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潮騒の仔象

  • 山崎行政書士事務所
  • 10月5日
  • 読了時間: 2分
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昼下がりの光が、白くゆるんだ水平線をぼかしていた。ぬるい風が頬を押し、潮のにおいの奥に、土と草の匂いが微かにまじる。浅瀬に入ってきた仔象は、海水に足首を沈めると、ひと呼吸おいてからもう一歩踏み出した。水が腹の下でほどけ、薄い翡翠色の波がしわしわと割れていく。

体表は乾いた河床のように細かな割れ目が走り、日差しを吸って鈍い光を返す。背中の産毛は濡れて逆立ち、耳は一度ぱたんと動いてから、海風に無抵抗のまま垂れた。首には細い橙色の紐。舳先の飾りのように見えながら、暮らしの手触りを一筋だけ連れている。鼻先はくるりと丸まり、ためらいがちに水面を確かめては、泡を吸って音もなく吐き出す。時折、小さな牙の先が光り、海のきらめきと見分けがつかなくなる。

波が膝に触れる高さにくると、仔象は前脚で水をすくった。どすん、と重さのある音がひとつ。飛沫が腹と頬に散り、塩の粒が黒い肌に白い星のように貼りつく。もう一度、今度は少し強く。水しぶきの向こうで、目尻がほんの少し緩んだように見える。海は驚くほど静かで、象の動きにあわせてだけ形を変える。足もとには透明な水の網目がきらきらと走り、砂粒が小さく踊ってはすぐ沈んだ。

遠景は薄靄の向こうに青灰色の島影が点々と続く。波間に漂う海草の切れ端が、風に押されては戻り、また押される。音は少ない――耳に残るのは水が裂ける柔らかい音と、仔象が鼻で鳴らす、低く湿った息づかいだけだ。時間が膨らんで、午後全体がひとつの長い呼吸になったように感じられる。

ふいに仔象は鼻を高く持ち上げ、空を嗅いだ。潮と太陽に温められた空気のなかに、陸の匂いが細い糸のように混じるのを探すしぐさ。やがて鼻先を再び水へ下ろすと、口角がわずかに上がり、海水をひと口。塩気が舌に広がったのか、短い首がくいっと揺れ、しっぽの先が一度だけ愉快そうに跳ねた。

足跡は海がすぐに平らにしてしまう。けれど、ここに重さがあったことは、胸の奥で確かな感触のまま残る。陽に焼けた皮膚の温み、塩を含んだ飛沫の冷たさ、鼻先の水音。陸の生き物が海に身をゆだね、波がそれを受けとる瞬間――境界は、この浅瀬でそっとほどけていく。

仔象はもう一歩だけ沖へ。水は膝上に達し、体の影が揺れて伸びる。やがて振り返ると、目は濡れた石のように黒く、静かな光を宿していた。海もまた、同じ目でこちらを見返しているように思える。潮は満ちては引き、記憶は波形をまねる。今日の午後、ここで見たのはただの水遊びにすぎないのかもしれない。けれど、その足音は確かに、心の砂地に深く刻まれていた。

 
 
 

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