柚木駅の黄色いポスター
- 山崎行政書士事務所
- 9月18日
- 読了時間: 13分

——さくら長編
序 朝のウィンク
静鉄・柚木駅の朝は、意外とやわらかい。路面電車に似た二両編成がガタンと停まるたび、ホームの空気が入れ替わる。改札脇の壁に、明るい黄色のポスターが貼られている。ピンクのブラウスに紺のスカート、ウィンクしながら拳を握る女の子。右側には元気な縦書きのキャッチ——
「ITもクラウドも笑顔で明るくサポートします!」
それがさくらだ。山崎行政書士事務所の“元気担当”。事務所では広報兼プロジェクト・アシスタント、現場では“場の温度と速度を整える係”。
この朝、さくらは自分のポスターの前で、そっとウィンクを合わせてみた。うまくいかない。紙の中のさくらのほうがずっと上手だ。小さく深呼吸して、彼女は駅を出た。今日も“笑顔で明るく”の看板に嘘はつけない。
第一章 オレンジの信号
最初の案件は、柚木の商店街にある小さな印刷会社「千代プリント」。社長の千代子さんは肝の据わった人だが、朝だけはコーヒーがないと声が低い。
「さくらちゃん、クラウドなんとかの件、今日も頼んだよ」
「はーい! 今日は“落ち着いて進める日”にしますね」
千代プリントの印刷機の音は、いつも鼓動に似ていた。さくらはノートPCを開き、昨日から止まっているデータ連携のジョブを確認する。夜のうちに失敗して、黄色の警告が並んでいた。
「焦らない、慌てない、笑って吸って吐く」さくらは心の中で唱える。事務所で習った“さくら呼吸法”は、単に深呼吸のことだ。大切なのは、画面を開く前に呼吸を整えること。
ログの山を味見して、原因はすぐ分かった。印刷見積のWebフォームの項目が一つ増えて、データの列がずれたのだ。昨夜遅くサイト制作会社がこっそり変更したらしい。
「ここ直しますね」と言ってから、さくらは電話を一本。相手のエンジニアが出るまでの呼び出し音で、ふと彼女は天井の蛍光灯を見つめた。光は急に明るくならない。じわっと上がって、じわっと安定する。“急いでいる人ほど、光の真似をするといい”——律斗が言っていた言葉だ。
フォームの変更を元に戻して、データ連携のマッピングに一行追加。ジョブは静かに緑へ変わった。
「直ったのかい?」
「はい。ついでに“勝手に直しちゃダメですよ”の紙も作って、出入りの会社さんに渡しておきます」
千代子さんが笑った。「うちの“紙”を紙で守るの、いいねえ」
「紙、大好きですから!」
さくらは親指を立てて、次の約束へ向かった。黄色のポスターの笑顔に、少し近づけた気がする。
第二章 ベビーカーの坂道
二件目は、柚木駅から五分の集合住宅。若いお母さんの真里が困っていた。スマホのサブスクを解約したのに、請求だけ続いているという。
「“やめる”ボタン、どこにもなくて……」
「“やめ方”の設計が悪いんです。真里さんのせいじゃないですよ」
さくらはベビーカーを玄関で受け取り、赤ちゃんを覗き込んで微笑んだ。たいていの赤ちゃんは、さくらを見ると笑う。彼女はそれを“共同作業”だと思っている。笑わせるのではなく、笑い合う。
アプリの画面遷移を一つずつ記録し、「ここで“やめる”が隠されてます」「このチェックは“任意”じゃないとダメです」とスクリーンショットに吹き出しを付ける。最後に、事務所の雛形から“やめ方の案内”をすぐ作って、先方のサポートに送った。
「ありがとう。私、解約が下手なんだって思ってた」
「下手な人なんていません。下手にさせる画面があるだけです」
真里は安堵の息をつき、赤ちゃんがぱちぱちと小さく手を叩いた。さくらも一緒に叩いて、リズムをそろえる。柚木の空気が少し軽くなった。
第三章 黄色い名刺
お昼前、さくらは事務所に戻る。フロアの真ん中のテーブルに、黄色い名刺が積まれていた。「さくら:笑顔整理係」。ふみかの遊び心だ。裏にはちいさく——
深呼吸(3秒) 事実→解釈→行動 笑顔は“共同作業”
「名刺、配っていい?」とさくらが尋ねると、ふみかは笑って親指を上げた。「配るために作ったんだよ」
「あ、でも“笑顔整理係”って怪しくない?」
「大丈夫。君が怪しさを相殺する」
そこへ、やまにゃんがトコトコ現れて、名刺の角をちょいと噛んだ。「うまい紙」
「食べないで!」
今日の午後は、柚木駅近くのクリニックへ向かう。電子カルテのバックアップの相談だ。ポスターを横目に、さくらは歩幅をひとつ広げた。黄色い名刺がポケットで揺れた。
第四章 クリニックの午後
内科の白川先生は几帳面だが、事務仕事は苦手だった。バックアップの通知が毎晩鳴るのに、仕組みが分からず、消すのも怖いという。
「“鳴らない夜”にしましょう」とさくら。「でも、良い静けさに」
彼女は図を描いた。診療データは暗号化されてストレージに保存、一定期間でWORMのボックスに写し、復旧テストを月に一度だけ。夜間に“成功”だけ知らせるモードへ切り替える。
「“失敗だけ鳴らす”じゃないの?」と白川。
「“成功を一声”のほうが、眠りにやさしいんです。成功の静けさが続いているのか、断線で静かなのか、朝に色で分かるようにします」
さくらは通知の“色”を緑・黄色・赤で見せるダッシュボードを作り、先生のスマホに小さな緑の丸を置いた。夜中に鳴らず、朝に一瞬だけ光る緑。白川はほっと笑って言った。
「おかげで、今夜はワインを一杯いけそうだ」
「飲みすぎ注意です!」
帰り道、柚木の並木道を歩きながら、さくらは胸のポケットの名刺を撫でた。笑顔は共同作業。今日も、うまくできている。
第五章 夕立とポスター
夕刻、急な雨。さくらは柚木駅の屋根の下へ駆け込んだ。黄色のポスターが雨に濡れずにいて、少し誇らしく思う。ポスターの前で立ち止まる女性がいた。スーツ姿の井上。彼女は大手物流会社の地方拠点で、ITと現場の橋渡しをしている。
「この子、さくらさん?」
「は、はい。実物は湿気でくるくるですけど」
二人は笑い合い、濡れた傘をたたむ速度が同じであることに気づいた。細いことだが、そういう一致は会話を滑らかにする。
「相談したいの。夜に鳴りやすい警報と、現場の疲れの関係。私は止めたい。でも“止めたせいで事故が起きた”と責められるのが怖い」
「分かります。止める勇気より、止める自信が要りますよね」
「自信?」
「“設計が味方をしている”という自信。——明日、見に行っても良いですか」
「助かる。現場の人、笑ってくれたら嬉しい」
雨が上がる。二人の靴の先に、柚木駅の照明が小さく跳ねた。ポスターのさくらが、またウィンクしている。
第六章 笑顔の取説
翌日、物流拠点。警報はよく鳴り、現場はよく走り、誰もが少しずつ疲れていた。さくらは一番奥の棚に寄りかかって、**“笑顔の取扱説明書”**を小さなホワイトボードに書いた。
笑顔は命令じゃない、合図です。① まず呼吸(3秒)。② 事実→解釈→行動。③ ありがとうは先に言う。④ 困ったは早めに言う。⑤ やめ方を決めてから始める。
「取説、いいね」と井上が言った。「やめ方から、か」
「始めるのは簡単。でも、終わらせられる仕組みがないと、笑顔が持たないんです」
これをきっかけに、警報のルールを三段階に分けた。本当に走る警報、歩いて確認する警報、朝に読めば良い警報。名前をつけるだけで、現場の足音が半音下がった。
「鳴らない夜が増えますよ」とさくら。「でも、良い静けさだけに」
井上は小さく頭を下げた。「ありがとう。走らない勇気を、もらった気がする」
第七章 “ありがとう”の速度
さくらの一日は、だいたい“ありがとう”で終わる。言う側にも受け取る側にも、速度が大切だ。早すぎると軽く見えるし、遅すぎると冷たくなる。心拍に合わせると、ちょうどいい。
この夜、事務所のチャットに“ありがとう”が飛んだ。春風堂のひかりからだ。匿名の投稿がまた燃えかけたが、ふみかのさざなみ文章で鎮火したという。
ありがとうございました。眠れました。
その一文が、さくらの胸に小さく灯った。眠れること、それを誰かが言葉にすること。黄色いポスターのキャッチは、きっとそのためにある。
第八章 祭りの準備
柚木商店街の夏祭り。実行委員に引きずり込まれたさくらは、屋台の配置からSNS告知、当日の**“もしもの運用”**まで引き受けた。笑顔の人手が足りない時は、笑顔のポスターが助けてくれる。あやのの紫も、律斗の紺も、陽翔のオレンジも、駅に貼られた色が人の気持ちを少しだけ明るくする。
祭りの前日、電光掲示板が急に消えた。電源ではない、制御アプリだ。焦りの声が増える。さくらは両手を上げた。
「いったん、みんなで三秒、目をつぶって吸って吐く」
三秒は短い。けれど、怒声を“空気の振動”に戻すには充分だ。アプリを入れ直し、設定を手順書どおりに戻し、わざと一度だけ失敗させてから成功させる。人は成功より失敗のほうを覚える。だから、“安全な失敗”を先に用意しておく。
掲示板が戻ると、拍手が起きた。さくらは拍手を自分のほうに受けない。拍手の行き先を、準備した手順書に向ける。未来の自分が助かるように。
第九章 黄色い夜
祭りの夜。提灯の列の下で、千代プリントの千代子が焼きそばを焼き、白川先生が無料の血圧測定をしている。春風堂の屋台は行列で、井上の物流拠点からは冷えた飲み物が届いた。ギャラリーの杉山は、子どもたちの落書きコーナーを見守っている。真里はベビーカーを押しながら、やめ方の紙を友だちに配っていた。
「さくらちゃん、ポスターの子、今夜は実物のほうが上だよ」と千代子が言う。
「ほんとですか? 髪の湿気は勝てませんけど!」
笑い声の向こう、ステージの端にやまにゃんがいる。USBのしっぽを提灯に引っかけそうになって、子どもたちの歓声を浴びていた。
さくらは飲み物を配りながら、視線だけで会場の温度を測る。暑すぎないか、暗すぎないか、急いでいる人はいないか。**“笑顔の見張り番”**は、とても忙しい。
夜の終わり、電車が柚木駅に滑り込んだ。ホームの黄色いポスターが、提灯の光を受けてほんの少し色を変えた。祭りは、うまくいった。うまくいった夜は、静かに終わる。
第十章 さくらメモ
翌朝、さくらは事務所の片隅でメモを書いた。
笑顔の四拍子一拍目:事実は短く。二拍目:解釈はゆっくり。三拍目:行動は明確に。四拍目:やめ方は最初に。—拍子記号は、人の心拍。
「詩人だなあ」と陽翔が覗き込み、ふみかは「チラシにして配ろう」と言った。りなは「四拍目を大文字に」と冷静に助言し、律斗は「小節の区切りをRunbookにも」とメモを追加した。
「にゃ」とやまにゃんが合いの手を入れる。「五拍目は猫の昼寝」
「それは毎日入ってます!」
笑いのあと、電話が鳴った。柚木駅の駅務室からだ。掲示物の更新と、迷子の案内フローの見直し。さくらは「行きます!」と元気よく答えた。黄色いポスターの下で、迷う人の表情をもう少し明るくできるかもしれない。
第十一章 迷子の地図
駅務室の壁に、古い案内図がかかっていた。字が小さく、色が淡く、矢印が躍っている。さくらは紙をはがし、新しい地図を置いた。字は読みやすく、矢印は少なく、出口は太く。
「**“ここに来たらだいたい助かる”**という場所が一つ必要なんです」とさくら。「迷子の人は“正確さ”より“やさしさ”を探してる」
「やさしさ、ね」と駅員の塚本がつぶやく。「最近、その言葉に救われるようになったよ」
黄色いポスターの下に、小さな言葉を足した。“困ったら、ここに来てください”。QRの先は事務所のページではなく、駅務室のページにした。まず近くの助けから。それが、さくらのやり方だ。
第十二章 台風の予感
夏の終わり、台風が近づいた。町の空気が少しざわつく。NUMA FISHの港からは波の写真が届き、物流拠点からは切り替え手順の再確認の連絡、春風堂からは在庫の避難場所相談。
さくらは一枚の紙を作って回した。題して**「台風の日の笑顔」**。難しい手順は一つも書かない。連絡先の確認と、やめ方の確認と、ありがとうの練習だけ。
「ありがとうの練習?」と井上が笑う。
「停電の夜、現場で小さな“ありがとう”が先に出ると、次の判断が早くなるんです。責める前に感謝を置く。これ、効きます」
台風が最接近した夜、柚木駅の照明は落ちきらずに持ちこたえた。物流の切り替えも、NUMA FISHのステータスも、春風堂の在庫も、準備した四小節の譜面どおりに動いた。
さくらは窓ガラスの向こうの雨を見ながら、息をゆっくり吐いた。黄色いポスターは、暴風雨にもはがれなかった。翌朝、駅に行くと、誰かがポスターの前に小さな花を置いていた。濡れていない花。柚木はやさしい町だ。
第十三章 “遅くて優しい迅速”
台風明けの週、春風堂の黒田から連絡が来た。社内で“迅速”の定義を見直したいという。
「さくらさんの“ゆっくり”が、遅いわけじゃないって分かったから」
「“遅くて優しい迅速”ですね」
「言葉の魔法だな」
さくらは会議で、“迅速”を三つに分けた。連絡の迅速(短い事実をすぐ出す)、判断の迅速(やめ方が先にあるから早い)、作業の迅速(手順書が読まれているから迷わない)。それぞれに、誰の“笑顔”に効くのかを添えた。
「笑顔に効く指標、いいね」と黒田。「KPIに入れていい?」
「もちろん!」
会議が終わるころ、さくらはこっそり“笑顔整理係”の黄色い名刺を机に置いた。黒田は名刺を持ち上げて、にやりと笑った。
第十四章 ユウトの夏休み
高校生のユウトから、またメッセージが来た。夏休みの課題で、ポスターの前でインタビューしたいという。
「いいよ。駅のベンチで」
ユウトは録音アプリを用意し、質問を一つずつ丁寧に投げた。さくらは“笑顔は共同作業”の話、“やめ方から始める”の話、そして“困ったら近くへ”の話をした。ユウトは毎回「はい」と小さく頷いて、最後に言った。
「僕、将来、この町で**“困ったらここへ”**って言える人になりたいです」
「それ、最高。名刺、作ろうか?」
「まだ早いです」
二人は笑い、ベンチの端っこに座り直した。柚木駅の風は、夕方になると少し甘くなる。黄色いポスターが、その甘さをよく吸った。
第十五章 秋の手紙
秋、さくらのもとに三通の手紙が届いた。春風堂のひかりからは「眠れる夜が増えました」。井上からは「走らない勇気が生まれました」。真里からは「“やめ方の紙”を会社でも使いました」。どの手紙にも、最後に小さなイラストが添えてある。笑っている自分の顔。笑顔は共同作業。彼女は便箋を並べて写真を撮り、ふみかに送った。ふみかは“それを広告にしない勇気”のスタンプを返してきた。
「しないの?」
「引き出しにしまう広告もあるんだよ」
その夜、さくらは引き出しを開け、便箋を丁寧に重ねた。黄色い名刺を一枚だけ添えて、**“雨の日の励み”**と書いた。
第十六章 冬の前の背伸び
冬の前、さくらは自分のポスターの前で背伸びをした。どこかで背筋が伸びて、どこかでふざけている。駅を行き交う人たちの表情は、寒さのぶんだけを省いた落ち着きがある。
「ITもクラウドも笑顔で明るくサポートします!」
その言葉は、最初は少し照れくさかった。けれど今は、照れが芯になって支えてくれる。照れは、無理をしない速度を守ってくれる。**“笑顔の奥の、静かな決意”**を見失わないように。
やまにゃんが改札の上からひょっこり顔を出し、しっぽで空気をとん、と叩いた。「今日のまとめ」
さくらは笑って、駅の掲示板に小さな紙を貼った。
困ったら、近くへ。近くで解けなければ、私たちへ。笑顔は共同作業。柚木駅で、待ってます。
終章 黄色い約束
雪は滅多に降らない町だけれど、白い朝が来ることはある。そんな朝、さくらはいつものように柚木駅で深呼吸をした。黄色いポスターのさくらは、相変わらずウィンクが上手い。実物のさくらは、少しだけ追いついてきた。
彼女は拳を握り、胸の前でそっと開いた。握るより、開くほうが難しい。開くことで、誰かの手が入る余地が生まれる。笑顔は共同作業。それは、今日も明日も変わらない。
電車が来る。ホームがふるえ、靴が鳴り、改札が鳴る。さくらはポスターに小さく頭を下げ、駅を出た。
ここから、また“明るく”始めよう。
柚木の空は黄色がよく似合う。ポスターの約束は、今日も嘘をつかない。





コメント