山影の街2
- 山崎行政書士事務所
- 10月28日
- 読了時間: 16分

第二部 伐られる山
第7章 黒い杭(視点:現場監督・陳 浩然)
午前六時。仮設ゲートに霧が絡み、冷たい匂いが肺に入った。陳 浩然は測量の座標をタブレットで確認し、サブの職長に指示を出す。黒い境界杭が荷台に二十本、束になって立っている。「ここから南東に二十五メートル。法面は計画通り“二割”で落とす。雨が来る前にラインを出す」返事は短い。音は早いほうが現場ではよく通る。
杭を打つたびに、土が乾いた音を立てた。斜面の腐葉土は薄く、いままで水を含んでいた層が顔を出す。陳は、杭と杭の間を歩きながら、足元のわずかな起伏を覚える。遠くから来た人間でも、同じ場所に何度も立てば、土地のリズムが体に入ってくる。作業員が呼ぶ声。フェンス基礎の手前に、黒い毛がひとかたまり落ちていた。陳はしゃがんで、指でつまむ。太い。湿っている。「クマ?」「たぶん」陳は毛をポケットに入れ、周囲の杭の位置を二メートルだけ外へ振ろうかと一瞬考えた。が、タブレットの線は動かない。線を動かせる権限は、自分の手の中にはない。
九時、自治会の老人が畑を抜けて上がってきた。「ここを塞ぐのかね」「安全のためのフェンスです。工事が終われば開放路を──」老人は頷きもしない。「この道は、神社へ上がる裏道だ。祭りの日はみんなここを通る」陳は言葉を選ぶ。「別のルートを示す看板を立てます。工期中だけ」老人の視線は杭に刺さったままだった。杭は、言葉より誠実に、境界を示す。
午後、雨雲が早足で移動する。張 雪からメッセージ。「説明会、荒れました。保全帯の幅、再検討を求められています」陳は返信を打つ。「工程は不可逆。幅の変更は、発電容量とコストに直結」送信ボタンを押す前に、ほんの一瞬だけ、画面の“不可逆”の字が重たく見えた。現場では、いつも何かが不可逆になる。土。水。人の気持ち。杭を打つ音が、山の背骨に釘を打つ音のように響いた。
第8章 簡略評価(視点:県庁職員・岩崎勇人)
県庁の会議室、午後の審査会。議題は「朱鷺ソーラー第七に係る環境配慮事項の軽微な変更」。机上には、発電容量、法面勾配、排水計画、保全帯幅といった項目が整然と並ぶ。「軽微、とは何か」岩崎は配布資料の定義条項にペンを置いた。“事業の本質を変更しない範囲”。言葉はいつも、広すぎるか狭すぎる。
事業者側の説明は滑らかだった。「最新の降雨データに合わせ、調整池の容量配分を最適化──」「保全帯は地形と既存の利用実態を勘案し──」資料の一番下に、小さく**“委員会の過年度事例に準ずる”とあった。過去は、現在を正当化する良い道具になる。岩崎は手を挙げた。「“軽微”の累積効果は誰が評価しますか。個々は軽微でも、重ねると質的な変化**になります」室内に一拍の静寂。事務局が、丸い言い回しで答える。「累積の影響は、所管にて留意しつつ……」留意は、責任の言い換えではない。
審査会の後、岩崎は個室に戻り、判断書の案に赤字を入れた。
・保全帯幅の縮小は、当初の配慮指針の趣旨に照らして説明不足。・調整池“仮設運用”の妥当性と、崩壊時の責任主体の明示が必要。・「最新データ」は平均ではなく極値を含むこと。・累積変更に対する再評価のトリガー条件を設けること。赤字は、紙の上では強い。だが、どの赤字が残り、どの赤字が消えるかは、会議の外で決まることもある。岩崎はペンを置き、窓の外の空を見上げた。雲が低い。雨は、判断書を読まない。
第9章 賃借と転貸(視点:司法書士見習い・西村沙耶)
西村沙耶は、法務局の端末に土地の地番を打ちこみ、登記事項証明書をプリントした。紙の上で、山は矩形の集合体になる。地上権設定、賃借権、転貸の可否。文字列の合間に、インクのにじみが小さく滲む。彼女の事務所は、今回の発電所案件で地権者の合意書の整理を請け負っていた。合意書の末尾に並ぶ印影は、紙の森だ。朱肉の濃淡が、生活の濃淡に見えてくる。
午後、山の麓の古い家で、彼女は一人の老人に会った。「孫が都会へ出て、仕送りがきつい。固定資産税もある。ここを貸して、毎年いくら、ってのは助かる」老人は、契約書の**「転貸可」**の条項を指で撫でた。「ここに“転貸可”ってあるけど、誰に貸すのかね」「契約上は“朱鷺ソーラー第七合同会社”が借り手で、その先は別の“運営会社”に貸す可能性があります」「同じところかね」「実質は近いです。ただ名義が違います」老人は黙って頷いた。名義は、人の体ではない。だが、名義が動けば、責任も動く。
別の家では、代理人が持ち込んだ電子契約のタブレットに、家族が指で署名をした。素早い。手軽。だが、「読み合わせ」は短い。帰り道、西村は車を止めて、谷筋に立った。斜面に黒い杭が並び、フェンス基礎の鉄筋が露出している。ここに権利関係の継ぎ目が集まる。所有、賃借、転貸、地役権、通行。彼女は手帳に小さく書いた。“権利の線は、動物の道を知らない”紙の上で完璧な線は、里山の体温に触れないまま、通り過ぎる。
第10章 山神祭の終わり(視点:自治会長・三浦辰男)
六月。細い雨。自治会長の三浦は、作業着の胸ポケットに玉串の紙札を差した。小さな祠を移設する日だ。祭りのたびに子どもたちが登った裏道は、フェンスで切られた。開口部の協議は進んでいるが、工期中は塞ぐという。「ここ、下に降ろすしかねえな」若い衆が縄を持って声を掛け合う。祠の屋根に手を添え、ゆっくり傾ける。中から古い鈴の音が鳴り、誰かが小さく頭を下げた。
祠を載せた軽トラが、造成地の脇を通る。反対側からはダンプが上がってくる。三浦は旗を振り、目で合図を送る。重機の視界は狭い。人の合図が唯一の言葉になる。新しい場所は、旧道の枝分かれの先、畑の縁だ。祭りの後に子どもたちが遊べる広さはない。「ここでいいのか」三浦が問うと、神社総代の老人は、空を見た。「いいも悪いも、ここしかない」
設置を終えると、みんなで紙皿の饅頭を食べた。口の中で甘さが広がる。遠くで杭打ちの音がまだ続いている。「山は怒ってるって言う人がいる」若い母親が呟いた。「山は、何も言わねえよ」三浦は答えた。「言うのは、人と、水と、土だ。順番を変えると、声が大きくなる」
帰り道、古い裏道に最後の視線を投げる。細い獣道が、祠の跡の脇を抜けていた。獣の足は、道の歴史に正確だ。人の都合が直線を描く間、獣は曲線で過去をなぞる。フェンス工事が進めば、ここも消える。
第11章 母グマの道(視点:生態学者・山科玲奈)
夜の画像。母グマの肩が、カメラの赤外線に白く光る。後ろに、転がるように付いていく二つの影。子グマはまだ去年生まれ。鼻を上げ、風に含まれる匂いを嗅いでいる。匂いの地図に、新しい記号が増えたのだ──揚げ油、給食室、社員寮の残飯、熟しすぎた柿。
玲奈は保全帯とコリドーの提案書をまとめ直した。
保全帯:最低30m(現行15m)
撤去可能な仮設コリドーを工期中に設定
フェンス基礎下の通り抜け防止の細工(石積み+金網の二重)
ゴミ対策:事業者寮・工事ヤードの匂い遮断
果樹対策:住民ボランティア動員の早期収穫日程数字は、工学的な言葉に翻訳したほうが通る。2%の発電量低下で、被害確率を3分の1にできるという試算を付けた。仮説だが、ないよりはいい。
東亜新電ESの会議室で、玲奈は張 雪と陳 浩然の前に資料を置いた。「30mは厳しい。設計変更が大きすぎる」陳は率直に言う。「島状林を残す案は?」玲奈は食い下がる。「線を一様に広げられないなら、点で残す。点のネットワークで動線を作れば、直線の幅ほどコストはかからない」張が工程表と見比べる。「島状林だと、杭基礎の再配置が必要な箇所が出ます。工期に影響が」「“不可逆”を少しだけ曲げるために、曲がる余地を残してほしい」玲奈は言った。「曲がらない線は、いつか折れます」
会議の後、張は玲奈を外まで送った。「個人的には、あなたの案に賛成です」張は小さく言う。「ただ、数字の裏側にある期限は、私の手では動かせません」玲奈は頷いた。「期限は、いつも誰かの外側にある。だから手前でできることを、全部やるしかない」風が生ぬるく、遠くで雷が低く鳴った。
その夜、玲奈は住民向けの収穫ボランティア募集のチラシを作った。タイトルは単純にした。「柿を早めに採る日」。恐怖ではなく、手を動かす誘い。人の動きが変われば、匂いの地図も少しだけ変わる。
第12章 炎上(視点:記者・石田晴奈)
朝、編集部のニュースデスクが顔色を曇らせていた。「説明会の記事、コメント欄が荒れてる。“外の資本は出ていけ”“再エネに反対するのは時代遅れ”」二項対立は速い。速いものは、うまく燃える。晴奈は記事を読み返し、見出しをわずかに直した。賛否の図式から離れ、排水計画と累積変更に軸を置く。手続の話は、拡散しにくい。でも、拡散のために書いているわけではない。
昼。匿名のアカウントが、現場通訳の張 雪の写真を晒した。「外資の手先」という文言。晴奈の胃が冷たくなる。「悪い兆候だ」隣の席の先輩が言う。晴奈はすぐにファクトチェック記事を一本立てた。
事業者の資本構成(公開情報ベース)
役割分担(発注・設計・施工・通訳)
個人攻撃と制度批判の線引き
説明会で争点になった「省略可」の技術的背景記事の最後に、小さな四角で相談窓口の連絡先を入れた。炎上は、誰かの生活を焼く。消火栓の位置を書いておく。
夕方。広告部から電話。「明日の一面下、再エネ関連企業の広告が入る。紙面の“印象”に配慮してほしい」晴奈は深く息を吸い、吐いた。「記事は事実を積むだけです。印象で曲げません」電話の向こうで、相手が短く無言になった。
夜、収穫ボランティアのチラシがSNSで静かに広がり始めた。派手ではない。いいねの数は少ない。でも、問い合わせのメールがぽつぽつ届く。
仕事帰りに1時間なら手伝えます/子どもも大丈夫ですか/梯子は持参?晴奈は返信を打ちながら、出来事の速度が二種類あることを思った。炎上の速度と、手を動かす速度。後者は遅い。だが、遅さは積み上がる。
夜半、雨脚が強くなる。造成地の仮設カメラに、茶色い筋が一本、光に反射した。最初の濁りが、谷へ向かって動き出す。編集部の窓ガラスが風で鳴り、机の上の紙が揺れた。晴奈は録音機の電池を替え、雨具を鞄に詰めた。説明は終わった。次は現場だ。
ここまでの要点(物語の芯) 杭は境界を示すが、責任の境界は杭に合わせて動かない。 “軽微な変更”の累積は、いつの間にか質を変える。紙の上の軽さは、現場の重さに転化する。 名義の移動は、責任の所在をぼかす。契約の言葉は、生活の言葉に変換されにくい。 祠の移設は、地域の記憶の移設でもある。だが記憶の置き場は狭い。 保全帯/コリドーという工学と生態の橋を、数字で渡す努力が必要。 炎上は速く、手を動かすのは遅い。遅いほうに町の未来が宿る。
第三部 分断
第13章 自警団(視点:猟友会・古参=小野良平/獣害対策員=斎藤茜)
夜九時、集会所前。赤い腕章、反射ベスト、借り物の無線。小野良平は、猟友会の会員証を首に提げ、集まった男たちの顔つきを一瞥した。半数は狩猟免許を持たない。竹槍の代わりに懐中電灯。「鳴らすだけでいい。追わない。クマは人より速い」良平は短く言う。声を荒げると、男たちは余計に昂ぶる。斎藤茜が、スピーカーから低くクマ撃退音を流す。金属音と人の声の混じった人工の唸り。「誤報が一番危ない。犬、黒いビニール、倒木……“影”に反応しすぎないで」
裏山の道をライトの束が蛇のように進む。冷えた草の匂いの中、どこかに油の匂いが混ざる。社員寮のゴミ置き場から揚げ油が漏れ、風下に流れていた。「匂いの線、引いちまってる」茜が呟く。谷の底でガサッと音がし、ライトが一斉に集まった。丸まった黒い塊が揺れる。「落ち着け」良平が前に出て、強い光を左右に振った。黒い影がゆっくりほどけ、イノシシの背中が見えた。人垣の後列から短い叫び。足が一歩出る音。良平は指笛で制した。「撃てない。撃つ資格も、道具も、ここにはない」男たちの息が白く揺れ、やがてライトの束は後ずさった。
戻り道で、茜が封を切っていない唐辛子スプレーを配る。「人に向けない。風上で使わない。練習は昼間に」良平は最後に一言だけ付け足した。「“守る”ってのは、引き返すことも入る」集会所の時計は十時半。遠くの造成地で、重機のアラーム音が短く響いた。
第14章 学校の避難訓練(視点:教頭=井原泰成)
午前十時五分、校内放送。「ただいまより、クマ出没を想定した避難訓練を行います。児童は先生の指示に従い──」井原教頭は、廊下の窓から校庭を見た。太陽光のまぶしさの下で、子どもたちは列を作るのが上手い。列は、恐怖を少しだけ和らげる。体育館は暗幕で半分落とされ、入口には熊ベルと消毒液、折りたたみ式の防護板。山科玲奈から受け取った資料を基に、動線を直した。
校門内に“匂いの溜まり”を作らない(給食残渣回収時間を変更)
通学路の“見通し死角”を地図にマーク
放課後クラブの時間短縮と送迎動線の再編
「静かに、走らない」若い担任が声をかける。子どもの一人が、ランドセルの鈴を手で押さえながら言った。「鳴らしたほうがいいの?」井原は膝を折り、目線を合わせる。「鳴らすのは山の道。学校の中は、音を小さくして、目と耳をよく使う」恐怖を手順に変える言い方を探すのは、教頭の仕事の半分だ。
訓練の終わり、保護者向けの説明会。「発電所の工事車両、通学時間外に出入りを制限させます」井原が言うと、手が上がる。「“させます”って、できるんですか」井原は正直に答えた。「協議です。義務ではない。でも、約束は紙に書かせます」窓の外、雲がいびつに流れる。予定表にない雨は、予定を平気で消す。
廊下で、玲奈が井原に耳打ちした。「柿の早採り、保護者会で募ってもらえますか」井原は頷き、掲示板にチラシを貼った。手を動かす速度を、学校でも作る。
第15章 歓迎の昼餉(視点:張 雪/現場監督・陳 浩然)
社員寮の共同キッチン。昼の休憩。張 雪は大きな鍋で水餃子を茹で、陳 浩然は刻んだニラをボウルに落とす。日本人の若い作業員が包み方を真似して、餃子の端から具をはみ出させた。「それ、投資家包み」陳が笑い、指先で綴じ目を整える。投資家は具を落とさない。落ちるのは、現場のほうだ──と言いかけて、陳は飲み込んだ。冗談は、向きによって刃になる。
玄関のチャイムが鳴り、近所の“おばちゃん”たちがおにぎりと沢庵を持って上がってきた。「多国籍会社さんとやらも、米は食うんだろ」最年長の女性が笑って皿を差し出す。張は身をかがめ、丁寧に受け取った。「ありがとうございます。辛いの、少し入れても?」小さな唐辛子の瓶を掲げると、女性は好奇心を隠そうともしない目で頷いた。「辛いのは男も女も好きだよ。だけど怒りは辛すぎると後で胃に来るね」
食卓に言語が混ざる。早口の方言と、抑揚の違う標準語、そこに柔らかい中国語。笑い声が幾度か重なり、誰かがスマホで写真を撮る。午後、張はその写真をSNSに上げかけて、やめた。昨日、自分の顔写真が晒されたのを思い出す。陳が鍋を洗いながら言う。「顔を守れ。線を守るのは俺の仕事だが、顔は自分で守るしかない」張はうなずき、工程表の赤い線を再度確認した。「保全帯、島状林で再検討を」玲奈の提案書が机にある。見積の列に**“上申要”**と書き込む。上に送る。送った言葉が、どこで曲がるかは、まだ分からない。
第16章 広告と記事(視点:記者・石田晴奈)
版下締め切りの四時間前。広告部が入ってきて言う。「明日の朝刊、再エネ特集の全面広告。紙面の“トーン”を合わせてほしい」晴奈は、情報公開請求で得た黒塗りの決裁文書の束を持ち上げて答えた。「広告のトーンじゃなく、記録に合わせます」黒塗りの間から、いくつかの単語が覗く。“軽微な変更”、“省略可”、“工期優先”。匿名メールの差出人が新たに送ってきた内部連絡には、仮設の塩ビ管の写真と一緒に、短い注記があった。
“雨量:昨年平均に差し替え(対応:工程優先)”
晴奈はファクトボックスを作った。
「軽微な変更」の定義と累積
調整池容量と極値データの扱い
貸借・転貸の名義と責任
住民説明会で示された保全帯の数字記事の本文は淡々と、しかし名詞で押す。推測や感情の形容詞を削り、言い換えで逃げない。デスクが廊下から顔を出す。「一面下の広告、隣接面にお前の“手続の話”を置くぞ。文句、来る」「来ても、返せるように書きます」
アップ直前、電話が鳴る。番号非通知。「“個人攻撃はやめろ”って書いてたよね」低い声。「はい」「なら、そっちも実名で書け。“事業者”じゃ弱い。誰が“省略可”って打ったんだ」晴奈は深呼吸する。「人の名ではなく、手続の名で書きます。人は動いて、手続は残るから」通話は切れた。外は雨。窓ガラスに、版下の白い四角がうっすら映る。
第17章 許可のはざま(視点:県庁職員・岩崎勇人)
午後の庁内連絡会。壁一面の流域図。細い青い線が集まり、県境で折れ、市の排水区画に飲み込まれる。「ここ」岩崎は指で一点を示した。「造成地の仮設排水が市の側溝に入る直前、県管理の河川に触れる。ここが“はざま”。“落ちない”水はどっちの責任になる?」市の担当が口を開く。「“通常の雨量”なら、側溝内で処理可能です」岩崎は首を横に振る。「“通常”は平均だ。これから来るのは“過去最大”かもしれない。極値の言葉で責任を書き換えないと、誰も動けない」
机上の図に、赤い点が増える。砂防指定地の端、林地開発許可の境界、景観条例の対象外エリア。制度の線が三色に交わる地点ほど、責任の色は灰色になる。そこへ議員からの照会が入る。「“開発を止めろ”という陳情が来ている」岩崎は答えた。「止めるには法的根拠がいる。今の根拠は“お願い”レベル。だが、“お願い”でも紙に残す。協定書の文案を用意する」“お願い”は弱い。だが、書けば少しだけ強くなる。帰り際、窓の外で雲の腹が裂け、遠雷が低く転がった。岩崎は判断書のドラフトに一行足した。
「累積変更が所定の閾値に達した場合、再評価手続を自動起動する」自動は、人の怠慢を少し補う。
第18章 影の受注(視点:地元下請の経理=久保田千春/土木会社社長=三上正義)
久保田千春は、薄い青の伝票をめくりながら、出来形写真のフォルダを開いた。写真の中の法面は、どれも同じ角度、同じ距離。日付が違うのに影の形が似すぎている。「三上さん、これ、同じ日に撮ってませんか」経理室に顔を出した三上が苦笑する。「現場は雨でグズグズだ。写真を撮る“日”と、作業が終わる“日”がずれる。元請けは出来高を早く出せと言う」「“早く”は経理の言葉じゃない」久保田はマウスを止め、手帳に走り書きした。「仮設費用の扱い」「手戻りの出来高」。“早く”を紙が許すと、遅い現場が潰れる。
夕方、元請けの監督が事務所に来て言う。「明日の法面シートの増し張り、単価を“一式”で出して」久保田は首を振る。「“一式”はどこからどこまで?」「全部」「全部は経理にない言葉です」監督は笑ってごまかした。帰った後、三上が煙草をもみ消しながら呟く。「“全部で”受けて、“足りない分”はうちが背負う。そういう仕事が増えた」久保田はPCの画面を閉じ、窓の外の色を見た。雲の底が低く、山の稜線を押し潰している。
夜。小さな内部告発のメールが久保田の個人アドレスに届いた。差出人不明。
「仮設排水、持たないと思う。写真は“別の現場”のを使ってる。バレないと思ってる」久保田はしばらく無言で画面を見つめ、送信トレイを開いた。宛先欄に石田晴奈の名前を打ちかけて、消した。「現場を売るのか、守るのか」口の中で言葉が渋く溶けた。そのとき、屋根を打つ強い雨音。三上が外に出て、空を見上げる。「梅雨が、予定表を破り始めた」
ここまでの要点(物語の芯) 恐怖の自警は、線引き(追わない/鳴らす/引き返す)の訓練がなければ事故に繋がる。 学校は“匂いの管理”と“動線の言語化”で、恐怖を手順へ翻訳する。 昼餉は、対立を緩めるが政治的ではなく生活的。写真一枚にも顔のリスクがある。 記事と広告の緊張は、名詞で書く姿勢で越える。人ではなく手続を問う。 許可の境目は、平均ではなく極値で責任を定義し直す必要がある。 影の受注(一式・出来高前倒し・写真の再利用)は、現場の耐力を削る。雨は、帳尻の嘘を暴く。





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