沈黙の代償2
- 山崎行政書士事務所
- 10月30日
- 読了時間: 53分
更新日:10月30日

第一部 無反応の代価
広報室の夜明け――「言えないこと」をどう言うか
1 午前四時三十二分、蛍光灯の白
広報室の鍵は、清瀬が最初に開けた。静かな廊下の空気が少しだけ動き、蛍光灯が順に目を醒ます。長机の上には、前夜の会議で持ち帰った紙束が残っていた。付箋の色は、緊急度の信号機みたいに黄と赤に偏っている。
コーヒーメーカーの水受けに昨夜の湯がまだ温く残っていて、それを捨てながら清瀬は、声を出さず口の中で言葉を並べた。「言えること。言えないこと。言うべきこと。」
三つのファイル名が、彼女の中で実体になる。ディスプレイの黒に自分の顔が映り、目の下の影が濃い。鏡を見るのはやめた。鏡は役に立たない。必要なのは、壁一面のホワイトボードだ。
ホワイトボードの左端に彼女は縦線を引き、項目名を上から書いていく。
いま言える
まだ言えない
言えるようにする条件
次の更新時刻
条件の欄に先に「8:00」「11:00」「14:00」と書き込むと、部屋の空気が少し落ち着いた。予告は薬だ。焦燥の胃酸を中和する。
パソコンを立ち上げ、昨夜のドラフトを開く。ニュースサイトはタブの裏で勝手に更新され、見出しが揺れている。見ない。見ると耳が取られる。耳は記者のために取っておく。
最初のメールを打つ。宛先は社内。件名は決めてある。「【5:00臨時】広報対応の骨子と、お願い」。
1)8:00に1報、11:00に2報目、14:00に3報目を予定しています。2)本件に関する社外への発信は、広報室・CISO室の原稿で統一します(スライド・社内SNS含む)。3)個人のSNSでの発信は控えてください。スクリーンショットは二次被害になります。4)「支払い」という言葉は、社内でも使いません。記録上は「対策費」で統一します。5)社内照会窓口:(フォーム)/電話6)現時点の“具体”:配管温度70度維持/手書き運用で出荷22%/被害者への個別連絡準備中。
送信。送った瞬間、後戻りはない。メールは戻らない。言葉も、戻らない。
2 「言えない」の正体を分解する
清瀬は“まだ言えない”に磁石付きのカードをぱちぱちと貼っていく。
鍵の精度(交渉条件)
公開先送りの約束(相手との文言)
「対策費」の具体の中身
制裁リストの照合状況
社員個別の影響範囲(名寄せ作業未了)
保険の適用有無(審査中)
ただの黒文字だが、どれも爆弾だ。文字列の端に火花が見える。「言えない」は嘘じゃない。未完成だから言えない。言っていい形にするための手順が必要だ。清瀬は“言えるようにする条件”の欄を埋める。
鍵の精度 → “相手役”からテスト鍵の再提供を受け、検証ログ(第三者署名)を確保
公開先送り → チャットログの時刻・文言を保存(画面録画)
対策費 → 社内稟議の表現統一(法務レビュー済)
制裁照合 → 法務が完了までの目安を出す(11:00)
影響範囲 → 個別連絡テンプレを整備(8:00時点は概況のみ)
保険 → 代理店の一次回答を受領(14:00目処)
“言えないこと”に、扉の蝶番を付ける作業。それが広報の朝の仕事だ。
3 CFOの短文
五時を回ると、九重からの返信が落ちてきた。《8:00文、数字を一つ追加。出荷率“22→24”見込み。現場から口頭確認》《11:00で、制裁照合の「一次確認済」まで行ける可能性。確度50%》文面はいつも短い。余計な修飾がないので、言葉の骨が見える。
清瀬は、数字を入れる場所をメモに赤で囲った。数字は魔法じゃない。だが、数字は唯一の温度計だ。「ご不便」「ご心配」は体温を下げない。70度、22%――現場の温度は、体を落ち着かせる。
社内チャットに“現場メモ”のスレッドが動いている。「洗浄液の匂いが戻った」――昨日の言葉が、予想以上に効いている。匂いは生き物の言葉だ。会見台では使いづらくても、社内には刺さる。
4 FAQを“二列”で
八時の1報に添えるFAQの枠組み。清瀬は前夜の版を開いて、見出しを変える。
Q:何が起きていますか。A(いま言える):一部システムに対する不正アクセスを確認。製造・物流は限定運用で維持。A(まだ言えない):侵入経路と犯行グループの特定。A(言えるようにする条件):フォレンジック完了、当局への報告受理(目処:来週前半)。
Q:個人情報は漏れていますか。A(いま言える):一部データが外部に持ち出された可能性が高い。該当者には個別連絡。A(まだ言えない):氏名・住所・生年月日など項目の確定。A(条件):名寄せ完了/監査ログの突合(目処:今日夕刻〜明朝)。
Q:攻撃者に支払いますか。A(いま言える):当局・法務・外部専門家と協議のうえ、法と倫理に適合する手段を選択中。A(まだ言えない):支払いの有無と時期。A(条件):リスク評価の完了、制裁照合(目処:11:00→14:00)。
三列で答える。乱暴に見えて、実は誠実の骨組みだ。「まだ言えない」を正面に置く勇気。その横に条件を書き、時間を置く。
5 社長の喉
六時。社長がまだ湿った髪で広報室に現れ、清瀬の台本に目を通した。照明のない部屋で、紙の白だけが浮かぶ。
「『謝罪』は一度、深く」社長の声は少し掠れている。昨夜は眠れなかったのだろう。「喉、温めましょう。湯、持ってきます」清瀬は立ち上がる。「ゆっくり、はっきり。『申し訳ありません』は一回だけ。『ご理解』は使いません」「使わない?」「お願いは、火の中で言うと燃えます」社長は頷き、湯を受け取った手を小刻みに回した。「『支払い』を問われたら」「『検討』と『適法』と『復旧』でリズムを作ってください。『支払い』の二文字は、相手が求める“絵”です。私たちは“工程”で返す」
尻上がりに強くなる“工程”のアクセントを、社長に身体で覚えさせる。言葉は筋肉だ。練習でしか太らない。
6 編集デスクとオフレコの線
六時半、清瀬は二本の電話をかけた。ひとつは、長年付き合いのある経済誌のデスク。もうひとつは、社会部の敏腕記者。
「朝、一次声明を出します。8時。『数字』は二つだけ。温度と出荷率。午後に増やします。オフレコで申し上げると、二次被害を抑えるため、攻撃者の『評判』をこちらも計算に入れて動いています。言い回しには十分注意しています」
「“交渉”という言葉を使う?」とデスク。「使います。ただし“支払い”の含意は持たせません。『時間を買う行為』としての“交渉”です」
「分かった。言葉の温度、見ておく。会見で変な揚げ足は取らないよう、こっちも編集します」こういう約束は紙に残らない。残らない約束は、破られやすい。でも彼らの側にも評判がある。評判は、互いの最小限の安全網だ。
7 社員向けメッセージの一文
七時前、社内ポータルのトップに載せる「社員の皆さまへ」を整える。最後の一文で悩んだ。昨夜、自分で消したフレーズが頭をよぎる。「ご理解」。やはり出さない。
代わりにこうした。
あなたが抱く不安は、会社の不安でもあります。その不安に、私たちができる最初の返答は、時間を決めることです。次は8:00に返事をします。
約束は、空白を埋める最小単位だ。
「匂い」の一行も忘れない。
現場メモ:洗浄液の匂いが戻っています。焦らず、順に。
打ち込んでから、少し笑った。こんな言葉が広報室から出ていくのは、滑稽だ。だが、滑稽さが人を生かす夜もある。
8 8:00――1報
正時の少し前、三崎から「ポータル準備OK」のスタンプ。法務から「文言OK(制裁照合表現含む)」の短文。CISOの茅野からは「技術用語、名詞を置換済」のチェック結果。清瀬はマウスを動かし、公開を押した。
【8:00更新】本日未明、一部システムに対する不正アクセスを確認しました。製造・物流は限定運用で継続しています(配管温度70度維持/出荷率24%)。個人データが外部に持ち出された可能性が高く、該当の方には個別にご連絡します。外部専門家、当局、法務・監査と連携し、復旧と再発防止に全力で取り組んでいます。次回の更新は11:00です。
SNS用には、短い二文で要点だけ。リンクは一つ。ハッシュタグは付けない。炎上の棘を自分で刺す必要はない。
投稿して三十秒で、反応の波が立つ。「数字を出してるのは評価」「薄い」「支払うな」「支払え」。声の方向はあらかじめ読めている。読むのは危険だが、読まないのも危険だ。清瀬は、視界の隅でだけ流れを掴む。
9 電話のラッシュ、言葉の刃
八時を過ぎると、広報室の電話が一斉に鳴り出した。記者の名前は、声で分かる。「“交渉している”と読めますか?」「“交渉”は、時間を買う行為です。“支払い”とは別の次元で判断します」「『一部データが外部に持ち出された可能性が高い』の中身は?」「影響範囲を確定する手続きが残っています。確定次第、個別にご連絡します」「『出荷率24%』は、通常比で?」「通常の三分の一から四割弱です。紙運用を併用しています」
一つひとつ答えながら、清瀬は自分の声の高さを微調整する。高すぎると軽く聞こえる。低すぎると暗い。受話器の向こうで、誰かのキーボードが叩かれる音がする。句読点の位置が決まる音だ。
「“支払い”は」来た。「法と倫理に適合する範囲で、最適な手段を選びます。いずれの選択でも、私たちは説明責任を果たします」「つまり、あり得る?」「“手段”は複数です」質問者は笑い、礼を言って切る。彼の原稿の見出しに、こちらの言葉がどんな形で載るかは分からない。分からないことは、恐れなくていい。恐れていいのは、こちらの言葉が薄いときだ。
10 取引先の“別言語”
八時半、営業本部から「取引先向け文案」の校閲依頼が来る。「棚」「ペナルティ」「補填」をめぐる言葉は、記者とは別言語だ。
平素よりお世話になっております――現在、当社の一部システムに不正アクセスが確認され、出荷に遅延が発生しております。本日午後より、段階的に通常比40%→60%の出荷回復を見込んでいます。貴社にご迷惑をおかけしていることを重く受け止めております。延滞に伴う契約上のお取り扱いにつきましては、個別にご相談のうえ、誠実に対応いたします。“いつまで”のご要望にお応えするべく、次の更新は11:00にお送りします。
“いつまで”を前に。金の話は、後に。順序が重要だ。順序を誤ると、誠実が値切りに読まれる。
11 9時台の谷間、声の練習
九時台は、意外に静かだった。記者たちは会議でネタ出しをして、昼のニュースの段取りを組む時間だ。清瀬は、その谷間を使って社長と再び練習する。会見で最初に言う三十秒を、繰り返し、繰り返し。
「申し訳ありません。」一拍。「本日未明、一部システムに不正アクセスがありました。」一拍。「製造・物流は限定運用で継続しています。配管温度70度、出荷率24%。」一拍。「一部の個人データが外部に持ち出された可能性が高いと考えています。該当の方には、個別にご連絡します。」一拍。「次の更新は、本日11時です。」
言葉は筋肉。身体に落ちると、震えない。
12 「怒り」を寝かせる一行
十時を回る。匿名掲示板に、昨年のセキュリティ予算の削減スライドがまた貼られ、火の粉が舞う。「だから落ちた」「人災」。清瀬は、社内向けのスレッドに短い一行を投げた。
昨年の資料は、多くの前提が抜けています。今日の議論に使うと、間違えます。11:00に“今日の前提”を共有します。
怒りは、否定すると燃える。寝かせるには、次の枕が要る。11:00。時間は枕だ。
13 11:00――2報
二報目は、朝より数センチ深く潜る。
【11:00更新】・物流:紙運用を併用し、出荷率24%→28%(午後に40%見込み)・製造:配管温度70〜72度で安定。二系統で手動運転継続。・セキュリティ:外部専門家の協力で復旧作業を継続。攻撃者とは時間を買うための“交渉”を実施。・個人データ:一部が外部に持ち出された可能性が高いことを確認。該当の方へ順次個別連絡を開始。・制裁関連:関係当局の公表リストと照合中(一次確認済)。次の更新は14:00です。
「“交渉”入れたわね」と社長。「入れました。ここで逃げると、次の質問が刺さります」
投稿後、電話が再び鳴る。「“交渉”の目的は?」「時間を買うことです。復旧と、二次被害の抑止に使います」「“支払い”の有無は?」「法と倫理に適合する範囲で、最適な手段を選びます」「くり返しになるが、“あり得る”?」「“工程”を説明しました」受話器越しの沈黙。相手は、こちらの語彙の壁を試している。壁を磨くのは、こちらの仕事だ。
14 広報室の“手当”
十一時半、清瀬はチームに「五分休憩」を出す。水、ストレッチ、甘いもの。「休憩なんて」若手が笑う。「“手当”よ。現場もやってる。広報の現場は喉と指。放っておくと壊れる」彼女は自分にも飴をひとつ。舐めながら、第三稿の会見台本に赤を入れる。「『ご理解』削除」「『努力』→『工程』」「『迅速に』→『時刻で』」。
15 “相手役”からの短い合図
正午前、“相手役”からチャット。
テスト鍵、精度97→98。公開先送り、24hで合意。記録は揃えた。清瀬は、法務の荒木に「“言えるようにする条件”の欄、二つチェック済に」と連絡する。ホワイトボードに小さくチェックマークを二つ。可視化は、焦りを冷やす。
16 取材の「悪意」と「善意」
十二時過ぎ、社会部の別の記者から電話。「会見、誰が立つ?」「社長とCISO」「“支払うな派”のコメントも集めてる。バランス取る」「“支払う派”も集めて」「いるの?」「匿名でなら、いくらでも。『止血を優先』の実務論は、善悪では語れない」
「善意」で燃える記事がある。善意は、しばしば鋭い。悪意は鈍い。鈍いものより、鋭いもののほうが深く刺さる。清瀬は、善意の刃を鈍らせる言葉を用意する。「工程」「節目」「時刻」。感情の背中に、目盛りを貼る。
17 14:00――3報
午後の更新は、午前中に仕込んだ“条件”を二つ反映する。
【14:00更新】・物流:出荷率28%→41%(紙運用継続/遅延は順次解消)・製造:配管温度70〜72度で安定、三系統目の再起動準備。・セキュリティ:復旧作業継続。“交渉”により、外部公開の先送り(24h)で合意。・個人データ:該当の方への個別連絡を開始(監視サービス無償提供準備)。・制裁関連:一次確認済→二次確認に移行。次の更新は17:00です。
「“先送り”を書いたことで、『屈した』と言われます」と若手。「言われるわ。言う人は必ずいる。でも、私たちは“工程”を言う。『時間を買い、その時間を何に使ったか』を言う。そこにしか誠実は宿らない」
18 炎上の熱と距離
「“先送り合意”がトレンド入り」とSNS担当が小声で報告する。「距離を取って。数字だけ見て。心臓で読まない」清瀬はそう言い、自分の心臓にも言い聞かせる。炎の近くに寄りすぎると、言葉は焦げる。焦げた言葉は、次に燃えやすい。
19 家族からのメッセージ
午後、清瀬の個人スマホに母からメッセージ。「ニュース見た。あんたのところ、大丈夫?」『大丈夫にする』と打って消す。『大丈夫じゃない。でも大丈夫にする』と打って消す。『仕事中。夜に話すね』と送る。言葉は節約するものではないが、使う場所は選ぶものだ。
20 内部に向けた「反省」を先回り
十五時、社内の非公式チャットに「予算を削った責任者を明らかに」という投げ込み。清瀬は、CISOの茅野の了承を取り、夕方の社内更新に短い一段を追加する。
セキュリティ投資について:過去の資料が外部で参照されていますが、当時の議論は多くの前提の上に成り立っていました。本件を受け、投資の考え方を見直します。“誰が”ではなく“どうするか”を記録に残します。
犯人探しは、疲れた心の快楽だ。快楽を否定するだけでは止まらない。別の快楽――「前に進む感覚」を与えるしかない。
21 17:00――四度目の“よし”
【17:00更新】・物流:41%→54%・製造:三系統目の再起動、テスト良好・セキュリティ:テスト鍵の精度98%確認・個人データ:個別連絡継続次の更新は、明日8:00です。
四回目の「よし」を、清瀬は小さく喉の奥で言う。誰も拍手はしない。広報室は拍手の場所ではない。拍手は、外の仕事だ。
22 会見前夜――言えないことの練習
夜。会見の通し稽古。社長の前に椅子を置き、仮想の記者が三十人座っているつもりで質問を投げる。
「“交渉相手は誰か”」「答えません。私たちは、犯罪者の商売を助けません」「“支払ったのか”」「“工程”で答えました。法と倫理の範囲で、最適な手段を選びます」「“責任は誰が”」「最終責任は、経営にあります。個人の名を挙げることはしません。工程を変えます」「“二度目はないと保証できるか”」「保証はできません。だから、工程と時間で制御します。投資も見直します」
言えないことを言わない練習。沈黙の練習ではない。言わない理由の筋肉を鍛える。
23 広報室の窓
窓の外で、川の黒がまた濃くなる。昼の熱が抜け、夜の冷えが降りてくる。清瀬は、ホワイトボードの「言えるようにする条件」の欄を眺める。朝よりチェックが増えた。朝に書いた四本の更新時刻は、全部守った。守ったという事実が、明日の朝の土台になる。
机の端に置いた、一本の古いペンに目が止まる。新人のとき、先輩にもらったものだ。「言葉は刃じゃない。手」と言われた日のことを思い出す。刃は切る。手は触れる。触れて確かめて、包む。今日、自分は刃も持った。刃で切るしかなかった場面がある。でも、手の感覚を捨てずに戻ってこられたと思う。そう思いたい。
24 CFOの夜
二十一時を少し回り、社長とCISO、九重が会見の最終確認に顔を出す。九重は言葉少なに台本をめくり、「『対策費』のところ、語尾を『〜します』で統一」とだけ言う。「“します”は賭けです」と清瀬。「賭けは、すでに始まっている。『します』と言えるところまで、工程を進める」九重の目は、疲れの上に薄い意地が立っている。人は意地で持つ夜がある。意地は、翌朝の言葉を支える。
25 「言えないこと」をどう言うか
清瀬は、最後に自分のノートに今日の見出しを書いた。「言えないこと」をどう言うか。答えは一つじゃない。
言えない理由を言う。
言えるようにする条件を言う。
次に言う時刻を言う。
言える“具体”を一つでも置く。
言いにくい言葉は、筋肉にするまで練習する。
“支払い”という二文字に引きずられず、“工程”で語る。
匂い、温度、率――生活の単位で語る。
彼女はペンを置き、両手で顔を覆ってから、ゆっくり下ろした。手のひらに自分の体温が移って、ほっとする。
26 夜明けに向けて
終電が過ぎ、広報室に三人だけが残る。若手が「朝までいます」と言い、清瀬が「仮眠、二時間」と命じる。命令は短く。短い命令は、よく届く。
窓の向こう、川面がわずかに薄くなる。夜明けの手前の、灰色の時間。明日の八時、また更新を出す。会見台に立つ人の喉を温める。三十秒の言葉を、もう一度磨く。「言えないこと」は、消えない。でも、言えないままで放置されるべきではない。蝶番を付ける。条件を置く。時刻を付ける。具体を置く。その繰り返しが、炎の温度を下げ、砂の落ちる速度を少しだけ鈍らせる。
清瀬はホワイトボードの「次の更新」に「8:00」と大きく書き直し、丸をつけた。丸は子どもの字みたいに少し歪んだ。歪んでいても、丸だ。彼女はライトを一つ落とし、ドアに手をかける。廊下の先、監視室の光がまだ起きている。あの光と、工場の匂いと、物流の紙の音と、CFOの短文と、相手役の無表情なテキストと――その全部を繋ぐのが、ここだ。
広報室の夜は終わらない。それでも、夜明けは来る。夜明けに、言葉を渡す。言葉は薄い板だ。砂時計の下に敷けば、音が変わる。それで十分だ、と彼女は思った。
明日の朝、最初の一文は決めてある。「申し訳ありません。」一度。深く。そして、数字と工程で続ける。「言えないこと」は、その次に、扉を開けて待たせておく。開く条件は、もうボードに書いた。約束は、守る。守れない約束は、しない。その単純な線を、今夜のうちに太く引いた。
広報室の夜明けは、静かに近づいていた。
第一部 無反応の代価
二重の刃――盗まれた名簿と「晒す」宣告
1 午前十一時三十七分、黒い掲示板
黒い背景に白い文字。
We keep promises.Round #1: 100 records.Next: 1,000.
砂粒より小さなサムネイルが並び、社員番号、部署名、内線の列が、どれも見慣れた体裁で横に伸びる。スクロールバーは短い。貼り付けた者の気まぐれは、手際の良さを隠そうともしない。
監視室の中央モニターに、そのリークサイトが映し出されたとき、三崎は一瞬だけ息を止めた。「名前は削ってる」島崎が言う。「でも、本人には刺さる」「刺さる相手が分かってる」三崎は画面を拡大し、サムネイルの画素の粗さを確かめた。撮影日付、アスペクト比、背景のロッカーの塗装。内部から出たのは間違いない。
チャットが震え、相手からの一行。
You are late.Show us your understanding of time.
“相手役”が短く返す。
Delay cost is discussed. Provide proof of key precision.
変化は僅かにでも、砂は落ち続ける。砂時計のガラスの腰は、こちらの焦りを測るためだけの形をしている。
2 名簿の影
人事部の会議室。コピー機の横に段ボールが積み上がる。「個別通知セット」とマジックで太字。封筒、説明文、FAQ、問い合わせ先。封かん用のスポンジから、薄いノリの匂いが立つ。「電子で出します?」若手が訊く。「封書も併用」人事部長が答える。「住所が古い人がいる。二重で届かせる」
「“名簿”という言葉、使わない?」と清瀬がメモを覗き込む。「社内では使う。社外では“個人データ”。“名簿流出”と書くと、過去の感情が雪崩になる」「過去の感情?」「昔、名簿を買って営業した会社が炎上した。単語は記憶を呼ぶ」
封筒の宛名印刷機が回り始める。ガタン、と一定のリズム。名簿は、人の形に印刷されると、突然重くなる。紙の枚数が、そのまま心拍数になる。
3 晒す、という武器
午後一。広報室には既に二十本の電話が溜まり、記者が同じ質問を角度を変えて刺してくる。「公開は止められないのか」「止めるための“工程”を走らせています。具体的には——」「“晒す”と書きます。問題ないか」清瀬は一瞬だけ躊躇したのち、言う。「“晒す”は、正確な言葉です。私たちは“晒されないため”ではなく、“必要なものを守るため”に時間を買っています」
電話を切るたび、耳の奥の筋肉が固まっていく。マッサージでほぐすように、彼女は喉に温い水を落とす。言葉を繰る仕事は、筋肉の仕事だ。
4 “助言メール”の二段
社員の個人アドレスに、もう一段階丁寧な日本語で“助言”が届く。
会社は交渉を遅らせています。あなたの情報の一部がこちらにあります。会社に“対話”を促してください。あなた個人への被害を避けるためにも。
添付されたPDFの一ページ目に、健康診断の結果と家族の名前。人間の侮辱は、想像の余地があると深く入る。想像は個人の居間まで入り込み、テーブルクロスの柄やコンセントの埃まで想起させる。そこまでが“晒す”の効能だ。
若い社員が人事の窓口で顔を強張らせる。「これ、うちの親にも届くかもしれないですよね」「個別連絡で先行します。家族には会社からも説明します」「すみません、俺……昨日、彼女に『うちの会社、強いから』って言っちゃって」「言葉は、今日から強くなる」担当者はゆっくり言った。
5 調達先の影
調達部の会議室。モニターには、契約書のテンプレートの切れ端と、原材料の仕様の断片が映る。攻撃者のリーク第二波の“予告”に含まれていたサンプルだ。
「“配合比率”は見えてない」調達部の課長が汗を拭く。「でも、『ここに金がある』って地図は見せられた」九重が淡々と答える。「次の波に、取引先の名前を出されると、棚が落ちる」「棚が落ちる?」「売場の最前列から、後ろへ。見えにくい場所へ。見えないものは、売れない」「見えないものは?」「信用」九重は言い、パソコンの画面を閉じた。
6 “相手役”の小刀
“相手役”は、チャットの打鍵音を一定に保った。
あなた方の“評判”は“晒し”と相性が悪い。“先送り”の対価を上げる代わりに、“晒し先”を減らせ。ダーク掲示板だけにし、表のSNSは使うな。
数分後、相手からの返答。
We don't need noisy attention.OK.But delay = higher.
彼らの“合理”は、こちらの“倫理”よりも人間の生活に近い位置にある。それが不快で、同時に使える。清瀬は自分の心の中にある嫌悪を、薄い紙に包んで机の端に置くような仕草で横に避けた。
7 法務の鉛筆
法務の荒木は、鉛筆を使う。消せるからだ、といつも言う。「“晒し”の対策には二本の軸が要る」と荒木はホワイトボードに書く。1)技術的抑止(プラットフォーム通報、ミラーの削除)2)心理的抑止(相手の“評判”を逆算した交渉)
「技術的抑止は遅い」茅野が肩をすくめる。「すぐミラーができる」「だから二本目」荒木は鉛筆を回す。「“晒す”ことが相手の不利益になる状況を作る。たとえば、相手が『約束を守らない』と評判になるように導く」「導く?」「“公開されて困る第三者”を巻き込むのは、最後の策だ。彼らは“第三者の怒り”を恐れる。怒りは、彼らのバランスシートに載る」
8 赤いカードと青いカード
社内の危機対応本部。カードを二色に分ける。「赤」は止血に直結するタスク、「青」は公表に直結するタスク。テーブルの上がカードで埋まり、三崎は視線で優先度を追う。
赤:
工場二系統目の温度維持
テスト鍵の精度98%→99%
物流の紙運用補助要員投入
コールセンター増員
青:
取引先向け説明会のスクリプト
被害者向けサイト(自社ドメイン)
一次質問集(支払い→工程)
会見映像のアーカイブ管理
「赤が多い」島崎が呟く。「青が少ないと、赤に火が移る」清瀬が言い、青いカードに丸を付けた。「今夜の会見は“晒し”に対する姿勢を問われる。『隠すな』『守れ』の二択に連れて行かれないよう、道を用意する」
9 “晒し”の文体
午後三時。リークサイトに第二の投稿。
Round #2: 1,000We can be louder.Don't make us.
サンプルのExcelは、社員番号の横に“属性”の列が増えている。既婚・未婚、扶養人数、通勤経路。「これは、家庭を殴る」清瀬が低く言う。九重は頷く。「『反社会性』という言葉の具体だ。ここからが本番だ」「社内向けの文面に、『家族にも説明します』を明記します」「それと、補償の幅」九重。「クレジット監視だけで足りない。通勤経路が晒された人には、会社負担で経路変更を認める。引っ越しの相談窓口も置く」「引っ越し?」「“晒し”は住所の墓標を立てる。墓標を抜くには、場所を変えるしかない夜もある」
10 被害者サイト
IT部の若手が夜明けに組み始めた被害者向けサイトが、午後四時にベータで立ち上がる。常見問答、問い合わせフォーム、監視サービスの申込、FAQのリンク。「いま言える」「言えない」「次に言える」を三列で置く。
フォームの最後に、「困っていること」の自由記述欄。「自由記述、荒れるのでは?」と誰かが言う。「荒れる」清瀬。「荒れるけど、荒れ口は出口になる。出口がないと、壁が殴られる」
最初の投稿が入る。
『子どもが今朝、学校で“ニュース見た”と言われた。帰ってきて泣きながら聞いてくる。「うちは大丈夫?」と。答え方を教えてください。』清瀬は、喉の奥が詰まるのを感じ、深呼吸してから指を動かした。『「大丈夫にする」と答えてください。会社が、あなたの家の“時間”を守るために何をするか、今夜お知らせします。』
11 工場の夕方、匂いと紙
東雲工場。夕方の匂いは昼より重い。CIPのアルカリが壁に染み、空気が金属を舐めている。内海は腕時計のベゼルを回しながら、温度計の針の揺れを目で追う。「晒すって、どういうことなんですかね」新人がぽつりと漏らす。「目に見える場所に釘を打つことだ」内海は言い、配管のバルブをほんの少し閉めた。「見えるところに釘があると、人はそこに引っかかる」「取るには?」「釘は手で抜く。手で抜けないときは、板を被せる。板のことを“言葉”っていう」
新人は頷き、ログシートの日付欄に“17:00 更新”と書き込んだ。紙の上に、今日が定着する。
12 コールセンターの刃渡り
夕方のコールセンター。「『私の通勤経路、どうしたら』」「『小学生の息子の名前が』」「『うちの親がインターネットに疎くて』」
スクリプトはある。だが、スクリプトは刃渡りに過ぎない。握る手が震えれば、刃は滑る。オペレーターの年長者が、若手の横に椅子を寄せる。「最後に『次は何時に更新します』を付けて。お守りになる」「お守り?」「言葉は御札。御札は効くまで時間がかかる。だから『何時まで』が必要」
ヘッドセットのスポンジが湿る。耳が重くなるのを、若手は知っていく。人の声は重い。重い声を支えるには、支え合いが要る。
13 交渉は鼓動
“相手役”が背もたれに身体を預け、指先だけ一定の速度で動かす。
You escalated “family”.We escalate “delay price”.But keep it quiet: dark board only.
相手:
We don't want families.But your silence forces our hand.Delay 24h = +30%.
九重が目で合図を送り、“相手役”が返す。
24h for 20% + proof of full key.Your “reputation” benefits from keeping your word.
十秒の沈黙。
Deal.Key in 12h.Dark only.
交渉は心臓の鼓動に似ている。速くなり、遅くなる。遅くするのが仕事だ。遅い鼓動は、頭に酸素を送る。
14 CFOの計算
夕刻、九重は紙の上で二つの数字を並べる。“遅延ペナルティの累積”と“先送りの対価”。「『支払い』の語は使わない」彼女は自分に言い聞かせる。「でも、ここにあるのは『対価』だ」彼女のノートには縦に三本の線が引かれている。
法
倫理
生活
三本の線は、どこかで交わる。交わらない夜もある。交わらない夜は、翌朝まで繋ぎで渡る。渡り切った先に、誰かが立っている。
「会見で訊かれる」荒木が言う。「『人質に支払うのか』」「『人質』というたとえには乗らない」九重。「乗った瞬間、言葉が映画になる。映画の中には、生活がない」
15 “晒す”と“告白”
広報の清瀬は、会見の質疑想定の中に一本差し込んだ。
Q:「晒す」ことを盾に交渉に応じるのは、反社会的勢力を利する行為では?A:私たちは、生活を守るための“工程”で判断しています。 “晒す”は、生活を攻撃する行為です。 私たちは“告白”で対抗します。 どこまでを、いつ、どう言うか。言いにくい言葉を言うことで、晒しの温度を下げます。
言いながら、自分でも歯が浮くのを感じる。だが、“告白”という言葉が必要なときがある。黙っていることが、最も反社会的になる場面がある。
16 匿名掲示板の火
「晒されたくなきゃ、最初から守れよ」「予算削ってたくせに」「社員の家族巻き込むとか最悪」匿名の声は、正義の体をしている。正義の刃は良く切れる。良く切れる刃は、持ち手の指も切る。
社内の非公式チャットに、若手がぽつりと書く。
『正義は、温度のない言葉だ。』清瀬は“いいね”を押さない。押すと、その若手に色が付く。色はターゲットになる。代わりに、社内更新に一行を足す。『生活の温度で考え、言葉にします。』
17 家庭の食卓
郊外のマンション。ガラスのテーブルの上で、夕飯が冷えかけている。派遣社員の朝倉は、さっき届いた“助言メール”を夫に見せた。「わたしの通勤経路が書いてある。帰り道、二つしかないのに」夫はしばらく黙り、湯の入ったボウルにタオルを沈めた。「明日から、駅ひとつ前で降りるか」「会社に言っていいのかな」「言え。『言えること』にしてもらえ」「曖昧なことしか返ってこなかったら」夫はタオルを絞って肩にかけた。「それでも、言え。言った回数が、明日の床になる」朝倉は頷き、会社の被害者サイトにアクセスし、自由記述欄に打った。
『駅を変えたい。子どもが塾の帰りに同じ道を通るので、怖い。』送信のボタンは、押すとき硬かった。
18 相模の現場、紙と怒り
相模物流センター。戸川は、伝票の束を抱えた若手の手の甲のインクをティッシュで拭った。「怒る暇があるなら、走れ」「走ってます」「じゃあ、怒りは棚に置いてけ。棚は怒らない」「棚、怒りますよ」「怒るのは人間だ」戸川は薄く笑う。「棚は、戻れば許す」
業務用扇風機の風が、紙の端をめくる。紙は、怒りより軽い。軽いものを積むのは難しい。バランスがいる。
19 監視室、数値の回復
三崎のモニターの右隅、緑の点がひとつ増え、赤が小さくなる。テスト鍵の精度が98から98.7へ。「あとちょっと」「ちょっとが遠い」島崎がコーヒーに手を伸ばす。紙コップの底に残った黒い液体が、口の中に苦さを残す。「晒し、止まるかな」「止まらない。ただ、温度は下げられる」「どうやって」「言葉で被せる。板を載せる。剥き出しのままにしない」三崎は、昨日より落ち着いてその言葉を口にできた。落ち着きは、訓練で身につく。訓練は、夜でしかできない。
20 会見前の静寂
夜、会見の控室。白い紙コップ、透明のピッチャー、予備のマイク。社長が台本を手に、深く息を吸う。「『晒す』という言葉、口にします」清瀬が頷く。「逃げると、刺さる。刺さる前に、触る」「触る?」「自分で言う。私たちが“晒す”を受け取ったことを、最初に言う。『晒す』への怒りではなく、生活の温度で言う」社長は目を閉じ、短く頷く。喉の筋肉が動いた。
21 会見――刃を鈍らせる
ライトが熱を持ち、レンズの向こうで赤い小さな点が点る。「申し訳ありません」最初の一言。「本日未明、一部システムに不正アクセスがありました。製造・物流は限定運用で継続しています。配管温度70度、出荷率54%」数字が板になる。熱が板で遮られる。「一部の個人データが外部に持ち出された可能性が高いと考えています。該当の方には個別にご連絡します」記者の手元にあるペンが動く音が、前列の床から伝わる。「いわゆる“晒し”の宣告を受けています」小さなざわめき。「私たちは“晒し”に、沈黙ではなく“告白”で対抗します。 どこまでを、いつ、どう言うか。言いにくい言葉を、生活の温度で言います」フラッシュ。カメラの黒い目が瞬く。「“支払い”は?」「“工程”で判断します。法と倫理に適合する範囲で、最適な手段を選びます。 その過程の透明性については、時刻で返します。次の更新は明朝8時です」
白い照明で乾いた空気に、言葉が少し湿りを与えた。湿った空気は燃えにくい。燃えにくい空気の中で、二重の刃は鈍る。
22 夜の反響
映像が各局に流れ、SNSでは「“晒し”と口にした」「逃げなかった」「薄い」「金を出すな」の声が並ぶ。清瀬は、画面から距離を取り、耳だけで単語を拾う。「逃げなかった」。それだけが、今夜の報酬だ。
社内ポータルには、会見の全文が上がり、社員のコメント欄に短い「ありがとう」がいくつも落ちる。
『子どもに“言いにくい言葉を言う”って説明できた。』『棚に“戻る”って言ってくれ。明日もやるから。』『通勤経路の相談、お願いします。』
“言えないこと”に蝶番が付き、少しずつ開く。
23 深夜、鍵の届く音
午前一時すぎ。チャットが鳴る。
Full key.Test here.
検証環境に鍵を投入。画面の黒い文字が白へ、白が図へ、図が手順へ。「通った」三崎が息を吐く。「98から、99.3」島崎が首を回す。「あと、0.7」「0.7は、祈りじゃなく取る」茅野が目を細める。“相手役”が素早く返す。
Final 100% for your “reputation”.Keep your word.
九重は机上の電卓を押し、次に自分の胸を、ゆっくり押さえた。「息を整える時間だ」
24 封書と通知
深夜、人事部のフロアでは、封書の束がカートに積まれ、ヤマの形を変える。宛名印刷機は止まらない。ガタン、ガタン。「封入チーム、交代」「宛名チェック、二人で読む」「休憩、十五分」名簿の山は、紙の山に変わり、紙の山は、配達員の手に渡る。“晒す”は、光に当てることだ。こちらは、紙で覆う。紙は遅い。だが、紙は、指に記憶を残す。
25 被害者サイト、夜の言葉
自由記述欄に夜の声が続く。
『引っ越しを検討しています。費用の相談をしたい』『祖父母の家に一時避難してもいいか』『子どもの写真、SNSから消したほうがいいですか』
清瀬は、それぞれに、「できる」「できる」「今夜消す」を返し、次に「明朝8:00に“金額と手順”を出す」と添える。「金額と手順」は、夜に言うと燃える。朝に言う。朝は燃えにくい。燃えにくい時間に、燃える話を置く。
26 現場の仮眠
東雲工場の休憩室。内海が椅子を三つ並べ、作業着のまま膝を立てて寝息を立てる。新人はログシートの端に小さく“会見、見た”と書き、丸で囲む。機械は寝ない。人は寝る。寝ている間に温度が落ちないように、バルブの角度をマークし、懐中電灯をバッテリーに刺す。眠るための工程。工程は、祈りではない。
27 相模の薄明
相模物流センターの事務室。戸川は鉄脚の椅子にもたれ、伝票の束を枕にして目を閉じた。ドアの隙間から、朝の冷気が滑り込む。彼のスマホに、取引先の担当から短いメッセージ。《会見、見ました。棚、明日の午前は触りません》彼は親指で『ありがとう』を打ち、送信してから消して、《ありがとう。8:00に最新を送る》と打ち直した。約束は、疲れに効く鎮痛剤だ。
28 家の窓
朝倉の家。窓の外の空が薄く、子どもの寝息が規則正しく続く。夫がうたた寝から起き上がり、キッチンで湯を沸かす。朝倉はスマホに会社からの通知を見つける。「明朝8:00、通勤経路変更の補助と相談窓口の案内」。彼女は、肩の力が少し抜けるのを感じた。「言ってよかった」彼女は自分に小さく言い、目を閉じた。砂時計の音はしない。だが、砂は確かに遅くなっている気がした。
29 明け方、三本の線
九重は会議室の窓から川の黒を見て、ノートの三本線をなぞる。
法:制裁照合は二次確認へ。
倫理:“晒し”に“告白”で対抗。
生活:通勤経路変更、引っ越し支援、監視サービス。
「生活の線が太った」彼女は独りごちる。「太らせるのに、金は要る。だが、金だけでは太らない」机上のペンで、最後に“次の更新:8:00”と書く。時刻は、生活の線を太くする。
30 朝の一報
午前八時。ポータルの更新ボタンが押される。
【8:00更新】・“晒し”について:外部公開の先送り(24h)で合意。ダーク掲示板のみ。・鍵の精度:99.3%→最終検証予定(本日午前)・通勤経路:変更希望の方は申請フォームへ。会社負担での迂回・定期の切替を認めます。・引っ越し:希望者に相談窓口を設置。費用補助の条件は本日14:00に提示。・監視サービス:個別連絡の方に無償提供。次の更新は11:00です。
同時に、被害者向けサイトには「家族への説明の仕方」の短い一枚紙があがる。
『“大丈夫?”と聞かれたら、「大丈夫にする」と答えてください。 会社が“いつ・何をするか”を一緒に見ましょう。』
31 “晒す”の温度
リークサイトは静かだ。掲示板の最新行は昨夜の時刻のまま、黒いスクリーンの奥で眠っている。眠りは、終わりではない。眠りは、刃の温度を下げる時間だ。
三崎は、モニターの隅の砂時計が回る速度が、気持ち遅くなったように見えた。錯覚でもいい。錯覚は、今日を渡す板になる。
32 明るい声
コールセンターで、年長者の声が少し明るい。「『駅を変えたい』——承りました。費用は会社が持ちます」「『引っ越し』——条件を14:00に出します。申請の準備だけ」「『子どもの写真』——今夜、消しましょう。復旧してから、また撮ればいい」
電話の向こうの息が落ち着くのが、ヘッドセット越しに分かる。呼吸は、言葉で整う。
33 人は版でできている
清瀬は、会見後のメディアの紙面を並べて眺める。“薄い”“誠実”“逃げなかった”“支払い”。単語は刃だが、並べると判子のように押されている。「私たちも、版でできている」彼女は小さく呟く。「『更新』『工程』『数値』『次』。 この四つの版を、今日も押す」
彼女はホワイトボードの「言えるようにする条件」の欄に、新たに二つ書き足した。
引っ越し補助の条件
第三波抑止の合意文言
条件に蝶番を付ける。扉は、蝶番でしか開かない。
34 “晒す”を越えて
午後の打ち合わせで、荒木が一枚の紙を出す。「“削除証明”は取れない。だが、“不拡散の誓約”は取れる」「紙で?」九重。「チャットのログに、文言を打たせる。『あなた方の評判にかけて』という形で」「評判」「向こうの通貨だ」荒木は鉛筆の芯を削りながら言う。「私たちの通貨は“明日の生活”。その間にレートを作る」
“相手役”が文言を叩く。
You confirm: no clear web.No social media.Dark board only, for 7 days, then delete.This protects your reputation.
相手は十秒置いて、
Confirmed.We protect our name.
“晒す”の刃は、鈍くはならない。だが、鞘に納める時間を買える。
35 暮れゆく工場
東雲工場の夕暮れ。三系統目の試運転が通り、内海が親指を立てる。新人がボードに『良好』と書く。「晒された?」新人が小声で訊く。「された」内海は正直に言う。「でも、俺らの『晒し』はいつもだ。ガラス越しに見られながら、不良を出さない。 違うのは、見ている相手が“誰か分からない”ってことだけだ」「怖くないですか」「怖い。でも、工程は怖がらない。工程は、回る」
36 ラストミル
相模物流センターのゲートが閉まる。最後のトレーラーが出て行き、戸川は深く息を吐いた。「棚、明日戻すって」若手がスマホを掲げる。「戻るのか」「戻ります」「じゃあ、怒りを――」「棚に置いていけ、ですよね」「そうだ」戸川は笑った。「戻る棚は、怒らない」
37 夜の前の確認
九重は、窓の外の黒を見て、最後の確認事項を読み上げる。
“晒し”先送り:合意済、ダークのみ
鍵精度:最終検証中(午前)→問題なし
引っ越し補助:14:00発表
通勤経路:運用開始
会見:アーカイブ管理、引用監視
次回更新:17:00→明朝8:00
「言えないこと」は、減っていない。「言えるようにする条件」が、増えた。増えるたび、砂の音が鈍る。
38 板の厚み
清瀬は、自分のノートに線を引いた。板の厚み。数字、工程、時刻、条件。四枚の板を重ねる。薄い板を重ねれば、厚くなる。厚い板は、火に焦げにくい。焦げた板は、次に燃えやすい。だから、焦がさない。焦がさないために、薄い板を繰り返し渡す。
窓の外で、川の黒が増し、街の灯りが遠く強く見える。彼女はホワイトボードの隅に、小さく書いた。
『晒されたら、告白で返す。 告白は、生活の言葉で。』
ペン先が少し震えた。震えは、今日も仕事をした証拠だ。
39 その夜
リークサイトは、約束どおり静かだった。“相手役”の端末には、簡素な「OK」がひとつ。監視室では、赤いバナーが更に痩せ、砂時計のひとつが消える。三崎は、椅子の背にもたれ、首の筋肉を伸ばした。「二重の刃、一本は鞘に入った」島崎が言う。「もう一本は?」「まだ回ってる」「回ってるうちに、板を重ねる」「おう」島崎が笑い、紙コップを持ち上げた。「板、落とすなよ」「落としません」三崎は答え、背筋を伸ばした。
40 明日の扉
夜は続く。だが、扉は開き始めている。“晒す”という刃に、こちらの言葉という蝶番が取り付けられた。開け閉めのたびに、きしむ音がする。きしみは、不快だ。だが、きしみは、壊れていない証拠だ。
明日の朝、また一行目は決まっている。「申し訳ありません。」次に、数字と工程。“晒す”については、今日より少し多く言う。少しずつ、板を重ねる。板は、誰かの生活の下に滑り込む。砂の音が、また少し、遠くなる。
――二重の刃は、まだそこにある。けれども刃先には、うっすらと指紋が付いた。こちらの指紋だ。触った証拠。触ったなら、持てる。持てるなら、置き場所を選べる。その実感だけが、今夜の救いだった。
第二部 交渉という職業
影の来訪者――外部対策会社の“交渉人”
1 午前四時五十一分、無音の入館
エントランスのガラスは、夜と朝の境目をそのまま閉じ込めていた。自動ドアがわずかに呼吸し、男は迷いなくICカードをかざす。ピッという返事は短く、靴音は絨毯に吸われる。コートの色は濃い灰、リュックは小ぶり、手には紙袋ひとつ――中身は、インスタントの味噌汁と、個包装の飴。
警備員が来訪票をめくる。「ご用件は?」「内部統制の確認と、夜間対応の補助です」男は淡々と答える。声は低いが、言い切るところだけ硬い。臨時入館票には無地の英字で監査補助。名は覚えにくい。覚えにくいようにしてある。
十六階までのエレベーターは無人。鏡に映る顔は特徴がないのが特徴で、視線はいつも直線より半歩下を歩く。
2 正体のない名刺
監視室に入ると、蛍光灯の白が音を失くす。CISOの茅野、CFOの九重、広報の清瀬、監視席の島崎と三崎が振り向いた。男は薄いグレーの名刺を配る。社名はない。エンボスで外部対策支援とだけある。
「呼び名は?」茅野が尋ねる。「相手役でお願いします。ここでは、皆さんの社内の一員です。役職は“夜間対応の担当者”。最終承認権はありません、という設定で進めます」
三崎は、身体のどこかがすっと温度を下げるのを感じた。嘘ではない。だが、真実だけでもない。役割という言葉が、ここでは一番強い。
3 二台の端末と四つの箱
相手役はリュックから二台の端末を出す。片方に白いテープで通信用、もう片方に記録用。通信用はUSBからブートされる使い捨ての環境。記録用は物理スイッチで読み取り専用にできる。机には四つの付箋を貼る。言う/言わない/聞く/記録する。「混ぜると腐ります」相手役は簡単に言った。「なので箱を分ける」
九重が顎で時計を示す。「時間が血を吸っていく。何から?」「呼吸です」相手役は即答する。「こちらの。相手の。第三者の。その三つを時刻で揃える」
4 呼吸の地図
ホワイトボードに三本の縦線が引かれる。こちらの呼吸/相手の呼吸/第三者の呼吸。「こちらは更新時刻で整える。8:00、11:00、14:00、17:00。相手は文体で読む。句読点、改行、皮肉の温度。第三者は具体でなだめる。温度、率、工程」
清瀬が書き取り、茅野が頷く。相手役は通信用端末をモニターに投影して、これまでのチャット履歴を出した。「句読点の前にスペースがある。曜日は英語三字。**“失望”を多用する。“評判”**という単語に反応する。ビジネス型です。評判を貨幣にして動く連中。約束は守りがち」
三崎が解析を重ねる。「返信までの中央値17秒。昼の前後に遅延。入力切替の癖なし」「生活がある」相手役はわずかに笑う。「生活がある相手は、合理で動く。こちらも生活を前に出す」
5 カバーストーリー
手帳に短いプロフィールがある。相手役自身の、今日だけの履歴書だ。
所属:調達本部付の夜間対応
家族:配偶者・子一(17時に迎え)
最終承認者:CFO/取締役会
口癖:工程/時刻/証拠
信念:生活を守るために工程を進める
九重が苦笑する。「信念まで設定?」「操作は内側から始めます」相手役は肩を竦める。「漏らすのは“人間”だけ。設備情報は漏らさない」
6 最初の三行
相手役はキーボードの上に指を置く。
こちらは夜間対応の担当者です。承認者は別にいます。11:00/14:00/17:00に返事をします。
「名は名乗らず、役割だけを置く。時間は先に取る」送信。砂時計が一回転する前に返事が来る。
よろしい。あなたは誰だ。あなたの会社は時間の価値を理解しているか。
相手役はすぐ返す。
役割は“夜間対応”。最終承認はCFO/取締役会。時間=工程×生活。
「相手の単語を借りて、こちらの辞書に並べ替える」相手役は独り言のように言う。「“時間の価値”は、先に定義しておく」
7 工場の匂いを拾う
「現場を見ます」相手役は告げ、茅野と一緒にエレベーターを降りる。沿っているのは、工場長の狩野がビデオ通話で見せる配管と温度計、うっすら白い霧、CIPのアルカリが金属に当たる匂いの語彙。「匂いは嘘をつかない」狩野が言う。「70〜72度。これを落とすと、配管が固まる」相手役は短くメモする。数字と匂いを、チャットの最初の十行に差し込むために。
8 “言う/言わない”の切り分け訓練
監視室に戻ると、相手役は付箋の四箱を指差す。「“言う”は数字と時刻。“言わない”は金と構造。“聞く”は証拠。“記録する”は合意の文言」「言えと言われても言わないほうが良い具体は?」と清瀬。「支払いの有無と時期、アクセスの穴、個人名。“工程”で置き換える」「言うべき具体は?」「温度と率。“生活”に触れる数字だけ置く」
9 “失望”の扱い
相手が打つ。
失望させるな。昼までに誠実さを見せろ。相手役は返す。誠実さ=証拠の交換。復号鍵の精度を98→99→100に。公開先送り=24h→延長の対価。
「“誠実”を価格にする」相手役は囁く。「金ではなく、時刻と精度で」
10 廊下の丸テーブル
短い移動の隙間。九重と相手役は廊下の丸テーブルに座る。「線を引く。あなたは支払う/支払わないを決めない。時間の価格だけを示す」「了解。決断は台所の中で。私はラベルを貼るだけです」九重の目は疲れているのに澄んでいた。「生活の線は私が太らせる。あなたは評判の線を細くして」
11 机上の小物
相手役は机の左上に三つ置く。白い石/短い鉛筆/折れた安全ピン。「ペースメーカー」相手役は言う。「手が速くなったら石で冷やす。鉛筆は短い言葉を思い出す。ピンは刺すべき瞬間の合図」
島崎が半笑いになる。滑稽さが、天井の低さを少し上げた。
12 証拠の交換
相手が.7zを投げる。パスは時刻+三文字。隔離環境で開くと、古い監査報告書の抜粋、在庫表の端。「雑だが足りる」相手役は言う。「こちらは復号テストのログ。第三者の時刻印付きで返す」
テスト:97.2→98.1→99.3%欠落:末尾ページ監査立会:あり(名前伏)次:11:00
冷たい文体で返す。温度は数字に宿る。
13 “晒す”の宣告と板
黒い掲示板に白い文字。Round #1: 100。社員番号、部署、内線。「名前は削ってる」島崎。「本人には刺さる」三崎。清瀬は息を吸い、「晒し」という単語を社内文書に残すか迷う。相手役が頷く。「逃げると刺さる。先に触る。板を置く」
いわゆる“晒し”の宣告を受けています。SNSや広域拡散を避けさせる交渉を進めました。24hの先送りと、ダーク掲示板のみの約束を引き出しています。
言葉で板を置く。火は板を越えにくい。
14 家族のカード
相手がちらつかせる。
families.監視室の空気が硬くなる。相手役は目を閉じ、数学を出す。家族の言及=あなた方の評判に対する**-X**。先送りの価格=+Y。-X > +Yなら、あなた方は損をする。十秒。We don't want families.
倫理を相手の辞書で語る。効く。
15 承認待ちという盾
取締役会が長引く。相手が催促する。
clock is ticking. 24h = +30%.相手役は盾を出す。承認者の会議が遅延。監査が追加手続を要求。当局への記録。次は17:00。時間の言い訳は、手続の必然でなければならない。
16 コールセンターの耳
相手役は十分だけ席を外し、コールセンターの録音を聞く。「『次は何時に?』が多い」清瀬が報告する。「次の時刻はお守りです」相手役は言う。「『いつまで』は、相手の怒りを寝かせる枕」
17 記者の喉
清瀬は二本の電話をかける。経済誌のデスクと、社会部の記者。相手役は隣で聞き、“交渉”は「時間を買う行為」として説明する、と手でサインを送る。「『支払ったのか』と問われたら?」清瀬が問う。「工程で答える。金ではなく時刻で」
18 社長の三十秒
会見前の練習。相手役が言う。「最初の三十秒を十回」「申し訳ありません」社長は一度深く頭を下げる。「配管温度70度、出荷率24%。一部データが外部に持ち出された可能性が高いと考えています。該当者には個別に連絡します。次の更新は11時です」相手役は「“ご理解”は使わない」「“努力”より“工程”」の二点だけ直す。
19 内部の火と蓋
非公式チャットに昔の予算削減スライドが再掲される。「人災だ」。火が上がる。相手役は清瀬に耳打ち。「正義の言葉には温度がない。**“今日の前提”**を提示して寝かせる」
11:00に“今日の前提”を共有します。“犯人探し”ではなく**“工程の上書き”**を。
20 昼の線引き
九重は紙の上で二つの線を引く。遅延ペナルティの累積と、先送りの対価。「『支払い』は言わない」と九重。「でも対価はある。生活の線が太るなら、評判の線が細らないように」
相手役は頷く。「“決められるようにする”。それだけです」
21 14:00の板
【14:00更新】物流:24→41%製造:70〜72度で安定セキュリティ:公開先送り(24h)で合意個人データ:個別連絡/監視サービス準備次は17:00「『先送り合意』が燃えます」と若手。「燃える。だから工程を横に置く。**“何に使う時間か”**を言う」清瀬。
22 食べ物の匂い
相手役はカップ麺に湯を注ぐ。「今?」三崎が笑う。「匂いは人間の時間を呼び戻す」相手役は湯気を嗅ぐ。チャットの向こうにGood eveningが混ざる。生活が透けた瞬間に、刃は鈍る。
23 鍵の精度
茅野から連絡。98.1→99.3。「0.7が遠い」島崎。相手役はバーターを差し込む。
99.3→100=先送り延長。あなた方は**“ダークのみ/SNSなし”を守る。こちらは被害者連絡**を前に進める。返事は短い。Deal. Full key in early morning.
24 会見――“晒す”を先に言う
ライトが熱を持つ。社長は最初の一言を深く置く。「本日未明、一部システムに不正アクセスがありました。配管温度70度、出荷率54%――」そして言う。「晒しの宣告を受けています。沈黙ではなく告白で対抗します。どこまでを、いつ、どう言うか。生活の温度で言います」フラッシュが散る。相手役は呼吸を数える。三。四。五。
25 夜半の鍵
午前一時を過ぎ、チャットが静かに震える。
Full key. Test here.検証が通る。100。「終わりじゃない」茅野。「始められるようになっただけ」相手役の口元がわずかに動く。「その言い回しを残してください」
26 被害者サイトの夜
自由記述欄に入る。「駅を変えたい」「子の写真を消すべき?」清瀬は時刻を添えて返す。「14:00に条件と手順」「今夜は消す」「金額と手順」は、朝に出す。夜は燃える。朝は燃えにくい。
27 物流の紙の音
相模のセンター。伝票の端が扇風機でめくれる。戸川は若手に言う。「怒る暇があるなら走れ。怒りは棚に置いていけ」「棚、怒りますよ」「怒るのは人間だ。棚は戻れば許す」
28 工場の仮眠
東雲工場の休憩室。内海が椅子を三つ並べて眠る。新人がログシートに小さく書く。“会見、見た”。「晒された?」「された」内海は正直に言う。「でも俺らの晒しはいつもだ。ガラス越しに見られながら不良を出さない。それと同じだ」
29 白い石の手触り
監視室で三崎は、相手役の白い石にそっと触れる。冷たい。冷たさは夜を思い出させる。夜は、言葉の筋肉を作る場所だった。彼は更新のスケジュールを打ち込む。8:00/11:00/14:00/17:00。呼吸だ。
30 第三者の呼吸
朝。被害者サイトに「家族への説明」の一枚紙が上がる。
「大丈夫?」に対しては「大丈夫にする」。次に時刻を言う。一緒に、画面を見てください。第三者の呼吸は、時刻で整う。
31 評判という通貨
法務の荒木が鉛筆を回す。「削除証明はない。不拡散の誓約は取れる」相手役が文言を打たせる。
no clear webno social mediadark only, 7 days, then deleteprotect your name返事。ConfirmedWe protect our name名という通貨で締める。
32 “ここにいない人”の台本
相手役は**“ここにいない人のための台本”**を置く。
子どもには:「大丈夫にする」「次は何時に何を」
取引先には:「いつまで→どれだけ→金」
社員には:「言える/言えない/言えるようにする条件」
記者には:「支払いではなく工程」
33 撤収の支度
夜明け前、相手役は記録用SSDのスイッチを読み取り専用に倒す。二つの束を置く。癖の地図――句読点、改行、単語。価格の履歴――時間、精度、範囲。「今日は今日で完結です。明日のための紙です」
九重が立ち上がる。「あなたの名は残らないのね」「名は要りません。約束の履歴が残れば」相手役はコートの襟を整え、階段で降りる。影は朝に薄い。
34 編集後記
清瀬は社内ポータルに短い段を添えた。
今日、**“評判”**という言葉を何度も使いました。それは相手の通貨であると同時に、私たちの生活の残響でもあります。生活を主語にして、明日も言葉を置きます。
35 三本の線
九重はノートに三本の線を引き直す。
法――照合の時刻
倫理――晒しに告白で対抗
生活――引っ越し/通勤/監視の条件線は交わらない夜もある。交わせない夜は、板を重ねて渡る。
36 ミスの管理
茅野は復旧班に告げる。「“復旧”と“復元”は違う。復元しようとして壊すな。動かしながら直す」相手役の言葉が残っている。「終わりじゃない。始められるようになっただけ」
37 港の風
相模では、トレーラーの列が短くなる。戸川のスマホにメッセージ。《棚、午前は触らず》「戻るのか」「戻るまで戻す」戸川は言う。時刻を添えて返す。《8:00に最新》
38 工場の板
掲示板に四行。
温度は70〜72度紙で回した分はあとでデータに焦るな次は11:00狩野は声に出して読む。「板だ。機械の前の板。火を遠ざける板」
39 白昼夢
三崎は一瞬だけ眠り、夢を見た。黒い砂時計の下に板が重なっていく。薄い板、薄い板、また薄い板。砂は落ちるが、音が小さくなる。目が覚めると、更新の時刻が来ていた。
40 “交渉という職業”の定義
「交渉って、何なんだろう」三崎が言う。茅野:「相手の辞書で、こちらの生活を守る文をつくる仕事」清瀬:「言えないことに蝶番を付ける仕事」九重:「“決められるようにする”仕事」定義は複数でいい。複数でないと、夜は渡れない。
41 薄皮
相手役が去った後も、机の隅に飴がひとつ残った。包み紙が指にまとわり、薄い甘さが喉に落ちる。清瀬は笑って捨てた。甘さは、時に刃を鈍らせる。
42 濁点
匿名掲示板に「払うな」と濁点の多い叫びが流れる。清瀬は画面を閉じる。濁音は、疲れた耳に刺さる。「工程で返す」彼女は紙をめくる。濁点のない言葉で、濁りを洗う。
43 影の仕事
受付の台帳に鉛筆の薄い跡。監査補助。警備員が消しゴムで軽く擦る。跡は消えたが、ログは残った。地図は残った。板は貼られた。時刻は守られた。
44 昼の端
昼の端、食堂に蒸気が上がる。三崎はカレーを半分だけ食べ、残りを置いた。味は戻らない。匂いだけが戻る。匂いは、生きている証拠だ。
45 夕暮れの反射
窓の外、川面が鉛色から墨に変わる。九重はガラスの自分に目礼し、灯りをひとつ消す。節電ではない。夜を迎える儀式だ。
46 “明日”の予約
相手役がいなくても、更新は落ちる。8:00/11:00/14:00/17:00。明日の予約は、今日の約束だ。約束は、砂時計の下に敷く薄い板。薄いが、敷けば音が変わる。
47 手の記憶
内海がバルブの角度を指で確かめる。指が覚えている。手の記憶は、マニュアルより速い。マニュアルは頭の板。手は身体の板。板は重ねられる。
48 終わりではなく
終わりではない。始められるようになっただけだ。その言い回しが、今のこの会社の標語になった。標語は、壁の紙ではなく、喉の筋肉に宿る。明日も言う。「始められるようになっただけ」
49 影の薄さ
“影の来訪者”は薄くなり、見えなくなる。見えない仕事ほど、骨に残る。骨に残った感覚は、危機が去っても、次の危機の前で勝手に動く。それでいい。影は、灯りが増えるほど薄くなるのだから。
50 最後の板
清瀬はホワイトボードの片隅に、一行だけ残した。
“言える/言えない/言えるようにする条件”。そして、太い丸で8:00。丸は歪んでいる。歪んでいても、丸だ。丸があれば、夜は短くなる。
第二部 交渉という職業
偽名の履歴書――社内の一員として振る舞う理由
1 午前六時十二分、ラミネートの熱
入館管理室の卓上ラミネーターが、熱い息を規則正しく吐いていた。薄いカードがゆっくりと飲み込まれ、透明の膜の下に青い帯が閉じ込められる。社員証。印字はこうだ。調達本部付/夜間対応。名字はありふれていて、検索にひっかからない。名は、なおさら。警備員は慣れた手付きでストラップを通し、「はい」と短く渡す。受け取った男は、カードの角を親指で一度押さえ、曲がり癖のないことを確かめた。癖は、最初に付けると最後まで残る。嘘も、同じだ。
2 偽名の履歴書(社内用)
男は監視室に入ると、ホワイトボードの隅に履歴書を書いた。誰に見せるでもなく、まず自分に見せるために。
所属:調達本部付/夜間対応
役割:承認者の“承認待ち”を運ぶ者/相手の“誠実”を測る者
入社年月:記載せず(契約更新のカバーで説明)
通勤:東側から30分(遅延理由として自然)
家族構成:配偶者・子一(17時迎え)
机の位置:十六階監視室の端(視線を抜けやすい角)
メール署名:調達本部付 夜間対応/内線××××
よく使う言葉:工程/時刻/証拠/台所
使わない言葉:支払い/確約/絶対
既知の社内略語:“棚戻す”/“歩留まり”/“CIP”/“対策費”
癖:椅子を引くとき音を立てない/紙コップの縁を指でなぞらない
香り:無臭(香水は嘘の匂いを増量する)
「履歴書?」と島崎が笑う。男はうなずく。「私は“ここにいる理由”を、何度でも自分に説明する必要がある。そうしないと、嘘の骨がぐらつく」
3 “社内の一員”という演出
広報室長の清瀬が、珈琲に紙の蓋を戻しながら言った。「なぜ外部のあなたが“社内”を名乗る?」男は答える。「いくつ、理由がある。一つ目、“承認待ち”が効くから。最終承認者(CFO/取締役会)を背にして、時間を買える。二つ目、相手は“外注任せ”の組織を軽く見る。『決められる人間がいない』と踏めば、刺激を上げる。三つ目、社内の呼吸(更新/会見/工場稼働)が一つの声で揃う。外と内の辞書を、私が行き来することで訳し違いを減らせる。四つ目、秘密を最小限にできる。『外部に任せた』が広まる前に、『社内で運転している』を先に通す」
清瀬は頷き、「一つだけ嫌いなのは?」と問う。「嘘だ」男は即答した。「嘘は使う。だが、嘘の粒度を選ぶ。生活に触れる嘘は、使わない」
4 廊下の角で九重と
CFOの九重が、歩きながら短く言う。「名乗るのは役割だけ。支払いの可否に触れる権限はない。**“決められるようにする”までが、あなたの仕事」「承知」男は答える。「あと、噂の管理」九重は続ける。「『外注に丸投げ』という言葉は、怒りの見出しになる。『社内で回す』**は、工程の見出しになる」
5 相手の窓に“社内”を置く
チャットの向こう。相手は、評判という通貨で動く人間の形を模している。
Who are you?男は打つ。夜間対応の社内担当です。承認者は別にいます。11:00/14:00/17:00に返事をします。相手は揺れる。Good. Show me you can decide.男は淡々と、決めないことを決める。決めるのは台所です。私は皿を運ぶ。あなたは証拠を運ぶ。言葉の位置を決める。誰がどこで何をするか。位置は、力だ。
6 偽名の“生活”
社内の雑談は、生活で回る。「お子さん、保育園です?」「17時に迎えです」男は答える。「今日は母が」会議の終わりに、「先に失礼」と席を立つ。わざと三分。その間に、相手へ「承認待ち」の文を投げる。生活を時間に変換する、合法的な嘘。
7 喫煙所の煙
喫煙所は、情報が煙に混ざる場所だ。男は煙草を吸わないが、灰皿の横に立ち、匂いだけ吸い込む。「監査は何してた」「予算削った」「払うんだろ」語尾の温度を測る。「“誰が”ではなく“どうするか”」男は静かに言う。「今夜は工程を増やす」怒りが煙に紛れる。煙は、火より扱いやすい。
8 偽名のメール署名
男のメールには、余計なものはない。
調達本部付 夜間対応内線:××××11:00/14:00/17:00に更新顔文字は使わない。強調は使わない。時刻だけが装飾だ。“社外秘”の押印は最小限。印影は、見舞金の匂いを連想させる。
9 工場の音、物流の紙
東雲工場のフロア。CIPの循環音が薄い金属を叩く。「焦ると滑る」男は新人に言う。「滑ると転ぶ。転ぶと痛い。痛いと怒る。怒ると事故る」相模の物流センター。伝票の束がトントンと揃えられる音。「動き出したを先に伝えろ」男はセンター長に言う。「数字はその次。“いつまで”は必ず」
10 “嘘の骨”と“真実の肉”
広報の清瀬が、うんざりした顔で言う。「『社内の一員です』って、会見で言えます?」「言えない」男は即答する。「言わない。内側の嘘は、外に出す嘘より重い。だが、嘘の骨を真実の肉で覆えば、歩く。嘘の骨=社内の一員。真実の肉=時刻で更新する/工程で話す/生活を主語にする」
11 “承認待ち”という盾
相手が催促する。
24h = +30%男は投げる。承認待ち。監査の追加手続き。当局との連携。次は17:00。人ではなく工程を盾にする。人の忙しさは叩き落とされるが、工程の必然は、相手の合理がかばう。
12 内なる“疑い”
現場の古株が言う。「あんた、うちの人か?」男は、言い訳をしない。「今日は、うちの人だ。終わったら外の人に戻る」「裏切りだな」「嘘だ。だが、裏切りじゃない。守るための嘘だ」古株は鼻で笑い、配管のバルブを半目だけ締めた。理解の半目。
13 偽名の倫理
九重は会議室で言う。「倫理は、後から書くと歴史になる。今書くと選択になる」男はうなずく。「偽名は選択だ。誰の生活を守るか、どの言葉を削るか。削った言葉は、明日のために取っておく」
14 “相手役”と“台所”
男は自分の位置を何度も言い直す。「私は“相手役”。台所で火加減を決める人ではない。皿を出す。火を見張る。煙を外に出す。焦げを落とす。台所に踏み込むと、料理を壊す」
15 フォレンジックの白
法務の荒木が鉛筆で言う。「記録が要る。“交渉”は外に出さない。“対話”で行く。偽名も記録に残らない。残すのは役割だけ」男は記録用のSSDを読み取り専用に倒す。「白い記録は、黒い夜を運ぶ」
16 “生活”を武器にしない
男のカバーには子どもがいる。だが、相手にそれを武器として見せない。
子どもがいるので、5時間後に返事を。それで時間は買う。だが、家族の写真は見せない。声は出さない。生活は盾で、槍にしてはいけない。
17 食堂の窓
食堂の窓から、川が灰色に見える。夜間対応の名札を見た若手が言う。「外の人ですよね」「今日は中の人」男は微笑む。「紛らわしい」「紛らわしさが火を遠ざける夜がある」若手は理解しない。理解しなくていい。理解は工程に含めない。
18 “辞書”と“翻訳”
男はホワイトボードの左に社内の辞書、右に相手の辞書を描く。左には「棚/歩留まり/CIP/出荷率」。右には「reputation/delay price/proof/key precision」。真ん中に、自分の丸。「翻訳の速度が交渉の速度」男は言う。「翻訳が遅いと、怒りが言葉を追い越す」
19 倉庫の夜、紙と怒り
相模。紙の伝票が増え、怒りの声が減る。「紙で行け」「紙で戻す」。戸川が言った。「棚は戻る。戻るまで、戻す」男は「言葉は板だ」と答える。板を重ねて火を遠ざける。
20 “晒し”と“告白”
黒い掲示板に白い文字。「Round #2: 1,000」。清瀬が言う。「『晒し』って言葉、使う?」「使う」男は言う。「逃げると刺さる。先に触る。『晒し』に『告白』で対抗する。どこまでを、いつ、どう言うか」
21 偽名の危険
「バレたら?」島崎が問う。「終わる」男は正直だ。「信頼は見えないガラス。一度割れると、亀裂がどこまでも走る。だから、偽名の範囲を決める。支払いに近づかない。個人に寄らない」
22 “社内の声”を借りる
男は、現場に一言をもらう。「匂い、戻ってきた」その言葉を、会見の原稿に一条だけ混ぜる。匂いは、正義より強いときがある。生活は、正義の刃を鈍らせる。
23 ハンドルの遊び
工場長の狩野が言う。「全部、きっちり締めると折れる。遊びがいる」男は頷く。「言葉にも遊びがいる。断言ばかりだと、燃える」
24 メールの一文
被害者サイトの自由記述。「駅を変えたい」男は清瀬と文案を詰め、「会社負担で迂回を認めます」の一文を置く。偽名はここでは不要だ。氏名の代わりに、会社が名乗る。
25 記者の電話
「払うのか」男は言う。「工程を進めています。法と倫理に適合する範囲で、最適な手段を選びます」「ありうる?」「手段は複数です」偽名の中で、言わない練習。言えないではない。言わない。
26 小さな相づち
コールセンターの録音。「はい」「承りました」「次は11時です」相づちは板だ。相づちが怒りの火を弱火にする。
27 “相手役”の手土産
相手役の机の端に、白い石と短い鉛筆と折れた安全ピン。「滑稽ですね」と三崎。「滑稽が、夜を渡す。滑稽が、人を残す」
28 “対策費”の名前
九重は言う。「『支払い』は紙に残らない。『対策費』で統一」男は頷く。「名前は盾だ。名付けは工程だ」
29 偽名の限界を自覚する
夜、男は廊下の窓に映る自分に言う。「いつか、ここにいない。私は記録だけに残る。偽名は、明日に残らない。残すのは、時刻と台本」
30 夜の打合せ、三十秒の稽古
会見前、男は社長に言う。「三十秒を十回」「申し訳ありません」数字。工程。時刻。社長は喉の筋肉に言葉を馴染ませる。偽名は、ここでは不要だ。顔が名前になる。
31 “時間”という通貨
相手が書く。
Delay 24h = +30%男が返す。24h for test key 99.3→100No SNS/dark only/7 days時間は、評判と鍵の両替機だ。
32 噂の熱を逃がす
非公式チャットの荒れに、更新時刻を投げる。
11:00に“今日の前提”を共有します。“今”を膨らませる噂から、**“次”**に目を移す。目は、火を避ける。
33 “家族”の扱い直し
男は社内向けの一文を加える。
家族に関する懸念は、会社が窓口になります。通勤経路の変更、引っ越し補助の相談を受け付けます。個人に背負わせない。会社が主語になる。
34 “偽名”が守るもの
九重がぽつりと言う。「偽名は、私を守る」男は首を振る。「偽名は、従業員を守る。あなたの名前に直接火を当てないために、私が前に立つ。燃える文字は、役割名に」
35 外部と内部の橋
茅野が言う。「技術の言葉は冷たい。広報の言葉は熱い。経営の言葉は硬い。相手の言葉は乾いている。あなたは、橋になる」男はうなずき、「橋は燃える。だから、板を重ねる」と言う。
36 疑うという仕事
工場の若いのが聞く。「本当に中の人?」男は笑って答える。「疑って正しい。疑うは安全の最初の工程」疑いは、雨だ。火を弱める。だが、濁流にしてはならない。質問に戻す。
37 飴のやわらかさ
相手役は机の引き出しに飴をいくつか置く。夜の喉にやわらかさを残す。硬い言葉が続くと、人はひび割れる。
38 鍵の届く音
夜明け前、Full key。男は記録を閉じる。「終わりではない。始められるようになっただけ」清瀬はその言葉を会見後の編集後記に移す。偽名は紙に残らないが、言い回しは喉に残る。
39 白い石の意味
三崎が白い石を指で触る。「冷たい」男は言う。「冷たさは夜を思い出させる。熱の中で冷たさを一つだけ持て。判断が焦げない」
40 板の厚み
ホワイトボードの四つの列。数字/工程/時刻/条件。薄い板を重ねる。厚くなる。火が通りにくくなる。偽名は、板の下で支えに回る。
41 出口の設計
男は自分の出口を書き出す。
記録を残す(癖の地図/価格の履歴/合意の文)
名前を残さない(役割のみ)
台本を残す(ここにいない人のための言い方)
飴を一つ残す(喉のため)
42 ここにいない人のための台本
男の置いていく紙には、こうある。
子どもには:「大丈夫にする」「次は何時に何を」
取引先には:「いつまで→どれだけ→金」
社員には:「言える/言えない/言えるようにする条件」
記者には:「支払いではなく工程」「謝罪は一度、深く」
偽名の代わりに、言葉が名前を持つ。
43 採点の基準
「あなたの仕事は、どう採点される?」清瀬が聞く。男は答える。「灯りが増えたかどうか。影が薄くなったかどうか。更新が時刻どおりに落ちたかどうか。棚が戻ったかどうか。匂いが戻ったかどうか」
44 裏口の鍵
警備員が小声で言う。「裏口から入る人は、だいたい悪いことをしているように見える」男は笑う。「裏口は、煙を出すためにある。火を外に出す。正面は、謝るためにある」
45 偽名の副作用
「信じすぎるな」九重が言う。「あなたを社内として見ることに慣れると、次に外が来たとき、人が動かなくなる」「だから消える」男はうなずく。「消える練習も仕事だ」
46 残るもの
男が去った後に残るもの。更新の時刻、習慣化した相づち、“工程”で話す癖、『始められるようになっただけ』の言い回し、飴の味。名前は残らない。役割が残る。それでいい。
47 噂の終わり方
匿名掲示板のスレッドが、別のニュースに追い越される。噂は、新しい火に惹かれる。清瀬は社内に短い一文を落とす。
『噂』は消えません。『工程』で薄まります。偽名はここでも不要だ。言い方が、防火帯になる。
48 最後に――社内の一員として振る舞う理由
男は自分に向けて、もう一度だけ書く。
なぜ、社内の一員として振る舞うのか。相手に決める人がいると示すため。承認待ちで時間を買うため。辞書を往復して翻訳の損失を減らすため。秘密を最小限にするため。怒りを工程に変えるため。生活を主語にするため。嘘の粒度を選び、真実の肉で覆うため。灯りを増やし、影を薄くするため。
そして、署名の代わりに、時刻を書いた。8:00/11:00/14:00/17:00。時刻は名前の代わりになる。名前が要らなくなるまで、時刻を守る。それが、偽名の履歴書の最後の行だ。





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