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光の墓標8

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月29日
  • 読了時間: 30分
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第三十一章 手の行き先

 朝は、指の温度から始まる。 市役所の小会議室。卓上の紙には「是正計画(運用)」の追補、見出しは二つ——〈受け渡し〉と〈返納〉。行の間に、薄い欄が増えている。〈だれの手〉〈どこへ〉〈いつ戻る〉。 井原が指で角をそろえ、言う。 「今日から、“手”にも行き先を」

 南が頷き、白井は「町のカルテ」から集計した〈耳の丸〉の表を隣に置いた。 数字の並びと、丸の並びは、もう互いの影を作り始めている。

 廊下の端で、桐生が笑顔の形を保ったまま入ってきた。白い手袋の右親指の付け根は、いつものように薄く沈む。 「本日は、受け渡し台帳の運用開始。——安全のために」 「言葉は台帳の内側に置いて」 遥が返し、席を勧めた。

 ***

 午前十時、港湾管理の応接。 御影、桐生、浦辺商事の担当者、委託警備会社の現場責任者、そして——野坂、木暮、三輪。 机の上に、薄いバインダーが三冊。〈手袋・鍵・封印(受け渡し/返納)〉。 御影が短く説明する。 「手袋は記名式に。鍵は二重記録。封印は『二色+透明』。——受け渡しは“誰の手”で“どこへ”。返納は“いつ”。“九分”は申請・立会い」 神谷が横で補足する。 「カメラは固定。パン・チルトは申請制ログ。GUEST枠は閉鎖のまま」

 委託警備の現場責任者が、声の置き場を探しながら言う。 「夜の“九分”は、インカムの合図で“点検”でした。『桐生さんのところから』と。——指示の名が、箱に入っていた」 芦原——監理課の名の入った覚書は、昨日の謝罪で紙に戻っている。 野坂が静かに付け足した。 「“角度”を合わせて、九分。……は、持たされました」 鍵の行は、今日から台帳の内側に移る。

 御影が手袋の箱を開け、油性ペンを置いた。 「今日から、自分の名を書く。——名入りの手でやる」 木暮と三輪は戸惑いながらも、掌に箱の紙の重さを確かめ、ゆっくり頷いた。 「“点検でーす”は、もう言わない」 海藤は、それだけを言った。

 桐生は笑顔の形を崩さず、印を落とした。角はやはり少し欠ける。 その印の隣に、御影の印が重なった。欠けない角。 重なった濃さは、今朝いちばん確かな影だった。

 ***

 A-3。 枡の上には、二重の黄色い線と透明の細線——介入痕が、記録のかたちで残る。内側は保護層に守られ、差圧の針はゼロに貼りついている。 受け渡し台が据えられ、箱が三つ置かれた。〈手袋〉〈鍵〉〈封印〉。 係員は手袋を受け取り、台帳の〈うけた手〉に記名し、鍵を受け取り、〈あずかった鍵〉に署名する。 返す時刻の欄は空欄のまま——が、まだ戻っていない証拠だ。

 東出は床を軽く叩き、厚い返りを聴いた。 猫が黄色い線をまたぎ、格子の上に乗る。舌を八度、等間に置き、小さな間ののちに九度目が遅れて落ちる。 〈猫、九舐め(最後=遅)〉 「最後の**間(ま)**が、安心の長さ」 東出はメモに書き、微笑んだ。

 桐生が遠巻きに立ち、チェックリストの「恒久」欄に印を落とす。角は少し欠ける。その上から御影の印が重なり、濃さは一つになった。 「“手”の行き先は、台帳の中」 海藤が低く言い、枡の保護層を一度撫でた。

 ***

 待機帯。 仮設の洗浄盤は、昼に一度、小さく泡を立てた。帆布のドレンパンは運転手の名と車番が貼られ、外の線は鋼板の上で折られる。 御影は道路管理の係と図を覗き込み、恒久化のボルト位置を決めた。 神谷は側溝の隙間のセンサーのログを確認し、微細な圧が沈む波形に小さな点を打った。 「沈む波は、紙に戻る」

 ***

 北嶺大学。 白井は、外側三点(A/B/C)の活性炭を開き、薄い匂いを嗅いだ。 A(古):微小。B(道路):減衰。C(橋):減衰。 「外も、薄に寄る」 机の端の「町のカルテ」では、〈“なし”9〉の丸に、子どもの字で〈おきたかいすう 0→0〉、老女の字で〈でも、みみはきく〉。 丸の内側が、生活の小さな単位を持ちはじめている。

 ***

 処分場。 田浦徹は、D-1の南京錠に触れ、赤いタグの「静」を一度なぞった。匿名の封筒は来ない。代わりに、昨日の便箋がそのまま机の端に置かれている。 西根が戻ってきて、素手で帽子を握った。 「港、台帳の運用開始。返納の行に時刻が入る」 「時刻は、手の跡だ」 田浦は短く言い、古い扇風機を止めた。風が止まると、静けさが立つ。

 ***

 午後、港湾管理・応接。 委託警備の現場責任者は、うつむき加減に言葉を置いた。 「“九分”の合図は、『角度を合わせろ』でした。——回数で評価がついたから」 芦原が小さく頭を下げた。 「“箱”を作り、合図を入れたのは私です。……紙に、戻しました」 海藤は短く頷き、台帳の〈教育〉欄に「角度→深さ」と書いた。 「合図は、深さに変える」

 遥は、机の端の印影を見た。桐生の印——角が欠ける。御影の印——欠けない。 重ねると、欠けが薄くなり、行は沈む。 「二重は、割れにくい」 心の中で繰り返し、ノートの端に小さく線を重ねた。

 ***

 夕方、地区センター。 掲示板の「跡の地図」に、〈受け渡し台帳〉の模様が一枚、加わった。 ——〈手袋(記名)〉〈鍵(番号)〉〈封印(番号)〉〈いつ〉〈だれ〉〈どこへ〉 大庭が耳のマークを一つ押し、子どもが自由欄に書く。 〈きょうのにおい=ない〉 〈きょうのねこ=みてた〉 老女は、いつもの行を足す。 〈でも、みみはきく〉 丸の内側に、耳が残る。

 真鍋詩織が端に立ち、白い四角の跡を思い出すように壁を指でなぞった。 「声の倉庫は空。——手の倉庫は、名で埋める」 遥はうなずき、掲示の隣に、薄い鉛筆で小さく書いた。 〈忘れないための解除/手の行き先=台帳〉

 ***

 夜、旧桟橋。 接触マイクは鉄の喉に、ジオフォンは脚の根もとに。風は陸から海へ。 「二十一時〇九」 欄干がふっと太る。基底四十ヘルツ。歯打ちは閾の下。 神谷が波形に薄い線を引き、白井が耳で確かめる。 「“なし”、継続」 遥はCY末端で、角度を同じにして十枚目の“なし”を置いた。 十枚目は、儀式ではなく、生活の底に置かれる小石そのものだった。

 南ゲートの光は灯らない。駐車場の白線も静かだ。 若いIT職員が無線で告げる。 「GUESTなし。SSID外部、試行なし」 扉は叩かれない。夜は浅く、長い。

 A-3の格子の上で、猫がゆっくりと息をし、舌を八度、九度、そして——十度目は出さなかった。 東出がメモに書く。 〈猫、九舐め(最後=見送り)〉 舌は、触れないことで、内側の静けさを示すときがある。

 ***

 夜半、庁舎の小部屋。 井原は「是正計画(運用)」の端に、小さな行を足した。 〈受け渡し台帳=公開範囲(週次)〉 〈“耳の丸”=週次集計〉 〈“跡の地図”=月次〉 海藤が立会い欄にサインし、御影の印が重なる。角は違うが、行の濃さは同じになる。

 遥は余白に短く書く。 ——手の行き先=台帳。 ——鍵は番号、手は名前。 ——猫の最後の“間”。

 そのとき、白井から短いメッセージ。 〈末端速報=16 μg F/L 維持/外側=弱化継続〉 神谷からも。 〈歯打ち=閾下(記録のみ)〉 数字と音は、丸の中へ沈み、は紙の内側へ沈む。

 ***

 深夜、大学。 白井は「町のカルテ」に、小さな丸をもうひとつ足した。 〈“なし”10〉 老女の字が、その横にいつもの一行を置く。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じない静けさ——それが、丸の内側に残る最後の線だ。

 彼女は、自分のノートに一行を書いた。 〈“手”は角度を作る。——台帳の中で、“手”は深さを作る〉

 ***

 宿。 神谷から波形。〈歯打ち=閾下/“なし”10〉。 御影から。〈台帳:初日運用完了/返納=全件時刻記入〉。 南から。〈掲示:“耳の丸(週次)”スタート〉。 井原から。〈“跡の地図”=学校掲示・準備〉。

 遥は紙を並べ直した。 ——受け渡し台帳:名入りの手。 ——鍵:返納時刻。 ——封印:二色+透明。 ——“なし”十夜。 ——猫:九舐め(最後=見送り)。

 最後に、一行を書いた。 〈“手”の行き先が紙に載ると、角度は薄れ、深さが残る。——深さは、日常の重さを支える〉

 窓の外、堤の街灯が静かに円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度だけ見て、格子の上に顔を近づけ、舌を出さずに去った。 紙は遅い。 だが、遅い紙に手の行き先が書かれたとき、遅い正しさは、町の底で長く働く。 朝は、指の温度から始まった。 明日は、跡の更新を——地図の上で。 鍵を回す前に、名入りの手で、白の内側を押さえる。 押さえた場所が、角度ではなく、静けさの位置であるように。


第三十二章 跡の更新

 朝は、更新から始まる。 市役所の展示室。壁一面の掲示に、薄いグレーの枠で囲われた大判の地図が新しく貼られた。題は——〈跡の地図/第1版・更新〉。 左には「港内」の層——“なし”の水面写真が同じ角度で十枚、右肩下がりのAOFの点、基底40Hzだけを残した薄い波形。右には「港外」の層——対岸A/待機帯B/北橋Cのトラップの小さな記号と、減衰の矢印。中央に「耳の丸(週次集計)」の欄。丸の中に、小さな言葉。〈ねむれた〉〈あじがしない〉〈こわいはへった〉〈でも、みみはきく〉。 井原は端を指で押さえ、静かに言った。 「跡は、薄くなる。——薄くなった跡を、残し方で更新する」

 南が頷く。 「“段階解除(第1段)”は継続。掲示は縮小しながら、耳の丸を太く」 白井は新しい点を一つ、列に置いた。 〈末端AOF:38→24→21→19→18→17→16→15 μg F/L(BG 14±3)〉 「数字は、丸の中へさらに寄ってきた」

 廊下の端で桐生が笑顔の形で立ち、白い手袋の右親指の付け根を薄く沈めた。 「本日も、安全のために」 「言葉は、地図の内側に置いて」 遥は、印影の角が欠けた小さな朱を、目だけで確認してから、展示に目を戻した。

 ***

 午前、北嶺大学。 白井は、外側三点の活性炭から抽出した小瓶を並べ、陰イオンの薄い肩を照らした。 ——No.18(対岸A):微小・横ばい。 ——No.19(待機帯B):減衰継続。 ——No.20(北橋C):減衰継続。 「“外”は、忘れやすい。だから、更新で思い出させる」 机の端の「町のカルテ」には、子どもの字で〈“なし”11〉、老女の字で〈でも、みみはきく〉。 耳を閉じない静けさが、丸の中に小さく呼吸している。

 ***

 港・保守統括室。 御影は「是正計画(恒久)」に赤鉛筆で印を足した。 〈床下遮断層:A-3周辺→A-2境界まで延伸(来週)〉 〈洗浄盤:恒久設置・側溝系と切離し(本日夕)〉 〈受け渡し台帳:週次公開の範囲拡大〉 桐生が印を落とす。角は少し欠ける。その上から御影の印が重なって、行は沈む。 「二重は、割れにくい」 海藤が低く言い、御影は短くうなずいた。

 ***

 A-3。 二重の黄色い線と透明の細線——介入痕は、保護層に守られて昼の光を鈍く返す。差圧計はゼロのまま。 受け渡し台の三つの箱(〈手袋〉〈鍵〉〈封印〉)の前に、細い列。 係員は手袋に名を書き、鍵の番号を台帳に写し、返納予定の時刻を空欄の横に仮で置く。 「空欄は、戻る気配だ」 東出が呟き、床を軽く叩く。返りは厚く、浅い。

 猫が黄色い線をまたぎ、格子の上に乗り、舌を八度、九度——そして十度目は顔を近づけただけで出さず、尾をゆるく立てて去った。 〈猫、見送り(呼吸=浅)〉 東出のメモの字は小さく、軽い。

 ***

 待機帯。 仮設だった洗浄盤が、午後からの恒久設置に向けて持ち上げられ、下に新しい回収槽が据えられた。鋼板の縁に「道路系と切離し」の赤い文字。 御影は道路管理の係とボルト間隔を数え、浦辺商事の担当者は帆布のドレンパンに運転手の名札を差し直した。 神谷は側溝の隙間に忍ばせたセンサーのログを見て、微細な圧が沈む波形に小さな点を打つ。 「外側の線は、ここで折れる。——折れた先は、受け皿

 ***

 対岸アウトレットA/北橋脚下C。 護岸の陰のトラップは静かに濡れ、橋脚の根もとの小袋は昼の呼吸を浅く飲み込むだけ。 遥は薄い油膜の戻り方を見て、ノートに短く書いた。 〈A=戻り緩(古)/C=戻り速(新)→ともに弱化〉 「跡は、ゆっくり薄くなる。——薄くなる速さも、地図に載せる」

 ***

 処分場。 田浦徹は、D-1の南京錠に触れ、赤いタグの「静」をもう一度なぞった。匿名の封筒は、今日もない。代わりに、先日の便箋がまだ机の端にある。 西根が戻ってきて、素手で帽子を握った。 「港、洗浄盤の恒久。——線は折れた」 「折れ目は、跡になる。……跡の更新に、入る」 田浦は短く言い、古い扇風機を止めた。風が止まると、静けさが立つ。

 ***

 午後、学校の理科室。 「跡の地図」が縮刷され、掲示板の横に貼られた。子どもたちの目の高さ。 大庭と白井が並び、簡単なワークシートを配る。 〈“きょうの音”〉〈“きょうのにおい”〉〈“ねむれた時間”〉〈“起きた回数”〉——丸の内側を、子どもの手で埋める練習。 「耳の丸は、地図の最新の層です」 白井が言うと、子どもが手を挙げた。 「“ねむれた”って、どうして描くの?」 大庭は笑わずに答えた。 「忘れないために、描くんだよ」 黒板の端に、小さな丸がひとつ、チョークで描き足された。

 廊下を歩く真鍋詩織は、掲示の前で立ち止まり、白い四角の跡ではなく、色のある丸の列に指を添えた。 「声の倉庫は空。——地図は、耳で埋まる」 彼女は小さく言い、職員室へ渡す封筒を胸に押し当てた。

 ***

 夕方、庁舎の展示室。 〈跡の地図/第1版・更新〉の隣に、薄い透明のポケットが増えた。〈最新の“耳の丸”(週次)〉〈受け渡し台帳(週次公開)〉〈洗浄盤・回収ログ〉。 井原がラベルを貼り、南が紙を差し込み、神谷がQRの小さなプレートを置く。 「角度は閉じ、更新は開く」 海藤が言って、御影は短くうなずいた。

 桐生は笑顔の形のまま、印を落とした。角はやはり少し欠ける。 その隣に御影の印が重なり、濃さはひとつになった。 「二重は、割れにくい」 遥は心の中で繰り返し、印影の上に視線を置いた。

***

 夜、旧桟橋。 接触マイクは鉄の喉に、ジオフォンは脚の根もとに。風は陸から海へ。「二十一時〇九」 欄干がふっと太る。基底四十ヘルツ。——歯打ちは閾の下。 神谷が波形に薄い線を引き、白井が耳で確かめる。 「“なし”、継続」 遥はCY末端で、角度を同じにして十一枚目の“なし”を置いた。 “なし”は、儀式ではなく、地図の更新の単位になっていた。

 南ゲートの光は灯らない。駐車場の白線も静かだ。 若いIT職員が無線で告げる。 「GUESTなし。SSID外部、試行なし」 扉は叩かれない。夜は浅く、長い。

 A-3の格子の上で、猫が息を整え、顔を近づけ、舌を出さずに去った。 東出がメモに書く。 〈猫、見送り(間=長)〉 舌が触れないこと——それもまた、内側の静けさの証になる。

 ***

 夜半、庁舎の小部屋。 井原は「跡の地図/第1版・更新」の端に、小さな行を足した。 〈次回更新:一か月後/“耳の丸”は週次で差替〉 〈外側三点:監視継続/洗浄盤=恒久運用〉 海藤が立会い欄にサインし、御影の印が重なる。角は違うが、行の濃さは同じだ。 「紙は遅い。——でも、更新で遅さに節をつける」 遥はうなずき、余白に小さく耳の印を一つ描いた。

 神谷の端末が小さく震えた。 〈末端速報=15 μg F/L 維持〉 白井からも。 〈北橋C:微小変動/許容内〉 数字と音は、丸の中へ沈み、地図の上で薄く呼吸を続ける。

 ***

 深夜、大学。 白井は「町のカルテ」に小さな丸を足した。 〈“なし”11〉 老女のいつもの行が、その横に置かれる。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じない静けさ——それは、更新される日常の稽古だ。

 白井はノートに一行書く。 〈跡の地図は、薄くなる速度を記録する〉

 ***

 宿。 神谷から波形。〈歯打ち=閾下/“なし”11〉。 御影から。〈洗浄盤=恒久設置完了/側溝系と切離し〉。 南から。〈掲示:更新版掲出/“耳の丸”差替〉。 井原から。〈受け渡し台帳=週次公開開始〉。

 遥は紙を並べ直した。 ——跡の地図(更新):港内=“なし”十→十一/外側=弱化。 ——末端AOF:16→15。 ——音:薄。光:なし。 ——洗浄盤:恒久。 ——猫:見送り(間=長)。

 最後に、一行を書いた。 〈更新は、角度ではなく、薄さの速度で行う。——速度が日常を支える〉

 窓の外、堤の街灯が静かに円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度だけ見て、格子の上に顔を近づけ、舌を出さずに去った。 紙は遅い。 だが、遅い紙に更新という節目がつくとき、遅い正しさは、町の底で長く続く呼吸になる。 朝は、更新から始まった。 明日は、深さの配分を考える。 鍵を回す前に、薄くなる速さを、耳と紙で合わせる。 合わせた速さが、角度ではなく、静けさの拍子になるように。


第三十三章 深さの配分

 朝は、配分表から始まる。 市役所の展示室脇の打合せスペース。白いボードに五つの欄が引かれ、上から〈水〉〈音〉〈色〉〈耳〉〈紙〉——矢印はそれぞれ、責任と頻度と公開を示す細い線で結ばれている。 井原がペン先で項目を置いた。 〈水=数値(AOF・陰イオン)/頻度:週→隔週(背景域近接時)/公開:月次〉 〈音=基底40Hz・歯打ち/頻度:毎夜/公開:週次〉 〈色=封印破断・介入痕/頻度:常時/公開:即時〉 〈耳=“丸”と自由欄/頻度:週次/公開:掲示〉 〈紙=台帳・協定・是正計画/頻度:改訂時/公開:版管理〉

 南が頷く。 「“水”は背景域に入ったら隔週へ。その分、“耳”と“紙”を太く」 白井は数字の列に新しい点を置いた。 〈末端AOF:38→24→21→19→18→17→16→15→**15 μg F/L(BG 14±3)〉 「きょうは維持。——薄くなる速度は、耳の丸で支える」

 海藤が最後の欄にさらりと書き足した。 〈廃パネル対策=搬出ルート認証/破砕前の封水・ガス捕集義務/“受け渡し台帳”連動〉 「深さは、現場と制度の分け方でもある」

 廊下の端で、桐生が笑顔の形で立ち、右の親指の付け根を白い布越しに薄く沈めた。 「本日も——」 遥は軽く会釈して、ボードの〈紙〉の欄を指で押さえた。 「言葉は、その内側に」

 ***

 北嶺大学。 白井は、外側三点(対岸A/待機帯B/北橋C)の活性炭を開き、標準液の肩を確かめてから薄い抽出を流した。 ——A:微小・横ばい。 ——B:減衰。 ——C:減衰。 「“外”は忘れやすい。——だから、配分で残す」 机の端の「町のカルテ」には、〈“なし”11〉と並んで、子どもの字で〈“ねむれた 7h→7.5h”〉、老女の字で〈でも、みみはきく〉。 丸の内側に、時間がまだ増えている。

 ***

 港・保守統括室。 御影は新しい紙片を机に広げた。 〈搬出ルート認証(仮)〉 ——運転手名・車番・帆布ドレン・洗浄盤通過時刻を台帳に自動連係。 〈破砕前処理〉 ——“封水”と“捕集”を工程票に。違反時は受入れ停止。 桐生が印を落とす。角は少し欠ける。その上に御影の印が重なり、濃さは沈んだ。 「二重は、割れにくい」 海藤が低く言い、御影は短くうなずく。 「深さは、一枚で足りない」

 ***

 A-3。 二重の黄色い線と透明の細線——介入痕は保護層の下で昼の光を鈍く返し、差圧計はゼロのまま。 受け渡し台の三つの箱(〈手袋〉〈鍵〉〈封印〉)の前で、係員が名を書き、番号を書き、返納予定の欄に薄い鉛筆で時刻を置く。 東出は床を軽く叩き、厚い返りを聴く。 猫が黄色い線をまたぎ、格子の上で舌を八度、九度——十度目は顔だけ近づけ、出さない。 〈猫、見送り(間=短)〉 「“飲まない”は、“怖い”じゃない」 東出がメモに書いて、少し笑った。 「“いまは、要らない”の合図だ」

 ***

 待機帯。 仮設だった洗浄盤は午後に恒久設置へ移行し、側溝系から独立した回収槽に結ばれた。鋼板の縁には新しいラベル。〈道路系と切離し〉。 浦辺商事の担当者はドレンパンの縁を指で払い、運転手に言った。 「ここで止める。ここまでが運転手の線」 神谷は側溝の隙間のセンサーのログに小さな点を足す。微細な圧は、沈みのまま。 「外側の線は、受け皿で折る」

 ***

 道路管理事務所・会議室。 協定の追補。 〈洗浄盤=恒久化〉〈帆布ドレン=運用規程〉〈側溝B=港と共同監視〉。 井原が最後に短く言う。 「線のも、深さを分ける」

 ***

 処分場。 田浦徹は、D-1の南京錠に短く触れ、赤いタグの「静」を一度なぞった。 匿名の封筒は、やはり来ない。代わりに、先日の便箋がそのまま机の端にある。 西根が戻ってきて、素手で帽子を握った。 「港、搬出ルート認証の案」 「の行き先を、道にも書くわけだ」 田浦は古い扇風機を止め、窓の外の黒い丘に低い呼吸を聴いた。 「音は静。——紙は重」

 ***

 午後、学校の理科室。 白井と大庭は「耳の丸」の配分表を子どもたちに配った。 〈“きょうの音”〉〈“きょうのにおい”〉〈“ねむれた時間”〉〈“きょうの気づき”〉 「“気づき”は、の深さ」 大庭が言うと、黒板の端に小さな丸が増え、〈あじがしない〉〈ねむれた〉に混じって、〈きょうはなんもかんがえなかった〉という字がひとつ。 白井は笑わずにうなずいた。 「それも、配分

 廊下を歩く真鍋詩織は、掲示の前で立ち止まり、白い四角の跡ではなく、色のある丸の列に指を添えた。 「声の倉庫は空。——が埋める」

 ***

 夕方、展示室。 〈跡の地図/第1版・更新〉の隣のポケットに、新しい紙が差し込まれた。 〈深さの配分(案)〉 ——:隔週(背景域近接時)/:毎夜/:常時/:週次/:改訂時。 ——責任:大学・港湾・道路・町の三者+市。 ——公開:月次/週次/即時。 海藤が言う。 「数字は減らすのではなく、節をつける。——そのぶん、『耳』と『紙』で深く」

 桐生は笑顔の形のまま、印を落とした。角は少し欠ける。 御影の印が重なり、濃さはひとつになった。 「二重は、割れにくい」 遥は心の中で繰り返し、印影の上に視線を置いた。

 ***

 夜、旧桟橋。 接触マイクは鉄の喉に、ジオフォンは脚の根もとに。風は陸から海へ。 「二十一時〇九」 欄干がふっと太る。基底四十ヘルツ。——歯打ちは閾の下。 神谷が波形に薄い線を引き、白井が耳で確かめる。 「“なし”、継続」 遥はCY末端で、角度を同じにして十二枚目の“なし”を置いた。 “なし”は儀式ではなく、配分された夜の仕事になっていた。

 南ゲートの光は灯らない。駐車場の白線も静かだ。 若いIT職員が無線で告げる。 「GUESTなし。SSID外部、試行なし」 扉は叩かれない。夜は浅く、長い。

 A-3の格子の上で、猫は顔だけ近づけ、舌を出さないまま尾を立てて去った。 東出がメモに書く。 〈猫、見送り(間=均)〉 触れない静けさが、底に残る。

 ***

 夜半、庁舎の小部屋。 井原は「深さの配分(案)」の端に小さな欄を足した。 〈条例素案:搬出ルート認証/破砕前の封水・捕集/“受け渡し台帳”の準用〉 〈“耳の丸”=週次集計〉〈“跡の地図”=月次〉 海藤が立会い欄に署名し、御影の印が重なる。角は違うが、行の濃さは同じになった。 「深さを分けるほど、重さは分散する」 遥は余白に小さく耳の印をひとつ描いた。

 神谷の端末が小さく震えた。 〈末端速報=14 μg F/L〉 白井からも短い文。 〈背景域と重なる。——“耳”で支える〉 数字は丸の中へ入り、が外側を支えた。

 ***

 深夜、大学。 白井は「町のカルテ」に小さな丸を足した。 〈“なし”12〉 隣に、老女のいつもの一行。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じない静けさ——それが、配分のに敷かれる布だ。

 白井はノートに一行書く。 〈深さは、数や角度ではなく、分け方で決まる〉

 ***

 宿。 神谷から波形。〈歯打ち=閾下/“なし”12〉。 御影から。〈洗浄盤=恒久運用開始/搬出ルート認証=試行〉。 南から。〈掲示:“深さの配分(案)”掲出〉。 井原から。〈条例素案=来週の委員会へ〉。

 遥は紙を並べ直した。 ——深さの配分:水/音/色/耳/紙。 ——末端AOF:15→14(背景域)。 ——音:薄。光:なし。 ——猫:触れない静けさ。 ——外側:減衰。

 最後に、一行を書いた。 〈深さを分けると、夜は軽くなる。——軽くなった夜が、日常の底を支える〉

 窓の外、堤の街灯が静かに円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度だけ見て、格子の上に顔を近づけ、舌を出さずに去った。 紙は遅い。 だが、遅い紙に深さの配分が描かれたとき、遅い正しさは、町の底に等しく降りる。 朝は、配分表から始まった。 明日は、底の重さを量る。 鍵を回す前に、耳と紙で、静けさの分量を合わせる。 合わせた分量が、角度ではなく、生活になるように。


第三十四章 底の重さ

 朝は、底から始まる。 市役所の小さな測定室。前夜に神谷が整えた二枚のボードが壁に立てかけられていた。一枚は「」の曲線、もう一枚は「」の計画。 〈水:末端AOF=背景域近接〉〈音:歯打ち閾下〉〈光:門の反応なし〉。 その横に、今日の行程が並ぶ。 〈S-1:旧桟橋下・脚根(コア)〉〈S-2:CY末端直下(コア)〉〈S-3:対岸護岸陰(コア)〉〈S-4:洗浄盤回収槽・沈降泥(スラッジ)〉。 水ではなく、を採る。薄くなっていく流れの、その底に、どれだけの“過去”が沈んだままいるのか——“底の重さ”を量る日だ。

 井原がホワイトボードに赤いペンで枠を足した。 〈公開:要旨(図・写真)を“跡の地図”に追加〉 〈採取:第三者立会い/角度固定〉 〈処理:大学で分画。AOFは“間接指標”と明記〉 「水は浅いが、底は遅い。——遅さを、で見せよう」 南が頷き、日程票に承認印を置いた。朱はいつもの色だが、角は欠けていない。

 廊下の端で、桐生が笑顔の形で立っている。白い手袋の右親指の付け根は、今日もわずかに沈む。 「本日も、安全のために」 遥は会釈だけを返し、視線をボードに戻した。言葉は、紙の内側に置く。

 ***

 午前九時半。旧桟橋。 風は陸から海へ、夜の残り香をゆっくり押し出している。欄干の鉄は、基底四十ヘルツだけを喉に残し、歯打ちは影の下に沈んだまま。 白井と神谷が小さなフォール式のコアラーを組み立てる。黒い塩ビの透明チューブに、底弁のゴムと、最上部のベント。水の抵抗で泥を“切り取る”道具だ。 「角度は固定」 神谷が三脚に小型カメラを据え、パン・チルトの申請書をクリップで留めた。海藤が横で、第三者立会いの札をフェンスに結ぶ。 東出は足もとを見て、板のたわみの癖を一度踏み、体重の置き場を決める。 「S-1、落す」 白井の合図。チューブが水面に触れ、透明な柱の中に、灰緑の水が上がる。さらに数十センチ沈み、底に到達する感触——柔らかい弾力、続いて重い停滞。 白井がベントを指で押さえ、引き上げる。底弁が吸い込んだ泥は逃げない。 東出が手元へ引き寄せ、チューブの下端をゴムキャップで封じ、上弁を閉じる。 「コア長、三十三センチ」 神谷が声にして書く。 透明チューブの中で、色が縞になっている。上部の五センチは薄い灰、次の十センチに淡い褐。さらに下に、黒に近い層が二本、細く走る。 白井がマーカーでチューブに印を打つ。〈S-1/0–5:灰〉〈5–15:淡褐〉〈15–33:暗〉。 鼻を近づけた神谷が言う。 「新しい方の層はヨードと鉄が強い。下は——甘く酸っぱい接着の匂いがうっすら」 白井が短く頷く。 「“尾”が、まだ生きている」 猫が欄干に現れ、細い影を跨いで板の上を歩き、チューブを一度だけ嗅いで、舌を出さずに去った。

 ***

 十時二十分。CY末端。 格子の下で、薄い“なし”の水面が天井の鉄骨を揺らしながら映す。黄色い二重線と透明の細線——介入痕は保護層に守られ、昼の光を鈍く返す。 「S-2、落す」 白井が合図。チューブが格子の間を抜け、底へ。 触れた瞬間、旧桟橋より軟らかい。沈み込みは深く、引き上げた柱の中には、上から下まで淡灰の帯が均一に立ち上がる。 「コア長、二十八センチ。——層差、」 神谷が書き、白井は目盛りの横に小さな丸を付ける。 「匂いは?」 「無臭に近い。上五センチに海藻の浅い尾。下は沈黙」 東出が笑わずに言い足す。 「沈黙は、悪くない」

 ***

 十一時十分。対岸護岸陰。 護岸の割れ目の奥に、浅い淀み。夏の名残の藻が薄くからみつく。 「S-3」 チューブは短い抵抗ののち、重たい砂に当たって止まった。 「コア長、十四センチ」 白井は肩をすくめ、しかし目だけは明るい。背景の基準が欲しかった。 上層に薄い褐、下に砂が混じる。匂いは——

 ***

 正午。待機帯・洗浄盤の回収槽。 恒久設置の回収槽の縁に、赤い文字「道路系と切離し」。水面に薄い白い泡がひとつ、弾けて消える。 白井は柄杓で沈降した細泥をすくい、瓶に分けた。 「S-4(スラッジ)」 神谷がラベルを貼る。〈S-4/回収槽/回〉 御影がボルトの頭を一つずつ撫で、道路管理の係と目配せをする。 「ここで折る。——の線は、ここで終わる」

 浦辺商事の担当者が、帆布のドレンパンに新しい運転手名札を差し込むのを、東出が横目で見ていた。 「名前が、先に落ちる仕組みだ」 御影が応じ、軽く笑った。 「先に落ちる名前は、底を軽くする」

 ***

 午後一時。大学の前処理室。 銀色の遠心機が一斉に吠え、透明なカップの底に薄い層が輪になって沈む。S-1、S-2、S-3の泥は、分画にかけられていく。 白井はまず間隙水(泥の間に閉じ込められた水)を低速で引き、上澄みの導電率とpHを短く読む。 「S-1:導電率高/pH弱酸性。S-2:導電率低/pH中性寄り。S-3:砂の呼吸」 神谷が波形のようにメモ欄に線を引く。 続けて、簡易抽出——淡いアルコール/水の比で泥を撹拌し、AOFの一次目安を立てる。 「数字は、指標。——“全部”ではない」 白井が自分に言うように繰り返し、ラベルの端に〈ind.〉と小さく書いた。 匂いは顕微鏡には映らないが、には書ける。 S-1の下層は、古い鉄の黒に混じって、ごく薄い接着の甘さを残した。S-2は上も下も静か。S-3は土のまま。 白井は記録に丸を一つ足した。 〈S-1:尾、わずか〉〈S-2:静〉〈S-3:土〉〈S-4:工業的匂い→回収槽に閉じ込め〉 「底の重さは、匂いの層でも量れる」

 ***

 同じ頃、庁舎の展示室。 「跡の地図(更新)」の隣の透明ポケットに、〈底の重さ(速報)〉の一枚が差し込まれた。 ——S-1(旧桟橋):上層=薄灰(静)/中層=淡褐(遷移)/下層=暗(過去の尾) ——S-2(末端):淡灰(均)=静 ——S-3(対岸):砂(土) ——S-4(洗浄盤):白泡→回収槽に閉じ込め 写真は、透明チューブの縞をそのまま映した。数字は後から。まず見た形で出す。

 大庭が掲示の前で立ち止まり、耳の丸の欄に小さく書く。 〈“ねむれた 7.5h→8h”〉 子どもが隣で「きょうの音=ない」と書き、さらに「きょうの気づき=“みない”もみること」と続けた。 井原がその行を読み、頷いた。 「“みない”も、配分

 真鍋詩織は掲示の端で、白い四角の跡ではなく、透明チューブに閉じ込められた泥の色の層をじっと見ていた。 「声の倉庫は空。——が喋る」

***

 午後三時。監理課・条例素案の打合せ。 井原、南、御影、海藤、道路管理の係、そして芦原。机の上には、薄い灰の表紙「条例素案」。 〈搬出ルート認証(試行→本運用)〉〈破砕前の封水・捕集の義務化〉〈受け渡し台帳の準用〉〈“九分”の申請・立会い・録画保存の義務〉〈公開抜取り・公開監査〉。 芦原が低く言った。 「“箱”は、作らない。——に、名前を置く」 御影が短く頷き、海藤が「二重」を指で示す。 「二重は、割れにくい」 南が最後に一行を足した。〈“耳の丸”=市の記録として保存〉 紙は遅い。——遅い紙に、が貼られる。

 廊下に出ると、桐生が笑顔の形で立っていた。右の親指の付け根は、相変わらずわずかに沈む。 「本日も——」 井原は軽く会釈し、印影の角が欠けた小さな朱を見てから、言葉を一つだけ置いた。 「印は重さではなく、位置です」 桐生は笑顔のまま黙り、帳面を閉じた。

 ***

 処分場。 田浦徹は、D-1の南京錠に触れ、赤いタグの「静」をもう一度なぞる。 匿名の封筒はやはり来ない。先日の便箋が、机の端に残っている。 〈“箱”をやめてくれて、ありがとう〉 彼は便箋の紙の薄さを、人差し指でそっと押し、声には出さずに言った。 「ありがとうは、軽い。——だから、まで届く」 西根が戻り、「港は静」とだけ報告した。 「静は、仕事だ」 田浦は扇風機を止め、静けさを上書きした。

 ***

 夕方。大学・結果の第一報。 白井はS-1〜S-3の間隙水のAOF速報を出し、遥に送った。 〈S-1下層:背景+わずか〉〈S-2:背景域〉〈S-3:背景〉 メールの末尾に一行。 〈“水”は浅く、“底”は遅い。——遅いは、残るではなく、薄くなる速度の形〉 神谷が写真を整え、透明チューブの縞を見せる図版に矢羽を加えた。 上へ行くほど薄い。——“なし”の連夜が、縞の上に時間の勾配を作っている。

 ***

 夜。旧桟橋。 接触マイクが鉄の喉に貼りつき、ジオフォンが脚の根もとに沈む。風は陸から海へ。波形の線は薄く、歯打ちは影の下。 「二十一時〇九」 欄干がふっと太る。——基底四十ヘルツの脈拍だ。 神谷が波形に細い線を引き、白井が耳で確かめる。 「“なし”、継続」 遥はCY末端で、角度を同じにして十二枚目に続く、**十三枚目の“なし”**を置いた。 “なし”は儀式でも確認でもなく、更新の拍子になっている。

 南ゲートは静かだ。駐車場の白線も静かだ。 若いIT職員が無線で告げる。 「GUESTなし。SSID外部、試行なし」 扉は叩かれない。夜は浅く、長い。

 A-3の格子の上で、猫が静かに座り、顔を近づけて、舌を出さなかった。 東出がメモに書く。 〈猫、見守り〉 「触れない見守りは、を軽くする」

 ***

 夜半。庁舎の小部屋。 井原は「跡の地図」の端に、〈底の重さ(第1報)〉の小さな見出しを貼り、透明チューブの写真の下に短いキャプションを置いた。 〈上ほど薄い=“なし”の時間〉〈下に残る尾=“過去”〉〈尾は薄くなる=“遅さの速度”〉 海藤が立会い欄にサインし、御影の印が重なる。角は違うが、行の濃さは同じだ。 「重さは、数字より先に、で伝わる」 遥は余白に耳の小さな印を一つ描き、丸の欄に〈“なし”13〉と書き足した。

 神谷の端末が小さく震えた。 〈末端速報=14 μg F/L 維持〉 白井から。 〈S-1下層:尾、わずか(図版化)〉 数字は丸の中へ入り、は紙の上で形を保つ。

 ***

 深夜。大学。 白井は卓上のノートに一行を書いた。 〈は、終わりの場所ではない。——薄くなる速度を置く場所〉 机の端の「町のカルテ」には、小さな丸がもう一つ増えていた。 〈“なし”13〉 隣に、老女のいつもの一行。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じない静けさ——それが、底の重さを軽く見せる

 ***

 宿。 神谷から波形。〈歯打ち=閾下/“なし”13〉。 御影から。〈洗浄盤=恒久稼働/台帳:受け渡し・返納、全件記入〉。 南から。〈掲示:底の重さ(速報)掲出〉。 井原から。〈条例素案:委員会日程確定〉。

 遥は紙を並べ直した。 ——S-1:層(上=薄/下=尾わずか) ——S-2:均(静) ——S-3:土 ——S-4:閉じ込め(回収槽) ——末端AOF:14–15(背景域) ——音:薄/光:なし ——猫:見守り(触れず)

 最後に、一行を書いた。 〈底の重さは、角度では測れない。——と**間(ま)**と、遅さの速度で量る〉

 窓の外、堤の街灯が静かに円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度だけ見て、格子の上に顔を近づけ、舌を出さずに去った。 紙は遅い。 だが、遅い紙にの層が貼られたとき、遅い正しさは、町の底で長く軽く呼吸する。 朝は、底から始まった。 明日は、線の続柄——港の内の線と外の線が、どこで親戚になるのかを図にする。 鍵を回す前に、層の上に指を置く。 置いた指の温度が、角度ではなく、深さへ静かに沈むように。


第三十五章 線の続柄(けいず)

 朝は、系図から始まる。 市役所の展示室脇の小部屋。壁には三枚の透明ボードが並び、上から薄い文字が置かれていた。〈内線(港の内)〉〈外線(道路・運河)〉〈古線(廃止・旧吐け)〉。矢印は細く、交点には小さな丸。端に二つの欄——〈音の系図〉〈水の系図〉。 井原がペン先で日程を確かめる。 〈午前:音の系図=空気パルス試験(申請・立会い)〉 〈午後:水の系図=塩脈トレース(閉回路内のみ)〉 〈夕刻:系図の合成→掲示〉 「親戚を、紙に戻す。——“内”と“外”、そして“古”の続柄

 南がうなずき、承認印を押す。朱はいつもの色、角は欠けていない。 海藤は“パン・チルト申請制”“第三者立会い”の札を重ね、固定角の小型カメラを箱に戻した。 「角度は閉じる。——だけ通す」

 廊下の端で、桐生が笑顔の形で立っている。白い手袋の右親指の付け根は、今日も薄く沈む。 「本日も、安全のために」 遥は軽く会釈し、紙の内側へ視線を戻した。

 ***

 午前九時。A-3。 二重の黄色い線と透明の細線——介入痕は保護層の下で光を鈍く返し、差圧計はゼロに貼りついている。 御影が台帳を開き、〈止水仮解除(局所)〉の欄に申請番号と時刻を書き込んだ。第三者立会いの札。パン・チルトは“申請済”に切り替わり、固定角のカメラが小さく赤い点を灯す。 神谷が「空気パルス器(携行)」を持ち上げる。手のひら大のピストンと逆止弁、圧のピークを記録する小さな圧電。 「一秒、三回。——音の家系を起こす」 東出が金網の陰にジオフォンを沈め、旧桟橋とCY末端、港外のB・Cには若い職員たちがハンドマイクを持って散った。

 合図。 トン、トン、トン。 A-3の枡の中で空気が短く跳ね、管の奥へ脈が走る。 旧桟橋の欄干の根で、神谷の波形に小さな峰が立つ。到達0.83秒。 CY末端の格子の下で、遥の耳が浅い返りを拾う。到達1.15秒。 北橋脚Cの護岸の根で、若い職員のハンドマイクが、ごく薄い揺れを二拍分遅れて捕まえる。到達2.44秒。 待機帯Bの側溝は、沈黙。 東出が低く言う。 「Bは切れてる。洗浄盤の折りで途切れた」

 御影が台帳に小さく丸を置き、海藤がまとめて読む。 「=A-3 → 長子=旧桟橋 → 次子=CY末端 → 古い従兄=北橋C(細)/縁切り=待機帯B」 遥は余白に矢印を描きながら、心の中で置き換える。 ——親子関係は、圧の返りで決まる。

 続けて、旧桟橋側からの逆向きパルス。 トン、トン。 旧桟橋→A-3(0.88秒)→CY末端(1.22秒)。北橋Cは不在、Bは沈黙。 「桟橋—A-3—CYが“本家”。——Cは古家の枝、Bは今は養子解消」 神谷のメモは、家系図の枝振りのように整理される。

 ***

 午前十一時。港外・北橋C。 橋脚の根もと。若い職員がジオフォンを置き、神谷が軽いパルス器で橋側から打つ。 トン。 C→旧桟橋(3.01秒)に、かすかな返り。A-3、CY末端は応答なし。 白井が小さく頷く。 「Cは“古線”。——港の外孫

 ***

 正午。待機帯B・洗浄盤。 恒久化した鋼板の縁に「道路系と切離し」。回収槽の水面は静かで、微細な泡が音もなく消える。 神谷がB側溝へパルスを入れる。トン。 応答なし。 御影が道路管理の係と目を合わせ、ラベルの端を指で押さえる。 「縁切り、確認」 海藤が短く言い、台帳の〈縁切り〉欄に初めて丸が置かれた。

 ***

 午後一時。水の系図。 「塩は内側だけだ」 白井が念を押す。使うのは少量の食塩溶液と電極。閉じた系で脈を見、外へは出さない。 A-3の枡内——止水は生かしたまま、閉じた試験ループに数滴の塩。 旧桟橋の脚元で導電率の線が小さく揺れ、CY末端でも緩く反応。北橋C、待機帯Bは変化なし。 「水の家系も“本家”のまま」 白井が小さく息を吐き、記録に〈A-3→桟橋→CY〉と細い矢印を重ねた。

 続いて、洗浄盤の回収槽へトレーサを一滴。 槽内の電極が素直に応じ、側溝Bの電極は沈黙。 「折れ目は、受け皿で終わる」 御影が言って、道路管理の係が頷く。

 午後二時過ぎ、北橋Cでは活性炭トラップのトレーサ不検出。 「“古家”は、血縁はあるが同居なし」 神谷が家族の言葉に置き換え、海藤が短く笑った。

 ***

 午後三時。系図の合成。 展示室のボードに、三層が一枚に重なる。 ——内線(本家):A-3(親)—旧桟橋(長子)—CY末端(次子) ——外線(縁切り):待機帯B(洗浄盤で折れる) ——古線(外孫):北橋C(細い血、同居なし) 端に、凡例。〈音=空気パルス/往復遅延〉〈水=導電塩/閉ループ〉〈古=旧図面照合〉。 井原が題を入れる。 〈線の続柄(第1図)〉 「外孫縁切り。——“線”にも、がある」

 南が“耳の丸”の欄に小さく足す。 〈“ねむれた 8h→8.5h”〉 大庭は「自由欄」に、子どもの字を見つける。〈きょうの気づき=“むかしのせん”は“いまのせん”とちがう〉。 真鍋詩織は掲示の前で立ち止まり、白い四角の跡ではなく、矢印の分かれ目に視線を止めた。 「声の倉庫は空。——が喋る」

 ***

 同じ頃、保守統括室。 御影は「搬出ルート認証(試行)」の画面で、帆布ドレン・洗浄盤通過時刻・運転手名が受け渡し台帳へ連係される試作を確認した。 桐生が印を落とす。角はやはり少し欠ける。その上に御影の印が重なり、濃さは沈む。 「二重は、割れにくい」 海藤は口に出し、紙の内側にそれを置いた。

 ***

 道路管理事務所・会議室。 協定の追補に、短い行が増えた。 〈“縁切り”の定期確認:音の系図(四半期)〉 〈洗浄盤回収:公開ログ→月次〉 「線は、忘れたころに繋がりやすい」 井原が言うと、係は頷き、確認の拍子を合わす。

 ***

 処分場。 田浦徹は、D-1の南京錠に指を置き、赤いタグの「静」を一度なぞった。 西根が戻って言う。 「港、線の系図。Bは縁切り、Cは外孫」 「を書いたのか」 田浦は小さく笑った。 「家が見えると、が静かになる」 古い扇風機を止め、静けさを上書きした。

 ***

 夕刻、学校の理科室。 縮刷された〈線の続柄(第1図)〉が掲示板の横に貼られ、子どもたちが丸い磁石で矢印の分かれ目を指さす。 大庭が言う。 「“本家”と“外孫”。——“縁切り”は、忘れないために書く」 子どもが自由欄に書き足す。〈きょうの音=ない〉〈きょうのにおい=ない〉〈きょうのきづき=“むかしのせん”は、きると“いまのねむり”になる〉。 白井は笑わずに頷き、黒板の端に小さなを一つ、描き足した。

 ***

 夜。旧桟橋。 接触マイクは鉄の喉に貼りつき、ジオフォンは脚の根もとに沈む。風は陸から海へ。 「二十一時〇九」 欄干がふっと太り、基底四十ヘルツだけが細く続く。歯打ちは閾の下。 神谷が波形に薄い線を引き、白井が耳で確かめる。 「“なし”、継続」 遥はCY末端で、角度を同じにして**十四枚目の“なし”**を置いた。 “なし”は儀式でも確認でもない。——家の図の、今夜の一画だ。

 南ゲートの光は灯らない。駐車場の白線も静かだ。若いIT職員が無線で告げる。 「GUESTなし。SSID外部、試行なし」 扉は叩かれない。夜は浅く、長い。

 A-3の格子の上で、猫が近づき、舌を出さないまま、尾だけをゆっくり立てて去った。 東出がメモに書く。 〈猫、見送り(間=均)〉 触れない見送りは、家の中が静かなときの合図だ。

 ***

 夜半、庁舎の小部屋。 井原は〈線の続柄(第1図)〉の端に小さな注記を添えた。 〈音=親子(到達遅延)/水=血(閉系の導電)/古=戸籍(旧図)〉 〈B=縁切り/C=外孫〉 海藤が立会い欄にサインし、御影の印が重なる。角は違うが、行の濃さは同じだ。 「家が見えれば、責任の住所が書ける」 遥は余白に小さく耳の印を一つ描き、丸の欄に〈“なし”14〉と足した。

 神谷の端末が小さく震えた。 〈末端速報=14 μg F/L 維持〉 白井から。 〈音・水の系図=図版化OK〉 数字は丸の中へ入り、系図は紙の上で位置を持った。

 ***

 深夜、大学。 白井は卓上のノートに一行を書いた。 〈線の家が見えると、薄くなる速度が共有される〉 机の端の「町のカルテ」には、小さな丸がもう一つ増えていた。 〈“なし”14〉 隣に、老女のいつもの一行。 〈でも、みみはきく〉 耳を閉じない静けさ——それが、家の図の余白を守る。

 ***

 宿。 神谷から波形。〈歯打ち=閾下/“なし”14〉。 御影から。〈縁切り=確認/洗浄盤=恒久運用〉。 南から。〈掲示:線の続柄(第1図)掲出〉。 井原から。〈条例素案=“線の住所”条項、追記〉。

 遥は紙を並べ直した。 ——音の家系:A-3→桟橋→CY(本家)/C(外孫)/B(縁切り)。 ——水の家系:閉系トレース=本家のみ反応。 ——外側:受け皿で折れる。 ——末端AOF:14(背景域)。 ——猫:見送り(触れず)。

 最後に、一行を書いた。 〈続柄を紙に置くと、角度は薄れ、位置が残る。——位置が、日常の静けさを守る〉

 窓の外、堤の街灯が静かに円を落とし、猫がその縁をまたいだ。猫は立ち止まり、こちらを一度だけ見て、格子の上に顔を近づけ、舌を出さずに去った。 紙は遅い。 だが、遅い紙に線の続柄が描かれたとき、遅い正しさは、町の底で長く働く。 朝は、系図から始まった。 明日は、**条(すじ)**を法(のり)に織る。 鍵を回す前に、家の図の角に、名入りの印を重ねる。 重ねた濃さが、角度ではなく、重さになるように。



 
 
 

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