置いた。 〈請求宛名:港湾保全補助・臨時(運河サテライト)〉 〈登録担当:真鍋 詩織(連絡先:090-……)〉 「女の声の名は“真鍋”。——番号は残っていた」
遥は息を吸った。 「かけるの?」 「かける。——録音する。『安全のために』」 海藤はそう言い、スピーカーフォンのボタンを押した。 ワンコールで出た。息を飲む間もなく、整った声が空気を濡らす。 「お電話ありがとうございます。保全補助・臨時の真鍋です。桐生さんのところから——」 「桐生のどこから」 海藤が割って入れる。 瞬間、声の温度が一度、下がった。 「安全のための調整を——」 「“九分”は、終わった。——音は聞いている。色は割れた。名は、ここにある」 沈黙。 「……では、折り返します」 通話は切れた。 神谷が画面に目を落とす。「発信地、港の外。——運河の北ではない。“サテライト”じゃない」
白井からメッセージ。 〈声のフォルマント、電話のほうは生。合成でない。——“案内”と“真鍋”は別〉 音は、嘘の層を剥がす。
***
夕暮れ。運河を挟んだ反対側。 古い倉庫の二階。窓の外に、白い小さな看板。「資料保管」。鐘の鳴らない小さなビル。 若いIT職員が、地図上の基地局の扇形を指で重ねた。 「折返しの番号は、この辺り」 海藤は息を整え、扉の前に立った。 ドアホンに指を伸ばした瞬間、内側でわずかな音。椅子の脚。紙の擦れ。 「真鍋さん」 呼びかけると、数拍の後に、鍵の音。 「——どなた」 声は、電話と同じ温度で出た。
応接の代わりに、幅の狭い机。 真鍋詩織は、丸い眼鏡の奥でまばたきを一度だけ遅らせた。 「私は、連絡の仕事をしています。安全のために」 “安全のために”は、ここでも使われる。 机の端の紙に、薄い印影。角は、やはり少し欠ける。 「桐生さんのどこから来る連絡?」 遥が訊くと、真鍋はまた一度まばたきを遅らせた。 「“桐生さんのところから”と言えば、通じるようになっている。——誰かのために」
「誰か」 海藤の声は低い。 真鍋は、机の引き出しから薄い封筒を取り出し、慎重に押し出した。 〈委託連絡フロー(臨時)/No.13-5〉 〈“港湾管理課補佐”→“保全補助(臨時)”→“委託警備・臨時”〉 矢印の途中に、不自然な白。 「この白は」 「名前が消えるところ。——『安全のために』」
神谷が携帯で、コール履歴の小さな音を拾った。 「今、ここに折返しが入った」 真鍋は目を伏せ、短く言った。 「“桐生さんのところ”から、です」
***
夜。 港の風はまた陸から海へ。旧桟橋の鉄が薄く唸り、基底四十ヘルツに弱い歯が乗る。 神谷が接触マイクを貼り、ジオフォンを沈め、時刻を合わせた。 「二十一時〇九」 欄干がふっと太る。 「来る」 だが、今夜の歯は、さらに浅い。 CY末端の水面は猫の耳のように平たく、緑は出ない。 「“なし”」 白井が低く言い、東出が頷いた。猫は格子の上で一度舐め、飲まずに去る。
A-3脇の点検枡。黄色い二重線と透明の細線は、昼の割れのまま。内側は生き、止水栓の圧は安定。 影は来なかった。 駐車場北端の白線で、指向性アンテナが静かに耳を澄ます。 〈GUEST-PTZ 試行:なし〉 〈SSID外部試行:なし〉 扉は叩かれない夜。 “なし”は、音で確認される。
その頃、運河の倉庫二階。 真鍋は机の端の受話器を見つめ、静かに言った。 「“桐生さんのところ”——その言い方が、鍵になっていた」 彼女はペンを取り、印影の角が欠ける癖の上に、小さく自分の名を重ねた。 “安全のために”という言葉が、紙の上で震えた。
***
深夜。 白井からメッセージ。 〈“なし”の夜。AOF速報は朝。——『ねむれた』の丸、増〉 南から。 〈掲示、継続。耳は開いている〉 井原から。〈明朝、“番号の声”を議会に。音のスペクトル、出す〉
遥は紙を並べた。 ——クラウドPBXの音/貼られた単語。 ——真鍋詩織/折返しの番号。 ——サテライトの受付票/印影の角。 ——A-3の“なし”/猫の舌。 ——“九分”の不発/扉は叩かれず。
最後に、一行を書いた。 〈番号は角度を持たない。——声は、層を持つ。層の剥がれたところに、名が出る〉
窓の外、堤の街灯がゆっくり円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度見て、闇の低い場所へ消えた。 紙は遅い。 だが、遅い紙に声が貼られれば、遅い名も震える。 朝は、声の層から始まる。 鍵を回す前に、層の剥がれ目に指を入れる。 指の温度で、言葉の接着を、少しだけ緩める。
第二十二章 接着の剥がれ
朝は、剥がれ目から始まる。 市役所の大会議室。壁のスクリーンに、音の波形のうえを縫うように赤い印が点々と乗り、右側には短いスペクトルの帯が四つ並んでいた。「緊急」「点検」「角度」「桐生」。母音の峰は揃い、子音の立ち上がりだけが固い。そこに、わずかな“縫い目”。
井原が簡潔に言う。 「クラウドPBXの案内音。単語の貼り合わせです」 神谷が重ねる。 「『角度』と『桐生』だけ、フォルマントがずれる。——編集痕」
白井は最後に、静かな文を置いた。 「昨夜は『なし』でした。A-3の止水は保たれ、末端の矢印は出ず。『ねむれた』の丸が増えています」
海藤が立ち、短くうなずく。 「本日、『保全補助(臨時)』の回線と窓口の実体を詰めます。“安全のために”という言葉を、角度の外へ戻す」
後列の桐生は、笑顔の形を変えない。右の親指の付け根の白い布が、いつも通りわずかに沈むだけだ。
***
廊下で足を止めると、若いIT職員が駆け寄ってきた。 「運河のサテライト、プリンタのジョブ履歴にもう一件。今朝八時、『受付票(控)』の出力。端末IDは“GUEST-PRINT”。登録は昨日の夕方でした」
「昨夜のあとに、紙を足した」 遥が呟く。紙は遅い。だが、遅い紙は、往々にして事後の形をしている。
***
運河の北、サテライト。 扉を開けると、空気は昨日と同じ乾いた匂いを保ち、机の上の「受付票(控)」の束だけが新しく一枚増えている。右下の印影の角は、やはり欠けていた。 「印は、どこから来る」 海藤が問い、神谷が机の裏の引き出しをそっと開ける。硬いスポンジに沈む小さな印鑑。柄の側面に鉛筆書き。「仮置」。 「印影の欠けと一致」 神谷が写真を撮り、薄い札をそっと戻した。
壁の電話機の背に、安価なゲートウェイ。貼られた小さなシールに代理店名。 「ここは声の倉庫だ。——録音の『案内』が、名前の鍵になる」 遥は封筒を開けた。電話会社の協力票。「登録担当:真鍋 詩織」。番号は、運河の倉庫二階へ通ずる。
***
倉庫二階。 「——どなた」 ドアの内側から、昨日の声の温度。 真鍋詩織は、丸い眼鏡の奥で一度まばたきを遅らせた。それは、言葉を選ぶときの間合いだ。 「『連絡』の仕事をしています。安全のために」 彼女は、机の端の薄い印影の上に指を置いた。角は欠けている。
海藤が「安全のために」を一度だけ返し、紙を机に置く。 〈委託連絡フロー(臨時)/No.13-5〉 矢印の途中に、不自然な白の四角。 「ここで名が消える。あなたが消すのか」 真鍋は微かに首を振った。「白は、最初から白です。——私の手前で、白いまま、渡される」
神谷が携帯の画面を示した。 「折返しの基地局、ここではない。別の線がいる」 真鍋は、ゆっくりと眼鏡を外し、乾いた声で言った。 「“桐生さんのところから”——そう言えば、通じるように、パッケージが組まれている。『角度』『点検』『緊急』の単語セット。私は、声を貼るだけ。……安全のために」 最後の五文字に、わずかに震えが乗った。
遥は封筒から、黄色い細線の割れの写真を出した。 「昨夜、介入痕。外の線と透明の線が割れ、内は生きた。……安全のために、色を増やした」 真鍋は写真を見つめ、長く吸って短く吐いた。 「では、私も一つ増やす」 彼女は机の引き出しの底から、折りたたまれた紙をそっと差し出した。 〈臨時巡視・連絡スクリプト(九分)〉 〈“桐生さんのところから”→『緊急』『点検』『角度』『申請済』〉 右下に、資源循環ソリューション本部・保守統括の小さなスタンプ。 「あなたは、なぜ持っている」 「“連絡”の練習に渡された。——返却は、求められなかった」
海藤が眼を伏せ、紙の端を指で押さえた。 「ありがとう」 その言葉は、久しぶりに意味を持って出た。
***
港。 A-3脇の点検枡。黄色い二重線と透明の細線は、昼の割れのまま。止水は生き、圧は安定している。 東出が床の目地の灰を指で軽く触り、「湿、維持」とメモを書く。猫は格子の上で一度舐めて去る。舌は、警戒と許容の境をよく知っている。
桐生が遠巻きに立ち、帳面の「臨時止水継続」に印を落とす。角は欠ける。 「午後、来客があります」 桐生が告げると、海藤が眉を上げた。 「だれ」 「監査です。県の」
***
処分場。 田浦徹は、D-1の南京錠に触れ、赤いタグの切断痕を三度なぞってから、古い扇風機を止めた。 匿名の封筒。 〈本日、B-7 “書類上”点検なし〉 〈D-1 静〉 〈港:監査〉 「音は静。——紙は来る」 田浦は短く呟き、窓の外の黒い丘の呼吸を一度だけ数えた。
***
午後、港湾管理の会議室。 県の監査二名。クリップボードと、丁寧な声。 「本日は“確認”を——」 その言葉に、空気が一度薄くなる。 井原は“黄色い細線の割れ”の写真を机の中央に置いた。 「確認のための色です。——介入痕」 白井が続ける。 「昨夜の音は『なし』。AOFの速報も下がるトレンド。——止水が効いている。九分は、申請制ログに復帰」 神谷が最後に、音のスペクトルを指でなぞった。 「『角度』と『桐生』——単語の貼り合わせ。案内音です」
監査の一人が、顔の筋肉を使わずに言った。 「……安全のために」 海藤の目が、そこで一瞬だけ笑わなかった。
廊下に出ると、若いIT職員が駆け寄る。 「南ゲート、粉の反応なし。駐車場の白線も静か。GUEST側の試行、ゼロ」 「扉は閉じた」 神谷が言った。 「扉を閉じた紙が、やっと追いついた」
***
夕方、運河の倉庫二階。 真鍋詩織は、机の端の印影に薄い紙を重ね、自分の印を小さく落とした。 〈連絡スクリプト(九分)——受領/返却〉 日付と、名前。 「白は、白のままでは、責任の色にならない」 彼女は低く言い、受話器を置いた。 折り返しは来なかった。
***
夜。 旧桟橋。接触マイクは鉄の喉に、ジオフォンは脚の根もとに。 「二十一時〇九」 欄干がふっと太る。基底四十ヘルツ。歯打ちは、さらに浅い。 白井が耳で確かめ、短く頷いた。 「薄」 CY末端の水面は、猫の耳のように平たい。緑は、出ない。 遥は、**“なし”**の写真をもう一枚、角度を揃えて撮った。 “なし”は、積み重ねで意味になる。
A-3脇の点検枡は静かで、黄色い二重線と透明の細線の割れは、そのまま記録の形を保つ。 東出が時刻を書き、猫は格子の上で二度舐めてから去る。 「舌が、『日常』を覚え直している」
そのとき、神谷の端末が小さく震えた。 〈サテライト回線——“案内音”無効化/テンプレート削除〉 若い担当者からの連絡。 「声の倉庫が空になった」 海藤が深く息を吐く。 「明日、『連絡』の行を、紙に戻す」
***
深夜、大学。 白井は速報を見て、短くメモした。 〈No.15:72/No.16:38 μg F/L→今夜:CY末端 “なし”継続(AOF速報、朝)〉 机の端の「町のカルテ」には、子どもの字の丸が増え、老女の字で〈でも、みみはきく〉が静かに並ぶ。 “なし”は、耳を閉じろとは言わない。耳を開けたまま、静かになる。
***
宿。 遥は紙を並べ直した。 ——案内音の“縫い目”。 ——サテライトの印と仮置印。 ——真鍋のスクリプト/保守統括の小スタンプ。 ——黄色い二重線+透明細線の割れ=介入痕。 ——GUEST-PTZ試行ゼロ。 ——“なし”の夜。猫の舌、二度。
最後に、一行を足す。 〈声は層、印は角、色は層、音は底。——剥がれた層の下に、名前の骨が見える〉
窓の外、堤の街灯がゆっくり円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度見る。 紙は遅い。 だが、遅い紙に剥がれが記されれば、そこから先は、貼り直されにくい。 朝は、剥がれ目から始まる。 鍵を回す前に、接着をほどく。 ほどいた隙間に、空気を入れ、日常を入れる。 日常の重さで、九分の影を薄くする。
第二十三章 白の責任
朝は、白の端から始まる。 市役所の中会議室。壁のスクリーンには、昨夜までの「追補」が四枚——案内音の縫い目、二重の黄色い線の割れ、門の光のログ、そして「なし」の水面。紙の白はまだ広いが、端から、少しずつ、黒が置かれていく。
井原が短く言う。 「本日の案件は二つ。——『No.13-5』の空欄に名を入れること。『臨時』を恒久の対策に変えること」
白井は要点だけ重ねた。 「止水は効いています。末端の『矢印』は出ていない。AOFの速報は下降傾向。『ねむれた』の丸が増えている。——『なし』は続ける価値がある」
神谷は、スクリーンの隅に小さな波形を出して、言葉を短く刺した。 「音は薄い。——“九分”は叩かれない」
最後に海藤。 「『保全補助(臨時)』の窓口と回線は確認済み。案内音のテンプレートは削除。——今日は、紙の白に名を置き、運用の隙を閉じる。『安全のために』を、角度の外に戻す」
傍聴席。老女が小さく手を挙げ、係員の目を気にしながら、一言だけ零す。 「きのうも、ねむれた」 その短い文が、白の端を少しだけ重くした。
***
午前十時、港湾管理事務所。 受付の隣の小部屋に、長机が一本と椅子が三脚。正面に「臨時是正会」と印字した紙。 桐生が白い手袋をはめ、笑顔の形を崩さず入ってきた。右の親指の付け根は、いつものように薄く沈む。 「本日は——安全のために」
水城遥はうなずき、机の上に三つの紙を並べた。 ——〈委託連絡フロー(臨時)/No.13-5〉(真鍋提供) ——〈受付票(控)〉右下の印影の角、欠け ——〈案内音スペクトル〉『角度』『桐生』の縫い目 紙の白の真ん中に、空欄がひとつだけ残る。「保守統括——氏名」。
海藤が静かに言った。 「この空欄を、埋める。——安全のために」 桐生は、笑顔のまままばたきを一度遅らせ、手袋の裾を整えた。 「私のところには、記録が」 「記録は、ここにある」 遥が「仮置」の印と、受付票の印影の欠けを重ねた写真を示し、神谷が案内音の波形に赤い点を置く。 「『桐生』だけフォルマントがずれる。——“桐生さんのところから”という鍵を、音が作っている」
沈黙。 桐生の喉の奥で、小さな息が一度だけ裏返った。 「……保守統括の名前は、紙に出すべきでしょう」 右の親指で朱肉に触れ、空欄の右に、短い線。 〈保守統括:御影(みかげ)〉 黒がひとつ、白に置かれた。
海藤が短く頷く。 「今日中に、御影の承認で恒久対策に移る。——床目地の注入止水、基礎ドレンの系統切り離し、点検枡の恒久封印、保管庫の再鍵」 紙の行に、順番が並ぶ。白は、手順の形を覚え始める。
***
運河の北、サテライト。 扉は開いたまま、机の上に「受付票(控)」の束だけが置き去りにされ、電話機のLEDは消えていた。壁の小さなプレート——「港湾保全補助・臨時窓口(サテライト)」——は取り外され、跡に薄い四角い白。 真鍋詩織は、封筒を携えて現れ、机の端にそっと置いた。 〈連絡スクリプト(九分)——返却〉 自分の印。角は欠けていない。 「白は、白のままだと責任の色にならない。——返すことで、色になる」 彼女はそう言って、階段を下りた。昼の光が、眼鏡の縁に一度だけ跳ねた。
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昼、A-3。 点検枡の上には、二重の黄色い線と透明の細線。外側と透明は割れたまま、内側は生きている。止水圧は安定。 東出は、床目地の灰を指で軽く掬い、白井に回収袋を渡した。 「午後、注入止水。——湿った『呼吸』を固める」 海藤が頷く。 「御影の名前が紙に載った。——なら、手も載る」
桐生は遠巻きに立ち、帳面の「臨時止水継続」に印を押した。角は、やはり欠ける。その印の隣に、新しい行が増えた。 〈床目地 注入止水/承認:御影〉 白の行に、黒が堆積する。
猫が黄色い線をまたぎ、格子の上で一度舐めた。舌は、警戒と許容の境を正確に踏む。 東出が時刻を書き、短く笑う。 「猫の承認、済」
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午後、工事。 注入孔が目地に穿たれ、低圧のポンプが静かに脈打つ。水と樹脂の薄い匂い。 白井が試験片の硬化時間を測り、神谷が差圧計の針を見守る。 「吸い込み、消えた」 東出が煙ペンを走らせ、薄い糸がどこにも吸われないことを確かめる。 海藤は点検枡のフランジを再度拭い、恒久封印のタグに日付を書いた。 〈封印:基礎ドレン系統切離し・点検枡封止〉 黄色い二重線の内側、割れていない層に、透明の保護をかける。
桐生が印を落とす。角は欠ける。 「『臨時』の行、削除に移行」 紙の白が、少しだけ狭くなる。
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処分場。 田浦徹は、D-1の南京錠に触れ、赤いタグに「静」と書き足した。 匿名の封筒は、今日は来ない。 「音は、静」 彼は古い扇風機を止め、窓の外の黒い丘の呼吸を一度だけ数えた。 西根から短い文。 〈港、注入完了。——日常に戻す準備〉 田浦は短く返す。 〈日常は、音で測る〉
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夕方、地区センター。 井原は掲示板の「名簿の空欄」の枠に、小さく「御影」と書いた紙を貼った。 老女が隣で、震える字で書く。 〈きょうもねむれた〉 若い父親が続ける。 〈こども、ねむれる〉 井原は、白の端に黒が置かれていくのを見ながら、静かに言った。 「白の責任は、埋める責任」
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夜。 旧桟橋。接触マイクは鉄の喉に、ジオフォンは脚の根もとに。 「二十一時〇九」欄干がふっと太る。基底四十ヘルツ。——歯打ちは、ほとんど影。 白井が耳で確かめ、短く頷いた。 「薄」 神谷が波形に印を付ける。 〈歯打ち:閾下〉 CY末端の水面は猫の耳のように平たく、緑は出ない。 「なし」 遥は角度を同じにして、“なし”の写真をもう一枚、置いた。 “なし”は、積み重ねで意味になる。
A-3の格子の上で、猫が一度舐め、二度舐め、少し長く留まってから去った。 東出がメモに短く書く。 〈猫、三舐め〉 舌は、日常の長さを測る。
そのとき、海藤の端末が小さく震えた。 〈御影:連絡。——保管庫、再鍵化完了。交換用封印、出庫・返納の二重記録へ〉 〈“九分”の申請制、第三者立会いに移行〉 紙の白に、二重の線が入る。割れにくくなる。
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夜半、運河の倉庫二階。 真鍋詩織は、机の上の受話器を伏せ、壁の小さなプレートの跡を指でなぞった。白い四角。 「白は、空欄じゃなくて、跡」 彼女は低く言い、窓を少しだけ開けた。湿った風が、紙の角を一度だけ持ち上げた。
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深夜、大学。 白井は、AOFの速報を見て、短くメモする。 〈CY末端:背景+微小/旧桟橋:下向き/“なし”継続〉 机の端の「町のカルテ」には、子どもの字で〈きょうもねむれた〉の丸が増え、その下に老女の字。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じずに、静かになる。——それが、“なし”のかたち。
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宿。 遥は紙を並べ直した。 ——空欄の右に、〈御影〉。 ——注入止水/基礎ドレン切離し/点検枡封止/保管庫再鍵。 ——案内音の削除。 ——申請制+立会い。 ——“なし”の写真、今日で三枚。 ——猫、三舐め。
最後に、一行を書き足す。 〈白は責任。——埋めて初めて、音が薄くなる〉
窓の外、堤の街灯がゆっくり円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度見て、格子の上で短く舐め、静かに去った。 紙は遅い。 だが、遅い紙に名が置かれ、手順が置かれ、跡が残れば、遅い正しさは日常の重さになる。 朝は、白の端から始まった。 明日は、白の内側から始まる。 鍵を回す前に、白の責任を、手で押さえる。 押さえた手の温度が、角度ではなく、深さに変わるように。
第二十四章 白の内側
朝は、白の内側から始まる。 市役所の記録課で、厚手の用紙が一枚ずつプリンタの奥から吐き出され、まだ温度の残る白が、机の上で静かに冷える。題名は「是正計画(恒久)」。余白は狭く、行間も浅い。白は、もう“外”ではない。書き込まれるべき内側だ。
井原が一枚に目を落とし、指で角をそろえる。 「御影の承認、入った。——第三者立会いの条項も」 海藤がうなずき、署名欄のインクの乾き具合を確かめた。 「紙は遅いけれど、遅い紙が前に出る日がある」
廊下の突き当たりで、桐生が相変わらず笑顔の形で立っていた。白い手袋の右親指の付け根は、今日も薄く沈む。 「ご協力に感謝します。——安全のために」 「安全の言葉は、内側に置いてください」 遥が言うと、桐生は笑いを崩さず、視線だけで署名欄を見た。
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港。保守統括室。 御影は背の低い男で、髪に海風の色を混ぜていた。机の上には、古い配管図の複写と、今日刷り上がったばかりの「是正計画」。 「基礎のドレンは切り離した。点検枡は封止。床目地は注入。保管庫は再鍵」 彼は条項を指でなぞり、目を上げる。 「——『九分』は、申請制で、立会い付き。これで“角度”は紙の中だ」
白井が短くうなずく。 「音も薄くなっている。AOFの列は下がり、町の『ねむれた』は増えた」 神谷が端末を御影の前に出した。 「保管庫の出入ログ、今日から二重記録。——返納の一件、午前に来る」
御影は一度だけ目を閉じ、言葉を選ぶようにゆっくり開いた。「返ってくるのは『交換用』だ。番号は、QL 908374と908375。……『在庫ゼロ』が終わる」
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保守部材保管庫。 第三者立会いの札。井原と白井、そして御影。扉の鍵は新しい真鍮で、細い切り欠きが光を受ける。 桐生が帳面を開き、笑顔の形で読み上げた。 「返納者:浦辺商事/持込時刻:10:13」 白い手袋の係員が運び込む銀色の小箱。封印シールが二重に貼られ、番号の記載だけが外に見える。
「開けます」 御影の声は低い。 立会いの目が、同じ角度で箱に落ちる。 蓋が上がり、薄い緩衝材の中に、鉛の小さな球と細いワイヤがふたつ。 〈QL 908374〉〈QL 908375〉 白井が実体顕微鏡を組み、神谷が撮影台に並べた。 金属の肌が立ち上がる。バリの縁、刻印の浅い癖。 「——合う」 神谷がうなずく。 「“交換用”として一度も使われていない癖。撮って、保管へ」
御影の指先がわずかに震えた。 「紙に載る金属は、もう逃げない」
桐生が帳面に印を落とす。角は、やはり少し欠ける。だが今日は、その印の隣にもうひとつ、御影の印が重なった。角は欠けていない。 「重ねると、欠けが目立たない」 遥が小声で言い、白井が小さく笑った。 「重ねて、欠けが薄くなるのは、紙にだけ許される技」
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午後。A-3。 注入止水の孔は薄い樹脂で塞がれ、床目地の灰は湿りを失って、白く固まっている。差圧計の針は静止に近く、煙ペンの糸は空気に溶ける。 東出が指で床を叩く。厚みのある返り。 「呼吸、浅いまま」 猫が黄色い線をまたぎ、格子の上で短く舐めた。舌の動きは、昨日より長い。 「猫、四舐め」 東出がメモに書き、首を傾ける。 「日常の『長さ』が増えた」
桐生が遠巻きに立ち、チェックリストの「臨時」を消し、代わりに「恒久」の欄に印を落とした。角は、少し欠ける。その上から御影の印が重なり、欄はひとつの色になった。
海藤は点検枡のフランジを一度拭き、透明の保護層を撫でるように見た。 「色は、昨日割れた線の上に残る。——“介入痕”は、記録のかたちで残る」
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運河の倉庫二階。 真鍋詩織は、机の引き出しを空にし、受話器のコードを外して紙袋に入れた。壁の跡は、まだ白い四角になって残る。 階段を降りると、路地の猫が無言で脇を通り、日向の薄い帯をまたいだ。 「白は、跡で記憶する」 彼女は小さく言い、封筒を胸に押し当てた。
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処分場。 田浦徹は、D-1の南京錠にそっと指を置き、赤いタグに「静」を重ね書きした。匿名の封筒は、二日連続で来ない。 「いないのは、いないという記録になる」 窓の外の黒い丘は、湿った風の中で輪郭だけを保ち、音は低いまま沈んでいる。 西根から短い文。 〈封印返納、二。印、二重〉 田浦は「二重」の二文字を二度なぞった。 「二重は、割れにくい」
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夕方、地区センター。 井原は掲示板に「是正計画(恒久)」の要点を貼り出した。字は小さく、図は簡潔で、色は少ない。 老女が近づき、震える字で書く。 〈きょうもねむれた〉 若い父親が続けて書く。 〈こども、しずか〉 井原は頷き、掲示の端に、小さく一行足した。 〈“なし”は、続けて書く〉
大庭が診療所から寄り、「町のカルテ」の新しい欄を提案した。 〈“なし”の日数〉 白の内側に、小さな丸が並んでいく場所がひとつ増えた。
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夜。旧桟橋。 接触マイクが鉄の喉に貼り付き、ジオフォンは脚の根もとに沈む。風は陸から海へ。 「二十一時〇九」 神谷が時刻を読み上げる。欄干がふっと太る。基底四十ヘルツ。 歯打ちは、閾の下で砂のように崩れ、波形の上には、かろうじて見える陰影だけが残った。 白井が耳で確かめ、短く言う。 「薄、維持」 遥はCY末端で、角度をそろえて“なし”の写真をもう一枚置いた。三枚目の“なし”は、二枚目よりも軽く見え、最初の一枚よりも重く見えた。
そのとき、南ゲート。 発光センサーは、何も拾わない。駐車場の白線も静かだ。 若いIT職員が無線で告げる。 「GUESTなし。SSID外部、試行なし」 扉は叩かれないまま、夜は進む。
A-3の格子の上で、猫が長く留まり、四度目の舐めに小さな間を置いた。 東出がペンを止める。 「猫、四舐め(長)」 舌は、“なし”の厚みを測る。
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夜半。保守統括室。 御影が机に肘をつき、「是正計画」に短い行を足した。 〈“臨時”欄の削除完了〉 〈“九分”の監査ログ、港湾・市・第三者の三重保存〉 〈保管庫の封印:抜き取り検査(月一)〉 桐生の印が片側に、御影の印がもう片側に。二つの印の角の違いは、重ねられても消えない。だが、二つがそろえば、白の内側は沈まない。
海藤が扉のところに立ち、短く言った。 「紙は、追いついた」 御影はうなずき、視線を下に落とした。 「追い越す日が来るといい」 「来させる」 海藤の声は、今夜いちばん低かった。
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深夜、大学。 白井は、今日の「なし」を列の端に置き、短いメモを添えた。 〈“なし”:三夜連続/AOF:末端=背景+微小/旧桟橋=下向き継続〉 机の端の「町のカルテ」では、「“なし”の日数」に小さな丸が三つ並び、老女の字がその横に細く伸びた。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じない静けさ——それが、彼女たちの“安全”の形だ。
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宿。 遥は紙を並べ直した。 ——是正計画(恒久):白の内側。 ——御影の印/桐生の印(角)。 ——交換用封印:返納/金属の癖=一致。——A-3:注入止水の完了/差圧=静。 ——“なし”三夜/猫、四舐め(長)。 ——GUEST・門の光:反応なし。
最後に、一行を書き足す。 〈白は内側で重くなる。——重さが、角度より深さを選ばせる〉
窓の外、堤の街灯がゆっくり円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度見て、格子の上で短く舐め、静かに去った。 紙は遅い。 だが、遅い紙が内側で重くなるとき、遅い正しさは、日常の底になる。 朝は、白の内側から始まった。 明日は、線の外側に残ったものを、もう一度測る。 鍵を回す前に、深さを確かめる。 深さが、角度を黙らせるように。





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