御門台の坂にて
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 16分

― 山崎行政書士事務所長編記録 ―
序 坂の匂い
御門台駅に降りると、坂が街を支配していた。午前九時の薄白い日差しが石垣に跳ね、通学の列が引いたあとに残る湿った匂いが、地面の低いところでまだ呼吸を続けている。発車ベルは短く、耳の奥で一度だけ反芻して消える。ここでは、言葉より先に傾きが話を始めるのだ、と山崎律斗は思う。
山崎行政書士事務所は、駅から坂を三分上った交差点の角にある。手のひらほどの真鍮プレートに「山崎行政書士事務所」と彫られ、ガラス戸の中では、午前の光がファイルの背表紙に細い線を置く。扉を開けると、コーヒーと紙の混じった匂いが胸に入ってくる。「所長、今日の一件、先方から“急ぎ”が三つ重なってます」応対に出たのは若手の奏汰(そうた)だ。少し猫背、けれど声は弾んでいる。「坂は一度に三人を転ばせない。順に行こう」山崎はコートを壁に掛け、手帳を開いた。
机に載った三つの封筒。一つは青い封筒——匿名の告発状。一つは灰色の封筒——景観条例に関する指導予告。一つはクリーム色の封筒——契約解除通知。三つとも、差出人は違うのに、同じ一行で締めくくられていた。
「御門台の坂の上にある会社に関する件」
坂は、物語を一箇所に集める。集められた物語は、たいてい、嘘から始まる。
一 告発状
青い封筒の告発状には、こう書かれていた。
「〇〇テック株式会社は、許可なく事務所の使用用途を変更し、危険物に該当する薬剤を保管している。近隣住民として見過ごせない。」
〇〇テックは、駅から坂を上ってちょうど校門を過ぎた斜向かいに、二年前に越してきた小さな研究開発会社だ。人当たりのよい社長に、真面目そうなエンジニアが数名。通りがかるたび、白いスニーカーの足音がよくそろっていた。「危険物……ね」山崎は短く息を吐き、奏汰に手振りで準備を促した。「条例と消防法の該当条文、過去の指導事例、保管量の基準一覧。それから——」「近隣の回覧板と自治会の掲示の写しもですね」「そうだ。告発状はたいてい、“隣”を使う」
坂を上ると、春よりも少し手前の冷たさが頬に薄い刃を置く。〇〇テックの前では、段ボールが二つ、丁寧に紐で括られている。呼び鈴を押すと、出てきたのは社長の叶多(かなた)だった。「まさか、こんなことになるなんて……社内SNSで『洗浄用の溶剤が届いた』って書いたら、翌朝には匿名掲示板に“危険物”の文字が躍ってて」「溶剤は?」「イソプロピル。洗浄用で微量です。保管も鍵付きの保管庫に」奏汰がチェックリストを読み上げる。保管量は基準以下、見取り図の変更届けは提出済み、消防への届出も守られている。「問題は、言葉が坂を転がったことだ」山崎は窓の外の傾きへ目をやる。「危険物という言葉は、基準を離れた瞬間、誰の手にも馴染む。——御門台では特に」
告発状に記載のあった「近隣住民の不安」は、裏通りの掲示板に貼られた一枚のコピーで増幅されていた。コピーは少し斜めに貼られ、下辺がめくれ、風が通るたびに言葉が揺れる。
「学校近くの危険物保管反対」文字の脇に、見慣れたSNSのスクリーンショットが小さく貼られている。「見せてください」掲示板横の理事の男性に許可を取り、山崎はコピーを外す。スクリーンショットに映っているのは、叶多の投稿——ではなかった。加工だ。開封箱の写真に、別のラベルが合成されている。「坂の匿名は、風の力を借りる」山崎は、紙を袋に入れ、理事に丁寧に説明する。「調査中であり、現時点での事実は——」
坂の上から、昼の合図のように学校のチャイムが降りてきた。音の輪は、噂の輪より薄い。薄いものは、すぐに破れる。破れたところから、証拠の光が差す。
二 仮設の看板
灰色の封筒は、市からの「指導予告」だった。
「無届の広告物(看板)に該当する可能性あり」
〇〇テックの庇に取り付けられた白い板は、社内の行動指針を記したものだ。社内向けで、通りから読む者はいない。けれど、通りは読む。通りは、看板の顔を探す。「条例の定義は“公衆に表示されるもの”」「社内規定は公衆ではない」「だが、庇の外側に出た瞬間、公衆はそちら側に置かれる」
奏汰は条例集をめくり、特例条項を探し当てた。
「仮設広告物……工事期間中、または期間を定めて掲出するもの。一定サイズ以下は『届け出』で可」「期間を定めていなかったのが敗因ですね」叶多は両手を上げて苦笑いをし、「撤去しかないですか」と問うた。「撤去は最後に取っておけばいい。——仮設に格下げして届け出、期間満了時に内側へ移設。最短で“合法の顔”を被せる」「顔?」「入江岡の顔は看板で変わる。御門台の顔は坂で変わる。——あなたの会社の顔は、紙で変えられる」
山崎はその場で写真を撮り、寸法を測り、仮申請のドラフトを切った。奏汰はタブレットで電子申請の下準備を進める。「坂は一気に降りられるけれど、上りは段々にしか進まない。法手続きは上りだ」叶多は静かに頷いた。「坂を上ってきたんですね、所長は」「毎日だよ。——御門台の仕事は、坂を“等速”に戻すことだ」
三 契約解除通知
クリーム色の封筒は、取引先からの契約解除通知だった。理由は「風評・コンプライアンス懸念」。「中身は空だ。重しに坂が入っているだけだ」山崎は通知書を机に戻し、先方の法務部に電話を入れた。応対に出たのは若い声、硬い言葉、標準化された無数の“思いやり”。「御社の懸念は、何を根拠としているのか」「SNS上の複数情報、および地域掲示における住民の不安の高まり」「その“複数”の一次情報を――」「社内規程により開示はできません」言葉は坂を転がり、受話器の向こうで小石になった。
「通知の法的瑕疵は?」奏汰がメモ帳を持って待っている。「催告の前置きがない。懸念の内容が不特定多数で、具体的な債務不履行が記されていない。——解除条件を満たしていない」「じゃあ、差止めを」「差止めは最後。まずは“坂の底に落ちないように”支えを入れる」山崎は、先方宛に「懸念の具体化および是正提案の機会付与」を求める文案を起こした。「不安の文書には“段”を作る。段があれば、足は残る」
四 坂の上書き
午後、事務所のチャイムが鳴った。入ってきたのは、自治会の理事・藤井という女性だった。「匿名の掲示、あれは私が貼りました」真っ直ぐな目をしていた。声は震えていない。「匿名の紙に名前を与えるために、ここへ?」「違います。——責任を取りに」山崎は椅子をすすめ、温かい麦茶を出した。藤井は、ゆっくり話し始めた。「去年、坂の下で、別の会社が本当に危険物を置いていたんです。行政の対応が遅れて、私たちが声を上げてやっと動いた。だから、今度も早く告げなければ、と」「今回は、紙が先に走った」「はい。……坂を転がってしまった」
山崎は告発状のコピーと、藤井の話した去年の行政対応記録を並べた。「同じ匂いの紙が、違う色で印刷される。——それが御門台の“上書き”だ」「上書き?」「去年の“正しさ”が、今年の“早さ”に形を変える」藤井は黙り、坂の方角へ目をやった。「私、どうすれば」「別の紙に上書きしましょう。“確認中・届出・対話の場の設置”。あなたの名前で」「名前で?」「匿名の紙は坂を速くする。名前の紙は坂を止める」
夕方、藤井の名前で出された新しい掲示は、学校の帰りに通る親たちの歩みを少しだけ遅くした。遅くなれば、読む。読む人は、次の一歩をゆっくりにする。スーツ姿の男性が掲示を見上げて、「反対、反対、と叫ばなくていいやつだ」と小さく笑った。坂は、笑いを受け止めると勾配を一度忘れる。忘れているあいだに、手続きは進む。
五 内側の敵
夜、事務所に戻ると、奏汰が暗い顔で待っていた。「社内SNSから、〇〇テックの掲示板に“不正通報フォーム”のスクショが流出しました。匿名で“危険物がある”って書かれてる」「内側の匿名は、外側より厄介だ」「IP、追えそうです」「追いすぎると坂は崩れる。——社内風土に穴があく」山崎は、叶多に宛てて提案書を書いた。社内の通報窓口の運用規程の見直し、一次受理後の事実確認フロー、匿名の範囲、通報者保護と濫用抑止、そして“内部説明会”。「外向けに“正しさ”を示す前に、内向けに“手順”を示す」奏汰は唇を噛んだ。「正論だけでは人は動きません」「だから、顔を用意する。——事務所が『面談に同席する顔』になる」
六 坂の会議
翌日、事務所の会議室で、小さなテーブルを囲んだ四者協議が開かれた。〇〇テック、自治会、市の担当、そして山崎事務所。坂の上の会議は、最初の五分で勝敗がつく。息継ぎの合わせ方で、言葉は“坂”にも“段”にもなる。
市の担当は、条例の条文を読み上げ、叶多は保管量と鍵の写真を提示し、藤井は去年の記憶を正直に語った。山崎は、最後に「段」を差し出した。「仮設広告物として届け出・期間管理票の掲示・内部通報のフロー可視化・近隣向け見学会(鍵管理下の保管庫のみ)。そして、第三者の記録として、我々が“坂の記録係”になる」「記録係?」「坂は、上ったあとに振り返ると、角度が変わって見える。だから、いまの角度を残す」
「見学会、いいですね」藤井が言った。「怖いのは“見えない”から」市の担当も頷いた。「掲示の差し替え、電子申請、こちらでガイドします」叶多は深く頭を下げた。「ありがとうございます。——坂の上で、もう少しやっていけそうです」
会議が終わって廊下に出ると、奏汰が小声で言った。「所長、契約解除通知、先方から“保留”のメールが」「坂を止めれば、契約は止まらない」「でも、匿名の掲示板はまだ荒れてます」「風はすぐ止まらない。……坂の“植栽”を増やす」「植栽?」「情報の植栽だ。事実だけを、静かな言葉で、等間隔に」
七 坂の植栽
事務所のホームページに、事例解説が一本上がった。「仮設広告物の届け出と地域調整の実務」写真は単なる庇。見えるのは鍵付きの保管庫と、署名済みの届出用紙。SNSには、自治会の掲示の写真と、情報発信のタイムスタンプ。事実の列は、美しい。美しさは、炎上よりも遅いが、長く残る。
匿名掲示板の投稿が一行減り、別の掲示板では「近隣見学会」の告知に「行ってみる」という返事がいくつか付いた。坂の土は、薄い草を受け入れる。根が張れば、雨のたびに流れにくくなる。奏汰は画面を見ながら、肩の力を少しだけ抜いた。「植えたら、水を忘れるな」山崎は笑い、コーヒーの粉をフィルターに落とした。
八 御門台の夜
見学会の前夜、山崎はひとり、御門台の坂を下りて駅のホームに立った。発車ベルの短い音が、昼間よりも深く耳に触れる。坂の街は、夜になると傾きを忘れる。忘れているあいだに、人は明日の階段を思い出す。
背中のほうで声がした。叶多だった。「所長。……ありがとうございました」「まだ“ありがとうございました”を置くには早い。——坂は長い。明日も上る」叶多は頷き、駅の時刻表を眺めた。「山崎さんたちは、どうしてここまでしてくれるんですか」「この街では、“等速”で歩く人が勝つから」「等速?」「嘘は速い。怒りも速い。紙は遅い。手続きは遅い。——だから、等速を用意する。“毎日上る速度”を」
夜風がホームの縁で折れて、遠くの踏切の鐘が二度だけ鳴った。「等速で上る人の横に、柵を置くのが我々の仕事だ」「柵?」「書式、掲示、届出、対話。——全部、柵になる」
九 見学会
土曜日の午前、〇〇テックの保管庫の前には、十名ほどの“等速”が集まった。藤井もいた。市の担当は、片手にクリップボード、片手に笑顔。奏汰が鍵の受け渡し簿を回し、保管量の表示を説明し、質問を受け、時折山崎が補足した。「“危険物”という言葉は、基準があるから危険物です。——基準の外で大きくする必要はない」藤井が頷き、隣の若い父親が手を挙げた。「つまり、怖い怖いって言い過ぎたほうが危険?」「怖さは否定しません。怖さの活かし方が、坂の歩き方です」笑いが生まれ、誰かが「坂の歩き方講座だ」と言った。それでいい、と山崎は思った。坂の歩き方が揃えば、街は等速に近づく。
見学会の最後に、匿名掲示板に“参加者レポ”が上がった。
「鍵あり。量少ない。OK」たったそれだけの行が、一週間分の騒音より効いた。風は、草に邪魔され、声の背中で遅くなる。
十 置き去りの封筒
すべてが等速に戻り始めた、その日の夕方。事務所の郵便受けに、また青い封筒が入っていた。
「御門台の坂には“前の事件”の黒幕がまだいる。港に目を向けろ」
山崎は封筒を指先でしならせ、コートを手に取った。奏汰が目で尋ねる。「行くのは、入江岡だ」「港の仮面?」「仮面は、顔の上にある。——剥ぐには、顔の温度が要る」
御門台の坂を下るとき、山崎は思った。この街では、坂と看板と鐘が、たぶん、同じ言葉を話している。等速で歩く者にだけ、その言葉はやわらかい。やわらかい言葉の中で、手続きは息をする。息をする手続きは、人の背中を押す。
駅に着くと、発車ベルが短く鳴った。坂の上でも、港の手前でも、同じ長さで。長さが同じなら、人は上れる。長さが同じなら、人は戻れる。山崎は、改札を抜け、ホームへ降りた。風は、やや向かいだった。向かい風は、等速を教える。
———第一部 了。
第二部 入江岡篇 ― 港町の仮面
一 潮の匂い
御門台の坂を降りて、新清水方面に揺られると、海の匂いが混じる。入江岡駅を出ると、商店街を抜けた先に広がるのは港。白いブイが波に揺れ、船着き場にはロープが太い蛇のように横たわっている。潮の匂いは、人の顔を柔らかくし、疲れた者には仮面を与える。港町では、誰もが「港の顔」を一枚持つ。観光客も、漁師も、商売人も。笑顔、怒声、沈黙、それぞれの仮面が交錯する。
山崎行政書士事務所に届いた青い封筒は、その仮面を剥ごうとしていた。
「御門台の坂の事件は終わっていない。黒幕は“港”に潜んでいる。仮面を剥げ。」
差出人はなかった。だが筆跡は、御門台で匿名告発を投げたときと同じ癖を持っている。細い横線、強すぎる縦線。
山崎律斗は封筒を読み終えると、机に置いたままコートを羽織った。「港を歩こう。——仮面の温度を確かめに」奏汰は黙って頷き、調査用のタブレットを抱えてついていった。
二 港町の仮面
入江岡の商店街は観光客向けの華やかさを纏いながら、その裏通りでは古い倉庫が錆びていた。「ここは、顔が多すぎる」律斗は小さく呟いた。「顔が多い場所では、嘘も多い」
鮮魚店の軒先に吊られた紙の仮面が、潮風に揺れていた。狐、天狗、瓢箪、どれも祭りで売られる安物だ。だが一枚、狐面の目の穴に小さなLEDが仕込まれているのを水城……ではなく奏汰が見つけた。「所長、これ……電源がついてます」狐面の奥で、赤い光が点滅する。目を奪う装置だ。人の注意をわずかに引き、誰かの仕草や言葉を“舞台”に変える。
「狐ケ崎で見た“狐火”の続きかもしれませんね」奏汰が息を呑む。「仮面は、人の顔を隠すためじゃない。顔の代わりを用意するためにある」律斗は狐面をそっと外さず、光だけを確かめて言った。
三 匿名の裏
その夜、事務所に戻ると、御門台の告発状と同じ人物がSNSで“港の倉庫に違法物資がある”と書き込んでいることがわかった。写真が添付されていた。倉庫の扉、錆びた南京錠。キャプションは「危険物」。
奏汰は眉をひそめる。「またですか。ラベルを合成しているのと同じ手口かも」律斗は画面を拡大し、錠前の形を確認した。「南京錠は十年前に廃番になっている。港の倉庫で現役のはずがない」「つまり、写真は古い」「古いものを“今”に見せるのも仮面だ」
匿名は坂を転がり、港で仮面を被る。坂で投げられた言葉は、港で顔を持つ。その顔が、契約を切り、信用を削ぐ。
四 商工会の夜
入江岡の商工会館で、緊急会合が開かれた。「港に危険物があると噂されれば、観光は止まる」「祭りの出店許可も出せなくなる」「匿名を誰かが信じた時点で“事実”になってしまう」
山崎は、落ち着いた声で口を開いた。「匿名の告発は、風と仮面を使って増幅されます。ですが、行政は“事実”しか扱えません。事実は数字と紙で残せます」「でも、観光客は数字を見ません」「観光客は“顔”を見ます。——だから、正しい顔を準備しましょう」
提案は二つだった。一つは、港の倉庫の開放見学。南京錠の写真が古いと示す。もう一つは、商工会全体で「安全宣言」を署名し、行政書士事務所が記録係として残す。
五 仮面を剥ぐ
翌週、倉庫見学の日。観光客も住民も集まり、錆びた南京錠ではなく、新しい電子錠が光っているのを目の当たりにした。「古い写真だ」誰かが声を上げ、笑いが広がる。
その瞬間、坂で転がっていた言葉が、港で止まった。匿名の仮面は、顔を持てなくなった。狐面のLEDは、昼間には効かない。光は、嘘を照らさない。
律斗は人々の様子を見ながら小さく頷いた。「仮面は剥がれた。——残るのは名前だ」
奏汰がスマホを掲げ、SNSに「見学会の記録」「署名済みの安全宣言」を投稿する。匿名の列より遅いが、長く残る。
六 港の鐘
見学会が終わったあと、港の沖で小さな観光船が汽笛を鳴らした。音は霧に似て柔らかく、街に降りてくる。「霧の鐘の稽古ですね」奏汰が言う。律斗は港の方角を見据えた。「御門台の坂、狐ケ崎の灯り、桜橋の短絡、入江岡の仮面……すべて、鐘でまとめようとしている」「黒幕はまだいる?」「いる。——鐘を待っている」
坂と港をつなぐ線路の先に、新清水の白い駅名標がかすかに見えた。その下で、鐘の音が街を等速に戻すか、それとも再び嘘を運ぶか。物語は、まだ続いていた。
第三部 新清水篇 ― 海霧の発車ベル
一 霧の朝
新清水の駅前に立つと、海の白が街を呑み込んでいた。灯台も、堤防も、近くのビルすらも輪郭を失い、ただ発車ベルだけが、霧を突き抜けて届いてくる。カン、カン、カン——。鐘は正しく鳴っているのに、人々の心には「遅れている」「止まっている」と錯覚が生まれる。霧は、時間を柔らかくしてしまう。
山崎律斗は、山崎行政書士事務所の仲間を連れて改札を抜けた。「ここで最後だ。御門台の坂も、入江岡の仮面も、全部この霧の中で繋がる」奏汰は頷き、懐のタブレットを握りしめた。「匿名の声はまだ消えていません。SNSでは“霧で電車が止まる”“港に危険物がある”と混じり合っています」「だからこそ、鐘を基準にする。数字と紙で刻まれる“等速”を、人の心に戻すんだ」
二 告発の影
駅前広場の掲示板に、また青い封筒が貼り付けられていた。
「山崎行政書士事務所も黒幕に加担している。霧の鐘の下で暴かれるだろう。」
人々の視線が封筒に吸い寄せられる。律斗は封筒を外し、静かに開けた。中にあったのは、一枚の写真。御門台の坂、入江岡の港、そして今いる新清水の駅前——三枚の風景写真を雑に合成したもの。「過去の記憶を一枚に貼り付けて、仮面にしようとしている」奏汰は小さく唸った。「このままじゃ、噂はまた走ります」律斗は首を振った。「走らせない。——数字で止める」
三 事務所の答え
改札脇に仮設の机を置き、山崎行政書士事務所は“公開相談窓口”を立ち上げた。通勤客、漁師、観光客、誰でも立ち寄れる小さなブース。奏汰はプリントを配った。「御門台事件の調査結果」「入江岡倉庫見学の記録」「契約解除通知の差止め経過」数字と写真と署名が並び、紙は湿気を含みながらも人の手に渡っていった。
「怖さを否定しない。でも、怖さを坂や霧に預けないでください」律斗の言葉は低く響き、霧の膜を少しだけ震わせた。「怖さを使うのは、私たちの仕事です。紙と数字で怖さを形に変える。それが法務です」
四 鐘の試み
午前九時。最初の発車ベルが鳴った。その瞬間、広場に仕掛けられたスピーカーが別の鐘を流した。ほんの〇・二秒だけ遅れて、重なる。「二つに聞こえる……!」人々がざわめく。霧のせいで、二つの鐘が一つに錯覚される。これこそが“黒幕”の狙いだった。鐘を増やし、霧に混ぜ、真実を溶かす。
だが奏汰が操作するタブレットが、その遅延を数値で示す。「〇・二秒の遅延。記録は一つだけ。発車ベルは定刻通りです!」数字は、霧を恐れない。人々のざわめきが、少しずつ収まっていく。
五 霧の中の告白
黒いコートの人物が、霧の奥から現れた。御門台の坂でも、入江岡の港でも姿を見せた“観客”だ。「あなた方は、等速を武器にしてきた。しかし、人は坂で転び、港で仮面を被り、霧の中で時間を失う。それが現実だ」律斗は一歩前に出た。「転んでも、顔を失っても、時間を見失っても——紙と数字で戻せる。それが私たちの仕事だ。匿名ではなく、名前で残す。それが街を守る」
男は微笑もうとしたが、霧の中で表情は滲んだ。「観客は声を出さない。——あなたは声を出した。もう観客ではない」律斗の声が、鐘に重なった。
六 終幕の鐘
鉄道警察と市の職員が霧をかき分けて到着し、証拠一式と告発状の筆跡照合を確認した。匿名の影は、ついに名前を与えられる。鐘がもう一度鳴った。今度は重ならない、一つだけの音。
人々は静かに頷き、坂を上り、港へ歩き、街へ戻っていった。霧は、鐘の音を包んで海へ返した。
終 等速の街
夕方、事務所に戻った奏汰が笑った。「所長、“等速”って本当にあるんですね」律斗は窓から御門台の坂を眺めた。「ある。嘘が速すぎて、真実が遅すぎるとき、その間を歩く速度だ。行政書士の速度だ」
坂も、港も、霧も、それぞれの顔を取り戻した。山崎行政書士事務所の机の上に残るのは、乾きかけた紙束と、午後の光。鐘はもう鳴っていない。だが、等速の街の呼吸が、そこにあった。





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