沈黙の代償
- 山崎行政書士事務所
- 10月29日
- 読了時間: 70分

※本作はフィクションです。実在の人物・団体名は登場しません。
序章
遮断――午前3時、監視画面に現れた黒い砂時計
午前三時。社内監視室の蛍光灯は昼の白さで床を洗い、冷房の送風口から落ちる音だけが規則正しく空気を刻んでいた。誰もいない廊下で非常口の緑が眠たげに瞬き、窓の外には川面の黒がビルの骨組みを吸い込んでいる。都市の鼓動は遠い。その静けさのただ中で、壁一面のモニターの一角が、ひどく場違いな形でゆっくりと動いた。黒い砂時計。
細いガラスの腰で上下に分かれ、上から下へ、目に見えない砂が落ちているとでもいうような、古臭いアイコン。だが、そこに表示されているのは古道具の無害な美術ではなかった。時計の横には、白地に赤の帯で「SYSTEM HALTED」の文字。深夜の光に浮かぶその英語は、眠気を抱えた人間の判断力を容赦なく削る。
監視席でイヤホンを片方だけ耳にかけていた三崎晴人は、少し遅れてそれに気づいた。紙コップの底に残ったエスプレッソは冷え、舌に金属の味を残している。目の焦点が、いつもの緑の草原のようなダッシュボードの統計から、黒い砂時計へと吸い寄せられる。
「……何だ、これ」
誰にともなく呟いた声は室内で解けた。手は勝手にキーボードを叩き、アラートの階層を開く。EDRのパネルに並ぶ検出ログは、まるで一斉に咲いた雑草のようだった。vssadmin Delete Shadows、bcdedit /set {default} bootstatuspolicy ignoreallfailures、wmic process call create……馴染みあるコマンド列が、見たくなかった文脈で並んでいる。
三崎は椅子を蹴る勢いで立ち、別の画面で東雲工場のセグメントを開いた。工程監視のノードが黄色から赤へ、赤から灰色へ、ひとつ、またひとつと色を失っていく。ネットワークはまだ生きているのに、心臓から血が引くように端末の応答が途絶えていく。すぐに内線を取る。手は冷たいのに掌に汗が出ていた。
「オンコール、起こす。……茅野さんも」
短く言ったのは同じ勤務帯の先輩、島崎だ。黒縁の眼鏡越しに、目が見開かれている。ふだんは関西人らしく冗談で空気を和らげる男だが、このときだけは余白がなかった。
内線を繋ぐより早く、中央モニターに新しいウィンドウが重なった。黒地に白の文字。穏やかな書体で、やけに丁寧な言葉遣いだ。
あなたたちのファイルは暗号化された。交渉を始めよう。48時間以内に応答がない場合、次の段階に移る。
画面のすみに、砂時計がまたひとつ生まれて回転し始める。三崎は唾を飲み込み、気道の乾きが痛みに変わるのを感じた。
東辰ホールディングス――飲料、家庭用品、医薬部外品を束ねるこの企業のIT部門は、ガラス張りの本社の十六階に収まっている。名刺には控えめに「デジタル戦略本部」と印刷されているが、夜になるとその名刺は意味を変える。ここは、眠っている巨大な身体の呼吸を監視する聴診器だった。
島崎が短く指示を飛ばす。
「封じ込め優先。東雲工場、相模物流、名港の倉庫、通信切り替える。OTは物理隔離の手順。各拠点の担当、起こす」
三崎はキーボード上で指を踊らせる。セグメントのファイアウォール・ルールを閉じ、リモートからシャットダウン信号を投げる。だが反応は鈍い。進行形の相手は、こちらの刃を読んでいるかのようだ。ログにnet use \\*\IPC$ /del /yが並び、SMBのセッションが切られては張られていく。
「速い……」
「速いよな」
ふたりの間に、天井の空調が白い線を描く。三崎は喉の奥で数を数えながら、指先に別のリズムを持たせた。既存のプレイブックでは遅い。そんな確信だけが先に来る。彼が次に開いたのは、工場のスイッチ群の管理画面だった。GUIの向こうには、製造ラインの現場で汗を流したことのない人間には想像しにくい、金属の光がある。原料タンク、充填機、ラベラー、パレタイザー。すべてがPLCの無数の糸でつながって、今日も目標の本数を吐き出しているはずだった。
そのいくつかの糸が、黒い砂時計に絡め取られていく。
島崎のスマホが震え、着信画面が光る。ディスプレイには「茅野」の文字。CISO――情報セキュリティ統括責任者、茅野俊哉。夜間オンコールの最終責任者だ。
「……はい、島崎です。やられてます。はい、暗号化も出てます。画面に出てる。『交渉』と。――ええ、封じ込み先行。OTは物理切断、手順回します。ログまとめ始めてます。――はい。CFOにも?」
通話の向こうで誰かが起き上がる気配がする。数十億の設備が一斉に咳き込む音は、電波に乗らずとも耳の奥に鳴る。
島崎が電話を切り、三崎に視線だけで合図する。
「茅野さんが来る。三十分」
三崎は短く頷き、ヘッドセットをかけ直した。OT――製造ラインの制御系――の切り離し手順のPDFを開き、現場にいる夜勤の保全担当に電話を回す。「すみません、三崎です。工程監視に異常、制御系をネットから切りたい。……ええ、配電盤の横。ラベルに『WAN』って書いてある。……そう、それ。とにかく今、このフロアから上と話さないようにしてください。順番は――」
言いながら、心のどこかで「間に合うか」を数えている。間に合わないかもしれない。相手はすでに手のひらに砂の落ちる速度を刻んでいる。画面の砂時計がひとつ増えるたび、工場のどこかで機械の脈打つ音が落ちる。
ガラスの向こうに朝は来ない。来ないうちに、誰かが決めなければならない。
三十五分後、エレベーターホール側のドアが開いて、茅野が入ってきた。ネクタイは結び目だけきっちりしているのに、シャツの裾はズボンの上に少し出ている。寝巻きから持ち替えたスーツはあまりにもフォーマルで、夜の緊急性と相性が悪い。だが、その姿に室内の空気がわずかに締まる。
「状況」
島崎が簡潔に報告する。ログ、被害範囲、封じ込めの進捗、OT切断の見込み、外線の遮断。茅野は途中から島崎の報告をノートPCでなぞり、別ウィンドウで財務システムの稼働状況に目を走らせた。
「基幹のERPは?」
「今のところ緑。でもログに怪しい動き。入出庫系は赤が点き始めました」
「広報はまだ寝かせろ。呼ぶのはその前だ」
言葉とは裏腹に、茅野の目は会議室のガラス越しに広報の名前を探している。明け方の会見台の照明を、もう想像しているのだ。
三崎がモニターに、例の「交渉」画面を最大化する。黒い砂時計が中央に静かに回り続け、その下にチャットの入口がある。矛盾した空気――人間の言葉が流れる場の入口に、機械的な残酷さの象徴が置かれている。
こちらにアクセスし、担当者の名前を名乗れ。我々は待っている。時間は砂のように落ちている。
「どうします?」と島崎。
茅野はモニターから目を離さず言った。「応答する。今は“返事をしない”リスクが大きい」
三崎は一拍、不意に息を止めた。会社で先輩が口にしていた禁句――「犯人に話しかけるな」――とは逆を行く判断。「交渉なんて、していいんですか」
「交渉は支払いじゃない。時間を買う行為だ」
茅野は短く言って、もうひとつの電話の発信ボタンを押す。「法務を起こす。あと、外部の“相手役”にも」
“相手役”。社内ではその呼び名が採用されていた。交渉人、と言うと途端に映画の匂いがする。だが実務は映画ではない。相手は人質に銃を向けて立つ個人ではなく、見えない回路の奥で作動する共同体だ。金を稼ぎ、評判を気にし、ビジネスルールに従って拡張する。茅野はそう理解している。だから“相手役”。彼らは相手の言語を話す。相手の癖を知っている。社内の人間がやるべきことではない。
「三崎、初動の文面を叩け。『被害を把握した、対応中、現金はない、決裁に時間がかかる』。相手に“返事をさせる返事”だ。感情は乗せるな。ただ、人が書いた言葉の温度は残せ」
「はい」
三崎はチャットの入口にカーソルを置き、視界の端で砂時計の回転を感じながら、文字を打ち始めた。
こちらは夜間対応の担当者です。事態は把握しました。こちらにも手続きがあります。時間をください。
送信を押す指先が微かに震えた。砂時計は、何も見ていないふりをして回り続ける。
数秒後、返事が来た。相手の文体はやけに柔らかく、語尾に笑いも怒りもない。
よろしい。あなたは誰ですか。あなたの上司は誰ですか。そして、あなたの会社は、時間の価値をどれくらい理解していますか。
三崎は思わず顔を上げた。横で茅野が、すぐに首を横に振る。「身元は開示しない。『承認者がいる』だけ伝えろ」
私は担当者です。最終承認者は別にいます。あなたの提示する条件を取締役会に持ち戻る必要があります。
送る。砂時計の黒は光の反射を拒み、監視室の白い蛍光灯の下でなお黒い。返事が来るまでの間、三崎は心臓が遠くの部屋に置き去りにされたような感覚に襲われる。自分の胸の中にあるべき鼓動が、壁の向こうでドンドンとドアを叩いている。
取締役会。いい言葉だ。では、あなたの会社の信頼を得るために、証拠を示そう。添付を見よ。
チャットにファイルが現れた。.7z。暗号化されたアーカイブに、パスワードが別メッセージで送られてくる。三崎は、茅野の頷きを待ってから、検証用の隔離環境にファイルを落とし、パスワードを入力する。吐き出されたのは、エクセルの片倉庫分の在庫表、購買契約書のテンプレート、社員の氏名を含む評価シートの断片――。
「抜かれてる」
三崎が呟くと、島崎が背後で短く吐息を漏らした。「“二重”をやる気だ」
二重――暗号化による業務停止だけでなく、盗んだデータの公開を盾にするやり方。朝までにこの言葉が何度口にされるか、三崎はまだ知らない。
茅野が時計を見た。机上のデジタルは03:58を示している。「広報を起こす時間だ。だが、言えることはまだ少ない。『調査中』は正直だが、空白を招く。空白は想像力で埋められる」
「じゃあ、どう言います?」
「『止血をしている』と言う。『出血の量は測っている最中』とも。具体は分からないが、正直な比喩だ」
冗談のようで、冗談ではなかった。止血。ここにいる四人(夜勤の派遣の若者がいつの間にか加わっていた)は、PCの前でガーゼを当て、圧迫し、ゴムバンドを巻いている。血管は見えないが、温度だけは感じる。
チャットが、再び文字を吐いた。
あなた方の時間は、我々の時間でもある。遅れはコストだ。こちらの条件は、午前中に提示する。いい一日になるように。
黒い砂時計が、ふっと速度を上げたように見えた。錯覚だ。だが錯覚は身体を浸食する。背中の汗が冷える。
東雲工場の保全部屋では、別の砂時計が回っていた。配電盤の前で、広い肩幅の男がLANの刺さったケーブルを手繰り寄せ、小さく息を吐く。「これを抜く」は、現場では敗北の合図に似ている。だが今夜は違うのだ、と言い聞かせる。電話の向こうの声は落ち着いていた。「抜いてください。動力は落とさない。制御だけ。現場の人に『一時的に手動でやる』と伝えてください」。
「手動……」男は呟き、隣の若いオペレーターを見た。「できるか」
若者は無言で頷いた。訓練は受けている。だが訓練の日付は、カレンダーの端で色褪せている。手のひらに感じる機械の音は、訓練の記憶を呼び戻すには強すぎた。
ケーブルが抜ける。爪の微かな音。静電気の小さな痛み。遠くでコンベアのモーターが一瞬、弱音を上げて持ち直す。隔離。遮断。動脈を縛る音が、工場の床に広がっていく。
三崎のモニターに、東雲工場のネットワークマップが灰色に変わる。「切った」
島崎が、椅子の背もたれに音を立てずにもたれる。短く安堵の息が落ちる。茅野はその間に、別の画面で財務のスケジュールを見ていた。翌週には半期決算の数字が外に出る。出荷が止まれば、在庫は約束を守らない。納入先は朝一番に電話をかけてくるだろう。「何が起きているのか」「どれだけ遅れるのか」「責任はどちらにあるのか」。
「『どこまで言うか』のライン、決めておこう」茅野が言う。「“攻撃を受けた”は事実だ。だが“支払い”については、言う必要はない。決まっても、決まらなくても」
島崎は頷く。三崎は視界の端で、チャットのログに目をやった。
いい一日になるように。被害者への挨拶としては、最悪の言葉だ。
三崎の個人スマホが震えた。画面には母からのメッセージ。「夜勤? 風邪ひかないで」。彼は返事を打たずに伏せ、社用の端末に戻る。「……相手は午前中に条件提示。時間、買えますか」
茅野は短く笑い、笑っていない目をした。「こちらは時間を借りる。返す利子は少なくない。だが返せない利子よりは、ましだ」
「返せない利子?」
「沈黙の利子だよ」
沈黙。午前三時台のビルはそれを大量に湛えている。段ボールに詰めて投げ捨てたいほどの沈黙。だがそれは言葉よりも多くのことを伝える。社内チャットの未読0。広報のスマホの黒い画面。まだ起きていない記者たちの寝息。沈黙は時間と同じ速度で落ちていく。砂時計の砂が、積もれば崖になるように。
四時を回ると、人の気配が増えた。清掃員がモップを持って通り過ぎ、総務の若い女性が眠そうな目で給湯室の電気をつける。世界が動き始める。監視室の内部だけが、時間を二倍の速さで生きている。
広報の清瀬が、髪を結い直しながら入ってきた。黒いパンツスーツに足音はほとんどない。目だけが、入ってきた瞬間から状況の匂いを嗅ぎ取っている。「攻撃?」
茅野が短く頷く。「“二重”の気配がある。まだ『攻撃中』だ」
清瀬はひと息で口紅を塗り直し、鏡をポーチに戻す。「言えることを列にして。言えないことは、言える言葉に変換する。『捜査当局に相談』『関係各位に連絡』、これは正直に。『復旧の目処』は……」
「今は言えない」
「じゃあ、『影響の最小化に全力』でいく。数字は出さない」
彼女の言葉は、モニターの前で流れる数字とは別の世界で意味を持つ。言葉は投資家の目に触れ、納入先の営業会議で引用され、社員の家族のLINEにスクリーンショットで貼られる。言葉は、砂時計とは違う時間を測る道具だ。
チャットに通知。相手からの新しいメッセージ。
おはよう。あなた方の一日が、どれほど忙しいか、我々は知っている。これが条件だ。
金額は、三億相当の暗号資産。支払いは四十八時間以内。遅れるごとに一割ずつ上乗せ。公開の第一波は社員データ、第二波は取引先一覧、第三波は設計図。彼らの話す“料金表”は、営業資料のように整っていた。
清瀬が無言で息を呑むのが分かった。島崎が椅子の座面を握り、指の骨が白くなる。三崎は「三億」という文字の黒さに、一瞬だけ遠い目をした。彼の父が生涯で稼いだ額を超えているかもしれない。彼自身がこれから何十年かけても届かない数だ。それがこうも簡単に、指定のウォレットに振り込めばいとも容易く消えていくのか。
茅野が、画面の右上で時間を見た。四時二十三分。「“相手役”が起きたら、すぐ繋ぐ。こちらからは、支払うとも支払わないとも言わない。ただ、『承認プロセスに時間がかかる』『監査がある』。この二本を立てる」
清瀬が頷いた。「そして、社内で“知っている人”を絞る。広報は私と、取締役広報担当だけ。現場対応の人には、『支払い』という単語は出さない。出すときは、別室で。会議体は分ける」
「法務と監査は?」
「もちろん入れる。けれど“支払い”という言葉は、紙には書かない。メモには『対策費』と記録する。法的な壁を積む」
言葉は盾になる。どこで鋭く、どこで鈍くするか。清瀬はそれを知っている。
三崎は、再びチャットの入力欄に指を置いた。
条件を受け取った。内部の承認プロセスにかける。復号鍵の動作確認のため、サンプルを希望する。
送る。相手は即座に反応した。
模範的だ。このファイルを復号してみなさい。
新しいファイルが落ち、別メッセージでパスワードが届く。検証環境でそれを開くと、手順書のPDFが生き返った。九割方は読める。だが最後のページだけが黒い。
鍵の“精度”は支払いと比例する。あなた方の“時間の価値”は高いはずだ。
茅野が短く鼻で笑った。「“評判”を気にするタイプだ。ルールがある。ルールのある相手は折れる可能性がある」
島崎が問う。「“場当たり”じゃない?」
「多分な。場当たりは、もっと雑だ。脅し文句が古いし、言い回しが粗い。こいつは“仕事”としてやっている。仕事には評判が必要だ」
清瀬が淡々と書き留める。「“評判を気にする相手”――社外への説明の材料になる。『相手は約束を守る傾向がある』。……ただし、社外には言えない」
「言えないな」と茅野。「言った瞬間、炎上する」
三崎はモニターに映る砂時計をじっと見た。黒い。夜より黒い。そのとき、背中のポケットで個人スマホがもう一度震えた。友人からのメッセージ。「今、ニュースで物流会社の障害って。そっち?」世界が嗅ぎつけ始めている。朝刊の印刷機が回り出す音が、まだ暗い空にこだまする。
五時。ガラスの壁の向こう側が、薄く青い。ニュースサイトがヘッドラインを並べ始め、匿名掲示板が「あそこのサイト重くない?」でスレッドを伸ばし、取引先の早起きの担当者が、まだ温まらない電気ポットの前で眉をひそめている。
監視室の中では、砂時計が増え、減り、また増えていた。三崎は、自分の名前がチャットの向こうでどんな姿をしているのか、ふと想像した。「夜間対応の担当者」。名はない。家族構成も、好きな音楽も、何もない。だが、そう設定された“人物像”は、交渉に使える盾でもある。茅野が教えてくれた。「“子どもを迎えに行く”時間を告げるのは有効だ。返答の遅れに理由が生まれる。相手は、人の生活のリズムを手がかりにする」
三崎には子どもはいない。だが今、個人の生活は会社の外に置いてきた。代わりに、会社の生活を守る役を与えられている。
「三崎」茅野の声で我に返る。「六時に“相手役”を繋ぐ。それまでに、相手の言葉の癖をまとめろ。“だ・である”の比率、“謝罪”の有無、“譲歩”の可能性が見える言い回し。相手は文章で自分を晒す」
「分かりました」
三崎はチャットのログをテキストに吐き出し、句読点の位置、改行の頻度、時間間隔を並べて見た。文章の背後に、相手の呼吸がある。呼吸の背後に、組織のやり方がある。砂時計は、相手の呼吸を測るためのメトロノームではない。こちらの焦りを測るための装置だ。
六時を少し過ぎた頃、別の画面に映像が現れた。“相手役”。画面には人物は映らない。音声もない。テキストだけが、同じチャットに別のスタイルで現れる。社内の誰とも違う口調。乾いた、しかし摩耗していない言葉。
私は御社の一員です。役職は言えません。交渉窓口としてここにいます。
三崎は、その嘘が非常に上手にできていることに気づいた。茅野が軽く顎を引く。「よし。三崎、ここからは“相手役”の言葉を写せ。間違いなく。“写す”のが、お前の仕事だ」
彼は頷き、指を置く。外では朝が来る。工場では始業のベルが鳴る。ラインの前に立つ人々の背中に、黒い砂時計は映らない。だがここでは、砂が落ち続けている。
七時、最初の会議招集が飛ぶ。「緊急対応本部」。誰かがプリンターから分厚いプレイブックを抜き取る音がした。紙の匂い。インクの湿り。清瀬が広報文案のドラフトをスクリーンに出す。
本日未明、当社の一部システムに外部からの不正アクセスがありました。現在、関係当局と連携しながら、影響の最小化に全力で取り組んでおります――
嘘はない。空白もできるだけ少ない。だが空白をゼロにはできない。空白は、外の想像力に委ねられる。三崎は、黒い砂時計の中心に自分の顔が映り込んでいるのに気づいた。歪んだ。二重の自分。その二重の像が――暗号化と、流出と――今朝から会社のどこにでも現れるだろう。
八時前、相手から最後の挨拶が来た。
いい一日を。午後までに返事を。砂は、落ちている。
砂は、落ちている。三崎は、監視室の廊下に出て、はじめて深く息を吸った。消毒液の匂い、複合機の熱、朝の空気の薄さ。遮断は終わっていない。これから本当の遮断が始まる。言葉の遮断。情報の遮断。噂の遮断。そして、心の遮断。
「戻るぞ」と島崎。三崎は頷き、もう一度、黒い砂時計の回る部屋に入った。
砂は落ちる。誰かが、それを止める。誰かが、それを見届ける。誰かが、その音を言葉に変える。
午前八時、本社はようやく朝の顔を取り戻しはじめた。社員証のピッという音が続き、エレベーターが満員の人を乗せて上下する。しかし十六階の監視室だけは、夜の腹の中に取り残されたままだ。砂時計の音はしない。けれど、確かに鳴っている。ここにいる全員の胸の内で。
――遮断。それは、切り離すことで、つなぎ直すための第一歩だ。黒い砂時計は、その第一歩が遅いほど、深く回る。そして、落ちた砂の量は、きっと後で請求書に記される。金額の横に、小さく、だが確かに、こう書かれるのだ。
「沈黙の利子」。
第一部 無反応の代価
赤いバナー――「48時間」の告知と止まるライン
1
赤い。それ以外の色がすべて退色して見えるほど、工場のHMI(ヒューマン・マシン・インターフェース)の画面には赤が広がっていた。「48:00:00」――数字は静かに、だが残酷に一秒ずつ痩せていく。砂時計のアイコンが脇腹で回り、画面の上を流れる白い文字列が、整然と「Attention」「Encrypt」「Negotiation」の三語を繰り返す。
東辰ホールディングス・東雲工場、第二充填ライン。糖液の甘さと洗浄液のアルカリが混ざり合う匂いの中で、保全担当の柴田はゴム手袋の内側に汗を溜め、画面を見上げた。数十分前まで、ここは一日のうちでいちばん退屈な時間帯だった。夜勤の終わりの気だるさ、始発に乗り遅れる焦り、バルブから漏れる蒸気の音がただの環境音に戻っていくさざ波。そのすべてが、赤い。
「止めるぞ」
工場長の狩野がヘルメットの縁を指で押し上げ、声を張る。短い。迷いはない。だが、止める手順には迷いが必要だ。順序を間違えれば、製造タンクの温度差でガラスのように割れる箇所が出る。充填されかけた瓶が詰まり、割れ、破片がコンベアのローラーに巻き込まれる。床は一瞬で滑る。オペレーターの内海が、指先でストップの赤いキノコボタンをなでるように押した。
コンベアのベルトが鳴き、ボルトの締まる小さな声がラインの各所から返事をする。圧送ポンプの振動が一段落ちた。【停止】のランプがオレンジに変わり、金属フレームの骨組みが眠りの体勢を取る。人間の耳には、機械が止まる音ほど“動いている”ときの音を濃く意識させるものはない。さっきまでいた世界が、いきなり背中から奪われる。
柴田は画面の赤に追われるように、制御盤のロックキーを手でつかみ、物理的な遮断のレバーに触れた。「WAN切断、二、三、四……」彼の口元には硬さがあった。訓練では数える声に余裕があったが、今夜は喉が渇く。
「切った」
LANのコネクタが外れる小さな爪の音。工場の天井からぶら下がる照明が、金属に線を引き、止まったコンベアに影をつくる。赤いバナーが、まだ点いている。ネットワークを抜かれても、敵が置いていった“種”は工場の内部で育つ。HMIの赤は、ローカルに根を下ろしている。
「CIP(定置洗浄)、どうする」と狩野。「手動に切り替えます」内海が答えた。洗浄液のタンクに残る苛性ソーダを温め、循環させなければ配管内の糖液は固まる。固まれば、今日だけの問題では済まない。明日も明後日も、ブラシで擦り、溶かし、祈ることになる。祈りは工程表に載らない。祈りはKPIにならない。祈りは、しかし、止まったラインでは最後の潤滑油だ。
「で」狩野が画面を見る。「何だ、この赤いのは」
「交渉しろって」内海が苦笑する。「機械が話しかけてくる時代です」
柴田は返事をしなかった。HMIの裏側、スイッチ盤の中で熱が生まれ、配列されたリレーが小さく乾いた音を立てる。砂が落ちる。画面の上だけの話ではない。配管の壁に、糖液の膜が薄く、薄く落ちる。乾く。固まる。時間はここでは液体で、見える形で堆積する。
2
本社十六階。夜と朝の境界線がガラス窓を横切り、街の灯りがひとつ、またひとつ薄くなる。監視室の中央モニターには、同じ赤いバナーが複数の窓にコピーされていた。「48:00:00」は、すでに「43:17:23」に痩せ、画面の端にあるチャットウィンドウには、先ほど送った文言が記録されている。
こちらは夜間対応の担当者です。事態は把握しました。こちらにも手続きがあります。時間をください。
“無反応の代価”を知る者の指で打たれた、最低限の呼吸。しかし――。
「返事が早い」
島崎が画面の時刻ログを指差した。受信から送信までの数秒。相手は待っていた。待っている相手は、エスカレーションのシナリオも持っている。茅野が腕時計のベゼルを親指で回し、目だけで秒針を追う。「あと三分で社長に入れる。CFOには私から。広報は清瀬に任せる」
「CFOに“数字”がいる」と島崎。「ライン停止の分、1時間あたりの損失」
三崎が無言でキーボードをたたく。自社のBIツールに飛び、昨年同日同時刻、同ラインのスループットを引き出す。平均充填数、歩留まり、物流の積載率、返品率、販売単価。画面の中で数字は美しく整列し、無機質なまま血を失っていく。彼の指が、損失の“形”をざらつくもので覆う。
「一時間止まるたびに、売上ベースで四千二百万円、粗利で千二百万円前後」言葉が口を出た瞬間、彼自身が驚いた。金額は現実を一気に現実にする。茅野が短く頷く。「その数字はCFOに渡す。交渉の“時間の値札”だ」
チャットが息をする。
おはよう。あなた方の一日が、どれほど忙しいか、我々は知っている。これが条件だ。
“三億”。三崎は、数字のゼロを数えないようにした。「上乗せ一割/12時間ごと」。時間は血より高い。だがここでは血も時間でできている。
「交渉のプロを繋ぐ」茅野が言う。「私たちがやると、どこかで“心”が出る。心は、向こうの商売道具だ」
3
「心?」CFOの九重理沙は、寝間着の上にジャケットを羽織りながらスマホを耳に挟んでいた。午前四時台に鳴る着信は、たいてい会社の“どこかの管”が詰まったときの音だ。「心は出ますね」九重は苦く笑う。「出してはならない方角に」
リビングのテーブルで、昨夜息子が開いたままの社会科の教科書が風をはらんでめくれた。災害時の行動、というページに黄色いマーカーが引かれている。彼女は台所に立ち、マグカップにブラジルの豆を落とし湯を注ぐ。カップから上がる湯気は、会社の設計図にない匂いを出す。「三億」茅野からの数字を頭の中で転がす。三億の横に「四千二百万円/時」を並べる。三億は恐喝だ。四千二百万円は、自分たちの損失だ。どちらも現実で、どちらも形が違う。恐喝は倫理の問題だ。損失は会計の問題だ。倫理と会計はいつも別々の机に座り、しかし同じ財布を見ている。
「交渉には入る。支払うかは別問題」九重は言った。「支払いをする/しない、ではなく、“支払いまでの時間をどう使うか”。そこを評価します」
「広報は?」と茅野。
「言わない」九重は即答した。「“支払う可能性がある”とも“絶対に支払わない”とも。どちらも爆弾」「『止血をしている』は、良い言い方です」九重は窓の外を見た。街路樹の葉が重く、朝の鳥がまだ遠い。「止血だ。血を止める手は、きれいではない。だが、必要だ」
彼女は子どもの教科書を閉じ、背表紙をなでた。「災害時の行動」。“まず、落ち着くこと”。簡単な言葉ほど、現場では難しい。
4
総合物流センター・相模。午前五時半。フォークリフトのバックブザーが一定のリズムで鳴り、金属の爪がパレットの下に滑り込む。倉庫の床は深いコンクリートの色をしており、昨夜からの湿気を吐き出している。センター長の戸川は、端末の画面に現れた赤いバナーを見て「またか」と唇の内側を噛んだ。入出庫システムにログインできない。荷札タグの発行が止まり、バーコードの読み取りアプリは起動音だけを出して沈黙する。
「紙でやれ。手書き。ミスしてもいいから走らせろ」彼は叫び、若いスタッフが慌てて伝票用紙を倉庫の奥から抱えてきた。紙は重い。データは軽い。軽いものが止まると、重いものを人間が運ぶ。端末の赤いバナーは、硬質の笑いでこちらを見ている。48時間。「48時間って、お前ら、物流の48時間が何だか知ってるのか」
誰にともなく吐き捨てる。トレーラーがひと台、またひと台、ゲート前の待機で眠そうにライトを点け、運転席の男が肩を回す。出発時刻を過ぎた荷物が、日付をまたぐごとに、誰かの会議の中で「ペナルティ」という言葉に変わる。ペナルティは金だ。金は、血のようにあらゆる紙に染み込む。戸川は、伝票の控えをクリップで止めながら、遠くで鳴るブザーの音と、自分の歯ぎしりの音が区別できなくなっているのに気づいた。
5
本社・広報部。午前六時。清瀬はコーヒーを半分だけ口にして、キーボードに指を置いた。「言えること」「言えないこと」「言うべきこと」。三つのファイルを並べる。「言えること」は薄い。「言えないこと」は重い。「言うべきこと」は、薄い紙の上に重い石を置く作業に似ている。
本日未明、当社の一部システムに外部からの不正アクセスがありました。現在、関係当局と連携しながら、影響の最小化に全力で取り組んでおります。お客様、取引先、従業員の皆様にはご心配をおかけし、心よりお詫び申し上げます。詳細は判明次第、速やかにお知らせいたします。
「嘘はない」清瀬は声に出して確認した。「空白はある」空白は、外で物語を生む。“支払い”の二文字は、社内の会議室で重く響き、社外で炎のように広がる。彼女は“支払い”を「対策費」と呼び換える練習を何度かした。舌の根に苦さが残る。苦い言葉ほど、苦い現実を隠す。
社内チャットが鳴り、各部門から「FAQ(想定質問と回答)」の草案が届く。「『お客様の個人情報が漏れたのか』に、どう答える?」清瀬は「現時点では確認中」と入力し、すぐに消した。「確認中」は正しい。だが、空白に油を注ぐ言葉でもある。「『調査中だが、必要ならばすぐに知らせる』」彼女は打ち直した。一行で、信頼の残りを少しでも掬う。
6
監視室。午前七時。“相手役”が入った。テキストだけの声が、チャットの欄に別のテンポで並ぶ。
私は御社の一員です。役職は言えません。交渉窓口としてここにいます。まず、相手の“評判”を確かめます。我々の経験では、彼らは“仕事”として脅す。仕事には評判が必要です。
「評判」島崎が小さく繰り返す。「評判のある敵は、約束を守りやすい。守らないと、次の客がつかない」茅野は端的に言い、九重が画面の向こうで聞いているのを想像して付け加えた。「こちらが“客”だという皮肉な構図は横に置くとして」
“相手役”は、英語と日本語の混じる短文を器用に使い分け、相手の“ビジネスルール”を引き出す質問を投げる。
復号鍵のサンプルは必須。公開の第一波をいつに設定しているか。二次拡張(別の拠点への拡散)を抑える意思があるか。“延長料金”の考え方は固定か変動か。
返ってくる返答は、冷たいのに妙に人間の体温を感じさせる。
我々は誠実であることで知られている。鍵は渡す。再攻撃はしない。ただし、あなた方が約束を破れば、我々もビジネス上の判断をする。
「“誠実”ね」清瀬が、息を吐く。「誠実な泥棒の話を、会見ではできない」
「会見で語るのは、こちらの誠実さだけでいい」茅野は言った。「相手の誠実さは、こちらの心の衛生のためにだけ使う」
三崎は、チャットログを別ウィンドウで解析し、句読点の癖を記録する。ピリオドの前のスペース、文頭の小文字、曜日の表記。相手の中にいる“人間”の姿が、画面のノイズの中から少しずつ浮いてくる。その“人間”に哀れみを感じる瞬間が、一番危ない。哀れみは油だ。こちらの論理のネジを緩める。
7
東雲工場の床は、止まってもなお鳴く。CIPに切り替えた配管を流れる温水とアルカリの混合が、薄い金属の管壁を叩く。手動で開けたバルブの重みが手首にくる。内海は、給湯の温度計がゆっくりと70度を指すのをじっと待つ。春から入った新人にどう言葉をかけるか迷って、やめた。「大丈夫ですか」と新人が言った。大丈夫ではない。だが、大丈夫にする。大丈夫にできるから、この仕事をしている。
赤いバナーは、工場内の端末からは消えない。「交渉に応じるべきか」――そんな議論は、床の上では一度も開かれていない。ここでは、止まった機械をどう止めるか、止めた機械をどう動かすか、しか議論されない。世界の上の層での決断は、ここに小さな波となって押し寄せ、ボルトの締め具合に現れる。内海は、ボルトを六角レンチで軽く増し締めしながら、それでも画面の赤いバナーが視界の端で脈動するのを無視できなかった。
8
午前八時。ニュースサイトに「大手日用品メーカー、システム障害か」の見出しが並ぶ。電話が鳴る。にわか雨のように鳴る。「なんでログインできない」「出荷、今日の便は」「棚が空く」――取引先の声は種類が限られており、それゆえに鋭い。コールセンターの席では、台本のない台本劇が始まっている。「現在、システムに不具合が発生しておりまして――」声は誠実だ。真剣だ。だが、言えることは少ない。“無反応”は最悪だ。だが“反応”にも段階がある。反応が遅いほど、現場の声は自衛のために色を濃くし、過不足なく言おうとした言葉が、過不足の多い感情に滲む。
九重は本社会議室の長テーブルに座り、メモに線を引いた。「“言えること”の更新は一時間ごと」「“返せない問い合わせ”のリスト化」「“謝罪”はしても、“約束”はしない」約束は、返せないときに歯に刺さる骨だ。彼女の筆圧は、紙を焼き付けるほど強い。
9
昼前。“相手役”が、相手とのやり取りを淡々と続けている。
金額は減らせるか。物理的に払えないという事情は理解するか。「監査」の存在をどれほど重く見積もっているか。我々の“評判”を守る見返りに、あなた方が得る“時間”はどれほどか。
相手はひとつずつ、感情の入っていない返答を返す。
減額は可能。ただし、公開は段階的に進む。あなた方の“誠実さ”に比例する。監査や当局への通報は、我々の“評判”の一部だ。妨げない。時間は売る。あなた方は買う。価格は交渉次第。
「時間を売る」と相手は言った。三崎は画面の上でその四文字をじっと見た。時間は、今日、この会社のいちばん高価な商品だ。会社は普段、飲み物や洗剤を売る。今日、会社は時間を買う。「安い時間」と「高い時間」があることを、身をもって知る。
“無反応”は、いちばん高い時間を買わされる。相手が用意した赤いバナーは、そのためにある。腰を抜かせ、「返事をさせない」ために。返事をしない会社は、返事をするのに必要な言葉を持たない会社だと、相手は見抜く。言葉がない会社は、金で埋めるしかない。
10
午後一。東雲工場の食堂で、薄いカレーの匂いが漂う。いつもなら立ったまま早飯で流す時間。今日は椅子に座る者が増え、誰もが端末を見ている。社内ポータルに「緊急対応本部」の発足が掲載された。「従業員の皆さまへ」と題されたメッセージに、社長の名があり、CISOの名があり、広報の名がある。「噂に惑わされないで」その一文に、誰もが少し笑った。惑わされない方法を記した紙は、どこにもない。噂は噂を糧に増える。赤いバナーのスクリーンショットが匿名SNSを走り、見知らぬ誰かが「身内です」と書き込む。身内でない“身内”が、身内の体温で語る言葉は、身内の言葉よりも温かい。
現場の新人がため息をついた。「俺、内定式のときに、『当社はデジタルを武器に』って言われたんすよ」内海は笑って答えた。「武器は、持てば攻撃も受ける」
11
午後三時。時計の赤は「31:12:45」になっていた。相手はまだ第一波を公開していない。「こいつら、時間を計っている」島崎は言う。「我々が“返事を返す速度”で、値付けを調整している」
“相手役”は、チャットの文脈の間に、こちらの“人間”を差し挟む。
子どもを迎えに行く必要があるので、5時間後に返事をする。取締役会が終わるのが遅れる。CFOが銀行と話をしている。
三崎は、その一行ずつが呼吸のように相手の文面に揺れを作るのを見た。
オーケー。5時間後に戻る。良い会議を。
相手も人間だ。相手の向こうにも、夕飯の匂いと、眠る子の額があるかもしれない。だからこそ危ない。そこに“理解”が生まれると、こちらの手は遅くなる。遅い手は、時間を高く買う。
九重は、その危うさを会議室で言葉にした。「人間同士の理解は、会計に載せられない。 載せられないものは、意思決定を濁らせる」彼女の声は静かだが、会議室のガラスに硬く跳ね返る。
12
夕刻。相模の物流センターでは、紙の伝票が机に積み上がっていた。伝票の角が切れて、紙の粉が手のひらにつく。戸川は単純な計算をした。「今日、出せなかったパレット数 × 一パレットあたりの延滞ペナルティ × 取引先の数」答えは、現場には似合わない数字になった。彼はペンを置くと、壁の時計を見た。数字は正確だが、実感から遠い。実感は、夜になって帰るときに、靴の底についた砂糖のべとつきで知る。砂糖は、時間の結晶だ。
若手のスタッフが、指にインクを付けたまま言った。「センター長、明日の朝刊、出ますかね」「出るだろう」戸川は短く答えた。「出たら、切り抜いて掲示板に貼る。誰かが見ないふりをしても、紙は残る」
13
夜。茅野の机に、法務からの文書が届く。「当局への相談」「保険会社への通知」「取引先への個別連絡のスクリプト」紙は増える。これが“対応”というものの実体かと三崎は思う。対応は言葉でできている。言葉は紙でできている。紙は、火に弱い。だが、その火が来る前に、紙は盾になる。
清瀬が椅子を回して言った。「明日、会見を打つ。夜には無理だ。 “言わない自由”と“言う義務”のバランスを、今夜つくる」彼女は鏡で自分の目の下の隈を見て、笑って消した。「『ご心配』の文言、三回目で薄くなる。だからフレーズを回す。 『ご不便』『ご迷惑』『ご理解』――どれも嫌いだが、どれも必要」
九重がそれを聞いて、ふと尋ねた。「あなたは、そういう言葉を言うたびに、どこかが減る?」清瀬は肩をすくめた。「減るし、増える。 減った場所には、仕事が増える」「それは、どちらにしろ、あなたにとっては“時間の価格”だね」「そう」清瀬は笑った。「私は時間でできている」
14
同じ頃、暗いアパートの一室。匿名SNSに、黒い画面のスクリーンショットが上がる。「これうちの親会社。今、地獄」“地獄”は派手な言葉で、派手な拡散を生む。スクリーンショットの端には、赤いバナー。「48時間」。「無反応は大間違い」「払え」「払うな」「警察に言え」「警察は何もしない」――無数の口が、無数の知恵を出す。知恵は無料だ。無料の知恵は、高くつく。
三崎の個人スマホが震え、友人からのメッセージがstackに積まれる。「ニュース見た。お前のとこ?」「大丈夫?」「暗号資産ってどうやって払うの?」彼は返さない。返すと、線がこちらに引かれる。線は、会社の外に伸びる。線の先に、赤いバナーがぶら下がる。
15
深夜零時。砂時計は「24:00:00」を割った。赤いバナーの右上に、小さな紙飛行機のアイコンが点滅する。
進捗は?我々は待つ。待つのは無料ではない。あなた方の“時間の価値”を、我々は尊重する。
“相手役”がすぐに返す。
承認に時間がかかる。我々は、手続きに従う必要がある。あなた方の“評判”について、我々は理解している。
茅野が、背もたれに体重を預けた。「ここまで、相手は“教科書通り”だ。 こちらが無反応なら、今ごろ第一波が出ていた」九重が頷く。「無反応の代価は、常に“相手の台本に沿って動かされる”こと。 反応の代価は、“こちらの台本を書く労力”。 私は後者に払う」彼女の声は疲れていた。疲れも、また代価だ。代価は、明細書に載らない。
16
東雲工場。夜勤の終了時間が近い。内海はCIPタンクのバルブを閉め、配管から落ちる最後の一滴が床に広がるのを見た。その一滴は、昼の温度を思い出させるほど熱くはない。冷えた一滴。冷えた一日。日付変更線は、誰にも公平に訪れる。だが、赤いバナーの「48時間」は、誰にも公平ではない。
保全の柴田がヘルメットを脱ぎ、汗の塩を指でなぞる。「明日、動くかな」内海は答えない。動かす。動かすが、動くかは別だ。動くかどうかは、ここにいない人たちの言葉の中で決まる。
17
二日目の朝。会見の会場に、早い記者が脚を組んでいる。清瀬は台本を手に、壇上のマイクの高さを調整する。壇上から見る椅子の列は、いつ見ても別の生き物に見える。彼女は台本の一段落目を小声で読んだ。言葉が、口から出るときに重くなるのが分かる。「ご心配」「お詫び」どちらも安く、どちらも高い。安いのは、どこでも言えるから。高いのは、何度も言うと、何かが減るから。
舞台袖で九重と茅野が短くうなずき合う。九重のスーツには皺が増えていた。皺もまた、代価だ。彼女はマイクの前に立ち、目の前のカメラの光と、頭上の照明の熱に瞬きした。「当社の一部システムに不正アクセスがあり――」言葉が始まる。言葉は、赤いバナーを隠せない。だが、赤いバナーの上に透明な膜を掛ける。
会見の最中、監視室ではチャットが動いた。
あなた方の会見は見た。誠実だ。だが、時間は落ち続けている。昼までに、合意か、次の段階か。
“相手役”が返す。
あなた方の“評判”に懸けて、公開を遅らせてほしい。我々は“対策費”の承認に近づいている。御社も“ビジネス”だろう。こちらも“ビジネス”だ。
ビジネス。この言葉は、今日ほど多義的で、今日ほど救いのない響きを持ったことはない。
18
相模の物流センターは、二日目の朝の方が静かだった。静けさは、諦めではない。静けさは、体力の節約だ。戸川は、トラックの運転手に紙コップのコーヒーを配りながら、「午後には動く」と言った。嘘ではない。希望も、また在庫だ。在庫は、劣化する。早く消費しないと、使えなくなる。
若いスタッフが、伝票の束を抱えて走る。走る姿は、どこか滑稽で、どこか尊い。滑稽さと尊さの間に、人間はいつも立っている。
19
昼過ぎ。「48時間」は「18:07:12」に痩せ、画面の赤は少し褪せて見えた。褪せたのは、こちらの目だ。見慣れた赤は、警報であることをやめ、風景になる。風景になった警報ほど、恐ろしいものはない。
三崎は、モニターの輝度を下げ、目頭を押さえた。眠気が、失われた時間の上に薄く積もる。眠気は敵ではない。眠気は、体がまだここにいると教える信号だ。信号が消えると、体はどこかに行く。彼は、まだここにいたいと願った。
“相手役”がチャットの中で、最後の一押しをした。
減額に応じるなら、第一波の公開先送り。復号鍵の完全版をテストで渡せ。こちらは“対策費”の支払準備に入る。それが最も“評判”を守る方法だ。
相手は短く返した。
30%減。第一波は24時間先送り。テスト鍵は渡す。あなた方の“誠実さ”に対価を。
茅野が、眼鏡を外し、鼻梁を押さえた。「ここが折れどころだ」九重が頷く。「“支払い”の議論をする。 “どうやって支払うか”ではなく“なぜ支払うか”。 その理由は、明日にも、来年にも、自分の中で説明できるものでなければならない」
会議室に沈黙が落ちる。沈黙は、利子を生む。三崎は、プロローグの夜に茅野が言った「沈黙の利子」という四文字を、胸の奥でなぞった。利子は、いつか誰かが払う。払うのは、紙の上の数字ではなく、紙のこちら側の生活だ。
20
夕刻。相模のセンターのゲートが開き、ひと台、またひと台、トレーラーが出ていく。紙の伝票が風にひらつき、誰かがクリップで押さえる。「少し動いた」戸川が言う。少し。少しは、ときに全てだ。全ては、ときに少しだ。
東雲工場では、内海が配管の温度計に耳を当てていた。金属は喋らない。だが、温度は話す。温度の言葉は、手に残る。彼は、ねじを一つ締め直し、工具箱を閉じた。明日、動く。動かす。赤いバナーが消えなくても、動かす。動かしながら、赤いバナーと付き合う。それが、現場の“交渉”だ。
21
夜。会見は終わり、ニュースは一巡した。SNSでは、別の話題がトレンドに上がり、赤いバナーのスクリーンショットは、やや古い画像になり始める。“忘却”もまた、時間の一部だ。忘却は、味方であり、敵でもある。味方なのは、傷口を乾かすから。敵なのは、同じ傷を繰り返させるから。
監視室のチャットに、相手から短くメッセージが届く。
良い一日を。明日、また。砂は、落ちている。
三崎はモニターを見つめ、指先で机の端をトントンと叩いた。“明日、また。”この一文は、脅しでもあり、生活でもある。彼は思う。相手にも、明日があり、また、がある。私たちにも、明日がある。その“また”を、どんな形で迎えるか。
茅野が小さく椅子を引いた。「“無反応の代価”を、今日は払わずに済んだ」「明日は?」と島崎。「明日も、払わないようにする」茅野は笑い、笑わない目をした。「代わりに、言葉の代価を払い続ける。 言葉は、安くない」
九重は窓の外を見た。街の灯りがまた深くなり、川面の黒が広がる。彼女は明日の朝に携える言葉を、頭の中で並べ直した。従業員に。取引先に。投資家に。そして、自分自身に。「なぜ支払うのか」「なぜ支払わないのか」どちらの選択でも、彼女は自分に説明しなければならない。説明できる自分でいること。それが、彼女の職業倫理だ。
清瀬はオフィスの隅の鏡に向かい、もう一度だけ口紅を引いた。彼女は声に出して言った。「言葉は盾。 盾には傷がつく。 傷は、次の言葉を強くする」鏡の中の自分は、少しだけ頷いた。
22
夜が深くなるほど、赤いバナーの赤は黒に寄っていく。赤は、最初の衝撃を失い、疲れた目に溶ける。だが、そこに書かれた数字は、容赦なく痩せていく。「48時間」は「12:03:59」。数字が一つ減るたび、どこかで何かが固まる。糖液。噂。信頼。そして、決意。
“相手役”は静かにPCを閉じ、どこかの夜の台所でコップの水を飲む。彼/彼女にも、明日がある。明日の交渉に備えて、眠る。眠れるかどうかは、別だが。
三崎は、監視室の天井の白い四角を見つめる。蛍光灯のちらつき。空調の風。遠くの複合機の熱。全部、昨夜と同じなのに、全部、少し違う。違うのは、彼の中の何かが剥がれ、何かが付いたからだ。剥がれたのは、無邪気。付いたのは、重み。どちらも、代価だ。
彼は、机の引き出しから予備のイヤホンを取り出し、片耳だけ挿した。音楽は流さない。無音のイヤホンは、世界を少しだけ遠ざける。遠ざけた分だけ、画面の赤が近づく。彼は背筋を伸ばし、手首を回し、もう一度キーボードに手を置いた。
こちらは対応中。進捗、共有する。明日、午前十時。
送信。返事は来ない。それでいい。“無反応”でいるのは、こちらの番ではない。こちらは、反応し続ける。必要なだけ。必要以上には、しない。
深夜二時。赤いバナーの数字は、さらに痩せた。眠っている者の数と、起きている者の数が入れ替わる。街は静かだ。会社は静かではない。静かでないことに、誰ももう驚かない。
三崎は、モニターの端に指で触れた。ガラスは冷たい。その冷たさが、彼を少し正気に戻す。「48時間」の告知は、待ち時間の告知ではない。“決断の締切”だ。締切は、どの職業でも、同じ顔をしている。ただ、今日の締切の顔は、黒い砂時計を持っている。
彼は目を閉じ、短く数を数えた。「一、二、三」目を開ける。画面に、まだ赤いバナー。砂は落ちる。誰かが、それを止める。誰かが、それに値札を付ける。誰かが、その値札にサインをする。
そして、誰かが、そのサインの意味を、明日にも、来年にも、自分に説明する。それが、ここにいる全員の、今夜の仕事だ。
――無反応の代価。払わなかった代わりに、支払う代価の明細が、静かに厚みを増していく。その紙束は、赤いバナーの色を吸い、いつか白に戻る日を待っている。白に戻るまで、人は言葉でつなぎ止める。止まったラインの向こうで、誰かが手を動かし続ける。止まった世界の上で、誰かが秒針を見つめ続ける。
そして、二日目の夜、黒い砂時計は、なお回っていた。
第一部 無反応の代価
沈黙は燃料――返事をしないほど強まる圧力
1
午前九時、社内ポータルのトップが白く凍りついたみたいに更新されない。「続報は一時間ごと」と書かれた灰色の帯は、ちょうど一時間前の時刻で止まっている。更新ボタンを押す指先に、何も戻ってこない。空白は、憶測を呼吸させる温室だ。
コールセンターの島の中央で、ヘッドセットを片耳に掛けた若手のオペレーターが、鏡に書いた文字を読むみたいにスクリプトをなぞる。「はい、現在、一部のシステムに不具合が――」言い終わる前に、相手の声が重なる。「“不具合”って、つまり攻撃でしょう? うちの発注、今日の便は?」オペレーターは、マニュアルのページを手の甲で押さえながら「現時点では確認中で──」「確認中じゃなくて、答えをよこして」細い針が、透明な膜を何度も突く音がする。膜は破れないまま薄くなり、光を透かす角度を変える。
もう一台の席で、年配のオペレーターが静かに受話器を置いた。「『個人情報、漏れた?』だって」「何て答えたんです?」「『必要があれば直ちにご連絡します』」「必要があれば、って、いつが必要なんですかね」彼女は肩をすくめた。「『必要』って言葉は便利ね。言った人間の責任を薄める」
机の上のモニターの隅には、相手の待ち時間を示す砂時計の小さなアイコン。ここにも、黒い砂が落ちている。
2
十六階の監視室。“相手役”は、キーボードの上で指を止めたまま、チャットのウィンドウを睨んでいる。
午後までに返事を。砂は、落ちている。それから、静寂。相手は次の言葉を待っているのではない。こちらの沈黙に、意味を与えようとしている。沈黙が長いほど、相手は「効いている」と解釈する。効いている相手には、次の薬を増量する。商売はいつも、需要のあるところに供給する。
「会長が来る。取締役の何人かも」茅野が小声で告げる。「“支払うな派”と“現実見ろ派”のバランスは?」と島崎。「今のところ、前者が声が大きい。後者は数字を握ってる」
三崎はモニターを三つ並べ、左にログ、中央に交渉、右に社内チャットを置いた。社内チャットは「お知らせ」だけが固定化され、一般の発言は止められている。止められていないのは、非公式のメッセージングアプリだ。そこに流れてくるスクリーンショットや尾ひれの付いた語尾は、会社の公式文書より速く、太く、熱い。
「内部告発、出ました」広報の清瀬が扉の陰から言い、タブレットの画面を見せる。匿名掲示板に、「中の人です。会社は支払います」と書かれた短い文。「誰だ」茅野が低く言う。「分からない。文体は一般社員の癖じゃないけど」清瀬は少し考え、「“支払う/支払わない”の二元論に引きずられるな。あれは炎上に最適化されたレトリックだ」と自分に言い聞かせるみたいに呟いた。
九重は、会議室で半透明のカップに入ったコーヒーを片手に、財務の若手に数字を言わせる。「ライン停止の粗利損失、一時間一千二百。物流の延滞ペナルティ見込み、午前中で三百。外注先の稼働補償、日次で二百。コールセンターの追加人件費が──」数字は列になる。列は壁になる。壁が積み上がると、誰かが梯子を要求する。梯子――すなわち“決断”。だが、会議室の空気はまだ階段に頼りたがっている。階段はゆっくりだ。ゆっくりは、高い。
3
相模の物流センター。ゲート前にトレーラーの列が延び、ドライバー同士が窓越しに顎で会釈する。センター長の戸川は、額をタオルで荒く拭いながら、列の最後尾まで歩いた。「出すのは夕方からになる。申し訳ない」「いいっすよ、慣れてますから」若いドライバーが笑う。「でも、上は怒るっすね。怒るのも仕事なんで」怒るのが仕事。怒られるのが仕事。その往復運動だけで、今日一日の燃料が燃えていく。燃料は、高い。
倉庫内では、手書きの伝票がクリップで挟まれ、段ボールの上に置かれている。紙は滑る。鉛筆は折れる。プリンタは、赤いバナーの前で沈黙する。沈黙は、倉庫の空気を重くする。重い空気は、腰に来る。
戸川のスマホに、取引先からメッセージが入る。《うちの部長が“契約上のペナルティ、全額請求”って息巻いてます。なんとかならないですか》《なんとか、の中身》《…“誠意”って言ってました》誠意、という単語は、現場では重い鉄球のように転がる。ぶつかったものを、鈍くへこませる。
4
午後一時。“相手役”がチャットに、短い文を落とす。
承認プロセスに、追加の段取りが必要になった。当局と保険会社への連絡で、時間を要する。猶予を希望する。すぐに返事。理解する。ただし、沈黙は悪いサインだ。あなた方が沈黙するほど、我々は“刺激”を上げる。
刺激。その単語の直後、会社の広報サイトに微弱なDDoSが来た。監視室の端末で、リクエストの折れ線が毛羽立つ。「小突いてきたな」島崎が言う。「無反応だと、次は“二重”の片方を少し見せるはずだ」“相手役”が無言で頷く。防御は上げる。上げながら、言葉の防御を上げる。防御の言葉は、攻撃の言葉より短い。短い言葉は、人を焦らせる。焦りは、燃料だ。
5
午後二時過ぎ、社員の個人アドレスに、奇妙に丁寧な日本語のメールが届き始めた。
あなたの会社は、我々と対話しています。しかし、沈黙が続いています。あなたのファイルの一部が、これです。会社に“対話”を促してください。添付されたPDFには、去年の健康診断の結果、扶養家族の人数、通勤経路。通勤経路。九重は紙の端を持つ手を強くし、呼吸を整えた。顔が浮かぶ。顔が浮かぶと、意思決定は鈍る。鈍らせないために、彼女は椅子に深く腰を沈め、机の角にメモを置いた。《数字に戻れ》文字は固い。固い文字に、柔らかい心を縛り付ける。
社内では、勝手に立ち上がったチャットルームがいくつも開かれ、「私のところにも来た」「どこに通報すれば」と流れる。清瀬が即時の案内文を投げる。
不審メールは開かないように。添付は触らないで。受け取った場合は、所定のフォームに転送を。「『所定のフォーム』って、どこにあります?」と誰か。「ポータルの“緊急”ボタンの下です」「ポータル、今、重いんですけど」沈黙は、伝言ゲームの途中で意味を曲げる。曲がった意味は、もとに戻らない。
6
午後三時、匿名のリークサイトに、黒い背景の上で白い文字が踊った。
誠実さを見せよう。まずは100件。あなた方の沈黙が続くなら、次は1,000件。そこには本名がない。代わりに、社員番号、部署、内線、顔写真のサムネイル。「名前を削ってるの、いやらしいな」島崎が言った。「本人にだけ刺さる」清瀬は、机に置いた手を一度だけ握った。「『確認中』は、もう通じない。社内への通知文面を変える」一部の個人データが社外に流出した可能性が高いことを確認しました。該当者には個別にご連絡します。クレジット監視サービスの提供を準備しています。社外への拡散や無用な二次被害を避けるため、SNS等でのスクリーンショット投稿は控えてください。「遅い」と胸の内側で声がした。だが、これが今の速さの限界だ。速さには、社内の通路の幅と曲がり角の角度が反映される。
社長室では、会長が眼鏡のフレームを光らせながら言う。「支払いは、倫理に反する」九重が真っ直ぐに返す。「取引先に支払う延滞ペナルティは、倫理に適うのですか」会長は一瞬、言葉を探し、机の上のボールペンに視線を落とした。「倫理は、後からしか言葉にならない。今は、数字と人のバランスを取るしかない」
“相手役”がチャットに入れる。
流出のサンプルを確認した。公開を止める代わりに、猶予をくれ。こちらも“誠実”でいく。相手は、短い間を置いて返す。6時間。その間、あなた方は沈黙しないこと。沈黙は、我々を失望させる。
失望。それは、以前の仕事で顧客に言われた言葉だ。三崎は、なんとも言えない生理的な反発を覚えた。失望させないように努める対象が、今は攻撃者だという事実。現実のトリックは、倫理に手品を仕掛ける。
7
午後四時半。取引先の大手小売から、営業本部長宛に通告が届く。《本日の棚割り変更会議において御社のカテゴリーを一段下げる。供給安定性への懸念による》棚は、数字よりも残酷に心を折る。棚とは、目に見える信用だ。目に見えるものほど、失うと痛い。営業本部長は電話を握りしめ、無言で通路を歩く。言葉の濁りを、別の言葉で上書きする時間がない。彼にとって“沈黙”とは、口から言葉が出ないことだ。だが今日の沈黙は、会社の壁に蓄積される圧力だ。目に見えないタンクに、見えないガスが溜まっていく。
8
その頃、東雲工場では、内海が機械の下にもぐり、薄い灯りの中で手を伸ばしていた。配管の継ぎ目から、清掃液の薄い雫が落ちる。ぽと、ぽと。この音は、現場の沈黙ではない。現場の沈黙は、声が枯れたあとに残る息づかいだ。「大丈夫ですか」と新人が覗き込む。「大丈夫にする」内海は答える。これは彼の職業の定型句で、今日ほど重く響いたことはない。赤いバナーの前で、彼らは日常を維持する。日常の維持が、最も高い仕事だ。最も安く扱われがちな仕事だ。
工場長の狩野が、事務所の電話を切って深く息を吐く。「『安全第一』って文言、今日ほど空々しく見えた日はないな」「空々しく見えようが、守るのはそれです」柴田が言う。「それが守れなくなったら、すべておしまいです」“すべて”という単語は軽々しく使うには重すぎる。だが、今日は適切だ。狩野は頷き、ヘルメットをかぶり直した。
9
午後六時、取締役会。ガラスのテーブルに、書類の山とモバイルバッテリーが並ぶ。九重は、短いプレゼンを二つ用意していた。「支払わない場合」「支払う場合」。どちらも、嘘を含んでいない。どちらも、嘘を含んでいないが、後悔の芽を含んでいる。
「『支払わない場合』は──」・出荷停止は最長で七二時間続く可能性。・第一波公開は拡大、従業員と取引先に二次被害。・保険適用は維持。・復旧費用は増。・ブランド毀損は長期化。「『支払う場合』は──」・再攻撃リスク(ゼロではない)。・法的リスク(制裁対象チェック必要)。・倫理的な批判。・短期の復旧加速。・公開抑止の可能性(保証ではない)。彼女は、最後に言った。「どちらも、“正しい”はない。あるのは、“納得できる”かどうかです」
会長が口を開く前に、広報の清瀬が短く手を挙げる。「私からは一点。“沈黙”の扱いです。 支払うにせよ、支払わないにせよ、私たちが沈黙している時間は、攻撃者の論理で上書きされます。 明日の朝までに、従業員向け、取引先向け、一般向けの『言うこと/言わないこと』を確定させたい。 “言わない”は選択です。“黙る”は放棄です」
会長は腕を組み、天井の照明の輪を見た。「……お前の言うことは、正しい。 だが世の中は、“正しい”より“きれい”を好む」清瀬は笑わなかった。「きれいに見せる技術は、もう持っていません。持っていると誤解されるのは、私の仕事の副作用です」
“相手役”の端末が震える。
6時間、過ぎた。あなた方の誠実さは、どこに?次の段階に移る。次の瞬間、リークサイトの更新。100件が1,000件になり、取引先の購買担当の名が混じる。メールの件名が変わる。あなたの取引先は、もう知っている。あなたの沈黙は、彼らの怒りを買う。怒りは、最も廉価な燃料だ。安い燃料は、よく燃える。よく燃えるものは、あとに何も残さない。
10
午後七時、ニュース番組のトップ。“情報流出の疑い 大手日用品メーカー”キャスターの声は中立で、テロップは明確だ。「“疑い”って、つまりそうなんだろうが」スタジオでコメンテーターが笑う。笑いは、受け手の緊張を緩める。緩んだ緊張の隙間に、浅い正義が入り込む。浅い正義は、深い現場を見ない。見られない現場で、内海は手を洗い、爪の間の汚れを落としている。落ちない汚れが、今日の印だ。
九重のスマホに、知らない番号から電話が入る。「今、テレビ観てます? あなた、お子さん、同じ学校でしたよね」声は柔らかいが、棘がある。「そうですか。ご心配ありがとうございます」彼女は丁寧に答える。電話を切ったあと、机に置いた自分の手が小さく震えているのに気づく。震えは、沈黙の副作用だ。言葉に出せないものが、神経の回路で騒ぐ。
11
午後八時過ぎ、攻撃者から別の刺激。
我々は、あなた方の社員に直接、“助言”した。あなた方が沈黙するほど、我々は“個別最適化”する。最適化。この言葉を、三崎は別の文脈でしか知らなかった。最適化は、善だと思っていた。今は、冷たい善だと思う。冷たい善は、刀の刃みたいに光る。
“相手役”が、相手の文体の微細な変化を指で追う。改行の位置、語尾の反復、皮肉の温度。相手は、組織の中で役割を持つ誰かだ。仕事だから、夜は短い。仕事だから、明日も続く。仕事だから、評判を気にする。評判を気にする相手は、交渉できる。沈黙は、その可能性を削る。
12
午後九時、社内の非公式チャットに一枚の画像が流れる。経費削減の名の下にセキュリティ更新が後ろ倒しになったという会議資料のスクリーンショット。「これ、去年のだよな」「誰が流した」「“沈黙”のせいだよ」誰かが打つ。沈黙は、犯人探しのルーレットを速く回す。ルーレットが速いほど、針は乱暴なところに刺さる。刺さったまま、抜けない。
茅野は、資料のフォントと余白で作成者を推測し、眉間を押さえる。「火種の管理、間に合っていない」清瀬は小さく息を吐く。「“言わなかった”人間が、いちばん強い声を持つ。今は」九重は、机に置いた水のコップを半分飲み、舌を湿らせて言う。「沈黙は、独り言を増やす。独り言が集まって、合唱になる。 その合唱は、事実を歌わない」
13
午後十時、取締役会ふたたび。「支払いに向けての準備」を始めるかどうか。議論は、倫理の辞書と法律の辞書と会計の辞書が、机の上で同時に開かれる音を立てる。“相手役”がオンラインで参加し、落ち着いた声で国境を越える送金の手順の中立的説明を行う。説明は、手順の固有名詞を可能な限り省くが、それでも空気がざらつく。誰もが知ってはいけないことを、誰もが知りたくなる。知った瞬間、その人の中に小さな暗い部屋が生まれる。そこに、今日の沈黙が住み着く。
会長が最後に言う。「“正解”はない。 ただ、明日朝までに“合意”は必要だ。 何も決めないことは、決めることより高い」九重は頷く。「合意までの間に、沈黙を言葉で埋める。 清瀬さん、従業員向けの“追加の言葉”をもう一本」清瀬は、すでに用意していた文面を取り出す。
“沈黙”は、会社の方針ではありません。伝えられる情報には段階があり、今は“言えること”が増えつつあります。あなたの不安は、会社の“不安”でもあります。あなたの時間を奪わない形で、順に返していきます。言いながら、自分で苦笑する。「言葉で時間は返せないのに」
14
午後十一時。リークサイトがまた更新される。今度は、古い契約書のテンプレートと、過去の監査報告書の抜粋。直接的な致命傷ではない。だが、相手は「次」を予告する。
次は、取引先。あなた方の沈黙は、彼らの沈黙を破る。牙を持たない言葉ほど、怖い。牙が見えないから、避けられない。
取引先の購買部長から、九重にメッセージ。《明朝までに、“いつまで”を教えてください。“どれだけ”でなく》“どれだけ”より“いつまで”。時間は、量よりも節目で扱われる。節目を言えないことが、最大の無力感を生む。
“相手役”が、相手に短い文を送る。
“いつまで”を買いたい。その価格を、あなたが出すのなら。返事。“いつまで”は、あなたが決める。我々は、その決定に価格を付ける。この冷たさが、いちばん合理的で、いちばん寒い。
15
午前零時を回る。三崎は、空調の風が変わる音で日付を知る。二十四時間前より、画面の赤は黒に寄り、数字は細くなった。社内の廊下は、警備員の靴音だけが響き、床面のワックスが夜を反射している。彼は目を閉じ、短く数を数えてから、またログに目を落とす。エンドポイントのいくつかで、やっと陽性の反応。封じ込めが効き始めた。“動く”兆しは、小さな緑の点で表示される。その緑が、体温みたいに温かく見えるのは錯覚かもしれない。錯覚でもいい。錯覚は、今夜の燃料になる。
16
東雲工場の夜は、短い輪になって回る。CIPを終えた配管から、また別の配管へ。ホースの取り回し、バルブの順番、温度の段取り。内海は、腕時計のベゼルを親指で回し、時間を分割する。時間を分割できる人間は、沈黙に耐えやすい。分割できない人間は、沈黙に流される。新人は、沈黙に流されないように、声を出して段取りを復唱する。声は、ここでは正義だ。
工場長の狩野が事務所で机に突っ伏し、三分だけ目を閉じる。眠りに落ちる直前、赤いバナーの数字が夢に現れ、目が覚める。「起きました?」柴田が笑う。「寝たふりも才能ですよ」「才能があるなら、別の仕事してるよ」狩野は言い、体を起こす。才能がなくても、現場は回る。回すのが、仕事だ。
17
午前一時半。社内の非公式チャットに、今度は“支払うべきだ”という長文が投下され、別の部屋に“支払うな”という長文が投下される。長文は、どちらも時間を奪う。読む時間、反論を書く時間、怒りを鎮める時間。時間は、最も貴重な資源で、誰もが安易に消費する。安易な消費は、翌日に利子を付けて戻る。
清瀬は、非公式チャットのスクリーンショットを見て、そっと端末を伏せる。彼女は知っている。声の大きい人が、悪いわけではない。沈黙に耐えられない人が、声を大きくするだけだ。そして、その声は、別の誰かの沈黙を増やす。
18
午前二時。“相手役”が、チャットに一行落とす。
こちらの“合意”は近い。もう少し、砂を遅らせてくれ。返事はない。沈黙。沈黙の向こうで、相手は数字を調整しているのだろう。価格の変動は、心拍の変動に似ている。速くなる。遅くなる。遅くなるところに、眠気が入り込む。眠気が入り込むと、判断が遅くなる。遅い判断は、価格を上げる。
19
午前三時。九重は、会議室のソファで目を閉じ、机の端に置いた腕時計の秒針の音を数える。秒針は正直だ。正直は、残酷だ。彼女は、明日の朝に社内で話す言葉を、頭の中で並べ替える。「“支払う”にせよ“支払わない”にせよ、私たちはあなたたちの時間を奪った。その事実は消せない」「その代わり、私たちはあなたたちの時間を守るための決断をする。その決断は、私たちの時間を削ることで支払う」時間で借り、時間で返す。金で借り、信頼で返す。どの通貨も、為替は悪い。
20
午前四時。リークサイトがまた点滅する。
取引先の名を出すのは、こちらも望まない。だが、あなた方の沈黙が続くなら、そうする。合意は、まだ届かない。“相手役”のキーボードの打鍵がわずかに荒くなる。荒いリズムは、画面の文字に移る。相手は、それを嗅ぎ取る。深呼吸を。我々は、あなた方の“人間”を嫌悪しない。嫌悪するのは、沈黙だ。呼吸のメタファーを使う攻撃者は、心理のプロだ。プロは、相手の鼓動を見て値付けをする。沈黙は、鼓動を速くする。速い鼓動は、高い。
21
午前五時。朝刊が配られ、通勤電車の中で折りたたまれ、見出しだけが人の目を撫でていく。「“疑い”」の二文字は、朝の胃に刺さる。刺さったまま、会社のゲートを通る社員が、社員証をかざす。ピッ。いつもの音が、今日は遠い。十六階の監視室では、蛍光灯がまた白い矩形を天井に描く。三崎は、目の乾きに目薬を差し、再び交渉ウィンドウを最大化する。
こちらは、沈黙しない。ただ、決定には時間が要る。我々は、時間の価格を理解している。返事は、五秒で来た。よろしい。この5秒が、あなた方の評判を救う。
22
午前六時過ぎ。合意に向けての最終ラインが引かれる。法務は、禁止事項のリストを短くまとめ直し、保険会社は、支払いの条件に付随する報告義務の項目を並べる。外部の“相手役”は、チャットの向こうで、表情を持たない声を保ち続ける。茅野は、PC画面の隅で、OTの再開シーケンスの図を開いている。「ここまで来たら、言葉の精度を上げろ。 “言えること”は増えた。 “言わないこと”は、さらに明確に」清瀬は頷く。「『支払い』という言葉を使わずに、現実を伝える。 『対策費』『復旧のための手段』『公開の抑止に向けた取り組み』。 それは回りくどく見えるが、今はそれでいい。 真っ直ぐな言葉は、真っ直ぐ燃える」
23
午前七時。社内ポータルが、やっと予定通りに更新される。従業員向けに、FAQの第二版。
Q:私のデータは漏れましたか。A:現時点で把握している範囲では、一部の人に影響が出ています。 該当する方には個別にご連絡します。Q:会社は攻撃者に“支払う”のですか。A:攻撃者の要求に応じるかどうかは、法務・監査・外部専門家と協議のうえで判断します。 いずれにせよ、再発防止と復旧を最優先に進めます。単語を避け、意味を示し、時間を稼ぐ。それが、今日の“誠実”の形だ。
社内の空気に、少しだけ酸素が戻る。非公式チャットの長文の数が減り、短いスタンプが増える。スタンプは、言葉より鈍い。鈍いものは、今は優しい。
24
午前八時。東雲工場。内海が、ラインの脇で短く背伸びをし、関節の固さを確かめる。機械の鳴きが一段、音程を変えた。電源が入り、モーターが熱を持ち、ベルトが静かに動き出す。まだ、完全ではない。だが、動く。動きながら直す。直しながら、動かす。現場の辞書には、その順序が最初に載っている。
新人が、こっそりとスマホを取り出して画面を覗く。母親からのメッセージ。「あんたの会社、大丈夫?」彼は迷い、ポケットにしまう。大丈夫ではない。だが、大丈夫にする。彼は、先輩の背中を見て、手を動かす。
25
午前九時。取締役会の判断は、まだ言葉になっていない。だが、合意は近い。合意に向かう過程で、沈黙の量は減り、言葉の密度が上がる。密度の高い言葉は、短いのに重い。重い言葉は、落ちる。落ちた先で、誰かの一日を変える。
“相手役”が最後の文を用意する。
合意に達した場合、我々は“鍵”の完全版を要求する。あなた方は、“公開停止”の証拠を提示すること。互いの“評判”のために。攻撃者が“評判”を言い、こちらが“評判”を言う。評判は、最も扱いにくい通貨だ。価値は、市場に預けられているから。
茅野は、三崎の肩に軽く手を置いた。「よくやった」その一言は、彼の体にしみ込む。沈黙に耐えた者に、一番必要なのは、短い言葉だ。短い言葉が、長い夜を区切る。
26
午前十時。“相手役”が送信を押す。
我々は、沈黙しない。ただ、あなた方が求める“時間”の価格は支払う。あなた方も、我々が求める“沈黙”の価格を支払うべきではない。数秒ののち、相手から返事。合意できる。こちらも、沈黙しない。ただし、あなた方が沈黙したときには、我々は“刺激”する。約束は紙より薄い。だが、今はそれでいい。薄い約束が、今日の橋になる。
27
午前十一時。広報の清瀬は、会見の二稿をスクリーンに映し、言葉を調整する。「“遺憾”は使わない。薄い。 “申し訳ない”は残す。生活の言葉だから」「“ご理解”は?」と誰か。「削る。理解をお願いするのは、こちらの怠慢のときだけでいい」語尾を整えて、息継ぎの位置を変え、言葉の骨組みを剥き出しにする。飾りは火がよくつく。骨は燃えにくい。燃えにくい言葉だけを残す。
28
正午前。相模の物流センターで、戸川が小さく両手を擦り合わせる。「行け」ゲートが開き、トレーラーが一台目の重いタイヤの音を残して走り出す。拍手はない。現場は、拍手をしない。拍手をすると、次の失敗の音が聞こえないから。静かな動き出しが、いちばん大きい。
戸川のスマホに、朝のメッセージの相手から別の通知。《部長、ペナルティの件、柔らかくなりました。“動き出した”と伝えたら》“動き出した”。これ以上の言葉は、ない。
29
午後。取締役会の決定は、最終の文言調整に入る。九重は、机の上でペンを転がし、深く息を吸って吐く。「どちらの決定でも、私たちは批判される。 批判に耐えるのは、私たちの仕事だ。 沈黙に耐えるのは、誰の仕事でもない」彼女は立ち上がり、会議室の窓から川の黒を見下ろす。風が吹いて、波紋が走る。波紋の中心に、今日の沈黙が沈んでいく気がした。
“相手役”の画面に、最後の条件が整列する。鍵、公開停止、今後の接触禁止、痕跡の削除――どれも、空気のように信用できない。どれも、空気のように必要だ。
30
午後三時。合意が、言葉になった。詳細はここでは書かれない。書かれないことが、今は正確だ。書かれないまま、現場は少しずつ動き、ニュースは少しずつ静まり、社員の非公式チャットはスタンプだけが残って流れが遅くなる。遅くなる流れは、やがて止まり、堆積する。堆積したものの上に、明日が積もる。
三崎は、モニターの砂時計がひとつ、またひとつ消えていくのを見た。完全には消えない。砂は、机の隙間に入り込み、靴の裏に付き、家の玄関にまで運ばれる。それでも、少しずつ、砂の流れは細くなる。細くなる流れは、目で追える。目で追えるものは、手で触れる。手で触れるものは、直せる。
茅野が、机を軽く叩く。「終わりじゃない。 でも、最悪の“沈黙”は、もう燃料にならないはずだ」清瀬が頷く。「明日の会見で、“沈黙”のことを話そう。 『黙らなかったこと』『黙ってしまったこと』、両方を」九重は目を閉じる。「そして、次のために、沈黙の値札を、書いておこう」彼女の中で、今日の長い一日が、ようやく日付を越え始める。
沈黙は、燃料だった。返事をしないほど、圧力は強まり、値段は上がり、怒りは燃え、噂は膨らんだ。返事を続けることは、損だと思われがちだ。だが、返事をしないことの損は、帳簿に載らない。載らない損は、次の決算に持ち越される。持ち越された損は、誰かの夜に積もる。
その夜は、ようやく薄くなりつつあった。黒い砂時計は、回るのをやめたわけではない。ただ、回る音に、こちらの言葉が混ざり始めた。言葉は、火に弱い。だからこそ、燃え尽きるまでに、次の言葉に引き渡す。それが、ここにいる全員に残った、唯一の技術だった。
第一部 無反応の代価
非常電話会議――CFOと工場長、止血か公表か
1 招集
午前十時前。十六階のガラスの会議室に、薄い紙コップの音が規則正しく並んだ。呼び出しは三分前。件名はひとこと、「非常:電話会議」。参加者は、CFO九重理沙、CISO茅野俊哉、広報室長の清瀬、法務部長の荒木、東雲工場長の狩野、相模物流センター長の戸川、監視室から三崎と島崎、そして外部の“相手役”。モニターの上部には壁掛けカメラ、下部に赤いタイムコード。右隅には無愛想な砂時計のアイコンが回っている。画面の端の小さな数字は「17:43:12」。彼らに残された猶予の顔だ。
「音、届いてます?」スピーカーフォンの向こうから工場の空気が混じる低いノイズが返ってくる。圧縮空気の吐息、フォークリフトのバックブザー、金属が軽く触れ合う音。自社の心臓音だ。
「聞こえる。工場長」九重が短く答える。眼の下には、くっきりと疲れの影。だが声は真っ直ぐで、余計な起伏がない。「では始めましょう」茅野が進行を受ける。「議題は二つ。止血、つまり損失の拡大をどう止めるか。そして、公表。何を、いつ、どこまで、誰に言うか」
清瀬がA4の紙束をテーブルの端に揃える。紙が擦れる音がシャリと鋭い。「会見台はいつでも起こせます。ただし言える言葉は限られます」荒木は分厚いファイルを開き、付箋の色で項目を分けた。「対外公表に伴う法的な閾値と、適切な情報開示の標準。制裁や資金洗浄関連のリスクもここに」“相手役”のアイコンには名前が出ない。気配だけがチャット欄に並ぶ。
2 現場の体温
「東雲です」狩野の声は、鉄骨の柱のようにまっすぐで、錆の匂いが混じる。「第二充填は停止。CIPは手動に切り替え済み。糖液、固まり始めてます。アルカリ、あと四十リットル。配管を生かすなら、二時間以内に次段へ回したい」
「安全は?」九重。迷わず最初の問いがそれだ。「守ってます。『安全第一』は形じゃない。今日は中身にしてます」わずかに笑いが混じったが、すぐに消えた。
「物流は相模」戸川の声は、倉庫のコンクリートの冷たさを引いていた。「紙伝票で回してます。出荷は八%だけ動いた。冷蔵品が怖い。昼を越えると一気に劣化する。棚は、もう怒り始めてる」
「コールセンター」三崎が端末を見ながら言う。「拡張回線入れましたが、つながらない、がトレンド。『個人情報は』の問いが増大。社員個人に攻撃者からの“助言メール”がバラ撒かれてます」
「つまり、現場は血が出続けている」九重はペン先でテーブルを軽く打ち、数字を並べた。「一時間あたりの粗利流出、一二〇〇。物流の延滞ペナルティ、三〇〇。二次対応の人件費、五〇。現場の手当、日割で二〇。『血』は数字です。止めなければ広がる」
「血を止めるには止血帯を巻く。圧迫は痛い」狩野。「でも巻かないと死ぬ。現場の止血は、配管を守ること。あなたたちの止血は……何だ?」
視線が一瞬、九重と茅野に集まる。「時間を買うことだ」茅野。「交渉は支払いではない。時間を稼ぐための、言葉の器だ」
3 沈黙と圧力
「ただ、沈黙の時間は燃料だ」清瀬が低く挟む。「社内でも、社外でも。黙った穴を、噂が埋める。噂は油。火の回りが速い」
「攻撃者は感情では動かない。動かす燃料は、こちらの沈黙と焦りだ」“相手役”の文字がチャットに流れる。「沈黙が長いほど、刺激は上がる。さきほど“六時間延長”の代わりに“軽い公開”を差し込まれたのは、その理屈」
「じゃあ、止血と公表の両方を一緒にやるのか?」狩野。「順番が重要です」荒木。「公表は義務であり、戦術でもある。どこまで言えば二次被害を抑え、どこまで言わなければ法的に守られるか」「守られるために黙るのは違う」と清瀬。「黙るのは放棄。『言わない』は選択。選択の理由を、明日も自分に説明できる言葉にする」
九重が頷いた。「止血のために必要な支出が、倫理の領域に触れる可能性は否定しない。だが私は、倫理を“後から書く歴史”にしたくない。今、言葉にしたい」
4 会議アプリの雑音
スピーカーフォンが一瞬ハウリングした。会議アプリの青い波形が振れ、誰かの咳払いが大きく響く。「すみません、相模です。電波が悪い。……聞こえます?」「聞こえる。続けて」「明日午前中に“動き出した”と言えるなら、棚は戻る。言えるなら、だ。言葉はフォークリフトより軽いが、効果は大きい」戸川は乾いた笑いをひとつ。「『止血している』。その一言でいい」
「現場に嘘は言いたくない」狩野の声が固い。「『止血している』と言うなら、本当に止血してくれ。赤いバナーは現場の壁に貼ってある。あれは現場の士気を奪う」
「赤いバナーは、こちらの沈黙を煽るための広告だ」茅野。「現場に貼られた広告を剥がすには、二つ必要。技術的復旧と、言葉の復旧」
清瀬が資料の一枚を指で押さえる。社内告知の下書きだ。
『止血しています』と書くのは簡単。でも読む人の血圧を上げる。だから比喩ではなく具体を。『配管温度は七〇度に維持』『物流は紙伝票で八%出荷』。具体は、落ち着かせる。
狩野は低く「それなら言ってくれ」と言った。「現場の掲示板に貼る」
5 数字と骨の音
九重は、スライドを一枚めくった。粗い計算式が並ぶ。「三案ある。A:支払いはしない。法と倫理を盾に、中長期に備える。血は三日流れ続ける見込み。B:支払いを前提に交渉。金額は減額。公開は抑止。血は一日半で止まる可能性。C:支払いは未決だが、支払いに至る“手段”だけ準備。鍵の完全性をテスト。“時間”を買う」
法務の荒木がC案のところに付箋を貼る。「Cでも、対外的には“支払いを決めた”とは言えない。だが、備えがあると相手は読む。読むからこそ、刺激を抑える可能性がある」
「Aを主張したい自分がいる」狩野。「でも現場の骨は、Cを選べと言っている。骨は嘘をつかない」
九重の表情に、微かな揺れが走った。「私はCを推す。止血の準備と、公表の準備を同時に進める。公表は段階的に。『現時点での影響』『対策の具体』『次の更新時刻』。更新の約束は、守る」
「会見は?」清瀬。「明日午前。予定を社内に先に落とす。社外には、朝のプレスで」
「“支払い”の語は?」「使わない」九重はきっぱりと言った。「『対策費』『復旧のためのあらゆる手段』。その裏で、私は自分にだけは『支払う/支払わない』を明確に言う」
6 相手役の音のない声
“相手役”の文字がまた動いた。
相手は“評判”を気にしている。彼らにとっての評判は、“約束を守る脅し屋”という歪な信用。我々が“誠実さ”を見せるとき、彼らは“誠実さの相場”に反応する。つまり、我々の沈黙をやめ、具体を挟む。“承認待ち”“監査のプロセス”“当局との連携”。彼らが理解している“ビジネス言語”で。
「鍵のサンプルは?」茅野。
先ほど入手した。九割五分は復号できる。最後のページの黒塗りは、満額での“性能保証”だと相手は言う。だが交渉で“精度の上乗せ”は取れる。
「九割五分でも現場は動く?」九重が狩野に問う。「十分に動く。ただ、残りの五厘が現場の祈りになる」狩野。「祈りは工程表にない。だが、祈りがなければ機械は動かない日もある」
九重は短く頷き、メモに一行書いた。《祈りを工程に入れない》――つまり、鍵の精度を上げるための交渉に時間を投じる、という意味だ。
7 適時開示という峠
荒木が机上の資料を指で弾く。「市場への開示の話を避けられない。『一定の影響』が明らかになれば、段階的とはいえ開示が必要になる」
「“いつまでに”の見通しは言えるのか」と九重。「『何時に何%復旧』は言える。ただ、『何日後に完全』は危険」茅野。「相手の刺激と自力復旧のクロス点が動く。固定すれば嘘になる」
「投資家には“節目”で語る」清瀬。「『翌営業日中に一報』『四十八時間後に次報』。節目は、怒りを寝かせる」
「怒りは燃料だ。寝かせなきゃ燃え移る」戸川がぼそりと言った。「倉庫の床にこぼれたアルコールみたいに」
九重は笑わなかった。比喩が生々しすぎて、笑う場所がない。
8 工場の呼吸
会議の途中で、狩野が現場の無線に顔を向ける音がした。「……はい、温調、もう二度上げて。蒸気の圧、乱れるならバイパスで。安全優先」「音、全部聞こえてるぞ」と誰かが冗談めかして言い、少しだけ空気が柔らいだ。「すまん。これがうちの“会議”だ」狩野。「止血ってな、血の匂いの中でやるんだ」九重は目を細める。「分かる」
「工場長」“相手役”が挟む。「あなたの『安全優先』は、交渉に効く。相手は、あなたたちが事故を起こすのを望んでいない。事故は警察を呼び、報道が過激になり、彼らの評判を傷つける」「脅し屋の評判なんて知ったことか」「それでも、彼らは評判を気にする。そこに付け入る」
9 電話の向こうの家
九重のスマホが静かに震え、画面に学校の連絡網アプリの通知が上がった。《今日の下校時刻、通常通り》彼女は親指で通知を消し、会議室の冷たいテーブルに戻す。「私事で悪いが」九重は言った。「いま、私の子どもの同級生の親から“テレビ見た”と電話が来る。『大丈夫?』と。 私が返すべき『大丈夫』は、社員にも、取引先にも、投資家にも、そして自分にも同時に向けて発されるべきだ。 “公表”は、そのためにある」清瀬が短く息をつく。「言葉を選びます」
10 止血案の骨組み
「止血案の骨組みを手短に」茅野がスライドを切り替える。画面に四行の箇条書き。1)OTの物理隔離を維持しつつ、工場ごとに段階復旧のプレイブックを走らせる(現場責任者:狩野)。2)相手との交渉で“鍵精度の上乗せ+公開先送り”を取る(担当:相手役+茅野)。3)C案――支払いの“手段”のみ整える(担当:九重・荒木)。4)対外公表は二段階(社内→取引先→一般)。更新時刻を明示(担当:清瀬)。
「異論」九重が求める。「異論というより、実務のメモ」狩野。「段階復旧には、人間の段取りが必要だ。現場の“手”は疲れる。手当と休憩を工程に入れてくれ」「入れる」九重。「C案の“手段”は、誰がどこまで知る?」荒木。「最小限」九重。「支払いに関する会話は、関与者以外の前でしない。記録は『対策費』の名で一本化。攻撃者にも沈黙条項を要求」「要求しても守らない連中だ」「守る連中もいる」“相手役”。「さもなければ彼らのビジネスは続かない」
清瀬が、手元の台本に線を引いた。「会見で『対策費』は言うが、『支払い』は言わない。『復旧のためのあらゆる手段』という言い方で、社会的な耳の温度を保つ」
11 公表の温度
「“謝罪”の回数は?」清瀬。「一回一回を重く」九重。「安売りはしない」「『ご理解』は?」「使わない。理解をお願いするのは怠慢だ」「『悪意ある第三者』?」「使っていい。ただし『悪意』の具体で怖がらせない」清瀬は頷き、文面の語尾を整える。
『原因は調査中』は事実だが、空白を生む。『止血をしている』は比喩すぎる。だから、『温度』『台数』『率』で語る。
狩野が口を挟む。「『匂い』も入れてくれ。現場は匂いで判断する」清瀬は少し笑った。「了解。『洗浄液の匂いが戻った』。……会見台では使いづらいけど、社内には効く」
12 反対のための反対
電話に割って入る声があった。営業本部長だ。招集メールに気づいて遅れて入ってきたらしい。「公表は最小限で頼む。取引先は“イメージ”に敏感だ」九重は静かに言う。「イメージは、沈黙の上に作られる。私たちが作らないなら、誰かが作る」「でも“支払った”と捉えられたら──」「『捉えられたら』という恐怖で意思決定を曲げない」九重。「捉え方は制御できない。制御できるのは、こちらの言葉の密度と頻度」
「頻度は上げすぎると逆効果では?」「頻度の問題ではなく、予告の問題です」清瀬。「次の更新時刻を必ず明示し、その約束を守る。これが“誠実”の最低ライン」
営業本部長は黙り、通話が一瞬だけ静まった。その沈黙に、砂時計の回転音が聴こえた気がした。気のせいだが、誰もが同じ幻聴に囚われていた。
13 境目
「では決める」九重は姿勢を正した。「止血の工程を走らせ、公表は段階的に。C案の準備に入る。法務は制裁リストのスクリーニングを最優先。相手役は『鍵の精度』と『公開先送り』に的を絞って交渉。現場は安全最優先で段階復旧」
狩野が短く「了解」と言い、続けた。「ただし、ひとつ頼む。 『止血』は、出血を隠すことじゃない。出血を止めることだ。 隠すなら、現場は離れる」九重は真っ直ぐ狩野の声の方向を見た。「隠さない。止める」
「公表のタイミングは」清瀬が確認する。「社内ポータルを一一時に更新、取引先向け個別メールを昼前、一般向けは午後に一次声明。会見は明日の午前」
「異存なし」九重。「更新の約束は守る。遅れそうなら、そのこと自体を先に言う」
14 手の届く範囲
会議が終わりに向かう気配を感じて、狩野が小さな声で付け足した。「工場の若いのが、“うちは負けたんですか”って聞いてきた」数秒、誰も何も言わなかった。九重が、言葉を選び、置くように言った。「勝ち負けで言えば、現場が負ける日はない。 あなたたちは機械を止めて、また動かす。 それは『負け』の辞書には載っていない。 会社が負けるとしたら、言葉をやめたときだ」狩野は小さく笑った。「……分かった。現場にも、そのまま言う」
「物流にも伝えます」戸川。「『動いた』という言葉が欲しいだけの棚がある。動かすのは俺たち。言葉は、あんたたち」
15 会議の後
通話が切れ、スピーカーフォンの赤いランプが静かに消えた。会議室に、蛍光灯の白い矩形だけが残る。九重は椅子の背に手を置いたまま立ち、深呼吸をした。「清瀬。社内向けの文案、最後の一文に“更新予定時刻”を。『次は一一時』。 茅野。“相手役”と交渉を継続。『鍵精度の上乗せ』『公開先送り』。 荒木。制裁リストチェックのログは秘匿で。名前は紙に書かない。 三崎。ポータルの更新インフラ、死んでも落とすな」「死なせません」三崎が即答する。「落ちたら、俺のせいです」
清瀬は立ち上がり、資料の束を抱え直した。「会見の練習、今日の夜に一度。『謝罪の回数』『間』『数字』。 それから、『匂い』の文言、社内版にだけ入れる」
茅野がノートPCを閉じ、会議室を出ながら言う。「止血帯、巻いてくる」
九重は最後に会議室に残り、テーブルに置いた紙コップの冷めたコーヒーを口に含んだ。苦い。苦味は、基準を思い出させる。「隠さない。止める」彼女は小さく口の中で繰り返し、ポケットの中のスマホに触れた。メッセージの画面には、先ほどの学校の通知。世界は、日常を続けている。こちらは、日常を取り戻すために、非日常を選ぶ。
16 工場の掲示板
東雲工場。狩野は油の染みた掲示板に、プリントアウトした紙を三枚貼った。
・配管温度は七〇度で維持。・紙伝票での出荷、八%。・次の社内更新は一一時。・安全優先。焦るな。「最後の『焦るな』、いいっすね」と内海が言う。「焦ると滑る。滑ると転ぶ。転ぶと痛い。痛いと怒る。怒ると判断が鈍る。鈍ると事故る」狩野は、まるで子どもに言い聞かせるように言った。新人が笑い、すぐに真顔に戻る。「分かりました」
匂いが戻ってきた。苛性ソーダの鋭い匂い、金属の温度が少しずつ乾く匂い。「匂い、戻ってきましたね」と新人。「戻ってる」内海が頷く。「匂いは正直だ」
17 相模の紙の音
相模物流センター。戸川は、伝票の束を両手でトントンと揃えた。「昼前に“動いた”を送る。言葉ひとつで、現場の背筋が変わる」若いスタッフが笑う。「センター長、詩人っすね」「詩人は腹が減る。飯を食え」腹が鳴る音が、倉庫の高い天井に薄く広がった。
18 画面の向こうの交渉
監視室では、“相手役”と茅野が短いやり取りを続けている。
テスト鍵、精度九八に。残り二は、オプションに含めろ。公開先送りは二四時間。第一波は社内のみ。“評判”を守るなら、あなた方も沈黙を守れ。相手から数分の沈黙――そして返答。九七。二四時間。我々は評判を守る。あなた方も、時間を守れ。「九八まで行かないか」茅野が呟き、すぐ打鍵する。九八で閉める。ここが境目だ。あなた方の“誠実”に払う。我々にも払え。返ってきたのは、短い「OK」。砂が、ひと匙だけ遅く落ちる。
19 社内ポータル、一一時
三崎がエンターキーを押すと、社内ポータルのトップが更新された。
11:00 更新・現在の状況:一部システムに対する不正アクセスを確認。・影響:一部個人データの外部流出の可能性。該当者には個別連絡。・対策:製造設備の安全確保、物流の限定運用、外部専門家と連携した復旧。・次回の更新:14:00・現場メモ:洗浄液の匂いが戻っています。焦らず、順に。「匂い、入れたんだな」島崎が笑う。「入れました」三崎は肩を回した。「現場も読むから」
更新通知が社内の端末を駆け巡り、非公式チャットの罵詈雑言が少し薄まった。スタンプに「OK」「了解」「がんばろ」のアイコンが増え、短い「ありがとう」がときどき落ちる。ありがとうは、最も安く、最も高い。
20 腹に落ちる音
昼。会議室に軽食のパンと三角形の紙パックが置かれた。九重は半分だけ口に入れ、残りを皿に戻す。食べ物の味は、数字に紛れると分からない。携帯が震え、取引先の購買部長からメッセージが入る。《“動いた”と聞きました。午後の棚は維持します》九重は親指で『ありがとうございます』と打ち、送信前に消して、《ありがとうございます。次の更新は14:00です》に直した。約束の時間を添える。添えない言葉は、すぐ忘れられる。
21 海の見えない海図
午後の取締役会で、C案の準備が正式に承認された。荒木が頷く。「“手段”の準備に入る。記録は限定して保存。誰が何を知っているかを小さな円に閉じる」「円が小さいほど、漏れる経路は少ない」九重。「だが、円の外にいる人の不安は大きくなる。だからこそ、公表は頻度を保つ」
清瀬が会見メモに追記する。
・『今言えること/言えないこと』を明確に二列で。・『次に言えるようになる条件』を一行で。・『影響の最小化』ではなく『具体の行為』で。・『ご理解』は使わない。・『謝罪』は一度、深く。会見メモは、海図に似ている。海は見えない。だが線を引くことで、人は舵を切れる。
22 言葉の利子
十四時、二度目の更新が落ちた。
14:00 更新・物流:紙運用で出荷比率15%→22%へ・製造:配管の温度維持、二系統で安定・セキュリティ:復旧作業継続、外部専門家と交渉・個別連絡:対象者への連絡と補償の準備・次回の更新:17:00「嘘はない。空白も少ない」清瀬が独り言。「『交渉』を入れましたね」と三崎。「入れた。“交渉”は“支払い”じゃない。時間を買う行為。言葉の利子を払ってでも、言葉を続ける」
九重は、画面に映る「22%」の数字を見て、ほんのわずかに肩の力を抜いた。数字は、痛み止めになる。
23 工場の午後
東雲工場では、配管の音がほんの少し明るい調子に変わった。内海は耳の後ろの汗を袖で拭き、蛇口の先の金属光沢を確かめる。「温度、七一。よし」新人が、配管表の欄外に小さく「14:00 更新」と書き込む。「先輩、これなんで書くんすか」「忘れるからだよ。忘れると、焦る。焦ると、滑る」いつものやり取りに、いつもの体温が戻る。体温が戻ると、工場は動く。
24 薄氷
夕刻の取締役会議室。背の高い窓の向こうに川の黒が広がる。九重は、ひとつ残った議題を見た。「明日の会見で、“対策費”の質問が出る。『払うんですか』と。 私は、『あらゆる手段を検討し、法と倫理に適合する範囲で決定する』と答える。 その後で、『あなたたちの時間を最優先にした』と付ける」「炎上しますね」と営業本部長が苦笑する。「炎上は、燃えるべきところに火が行ったときに止まる。私は、火を避ける言葉ではなく、火が消える言葉を使いたい」
清瀬は、九重の言葉を反芻し、台本に移す。「火が消える言葉」言葉は薄氷だ。乗れる厚みにするのが、彼女の仕事だ。
25 合図
十七時の更新が予定通りに落ち、社内の空気がまた一段緩む。相手からは短いチャット。
いいリズムだ。我々は、あなた方の“誠実”に支払う。明早朝、完全鍵。公開先送り、約束する。“相手役”が「了解」を返す。三崎は、画面の砂時計がひとつ止まった気がして、目を擦る。錯覚でも良かった。
26 夜に向けて
会議室から人が引き、薄い光だけが残る。九重は窓の外の黒を見下ろした。止血は始まった。公表の準備も回り出した。それでも、どこかに薄い不安が残る。不安は消さない。消せない。不安は、次を間違えないための小さな棘だ。彼女はスマホを取り出し、家に「遅くなる」とだけ送った。「ご飯、温めておく?」と返ってくる。「大丈夫。ありがとう」と打つ。ありがとうは、今日いちばん使った言葉だ。
27 工場長の帰路
狩野は、夜の工場を一周してから事務所の窓を閉めた。角を曲がるたびに、見慣れた機械の影が伸び縮みする。「負けたんですか」と問うた若い背中は、もうラインの脇に戻っていた。狩野は心の中で九重の言葉を繰り返す。「言葉をやめたら負ける」。現場の言葉は手でできている。ボルトの締まり具合、配管の温度、洗浄液の匂い。彼はハンドルを握り、帰るふりをして工場の外周をもう一度回った。帰らないことが、帰る準備になる夜もある。
28 会見前夜
清瀬は、自分の顔の下、喉の骨の位置を確かめながら発声練習をした。「申し訳ありません」一度。深く。「止血しています」使わない。「温度は七〇度、出荷率は二二%」数字は、言いにくい。だが、数字を言わない言葉は燃える。彼女は台本の最後に、短い一行を加えた。
次の更新は、朝八時。約束は、夜を短くする。
29 監視室
三崎は、モニターの明るさを一段落として、背を伸ばした。「疲れたか」と島崎。「はい。でも、ちゃんと疲れてる感じです」「いい疲れだ」「はい」二人の間に、夜勤特有の連帯が少しだけ濃くなる。チャットに、相手の最後の一行。
良い夜を。あなた方は、沈黙しなかった。それに、支払う。三崎は目を閉じ、短く数を数えた。一、二、三。目を開ける。赤いバナーはまだいくつも残っている。だが、その周りに、更新された小さなテキストが灯っている。「11:00」「14:00」「17:00」「8:00」。言葉で区切られた時間が、砂の流れを少しだけ鈍らせていた。
30 止血か公表か
夜更け。九重は会議室の明かりを最後に一つ消し、ドアを押した。止血か、公表か――問いは最初から二択ではなかった。止血しながら、公表する。公表しながら、止血する。その間に挟まっていたのは、沈黙という燃料に火を点けないための、細かい選択の連続だ。彼女は廊下の先に見える監視室の灯りを横目に、エレベーターのボタンを押す。ステンレスに映る自分の顔は疲れているが、目は濁っていない。扉が開き、狭い箱の中に入る。数字のボタンが光り、下降の振動が足の裏から背骨に伝わる。明日の朝、会見台の照明が熱を帯びる。言葉は燃える。だが、燃え尽きる前に、次の言葉に火を渡す。それが、止血であり、公表だ。
エントランスに出ると、夜風が乾いていた。川の黒は静かで、街の灯りは遠い。遠いが、消えていない。彼女は肩にバッグをかけ直し、ひとつ息を吐いた。長い夜が続く。だが、今夜は、言葉の約束がある。約束は、砂時計の下に敷く薄い板だ。たとえ薄くても、あるのとないのとでは、落ちる砂の音が変わる。
彼女は歩き出した。止血と公表のあいだを、何度でも往復する覚悟で。





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