光の墓標7
- 山崎行政書士事務所
- 9月29日
- 読了時間: 32分

第二十五章 線の外側
朝は、線の外側から始まる。 「是正計画(恒久)」の印インクが冷えきらないうちに、白井は地図を机いっぱいに広げた。港の柵の外、運河に沿った側溝、橋下の暗い吐け、工業団地へ向かうトラック待機帯。 「港の内は、紙が追いついた。——今日は外を測る」 神谷が透明のシートを重ね、昨夜までの“なし”の線を薄くなぞった。 「三点。上流の対岸アウトレットA、待機帯の側溝B、橋脚下の旧吐けC。いずれも“港の紙”の外」
井原がうなずき、連絡票に簡潔に記す。 〈A=対岸・旧工場側吐け〉〈B=トラック待機帯・道路側溝〉〈C=北橋脚・旧吐け〉 南へも一報を入れる。〈掲示は継続。数値は夕方〉
廊下の端で、桐生は今日も笑顔の形だ。白い手袋の右親指の付け根が薄く沈む。 「本日も安全のために」 「安全の言葉は、門の内側に置いたままで」 遥が言うと、桐生は笑いを崩さず、視線だけで時計を見た。
***
午前十時、対岸アウトレットA。 運河に落ちる細い吐けは、コンクリートの縁に古い苔を抱き、雨上がりの筋をいくつも残している。 白井はラベルを貼る。「No.18/対岸A/10:12」。瓶の口を水に触れさせると、薄い油膜が一度割れ、戻りは緩い。 「導電率、バックグラウンド+α。——塩ではない」 簡易計の数値を見ながら、東出が鼻を鳴らす。 「匂いは薄い、甘く酸っぱい。港のそれより古い感じ」 神谷が欄外に赤い点を打つ。港の柵の外に、小さな印が増える。
護岸の猫が一匹、日向を選んで吐けの縁をまたぎ、飲まずに去った。舌は、域外の味を慎重に測る。
***
十一時、待機帯の側溝B。 港へ入る前の広い空き地。路面の白線は擦れ、雨の粒がまだ黒い砂利の間に残る。湾曲した側溝の鉄蓋の隙間から、透明な線が細く落ちている。 「搬出車両、午前に五台。——帆布の滴下、ありえる」 東出が指先で鉄蓋を押し、白井がラベルを貼る。「No.19/待機帯B/11:43」。 瓶の口を隙間に当てると、液は抵抗なく入り、鼻の奥に接着の酸が薄く残った。 神谷が、吸音スポンジの箱から小型の差圧計を取り出す。 「ここ、下が抜けてる。道路側溝→暗渠→運河の支線。港の紙には乗ってない」
「車両対策の行、紙に増やす」 井原がメモを取り、御影へメッセージを打った。 〈搬出車両の滴下防止・帆布の止水/待機帯に洗浄盤〉
側溝の影から、痩せた猫が顔を出し、匂いだけ嗅いで離れた。舌は、道路の癖を知っている。
***
午後一時、北橋脚下C。 橋の裏側に、旧吐けの丸い口。鉄の蓋は半ば錆び、苔の緑の上に白い小石が点々と載る。 白井はラベル。「No.20/北橋C/13:06」。 瓶の口が水面に触れ、薄い油膜はすぐ割れて、やや速く戻った。 「戻りが速い。——“新しめ”の癖」 白井の声に、東出が頷く。 「車の線と橋の線が、ここで合流してる」
神谷は橋脚の陰でスマホを掲げ、道路管理の公開カメラの角度を確かめた。 「この角度だと、滴下は見えない。——“角度の外側”」 遥はノートに短く書く。 〈角度の外側=紙の外側〉 〈線は水でつながる〉
***
同じころ、港の保守統括室。 御影は搬出車両対策の行を増やしていた。 〈帆布下部にドレンパン/待機帯に簡易洗浄盤・回収槽〉 〈雨天時の搬出制限(荷姿による)〉 桐生が笑顔の形で印を落とす。角は少し欠ける。その上に、御影の印が重なる。 「車両は紙の外になりやすい。——行を足す」 御影は短く言い、保管庫の抜取り検査の予定表を隣に置いた。
***
処分場。 田浦徹は、匿名の封筒が三日連続で来ない机を見て、ペン先で「静」を一度なぞった。 若い同僚が言う。 「港、監査ログが増えるって」 「増やすと、音は薄くなる」 田浦は窓の外の黒い丘に目をやり、低い呼吸を確かめた。音は、まだ静だ。
ポケットで振動。西根から。 〈待機帯B、帆布の滴下、午前一本。写真あり〉 〈御影、洗浄盤の仮設手配〉 田浦は一度うなずき、短く返した。 〈“外側”は、猫が先に嗅ぐ〉
***
夕方、大学。 白井はNo.18〜20の前処理に取り掛かり、陰イオンの肩を確認した。 ——No.18(対岸A):酢酸の小さな肩。リン酸の微弱な尾。 ——No.19(待機帯B):酢酸明瞭。背景より上。 ——No.20(北橋C):酢酸+戻り速い癖。 「外側に、薄い尾」 彼女は舌の記録を並べた。〈道路の味/甘く酸っぱい〉〈橋の下/速い〉 南へ短いメール。 〈港内“なし”継続。港外B・Cは薄い歪み。掲示は“継続+周知”で〉
机の端の「町のカルテ」には、子どもの字で〈“なし”3〉、老女の字で〈でも、みみはきく〉。 “なし”の列が、日付の横で小さな丸を増やしていく。
***
夕刻、待機帯。 御影の手配で、仮設の洗浄盤と回収槽が二枚の鋼板の上に据えられ、小さなポンプが低い音で水を回す。 「帆布の滴は、ここに落とす」 御影が説明し、浦辺商事の担当者は「協力します」と短く答えた。 桐生は笑顔の形で、チェックリストに「仮設洗浄盤設置」を書き、印を落とした。角は、少し欠ける。
東出は側溝の蓋を一枚だけ外し、灰の線を薄く引く。「線の外も、線を引く」 猫がそれをまたぎ、舌を一度だけ出して去った。
***
夜。旧桟橋。 接触マイクが鉄の喉に貼り付き、ジオフォンが脚の根もとに沈む。 「二十一時〇九」 欄干がふっと太り、基底四十ヘルツ。歯打ちは、閾の下。 神谷が波形に小さな点を打ち、白井が耳で確かめ、頷く。 「“なし”、継続」 遥はCY末端で、角度を同じにして“なし”の写真をもう一枚置いた。四枚目の“なし”は、記録というより習慣の色を帯びてくる。
南ゲートの光は灯らない。駐車場の白線も静かだ。 若いIT職員が無線を入れる。 「GUESTなし。SSID外部、試行なし」 扉は叩かれず、夜は淡く進む。
そのとき、待機帯B。 仮設洗浄盤のポンプが小さく息をし、回収槽に白い泡が一度だけ立った。 東出がメモに書く。 〈21:37 洗浄盤・回収〉 神谷が端末に印を打つ。 〈港外“外側線”=吸収〉 線の外側に置いた受け皿が、矢印の先を短く曲げる。
***
夜半、庁舎の小部屋。 井原は「是正計画(恒久)」の追補に、小さな行を足した。 〈車両滴下対策(仮設→恒久)〉 〈道路側溝B=港管理外→協定で線をつなぐ〉 〈“外側線”の監視:第三者・月一〉 海藤が立会い欄に署名し、御影の印が重なる。角はそれぞれ違うが、行は同じ濃さになった。
遥は、ページの余白に短く線を描く。 港の柵の外へ延びる二本の細い線。 ——ひとつは粉。 ——ひとつは水。 線は、紙の外でも、紙に戻る。
***
深夜、大学。 白井はNo.18〜20の速報を並べ、南へ短い文を送る。 〈港内“なし”=継続。港外B・Cに薄い酢酸。車両対策で減衰期待〉 机の端の「町のカルテ」には、〈“なし”4〉の丸が新しく塗られ、老女の字が小さく添えられた。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じない静けさは、習慣へ向かう。
***
宿。 神谷から波形。〈歯打ち=閾下〉〈GUEST=なし〉。 御影から。〈洗浄盤・回収=21:37/仮設一日目〉〈帆布止水=運用開始〉。 井原から。〈協定文案=明日〉 南から。〈掲示=“継続(縮小)”案/“ねむれた”の丸、増〉
遥は紙を並べ直した。 ——外側三点:No.18/No.19/No.20。 ——B・Cに薄い酢酸。 ——洗浄盤の回収。 ——“なし”四夜。 ——猫、線をまたぐ。
最後に、一行を書く。 〈線の外側にも、舌がいる。——舌が通れる線を、紙に引く〉
窓の外、堤の街灯が静かに円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、格子の上で四度目の舐めに小さな間を置き、静かに去った。 角度は、嘘をつく。 音は、嘘をつかない。 光も、嘘をつかない。 舌は、嘘をつかない。 紙は遅い。 だが、遅い紙に外側の線が描かれれば、遅い正しさは外へも届く。 朝は、線の外側から始まった。 明日は、名の外側に残った影を、短く照らす。 鍵を回す前に、外に延びた線の先に、受け皿を置く。 受け皿の浅さが、夜の“なし”を支えるように。
第二十六章 名の外側
朝は、名の外側から始まる。 市役所の小会議室。机の上に「協定文案(道路側溝・回収連携)」が三部、まだ温度の残る白を見せて並ぶ。端に小さな印の影——港湾・道路・市の三者の丸が、半分だけ重なる位置に置かれていた。
井原が指で角をそろえた。 「外側の線を、紙の内側へ。——今日は“名前の外”まで」
海藤がうなずく。 「『保全補助(臨時)』の箱のさらに外。誰が“箱”を作ったか、紙に戻す」
廊下の突き当たりに、桐生は今日も笑顔の形で立っていた。白い手袋の右親指の付け根は、やはり薄く沈む。 「協定、ありがとうございます。安全のために」 「言葉は内側に」 遥が短く返すと、桐生は視線だけで時計の秒針を追った。
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港の外、運河の北。 レンタルオフィスの跡は空で、壁に残った四角い白が、かろうじて昨日までの気配を留めている。 神谷が床のLANソケットを覗き、ケーブルの先の“空”を確かめてから、薄い封筒を取り出した。 〈代理店連絡室・請求内訳〉 ——音声案内テンプレート生成/クラウドPBX接続管理(担当:芦原) ——受付票(控)フォーマット設計(担当:芦原) 「芦原」 名前はある。だが、部署の欄は白いまま。 遥は余白に小さく書いた。 〈名はある/部署は白〉
そのとき、階段の下から軽い靴音。真鍋詩織が封筒を抱えて現れた。 「返すもの、もう一つ」 薄い紙束の表紙に、鉛筆で「覚書(案)」とある。 〈“緊急連絡”フロー:港湾管理課補佐→保全補助(臨時)→委託警備〉 〈備考:必要語句『緊急』『点検』『角度』『桐生』〉 右下の小さな字——監理課・芦原。 「きのう、机の底から出てきた。……“返却不要”って赤で書いてあったけど」 真鍋は笑わなかった。 「返却不要の紙は、責任が行き場を失う」
海藤が静かに受け取り、深く頭を下げた。 「ありがとう。——“不要”を、必要に変える」
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昼前、港湾管理・保守統括室。 御影は、昨日署名した「是正計画(恒久)」を机の端に寄せ、画面に表示された社内メールのリストに目を落とした。 ——〈件名:臨時“九分”の音声案内〉差出:監理課・芦原 ——〈件名:受付票(控)の版管理〉差出:監理課・芦原 ——〈件名:外部サテライトの費目〉差出:監理課・芦原 添付のPDFは見慣れた体裁で、右下の印影の角は欠けていない。 御影は息を吸い、海藤に転送した。 「“どこから”が、紙に戻る」 机の上の印鑑に、人差し指を軽く置く。角は欠けていない。それでも、押す前の重みは同じだ。
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道路管理事務所の会議室。 協定への署名は短く、声は少なかった。 〈待機帯の洗浄盤→恒久化〉 〈帆布ドレンパン→運用規程〉 〈道路側溝の回収→港と共同で監視〉 井原が最後に小さく言う。 「“外側”も、“なし”で埋めていく」
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午後、大学。 白井は外側三点(No.18〜20)の正式値の準備を進めながら、机の端の「町のカルテ」に丸を一つ足した。 〈“なし”5〉 老女の字がその横に静かに伸びる。 〈でも、みみはきく〉 「耳を開いたまま、静かになる」 白井は自分に言うように呟き、メールを打った。 〈南さん、掲示“継続(縮小)”に移行可。——港外は監視を〉
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同じ頃、港・A-3。 注入止水の孔は硬化し、床の返りは厚みを増した。猫は黄色い線をまたぎ、格子の上で長く舌を動かした。 東出がメモに書く。 〈猫、五舐め(長)〉 「日常は、長さでわかる」 海藤が短く笑う。
桐生は遠巻きに立ち、チェックリストの「恒久」の欄に印を落とす。角はやはり少し欠ける。その上に御影の印が重なり、欄は濃く沈む。 「監理課に確認を」 御影が言うと、桐生は笑顔のまま「承知です」と答え、視線だけでどこかの白い壁を見た。
***
午後三時。 運河沿いの古い喫茶店。木のテーブルに水の輪が薄く残る。 「……芦原です」 店に入ってきた男は、上着の肩に微細な埃を乗せ、ネクタイの結び目を息で整えた。髪は海風ではなく空調の癖を持つ。 海藤と遥、神谷、井原。テーブルに、真鍋の封筒と、請求内訳と、覚書(案)。 海藤は挨拶のあと、紙を三枚、横に並べてから言った。 「“保全補助(臨時)”の箱を作ったのは、あなたの“監理課”ですね」 芦原は、笑わなかった。 「緊急対応のための外部委託です。——安全のために」 「“九分”に合わせて案内音を組み、**『桐生』**という単語をテンプレートに入れた」 神谷が波形の“縫い目”を指でなぞる。 「“桐生さんのところから”と言えば通る鍵を、あなたが作った」
沈黙。 芦原は水のグラスに指を置き、冷たさで言葉を探すように一瞬の間を置いた。 「紙に残る鍵が必要でした。現場は忙しい。——角度を合わせる、ただそれだけのこと」 「角度は、嘘を作る」遥が静かに言うと、芦原のまぶたがわずかに揺れた。 「あなたの部署名は紙にある。——あなた個人の名前は、紙の外にいた」
井原が一枚、ゆっくりと差し出した。 〈協定:道路側溝・回収連携/是正計画(恒久)抜粋〉 「“外側の線”を紙に戻した。——あなたの“外側の名”も、紙に戻ってください」 芦原は、遠いものを見る目で、窓の外の運河を一度だけ見た。 「謝罪は、紙の上より先に、口で言うべきでしょう」 テーブルの上の水の輪に、指先がほとんど触れない角度で乗った。 「すみません。——私が、鍵を作った。箱も。……返却不要の紙を書いた」
真鍋の名は出なかった。出す必要は、もうなかった。 海藤が短くうなずく。 「紙に、芦原と書きます」 芦原は、うつむいて「お願いします」と言った。声は平坦で、薄い。
***
夕刻、地区センター。 井原は掲示板に小さな追補を貼った。 〈“臨時連絡”の箱=監理課の設計/名前:芦原〉 〈箱=廃止/案内音=削除〉 〈“九分”=申請・立会い〉 老女が紙の前で立ち止まり、震える字で書いた。 〈きょうもねむれた〉 若い父親はその横に、初めて何も書かなかった。肩の力が、紙の端から落ちた。
大庭が診療所から来て、「“なし”の日数」に小さな丸を足す。 〈5〉 耳を開いたまま、丸は増える。
***
夜。旧桟橋。 接触マイクは鉄の喉に、ジオフォンは脚の根もとに。 「二十一時〇九」 欄干がふっと太る。基底四十ヘルツ。歯打ちは閾の下。 白井が耳で確かめ、神谷が波形に薄い線を引く。 「“なし”、継続」 遥はCY末端で角度を同じにし、四枚目の“なし”の隣に、**五枚目の“なし”**を置いた。 “なし”は、習慣を越えて、状態になり始める。
南ゲートは静かだ。駐車場の白線も静かだ。 若いIT職員が無線で告げる。 「GUESTなし。SSID外部、試行なし」 扉は叩かれない。夜は、浅く、長い。
A-3の格子の上で、猫が長く留まり、五度目の舐めに再び小さな間を置いた。 東出がメモに書く。 〈猫、五舐め(長)〉 舌は、日常の深さを測る。
***
夜半、港湾管理の会議室。 御影は、監理課とのやり取りのログに短い行を足した。 〈“臨時連絡”箱:廃止〉 〈監理課・芦原:謝罪・氏名掲出〉 〈案内音:無効化済〉 桐生の印が片側に、御影の印がもう片側に。角の違いは残るが、二つの印の距離は、前より近い。
海藤は扉のところに立ち、静かに言った。 「紙は、外側にも届いた」 御影が頷く。 「外側に届く紙は、内側を支える」
***
深夜、大学。 白井は外側三点の速報を並べ、短いメモを添えた。 〈No.18=微小/No.19=減衰/No.20=減衰〉 〈港内“なし”=五夜〉 机の端の「町のカルテ」には、〈“なし”5〉の丸。その横に、老女の字。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じない静けさは、責任の音も拾う。
***
宿。 神谷から波形。〈歯打ち=閾下/“なし”5〉。 井原から。〈掲示追補:芦原/箱の廃止〉。 御影から。〈保管庫:抜取り検査計画・公開〉。 南から。〈掲示:明日から“継続(縮小)”へ〉。
遥は紙を並べ直した。 ——“名の外側”:芦原。 ——箱:廃止。案内音:削除。 ——協定:道路側溝・洗浄盤。 ——“なし”五夜。猫、五舐め(長)。 ——町のカルテ:丸=5。
最後に、一行を書いた。 〈名前は、角度ではなく位置で責任を取る。——外側に置かれた名を、内側に貼り直す〉
窓の外、堤の街灯が静かに円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度見てから、格子の上で短く舐め、音のない夜へ消えた。 紙は遅い。 だが、遅い紙に外側の名が貼られたとき、遅い正しさは、町の底のほうへ沈着していく。 朝は、名の外側から始まった。 明日は、跡に残った薄い匂いを、さらに薄くする。 鍵を回す前に、紙の内と外を、同じ深さで押さえる。 押さえた指の温度が、角度ではなく、重さになるように。
第二十七章 跡の地図
朝は、跡から始まる。 市役所の小会議室。机いっぱいに広げた透明シートの上に、薄い点と短い線が積層していく。港内の「なし」の写真、旧桟橋の波形、黄色い二重線の割れ、門の光、洗浄盤の回収時刻、そして——町の「舌の記録」。 井原が細いペンで枠を描き、題を入れた。 〈跡の地図〉 「紙は遅い。——でも、遅い紙は“跡”を並べられる」
南がうなずき、掲示の見出しを指で押さえた。 〈“念のため”継続(縮小)→段階解除(案)〉 白井は数列を一行足す。 〈末端AOF:No.16=38→昨夜速報=24 μg F/L(BG 14±3)〉 「数字は、“なし”に寄っている」
廊下の端で、桐生が笑顔の形で立ち、右の親指の付け根を白い布越しに一度だけ沈めた。 「本日も、安全のために」 「安全の言葉は、地図の“内側”に置く」 遥が短く返し、視線を地図へ戻した。
***
午前、北嶺大学。 白井は、末端AOFの減衰曲線を描いた。指数の肩は緩く、目盛りの上に小さな半減期が現れる。 「一〜二日で半分。旧桟橋はもう少し遅い」 陰イオンの肩はさらに薄く、酢酸の尾は背景に近い。 机の端の「町のカルテ」では、新しい欄〈“なし”の日数〉に小さな丸が五つ並び、老女の字で〈でも、みみはきく〉が添えられている。 「耳を開けたまま、静けさが増える」
***
港・A-3。 注入止水の孔は硬化し、差圧計の針はほとんど動かない。 点検枡の上では、二重の黄色い線と透明の細線が“介入痕”として残り、その内側に薄い透明の保護層。 御影は封印タグの新しい仕様を取り出した。 「二色破断+透明破断。——割れれば、層でわかる」 白い手袋の係員が、帳面に「恒久」欄のチェックを入れ、桐生が印を落とす。角は少し欠ける。その上に御影の印が重なり、欄は濃く沈む。
東出が床を軽く叩き、音を聴く。 「呼吸、浅い」 猫が黄色い線をまたぎ、格子の上で舌を四度、五度、そして——一拍置いて六度目に短く触れた。 東出はメモに書く。 〈猫、六舐め(短)〉 「日常の“長さ”が、厚みに変わる」
***
待機帯。 仮設の洗浄盤は、午前中に一度だけ白い泡を立て、回収槽のゲージが小さく上がった。 浦辺商事の担当者が帆布の端を指さし、止水用のクリップとドレンパンの使い方を運転手に説明する。 御影は道路管理の係と短く言葉を交わし、井原は協定の文面に赤鉛筆で〈恒久化→来週〉の印を付けた。 「外側の線も、紙に戻る」
***
対岸アウトレットA/北橋脚下C。 神谷は小型のトラップを二つ、護岸の陰と橋脚の根もとに置いた。活性炭の小袋が低い水の呼吸を吸い、時刻と座標が端末に刻まれる。 「“跡”は吸う。——紙に置くために」 遥は薄い油膜の戻り方を目で覚え、ノートに短く書き添えた。 〈A=戻り緩〉〈C=戻り速〉
***
処分場。 田浦徹は、D-1の南京錠に短く触れ、赤いタグの「静」を一度なぞった。 匿名の封筒は、今日も来ない。 窓の外の黒い丘は、日差しで輪郭が柔らかくなり、息は低いまま。 西根から短い文。 〈“箱”廃止=現場にも回覧〉 田浦は口の中で一度だけ「よし」と言い、古い扇風機を止めた。
***
昼、地区センター。 「跡の地図」が掲示板に貼られ、人の目の高さに“なし”の写真が四枚、五枚——同じ角度で並ぶ。 老女が震える字で書く。 〈きょうもねむれた〉 若い父親が続ける。 〈こども、しずか〉 大庭は新しい欄〈“音のない夜”〉を提案し、丸の横に小さな耳のマークを印刷した紙を足した。 「“なし”は、書き続ける」
***
午後、港湾管理・保守統括室。 御影は「是正計画」の端に小さく一行を足した。 〈“跡の地図”:月次で更新/公開〉 桐生が印を落とし、角の欠けが小さく見える角度で用紙を置き直す。 「紙の白は、“内側”で重くする」 海藤が短く頷いた。 「重くなった白は、角度に負けない」
同じ頃、監理課。 芦原は机の引き出しから薄いファイルを取り出し、表紙に自分の名を短く書いた。 〈臨時連絡“箱”——廃止手続〉 その字は、きちんとしていて、薄かった。 「名前は、角度ではなく位置で責任を取る」 彼は誰に言うでもなく言い、書類を重ねた。
***
夕方、大学。 白井は外側三点(No.18〜20)の正式値を出し、短くまとめた。 ——No.18(対岸A):背景+微小。 ——No.19(待機帯B):減衰。——No.20(北橋C):減衰。 南へ送る文の最後に一行。 〈段階解除(案)=“夜の耳”の丸と、末端AOFの“なし”で合わせる〉
机の端の「町のカルテ」には、小さな丸がもうひとつ増えた。 〈“なし”6〉 老女の字は、やはり細いが、昨日より揺れが少なかった。
***
夜、旧桟橋。 接触マイクは鉄の喉に、ジオフォンは脚の根もとに。 「二十一時〇九」 欄干がふっと太り、基底四十ヘルツ。歯打ちは——閾の下。 神谷が波形に薄い線を引き、白井が耳で確かめ、短く頷く。 「“なし”、継続」 遥はCY末端で、角度を同じにして六枚目の“なし”を置いた。 六枚目は、記録でも習慣でもなく、状態の手触りを持っていた。
南ゲートの光は灯らない。駐車場の白線も静かだ。 若いIT職員が無線で告げる。 「GUESTなし。SSID外部、試行なし」 扉は叩かれない。夜は浅く、長い。
A-3の格子の上で、猫が六度目の舐めにまた小さな間を置き、尾をゆっくり立てて去った。 東出がメモに書く。 〈猫、六舐め(短)〉 舌は、跡の薄さを測る。
***
夜半、庁舎の小部屋。 井原は「段階解除(案)」の下書きに小さな項目を足した。 〈“跡の地図”=公開/月次〉 〈“町のカルテ”=常設〉 〈“介入痕”=保存〉 海藤が立会い欄に署名し、御影の印が重なる。角は違うが、行は同じ濃さになった。
遥は余白に短く線を引いた。 ——港の内側の白。 ——外側の細い線。 ——それらをつなぐ小さな丸。 丸の中に、小さく書く。 〈“なし”〉
***
深夜、大学。 白井は末端の速報に短く印を付けた。 〈末端AOF:24→今夜速報=21 μg F/L〉 机の端の「町のカルテ」では、〈“なし”6〉の丸の横に、老女の字。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じない静けさ——それが、町の“安全”の形だ。
***
宿。 神谷から波形。〈歯打ち=閾下/“なし”6〉。 御影から。〈洗浄盤=回収良/帆布ドレン運用=定着〉。 南から。〈掲示“継続(縮小)”→明日“段階解除(案)”に〉。 井原から。〈“跡の地図”初版、明朝掲示〉。
遥は紙を並べ直した。 ——跡の地図。 ——末端AOF:38→24→21。 ——外側三点:減衰。 ——洗浄盤:回収。 ——“なし”六夜。猫、六舐め。
最後に、一行を書いた。
〈跡は、薄くなる。——薄くなる跡を紙に置くとき、角度は黙り、日常だけが残る〉
窓の外、堤の街灯が静かに円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度だけ見て、格子の上で短く舐め、音のない夜へ消えた。 紙は遅い。 だが、遅い紙に跡の地図が貼られれば、遅い正しさは、町の底で長く残る。 朝は、跡から始まった。 明日は、丸の増え方を測る。 鍵を回す前に、白の内と外を、同じ重さで撫でる。 撫でた手の温度が、角度ではなく、静けさに変わるように。
第二十八章 丸の増え方
朝は、丸から始まる。 地区センターの掲示板の前、丸の列が静かに伸びていた。〈“なし”の日数〉の欄に、昨日までの六つの丸。その下に、今朝の小さな七つ目。 大庭が丸の右に薄い鉛筆で肩を書き、数字を入れる。「BG+微小」。 「丸は、数字の読み方をやわらかくする」 彼は独り言のように言い、壁の「跡の地図」の端を指で撫でた。
井原は会議室へ戻り、机の上に四つのカードを並べた。 〈末端AOF:21→(朝速報)19 μg F/L(BG 14±3)〉 〈音:歯打ち閾下・基底40Hzのみ〉 〈光:門の反応なし〉 〈舌:丸=7〉 「丸の増え方で解除を測る。——段階(案)を出す」 彼は短く言って、南へ目をやった。
水道局の南が頷いた。 「『念のため(縮小)』から『段階解除(第1段)』に。——煮沸推奨を解除、夜間の掲示は残す。『耳は開けたまま』」 白井は数列に一本、細い線を引いた。 「三夜連続の“なし”は状態に。七夜目、背景に近い。——舌の丸が、数字に寄っている」
廊下の端で桐生が笑顔の形で立ち、帳面を抱えていた。右の親指の付け根はやはり薄く沈む。 「本日も、安全のために」 「安全の言葉は、丸の内側に置く」 遥が返し、ドアノブに手をかけた。
***
北嶺大学。 白井は末端AOFの減衰曲線に、新しい点を置いた。指数の肩がさらに緩くなり、半減の目盛りは、昨日より奥へ滑った。 陰イオンの肩は薄く、酢酸の尾は背景の揺れ幅に沈む。 机の端の「町のカルテ」には、子どもの字で〈“なし”7〉、老女の字でいつもの一行。 〈でも、みみはきく〉 「耳を閉じない静けさ」 白井は、軽く声にしてから南へメールを打った。 〈“段階解除(第1段)”支持。——夜間の耳と紙は継続〉
***
港・A-3。 注入止水の孔は完全に硬化し、差圧計の針はほとんどゼロを指す。 点検枡の上では、二重の黄色い線と透明の細線が“介入痕”として残り、その内側に薄い透明の保護層が光を浅く返す。 御影が封印タグの新仕様を係員に渡し、説明した。 「破断は二色+透明。——割れれば、層でわかる。記録も層で残す」 桐生がチェックリストの「恒久」の欄に印を落とす。角は少し欠ける。その隣に御影の印が重なり、濃さは一つになった。
東出が床を軽く叩き、返りを聴く。厚い音。 猫が黄色い線をまたいで格子の上に乗り、舌を五度、六度、そして短い間の後に七度目の舐めを置いた。 東出はメモに書く。 〈猫、七舐め(短)〉 「日常の厚みは、長さの中に隠れる」
海藤が枡の保護層を一度撫で、言った。 「“介入痕”は残す。——“九分”は申請と立会いに沈める」
***
待機帯。 仮設の洗浄盤は午前に一度だけ泡を立て、回収槽のゲージが小さく上がった。 御影は道路管理の係と合意書の草案を確認し、井原は〈恒久化→来週〉の印を太くした。 浦辺商事の担当者が、ドレンパンに落ちた一滴を指で示し、運転手に言う。 「ここで止める。——外側の線は、ここで折る」
神谷は側溝の蓋の隙間に小さなセンサーを忍ばせ、時刻と温度、微かな圧を記録させた。 「線は、紙の外でも時刻を持つ。——戻すために、持たせる」
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対岸アウトレットA/北橋脚下C。 護岸の陰のトラップは濡れた炭を静かに黒くし、橋脚の根もとの小袋は昼の呼吸を浅く飲み込む。 遥は薄い油膜の戻り方をもう一度見て、ノートに短く書いた。 〈A=戻り緩(古)/C=戻り速(新)→減衰〉 「跡の薄さが、丸の丸さに寄っていく」
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処分場。 田浦徹は、匿名の封筒が四日続けて来ない机を見て、赤いタグの「静」を一度だけなぞった。 窓の外の黒い丘は、昼の光に輪郭をやわらげ、呼吸は低い。 西根から短い文。 〈“九分”の立会い=第三者、始動〉 田浦は「立会い」の二文字を指で押さえ、「よし」と短く言った。
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午後、監理課。 芦原は「箱」廃止の手続きを印で押さえ、表紙に自分の名を短く書いた。 「名前は、位置で責任を取る」 彼は独り言のように言い、机に現場の「跡の地図」初版を広げた。 黄色い線の割れと、門の光の不在と、丸の列。 紙は遅い。——遅い紙が、ここに届いている。
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夕方、地区センター。 井原は「段階解除(第1段)」の掲示を貼った。 〈煮沸推奨=解除〉 〈夜間の耳=開けたまま〉 〈“跡の地図”=月次更新〉 老女が震える字で書く。 〈きょうもねむれた〉 若い父親は、今度は一行付け足した。 〈みず、あじがしない〉 大庭は〈“なし”の日数〉に七つ目の丸を描き、耳のマークを小さく押した。 「丸の増え方を、町が覚える」
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夜、旧桟橋。 接触マイクが鉄の喉に貼りつき、ジオフォンが脚の根もとに沈む。風は陸から海へ。 「二十一時〇九」 欄干がふっと太る。基底四十ヘルツ。歯打ちは閾の下。 神谷が波形の上に薄い線を引き、白井が耳で確かめる。「“なし”、継続」 遥はCY末端で、角度を同じにして七枚目の“なし”を置いた。 七枚目は、記録でも習慣でもなく、日常の重さを持っていた。
南ゲートの光は灯らない。駐車場の白線も静かだ。 若いIT職員が無線を入れる。 「GUESTなし。SSID外部、試行なし」 扉は叩かれない。夜は、浅く、長い。
A-3の格子の上で、猫が七度目の舐めにまた小さな間を置き、尾をゆっくり立てて去った。 東出がメモに書く。 〈猫、七舐め(短)〉 舌は、“なし”の厚みを測る。
***
夜半、庁舎の小部屋。 井原は「段階解除(第1段)」の下に、小さな欄を足した。 〈“丸”の集計:各公民館・診療所・学校〉 〈“耳”の欄:自由記述〉 海藤が立会い欄に署名し、御影の印が重なる。角はそれぞれ違うが、行の濃さは同じになった。 「丸は、数字の前に町に触る」 海藤が言い、遥は頷いた。 「触った指の温度を、紙に残す」
***
深夜、大学。 白井は末端の速報を見て、短く印を付けた。 〈末端AOF:19→今夜速報=18 μg F/L〉 机の端の「町のカルテ」では、〈“なし”7〉の丸の横に、老女の字。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じない静けさは、習慣の奥で呼吸を続ける。
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宿。 神谷から波形。〈歯打ち=閾下/“なし”7〉。 御影から。〈洗浄盤:回収良/帆布ドレン:運用定着〉。 南から。〈掲示=“段階解除(第1段)”適用〉。 井原から。〈“跡の地図”更新=月次運用へ〉。
遥は紙を並べ直した。 ——丸の列=7。 ——末端AOF:21→19→18。 ——音:歯打ち閾下。 ——光:なし。 ——猫:七舐め(短)。 ——外側三点=減衰。
最後に、一行を書いた。 〈丸は、角度を鈍らせ、重さを深さに変える。——増え方が、解除の形を決める〉
窓の外、堤の街灯が静かに円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度見て、格子の上で短く舐め、音のない夜へ消えた。 紙は遅い。 だが、遅い紙に丸の増え方が描かれれば、遅い正しさは、町の底にゆっくり沈着する。 朝は、丸から始まった。 明日は、解除の言葉を選ぶ。 鍵を回す前に、丸の数え方で、扉の重さを測る。 測った重さが、角度ではなく、静けさの単位であるように。
第二十九章 解除の言葉
朝は、言葉から始まる。 市役所の中会議室。白い長机に、薄い灰の見出しが並ぶ。〈段階解除(第1段)〉、〈“耳は開けたまま”〉、〈“跡の地図”は月次〉。紙はまだ温かく、インクのにおいが浅く漂う。
井原が、見出しの行間に指を置いた。 「“終息”は使わない。“収束”もまだ早い。——『段階解除』で行く」 南が頷く。 「煮沸推奨は解除。夜間掲示は維持。『耳は開けたまま』を一行、太く」 白井はデータ表に新しい点を置く。 〈末端AOF:38→24→21→18 μg F/L(BG 14±3)〉 「数字は、丸に寄り続けている」
神谷が、波形の上を走る薄い一本線を指でなぞった。 「基底四十ヘルツ。歯打ちは閾下。——音は“薄”のまま」 海藤は、最後の見出しを読み上げて短く言う。 「言いさしの『安全のために』は外す。——“何をするか”だけを書く」
廊下の端で、桐生が笑顔の形で立っている。右の親指の付け根は、白い手袋越しにやはり薄く沈む。 「本日も——」 遥は歩みを緩めず、会議室の扉に手をかけた。 「言葉は、紙の内側に置きます」
***
午前、地区センターの大ホール。 壇上のスクリーンに「跡の地図」が映り、四枚、五枚、六枚、七枚——同じ角度で撮られた“なし”の水面が、横一列に並んだ。端には、門の光の不在、黄色い線の割れの写真、洗浄盤の回収時刻、そして〈“なし”の日数=7〉の丸。 井原が前へ出、言葉を短く置く。 「“念のため(縮小)”から“段階解除(第1段)”へ。煮沸は不要。夜の掲示は続行。——『耳は開けたまま』です」
白井が続く。 「末端AOFは38から18。旧桟橋は緩やかに下がり、陰イオンの歪みは背景域。『なし』は、習慣を越えて“状態”になりつつあります」 スクリーンの片隅に、酢酸の低い肩と、AOFの列が控えめに並ぶ。 「由来は——」 白井は言葉を選び、はっきり言う。 「廃棄太陽光パネルの破砕・保管に伴う接着材の劣化(酢酸)と、背面シート由来と見られる有機フッ素の混在。破砕工程の停止、基礎ドレン切離し、点検枡封止、床目地の注入止水、車両滴下対策——今ある対策で“流路”は断たれています」
壇の脇で、御影が一歩、前へ出る。「保管庫は再鍵。封印は“二色+透明”の破断型に改めました。抜取り検査は月一で公開。臨時連絡の箱は廃止。『九分』は申請制・立会い制に移行済みです」 彼は紙を掲げず、言葉だけを置いた。
最後に、海藤。 「今日の言葉は、『解除』です。ただし、“段階”。——『終わり』ではなく、『見続ける』ための言葉です」
客席の後ろで、老女が静かに立ち上がり、係員に目で合図をもらって、短く言った。 「きのうも、ねむれた。……でも、みみはきく」 会場の空気が、薄く息を吐く。 若い父親が続いて立ち、「水、あじがしない」とだけ言った。
井原が頷いた。 「“耳は開けたまま”。——それが、今日の“解除の言葉”です」
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説明会のあと、ロビー。 壁の掲示に「段階解除(第1段)」が貼られ、隣に「跡の地図」。その下に「町のカルテ」。 子どもの字で〈“なし”8〉の丸が新しく塗られる。 大庭が耳のマークをひとつ押し、「丸の増え方」を笑わずに見守った。
真鍋詩織が、ロビーの端で封筒を抱えたまま立っていた。 遥が近づくと、彼女は短く頭を下げた。 「“案内音”、削除の連絡、正式に来ました。……声の倉庫は空」 「ありがとう」 遥は言い、封筒の厚みに目を落とす。 「まだ跡は残る。——白い四角が」 真鍋は小さく笑って、うなずいた。
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昼、港・A-3。 注入止水の孔は白く固まり、差圧計の針は動かない。 二重の黄色い線と透明の細線は、昼の光を鈍く返しながら、介入痕としてそこに在る。 東出が床を軽く叩き、厚い返りを聴く。 猫が黄色い線をまたぎ、格子の上に乗って、舌を八度——短く、等間に置いた。 〈猫、八舐め(短)〉 東出はメモに書き、顔を上げる。 「日常は、回数じゃなく**間(ま)**で覚えるらしい」
御影は、保管庫の新しい鍵を軽く回しては時間を見た。 「午後、抜取り検査の公開一本目。QL 908374の兄弟番、無作為に」 桐生が帳面に印を落とし、角の欠けの上に御影の印が重なる。 「二重は、割れにくい」
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午後、北嶺大学。 白井は外側三点のトラップを開け、活性炭の小袋をハサミで割った。 微かな香り。古い樹脂の尾、道路の薄い酸。 ——No.18(対岸A):微小。 ——No.19(待機帯B):減衰。 ——No.20(北橋C):減衰。 「外側も、薄に寄る」 彼女はラベルに日付と時刻を描き足し、南へ短い文を送った。 〈段階解除(第1段)=妥当。——“耳”は開けたまま〉
机の端の「町のカルテ」には、〈“なし”8〉の丸と、老女のいつもの行。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じない静けさ——それを、白井は自分のノートにもう一度書き写した。
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処分場。 田浦徹は、D-1の南京錠にそっと触れ、「静」を一度なぞった。 匿名の封筒は、今日もない。 窓の外の黒い丘は、光の下で輪郭をやわらげ、呼吸は低い。 西根が戻ってきた。素手。手の擦り傷はもう痕だけ。 「港、公開の抜取り。——番号は言わない。……でも、手を見ればいい」 「手は、角度を作る。――今は、深さを作れ」 田浦はそう言って、古い扇風機を止めた。
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夕方、保守部材保管庫・公開抜取り。 第三者立会い。カメラの角度は固定、パン・チルトは申請制。 御影が銀の小箱を開け、ランダムで選んだ封印を取り出す。 金属の肌、バリの縁、刻印の深さ。 神谷が撮影台に置き、実体顕微鏡の下で癖を照合する。 「——合う」 白井が短く頷き、井原が記録に“公開”の文字を足す。 桐生の印は角が欠け、御影の印が重なり、欄はひとつの濃さになった。 「紙は、ここまで追いついた」 海藤は、今日いちばん小さい声で言った。
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同じころ、地区センターの会議室。 「段階解除(第1段)」の小さな意見交換。 若い父親が言う。 「『解除』って聞くと、『忘れていい』みたいで怖いです」 老女が続ける。 「わすれないための『解除』、ってかいといて」 井原は、ペン先で掲示の端に小さく足す。 〈忘れないための解除〉 紙に、言葉が正しい位置を見つける。
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夜、旧桟橋。 接触マイクは鉄の喉に、ジオフォンは脚の根もとに。風は陸から海へ。 「二十一時〇九」 欄干がふっと太る。基底四十ヘルツ。歯打ちは閾の下。 神谷が波形に薄い線を引き、白井が耳で確かめ、短く頷く。 「“なし”、継続」 遥はCY末端で、角度を同じにして八枚目の“なし”を置いた。 八枚目は、儀式ではなく、生活の手触りに近い。
南ゲートの光は灯らない。駐車場の白線も静かだ。 若いIT職員が無線で言う。 「GUESTなし。SSID外部、試行なし」 扉は叩かれない。夜は、浅く、長い。
A-3の格子の上で、猫が八度目の舐めにまた小さな間を置き、尾をゆっくり立てて去った。 東出がメモに書く。 〈猫、八舐め(短)〉 舌は、“解除の言葉”より先に、解除の状態を測っている。
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夜半、庁舎の小部屋。 井原は「段階解除(第1段)」の下に、明日の欄をひとつ空けた。 〈“耳の丸”:各公民館から集計〉 〈“跡の地図”:初版→月次〉 〈外側三点:監視継続〉 海藤が立会い欄にサインし、御影の印が重なる。角は違うが、行の濃さは同じになった。
遥は余白に短く書く。 ——忘れないための解除。 ——耳は開けたまま。——猫の間(ま)。
そのとき、神谷の端末が小さく震えた。 〈港外・北橋C:夜間の微小変動=許容内〉 白井からも短いメッセージ。 〈末端速報=17 μg F/L〉 数字は、丸の内側へ、さらに寄っていく。
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深夜、大学。 白井は「町のカルテ」の端に小さく丸を足した。 〈“なし”8〉 老女の字が、その横に細く並ぶ。 〈でも、みみはきく〉 “解除の言葉”は、耳を閉じないためにある——彼女はそう書かれていない一行を、心の中で読み上げた。
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宿。 神谷から波形。〈歯打ち=閾下/“なし”8〉。 御影から。〈公開抜取り=問題なし/記録公開〉。 南から。〈掲示=“忘れないための解除”追記〉。 井原から。〈“跡の地図”=月次化、賛成多数〉。
遥は紙を並べ直した。 ——解除の言葉=段階/忘れないため。 ——末端AOF:19→18→17。 ——音:薄。光:なし。 ——猫:八舐め(短)。 ——外側=薄に寄る。
最後に、一行を書いた。 〈言葉は、角度ではなく位置で効く。——“解除”を“忘却”の位置に置かない〉
窓の外、堤の街灯が静かに円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、格子の上で短く舐め、音のない夜へ消えた。 紙は遅い。 だが、遅い紙に解除の言葉が正しく置かれたとき、遅い正しさは、町の底に静けさとして沈着する。 朝は、言葉から始まった。 明日は、丸の内側を測る。 鍵を回す前に、耳を開けたまま、言葉の位置を確かめる。 確かめた位置が、角度ではなく、深さで決まるように。
第三十章 丸の内側
朝は、内側から始まる。 地区センターの会議室。長机の上に、各公民館と診療所、学校から集まった用紙が重なっている。〈“なし”の日数〉の丸。その右に、小さな余白。 井原は、丸の内側に書かれた短い言葉を静かに拾っていった。 〈ねむれた/でも、みみはきく〉 〈あじがしない〉 〈こわいはへった〉 〈しずか〉 丸は増える。しかし、丸の内側には、まだ薄い線が残っている。
大庭が壁の「跡の地図」の端に、耳の小さな絵をいくつも貼った。 「“耳の丸”は、数字より先に町を撫でる」 彼は独り言のように言って、丸の内側に“眠れた時間”と“夜に起きた回数”を小さく書く欄を足した。丸が、時間を持ちはじめる。
南は、集計表に目を落とした。 「段階解除は続ける。——『耳は開けたまま』を、もう一行太くする」 白井は、末端AOFの列に新しい点を一つ置いた。 〈38→24→21→19→18→17→16 μg F/L(BG 14±3)〉 「数字は、丸の中へ入ってきている」
廊下の端で、桐生が笑顔の形で立っている。右の親指の付け根は、白い手袋越しにやはり薄く沈む。 「本日も——」 遥は頭だけで会釈し、言葉の続きを受け取らなかった。 言葉は、紙の内側に置くものだ。
***
午前、北嶺大学。 白井は、末端AOFの減衰曲線に最新点を結び、半減期の目盛りの上を指でなぞった。 「尾は、習慣の速度に寄る」 陰イオンの肩は、酢酸が背景の揺れに沈み、リン酸の薄い尾が紙の縁にだけ残る。 机の端の「町のカルテ」では、〈“なし”8〉の丸に、子どもの字で〈“ねむれたじかん 6h→7h”〉と書き足されていた。 「丸の内側が、時間を覚えた」
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港・保守統括室。 御影は「是正計画(恒久)」の余白に、次の行を足した。 〈倉庫A-3:床下遮断層(周辺延伸)/基礎打継ぎ目・二次注入〉〈搬出車両:帆布ドレンパン恒久化/洗浄盤=側溝系と切離し〉 桐生が印を落とす。角は少し欠ける。その上から御影の印が重なって、行は濃く沈む。
海藤は「公開抜取り」の記録を束ね、言った。 「午後、『二本目』をやる。——金属は嘘をつかない」 神谷が頷き、固定カメラの角度を確認する。パン・チルトは申請制、ログは三重保存。角度を、紙の中へ留めるために。
***
A-3。 注入止水の孔は固まり、差圧計はゼロを指し続ける。 二重の黄色い線と透明の細線が、昼の光を鈍く返す。介入痕は保護層の内側で、記録の形に変わった。 東出は床を軽く叩き、返りの厚みを聴く。 猫が黄色い線をまたぎ、格子の上に乗って、舌を八度、等間に置く。小さな間。九度目が、遅れて落ちた。 東出がメモに書く。 〈猫、九舐め(最後=遅)〉 「日常は、最後の**間(ま)**で測れる」
遥は、猫の尾の立ち方を目で覚え、ノートに描いた。 ——八の均等。 ——九の遅さ。 丸の内側に、短い矢印をひとつ書く。
***
待機帯。 仮設の洗浄盤は、午前に一度、午後に一度、小さな泡を立てた。 御影は道路管理の係と図面を覗き込み、鋼板の下に据える回収槽の恒久化案に赤鉛筆を置いた。 浦辺商事の担当者が、ドレンパンの縁の水滴を指で払って、運転手に言う。 「ここで止める。——外の線は、ここで折る」 神谷は側溝の隙間のセンサーのログを見て、微細な圧の沈みを確認した。 線は、紙の外でも、沈むことで紙へ戻る。
***
対岸アウトレットA/北橋脚下C。 護岸の陰のトラップの活性炭は、わずかに濡れて黒さを増しただけ。橋脚の根もとの小袋は、昼の呼吸を浅く飲み込んでいる。 遥は薄い油膜の戻り方を二度目に見て、ノートに短く書いた。 〈A=戻り緩(古)/C=戻り速(新)→弱化〉 白井に送る添付の端に、耳の印を小さく描いた。 耳は、丸の内側にいる。
***
午後、地区センター。 「段階解除(第1段)」の掲示の下で、小さな意見交換。 若い母親が言う。 「『解除』って聞くと、忘れそうになる。……でも、丸を描くのは好き」 大庭が頷いた。 「丸の内側に、自由欄を。——『きょうの音』『きょうの匂い』」 子どもの字で〈きょうのにおい=ない〉、隣に別の子の字で〈でも、あしたもきく〉。 丸は、内側を持ちはじめる。
真鍋詩織が掲示の端に立ち、白い四角の跡を思い出すように指でなぞった。 「声の倉庫は空。——跡は、紙の中へ」 遥はうなずき、声より先に置かれた丸の列を一緒に見た。
***
処分場。 田浦徹は、D-1の南京錠にそっと指を置き、赤いタグの「静」をもう一度なぞった。 匿名の封筒は、今日もない。代わりに、白い便箋が一枚。 〈“箱”をやめてくれて、ありがとう〉 差出人はない。筆圧は浅い。 田浦は、便箋を引き出しにしまわず、机の端に置いた。 「ありがとうは、紙の上で一番軽い言葉だ。……だから、遠くへ届く」
西根が戻ってきて、素手で帽子を握った。 「港、公開抜取り。——今日も『合う』」 「合うなら、合ったと紙に残せ」 田浦は短く言って、古い扇風機を止めた。風が止まると、静けさが立つ。
***
夕方、保守部材保管庫・公開抜取り(二本目)。 第三者立会い。固定角度。パン・チルトは申請のレンズ音を一度だけ鳴らして止まる。 御影が銀の小箱を開け、封印を摘み上げる。 刻印の深さ、バリの癖。 神谷が実体顕微鏡の下で照合し、白井が頷く。 「——合う」 井原が記録に“公開”を足し、桐生の印の角に、御影の印が重なる。 「二重は、割れにくい」 海藤は、今日いちばん小さい声で繰り返した。
公開の列の端に、猫が現れて、黄色い線の手前で座った。舌は出さない。目だけが“間”を測るように細い。 「猫、見る」 東出がメモに書いた。飲まない夜の前触れのように。
***
夜、旧桟橋。 接触マイクは鉄の喉に、ジオフォンは脚の根もとに。風は陸から海へ。 「二十一時〇九」 欄干がふっと太る。基底四十ヘルツ。——歯打ちは閾の下。 神谷が波形に薄い線を引き、白井が耳で確かめる。 「“なし”、継続」 遥はCY末端で、角度を同じにして九枚目の“なし”を置いた。 九枚目は、記録でも儀式でもなく、生活の底に置かれる小石の手触りがあった。
南ゲートの光は灯らない。駐車場の白線も静かだ。 若いIT職員が無線で告げる。 「GUESTなし。SSID外部、試行なし」 扉は叩かれない。夜は浅く、長い。
A-3の格子の上で、猫がゆっくりと息をし、舌を九度目にだけ短く出して、すぐに引っ込めた。 東出がメモに書く。 〈猫、九舐め(最後のみ)〉 舌は、内側にだけ触れた。
***
夜半、庁舎の小部屋。 井原は「段階解除(第1段)」の下に、次の欄を空けた。 〈“耳の丸”:集計=週次へ〉 〈“跡の地図”:公開=月次/会場=学校〉 〈外側三点:監視継続/洗浄盤恒久化=来週〉 海藤が立会い欄にサインし、御影の印が重なる。角は違うが、行の濃さは同じになった。
遥は余白に短く書く。 ——丸の内側に、時間。 ——耳は開けたまま。 ——猫の最後の“間”。
神谷の端末が小さく震えた。 〈末端速報=16 μg F/L 維持〉 〈北橋C=夜間微小変動/許容内〉 白井からも、短い文。 〈“なし”=九夜。……丸の内側、増〉
***
深夜、大学。 白井は「町のカルテ」に、小さな丸をひとつ足した。 〈“なし”9〉 その横に、老女のいつもの行。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じない静けさ——それが、丸の内側に残る最後の線だ。
彼女は最後に、自分のノートに一行を書いた。 〈“なし”は、丸の外側で数え、内側で育つ〉
***
宿。 神谷から波形。〈歯打ち=閾下/“なし”9〉。 御影から。〈抜取り(二本目)=問題なし/記録公開〉。 南から。〈掲示:『耳の丸=週次集計』へ〉。 井原から。〈“跡の地図”=学校掲示の段取り〉。
遥は紙を並べ直した。 ——丸の内側:眠れた時間/起きた回数。 ——末端AOF:16(BGに近接)。 ——音:薄。光:なし。——猫:九舐め(最後のみ)。 ——外側:弱化。
最後に、一行を書いた。 〈丸の内側は、角度では測れない。——時間と“間(ま)”で決まる〉
窓の外、堤の街灯が静かに円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度だけ見て、格子の上に顔を近づけ、舌を出さずに去った。 紙は遅い。 だが、遅い紙に内側が描かれたとき、遅い正しさは、町の底の生活に触れる。 朝は、内側から始まった。 明日は、手の行き先を確かめる。 鍵を回す前に、丸の内側で、指の温度を測る。 測った温度が、角度ではなく、深さのほうへ沈むように。





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