虚報の時代に抗して──偏向メディアと国家意識の再生
- 山崎行政書士事務所
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第1章:戦後メディア体制における「敗戦構造」と報道の矛盾
1.1 序論──戦後メディアの「出自」から読み解く偏向の起源
日本の戦後報道体制は、単なる情報伝達のインフラではなく、「占領政策の延長線」として設計された点に留意すべきである。すなわち、戦後日本におけるテレビ・ラジオといったマスメディアの根本的な思想的立脚点は、敗戦直後の連合国軍総司令部(GHQ)による徹底した言論統制下に形成されたものであり、その構造は今日まで本質的に更新されていない。
このことは、日本の報道がいかなる「公共性」を標榜しようとも、その起源においては「主権なき民主主義の装置」として制度化されたという歴史的事実を意味している。ここで問うべきは、戦後の報道機関が果たして「日本国家」の視座から情報発信を行っているのか、あるいは「占領価値観」──すなわちアメリカ的リベラリズムを内面化した枠組みに従属しているのかという根本的なメディア論的課題である。
1.2 プレスコードと情報統制の系譜
GHQが1945年9月に発令した「プレスコード(Press Code for Japan)」は、当初民間報道への暫定的措置として登場したが、その本質は日本国民の思想的自立を抑圧する体系的な情報統制指針であった。全13項目からなる禁止事項には、たとえば以下のような内容が含まれていた。
占領軍に対する否定的言及の禁止
戦前の愛国思想や軍人賛美の禁止
憲法改正への批判の禁止
皇室に対する報道上の敬意の制限
これらは、表面的には「平和主義」や「民主主義の定着」を謳っているものの、実質的には日本人から歴史観・国家観・宗教観を剥奪するための思想操作装置に等しかった。すなわち、「報道の自由」という表現の背後には、「表現させない自由」という外圧的規律が存在していたのである。
このような言論規制下で育成された記者、編集者、報道幹部たちは、その後の日本の報道文化に決定的影響を与えることになる。彼らの多くが1950年代以降のテレビ黎明期において、新聞社系列の放送局(例:読売=日本テレビ、朝日=テレビ朝日)を通じてメディアの中枢を占めたことにより、「検閲下の報道様式」が日本的「報道の常識」として定着することとなった。
1.3 憲法第9条と「触れてはならぬ領域」の形成
戦後メディアにおいて、最も神格化された報道タブーの一つが憲法第9条である。自衛隊の存在は現実の安全保障上の必要性から容認されながらも、報道においては「違憲か否か」という神学的な論争に執拗に回帰させられ、その存在を国家防衛の機能として正当化する言説は極めて抑制的に扱われた。
この背景には、「戦争は悪であり、戦力は必ず侵略につながる」という戦後的非武装イデオロギーが報道界に浸透したことがある。とりわけテレビ報道においては、イラク戦争や自衛隊派遣といった国際情勢に対する分析よりも、「日本が戦争に加担している」という情緒的非難が強調される傾向が顕著であった。
このような「感情主義的平和報道」は、国民の理性的判断を麻痺させると同時に、国家主権に関する冷静な議論を困難にしている。つまり、報道は国家の安全保障に寄与するのではなく、むしろ「主権の行使に対する抑圧装置」として機能するようになったのである。
1.4 皇室報道と文化的敬意の剥奪
日本国の文化的・歴史的核心ともいえる皇室に関する報道もまた、戦後メディアの偏向の対象となった。戦前における「畏敬と感謝」の皇室報道は、戦後メディアにおいて「過剰な礼賛」あるいは「政治的利用」とみなされ、徐々にそのトーンが「フラット化=脱神格化」された。
昭和天皇崩御の報道における各局の姿勢や、今上陛下の退位に関する議論の扱いなどを比較すれば、そこに見られるのは「皇室を一国民と同列に扱うことが“平等”である」という戦後民主主義的等価主義である。しかし、この等価主義は、日本国民が何を敬い、何を永続させるべきかという精神的価値観の断絶を意味している。
また、皇室に対する批判的な言論(週刊誌報道・ネット論評)は「表現の自由」として放任される一方、肯定的な報道や伝統儀式への賛意が「保守的・非合理的」とされる風潮は、報道の中立性を大きく逸脱している。このようなバランスの破壊は、皇室と国民との精神的距離を拡大させ、皇室制度自体の象徴性を希薄化させる危険性を孕んでいる。
1.5 小括──報道の「起源」に内在する思想的偏向
戦後日本のテレビ・ラジオ報道は、その発足時点においてすでに「国家主権」とは無縁の構造のもとで制度化されており、その後の発展においても、主として「日本国家の再建」ではなく「戦後秩序の維持」に奉仕してきた。
本章で述べたように、GHQのプレスコードは単なる占領下の臨時措置ではなく、日本の報道文化に恒常的な思想的骨格を与えた制度であり、テレビ・ラジオはその延長線上で「日本らしさ」を削ぐ報道様式を展開してきた。そこにおいて強調されたのは、国民の誇りではなく反省、国家の意志ではなく忖度、そして真実ではなく「正しい空気」であった。
このような報道体制に対し、いま必要なのは単なる「メディア改革」ではない。国家と国民を正しく結びつける報道倫理の再構築であり、それは単に情報の正確さではなく、「国家の尊厳を守る情報とは何か」という視点の回復である。次章では、このような視点を欠いたまま「公共性」を名乗る最大の装置──NHK──の構造的問題について詳述する。
第2章:公共放送という欺瞞──NHKの報道姿勢批判
2.1 はじめに──「公共」の仮面をかぶる報道装置
戦後日本の報道機構の中核を占めるのが、日本放送協会(NHK)である。名目上は「公共放送」とされ、民間放送との違いは営利性を排除した中立性と、視聴者全体への奉仕性にあると説明されている。だが、その「公共性」なるものは、果たして日本国と国民の主権意識を正しく反映しているといえるのか。
本章では、NHKが「中立性」と「公共性」を標榜しながら、実際には戦後体制のイデオロギー維持装置として機能してきた構造的問題を検証する。その上で、受信料制度と民主主義、皇室報道の姿勢、安全保障や移民問題に対する偏向など、現代日本社会においてNHKが果たす「反国家的役割」について批判的に論じる。
2.2 「公共性」という名の構造的中立幻想
NHKの最大の特徴は、「営利目的でない放送機関」であるという建前にある。報道・教育・文化の各領域において、公正かつ中立的な情報提供を行い、視聴者の共通善に資する存在であるとされる。だが、この「中立性」なるものは、あくまで相対主義的価値観に基づくものであり、国家的立場を持つことを意図的に忌避してきた。
たとえば、NHKのニュースやドキュメンタリーは、外交・防衛・皇室・歴史認識といった国家の基盤に関わる主題において、必ずといってよいほど「多様な意見の紹介」「賛否両論の提示」に終始する。そこに国家の一貫性や指導原理は登場せず、常に「距離を置いた俯瞰」が貫かれる。この姿勢は一見公正であるかのように見えるが、実際には「国体の否定」や「国家的意思の希薄化」に手を貸す結果となっている。
「中立」は本来、何らかの正統性や共通原理の上に成り立つものである。だが、GHQの占領政策下で形成されたNHKの報道原理は、日本という国家の正統性そのものを「戦争責任」という概念で相対化し、普遍的価値としての「戦後平和主義」を唯一の倫理規範として据えた。その結果、NHKは国家の尊厳や伝統を肯定的に語ることを極端に回避し、逆に「国旗・国歌」「軍事」「天皇」「家族」「移民」などの保守的主題に関しては、冷笑的、または疑念に満ちた言説を生成することとなった。
2.3 皇室報道と“脱神格化”の装置
特に顕著なのが皇室報道における編集スタンスである。NHKは、昭和天皇崩御(1989年)以降、皇室をめぐる儀礼的報道を「形式化」し、象徴天皇制を文化装置として扱う傾向を強めてきた。2020年の今上陛下の即位礼正殿の儀においても、「厳粛さ」や「神話的連続性」を強調する報道は希薄であり、むしろ「現代的感性に合った新時代の天皇像」といった語法によって、伝統の連続性よりも制度の刷新性が強調された。
この背景には、「天皇の超越性」を排除し、「国民との距離のない親しみやすさ」こそが象徴天皇のあるべき姿という、戦後民主主義的感性の投影がある。NHKは、このような価値観の媒介装置として機能し、皇室と国民の間にあった精神的畏敬と敬慕の関係性を、「共感と近代性」の言説へと置き換えていった。
その結果、皇室の制度的意義や文化的重層性は、視聴者の意識から徐々に剥奪され、天皇陛下の存在は「象徴的行事の主役」としての装飾的役割へと縮減されたのである。このような報道方針は、保守的国家観における「国体の中心」たる皇室の意義と明確に衝突する。
2.4 安全保障と移民政策報道における傾斜
NHKはまた、防衛問題や外国人政策に関しても、徹底して「リベラル」な視座を維持している。たとえば自衛隊に関する報道では、常に「文民統制の必要性」「憲法9条との関係性」「反対派市民の声」が強調される一方で、自衛官の使命感や現場の現実、国家防衛の意義についてはごく限定的にしか扱われない。
また、外国人労働者・難民・移民政策に関しても、NHKの特集番組では「人権」「多文化共生」「差別反対」という理念が繰り返し提示され、日本の伝統的秩序や社会的同質性が崩壊しつつある実態にはほとんど触れられない。むしろ、移民受け入れへの反対意見は「排外的」「ヘイト的」として矮小化される傾向すら見られる。
これらの報道姿勢は、国家主権や国民共同体の存続に関する根源的課題を覆い隠し、「普遍的価値観」というグローバリズム的思考様式によって国民の思考を制度的に誘導している。その意味で、NHKは「国民の報道機関」であることを止め、「市民的道徳装置」に転化したとさえ言える。
2.5 受信料制度と“民主主義”のねじれ構造
NHKは視聴者から受信料を徴収する仕組みによって成立している。表向きは「誰の影響も受けない独立した放送」であるが、実態は極めて閉鎖的な組織構造を持ち、外部からの評価や反論を制度的に受け付ける機構を欠いている。政治的には「中立」を保つとしつつも、国会による予算承認や、政権交代による経営委員の入れ替えなど、恣意的運営の余地も残されている。
さらに問題なのは、国民が視聴していなくとも受信料を支払わされる点である。「公共だからこそ義務」と言われるが、その“公共”とは果たして誰の利益を意味しているのか。国家を尊重せず、皇室を矮小化し、防衛と秩序を否定する報道が「公共性」として押し付けられるのであれば、それは“税”ではなく“思想的強制”である。
真に公共的なメディアとは、国家的視点に立ちつつも、国民の多様な声に耳を傾ける報道機関でなければならない。だが現在のNHKは、国家的共通善の提示を忌避し、「分断を中立的に中継する」ことに徹することで、実質的には国民の精神的統合機能を放棄している。
2.6 小括──「国家なき公共放送」の終焉へ向けて
本章において明らかとなったように、NHKはその制度的出自においてすでに「国家の報道機関」ではなく、「戦後秩序維持の報道機関」である。その存在理由は、国家を再建することではなく、「戦後的民主主義の持続」を前提としており、その意味において“反主権的”であり“脱国体的”であると断じ得る。
もはや我々は「公共放送だから正しい」という幻想から脱却しなければならない。NHKの真の公共性を回復させるためには、第一に「国家の利益と尊厳を報じる責務」を明文化する必要がある。第二に、「視聴者に説明責任を負う報道倫理委員会」の常設。第三に、「伝統・皇室・国防に関する報道基準」の策定など、制度設計の全面的見直しが求められる。
次章では、より広範な放送メディア全体──とりわけ民放報道やワイドショー文化──における「感情操作」の技術と、その政治的機能について論じる。
第3章:テレビと“感情操作”の技術──ワイドショー構造と大衆統治
3.1 はじめに──感情は武器である
現代のテレビ報道、特にワイドショーや報道バラエティ番組においては、情報の正確性や政策の妥当性よりも、いかに視聴者の「感情」を喚起し、同調させるかが最重要視されている。情報は冷静に伝えるものではなく、「共感」「怒り」「涙」といった情動を操作するための道具と化している。
この傾向は、単なる視聴率獲得のための演出手法として理解するには不十分である。むしろそれは、国民の政治的判断力や倫理的思考を無効化し、「感情のフレーム」に閉じ込めることによって、体制批判の方向を巧妙に逸らし、結果として戦後体制の永続性を担保する「感情統治装置」として機能している。
本章では、テレビがいかにして視聴者の感情を政治的・社会的に誘導しているかを分析し、ワイドショー文化のもたらした知的退化と、国家意識の崩壊に対する構造的責任を追及する。
3.2 ワイドショー報道の三層構造
ワイドショーにおける情報操作は、主に三つの層に分けて分析することができる。
第一層:感情の同調圧力
最初に強調されるのは「被害者性」である。事件や事故、災害の報道においては、被害者の“心情”に共感させる映像・ナレーションが長時間にわたって放送される。ここでは、加害者や制度への批判が感情的な正義として定着し、法的手続きや事実関係の検証は二の次とされる。
この構造は、司法的判断や政策評価といった「理」の次元ではなく、「情」の次元における正義を最優先させるものである。そしてその「情」の方向性は、番組制作側が予め設計した“善悪構図”に従属しており、視聴者は無意識にその感情誘導に巻き込まれていく。
第二層:象徴の単純化
次に行われるのは、事象の象徴化と単純化である。たとえば「迷惑系YouTuber」「モンスター保護者」「上級国民」といったレッテルによって、複雑な社会問題が記号化される。この過程で個別の事実は切り取られ、キャラクター化された「悪役」を軸に、物語が構築されていく。
ここで重要なのは、この“物語化”によって視聴者は思考停止に陥り、自ら検証する習慣を失っていくことである。テレビは「正しそうな印象」の物語を供給するが、その物語が国家の統治機能や制度設計にどのような影響を及ぼすかについては一切論じない。
第三層:政治問題の脱政治化
最も巧妙なのは、政治的な争点を「日常的な不安」や「市民感覚」として脱政治化する手法である。たとえば防衛政策に関する報道であっても、「不安に思う人がいる」「怖いと感じた」など、感情をトリガーにした言葉で議論が誘導される。
これによって、政治は「国民的議論の対象」ではなく、「気持ちに配慮する対象」となり、意思決定の合理性や安全保障の整合性は周縁化される。つまり、テレビは国民から政治的判断能力を奪い、代わりに「情緒的反応」だけを残すのである。
3.3 典型事例:新型コロナと“同調の正義”
新型コロナウイルスの流行は、感情操作型報道の典型事例を浮かび上がらせた。ワイドショーは連日、「感染者の映像」「医療従事者の疲労」「マスクをしない若者」「密になった飲食店」などを情緒的に報道し、「怖れ」と「非難」が視聴者の感情空間を支配した。
感染症対策の妥当性や科学的根拠、海外との制度比較などはごく一部に留まり、メディアは「自粛しない者=非国民」という空気を構築し、国民同士の相互監視を正当化した。この構図はまさに、感情を用いた“社会的処罰”であり、冷静な判断の余地を与えない「群衆の正義」である。
そしてその根底には、メディア自身が「社会を守る正義の存在」として振る舞うことによる“正統性の擬装”がある。つまり、テレビは自らを道徳の代弁者と位置づけ、国家ではなく「空気の統治者」として国民を制御したのである。
3.4 情報ではなく情動を売るメディア産業
こうしたメディア構造は、もはや報道機関というよりも「情動産業」と言い換えるべき性格を帯びている。報道が視聴者の理性に訴えかけるのではなく、感情を刺激して「共感」「怒り」「涙」「不安」を売り物にする限り、それは国民の自立的判断を奪い、「メディアによる統治」の手段となる。
その影響は深刻である。国防論議は「戦争アレルギー」にすり替えられ、憲法改正は「怖い」として否定され、皇室報道は「親しみやすさ」という名の平準化に陥る。視聴者は「考える力」を奪われ、「感じること」に専念させられる。このことこそが、戦後日本における民主主義の形骸化をもたらした元凶の一つである。
3.5 小括──感情統治からの離脱へ
テレビの本質は「映像」であり、「ナラティブ」である。そして、ナラティブは国家の物語にもなり得るが、情動を誇張するだけであれば、それは単なる大衆誘導の道具である。戦後日本のテレビが行ってきたのは、まさに「感情による政治の代行」だった。
ワイドショーという形式は、一見娯楽のように見えて、実は国家的判断を妨げる「思考麻痺装置」である。国民が真に自らの国家を語るためには、この感情の檻から脱却し、情報に対して主権者としての眼差しを取り戻さなければならない。
次章では、SNSの台頭がこの「感情操作型メディア秩序」に対し、いかなる挑戦をもたらしたのか──そしてそれが、情報主権の回復という観点からいかなる意義を持つかを論じる。
第4章:SNSの台頭と情報主権の奪還──大衆から国民へ
4.1 はじめに──テレビの支配からの脱却
20世紀後半、日本国民の情報源は、ほぼ一貫してテレビに依存していた。新聞とテレビが提供する「画一的な常識」こそが、事実であり、世論であり、国家の空気であると信じられていた。しかし、21世紀に入りSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が急速に普及すると、この秩序は劇的な転換を迎える。
それまで情報を「受け取る」だけであった国民が、突如として「発信者」となり、自ら取材し、編集し、議論し、拡散することが可能となったのである。この変化は単なる技術革新ではなく、情報主権の再帰であり、日本人が再び「自分の国を、自分たちの言葉で語り直す」ための契機をもたらした。
本章では、SNSがテレビの偏向報道・感情操作構造に対抗するオルタナティブ空間として登場した歴史的意義と、同時に国民が情報主権を回復する過程において抱える課題を論じる。
4.2 情報主権とは何か──「選ばされる国民」から「選ぶ国民」へ
「情報主権」とは、本来、個人や国民が「どの情報を信じ、どの価値観に基づき、いかなる行動をとるか」を自ら決定する力を意味する。しかし戦後日本では、この主権が「報道機関」に委託され、国民は情報の受け身的消費者へと矮小化されてきた。
SNSは、この構造に風穴を開けた。たとえばTwitter(現X)は、災害時の現場情報や、報道されない政治的スキャンダル、偏向報道に対する「裏取り情報」など、かつては表に出なかった情報を一気に可視化した。YouTubeにおいては、テレビのスタジオトークに対抗する形で保守系解説番組(例:百田尚樹『虎ノ門ニュース』、KAZUYA Channel、篠原常一郎氏の政治解説など)が人気を集め、「主流メディア不信」が国民意識の中に定着し始めた。
この過程で、かつて「大衆」として同質化されていた国民は、再び**「国家を思考する個」としての主体性**を取り戻し始める。誰かの用意した「空気」に従うのではなく、自らの信念と価値観で「選ぶ」国民としての自覚──これこそがSNSがもたらした最大の変化である。
4.3 保守思想とSNSの親和性
SNSが特に保守系言論人・思想家によって活用されている点は注目に値する。従来のテレビ報道においては、憲法改正・皇室制度・外国人政策・歴史観などに関して保守的主張を行うことは、スポンサーの意向や制作方針により極めて制限されていた。
しかしSNSでは、国体護持や伝統的価値観を公然と語ることができる。たとえば、国旗国歌への敬意を求める言論が「排外的」「軍国主義的」として封殺されてきたテレビ空間とは対照的に、SNS上では「国家を語る自由」「愛国的誇りの共有」が成立している。
この自由空間は、保守思想にとって「戦後的感情支配」からの脱却手段となり得る。実際、SNSでは「女系天皇の是非」「憲法前文の問題点」「移民政策と治安悪化」など、かつてテレビでは不可能だった議論が、国民によって自律的に展開されている。
4.4 民意の錯覚から国意の回復へ
SNSによってもたらされた最大の恩恵は、「報道による民意の誘導」が可視化されたことである。選挙報道においては、SNS分析が「現場の空気」とメディア報道との乖離をあぶり出し、国葬をめぐる世論調査でも、SNSでは「肯定的意見」が大勢を占めていたにもかかわらず、メディア報道は「反対が多数」というフレーミングを繰り返した。
このような乖離を目の当たりにした国民の中に、「テレビが言うことは本当なのか」「誰のための世論なのか」という懐疑心が広がった。この懐疑こそが、民意の錯覚から国意の回復への第一歩となる。国意とは、単なる数的な民意ではなく、国家の持続・誇り・倫理を軸にした長期的判断の基準である。
SNSは、国民が再びこの「国意」の視座から、自らの言葉で国家を語る回路を提供している。
4.5 課題:言論の過剰自由と相対主義の罠
とはいえ、SNSによる情報空間の拡大には副作用も存在する。それは、「何でも言える自由」が「何を信じてもよい」という相対主義を蔓延させかねないという点である。陰謀論や偽情報が無秩序に拡散する中で、国家を守るために必要な「信頼に足る価値の体系」が失われる危険がある。
保守的立場からすれば、SNS時代の情報主権は、単なる自由ではなく、価値と責任の伴った自由として設計されるべきである。言い換えれば、「国家の尊厳」「歴史への誠実さ」「家族制度と道徳観」「秩序を守る規律」といった基軸なき言論は、たとえ自由であっても国を壊す。
したがって、SNS空間における情報主権は、「保守的公共性」の視座を内在化させる必要がある。それは、戦後メディアが捨象してきた「国家を基準とした言論規範」の復権を意味する。
4.6 小括──SNSは“主権回復”の手段である
SNSはテレビに代わる新たな情報源ではない。それは「情報を選ばされる国民」から「情報を選ぶ国民」へと変容するための手段であり、戦後70年にわたり抑圧されてきた「国家主語の思考様式」を回復する装置である。
もちろんその中には雑音も混在する。しかし、雑音の存在を理由に言論を統制することこそが、真に危険である。むしろ私たちは、国家を愛し、守ろうとする意志のもとに、自らの言葉で歴史を語り、未来を構想しなければならない。
次章では、メディア・リテラシー教育という名の“統制された知性”が、いかにして国家観・道徳観を無効化し、戦後体制の再生産を支えているかを論じる。
第5章:「フェイク」とは何か──報道の偽善性と価値相対主義の罠
5.1 序論──「誤情報との戦い」という装飾的正義
近年、テレビや新聞、行政機関、教育現場において、「フェイクニュース(虚偽情報)」への注意喚起が急速に進められている。2020年代に入り、災害時のSNSデマ、コロナ関連の偽情報、AIによるディープフェイクの拡散など、情報の信頼性そのものが国家の安定に直結するとの認識が強まったからである。
このような文脈の中で、NHKや民放各局、さらには民間企業や省庁が連携して「ファクトチェック・プロジェクト」や「メディア・リテラシー教材」などを展開し、“誤情報との戦い”を主導している。だが、この一見高尚に見える取り組みには、重大な欺瞞が潜んでいる。
それは、報道機関自身が長年にわたって「構造的フェイク」の生成主体であったという事実を曖昧にしたまま、「正義の使者」として自らを位置づけているという点にある。本章では、「フェイク」の定義を再検討しつつ、それを批判する者自身がいかに“選択的事実・感情的物語・国家不在の価値”を流布してきたかを明らかにし、その偽善性を摘出する。
5.2 フェイクとは「事実の不在」ではなく「価値の歪曲」である
一般的に、フェイクニュースとは「虚偽の事実を故意に流布する情報」と定義される。だが、現代の報道における本質的問題は、「真実ではない情報の拡散」ではなく、「真実の一部を切り取り、全体像を歪める」ことにある。すなわち、現代的フェイクとは“事実の不在”ではなく、“事実の解釈と文脈の切断”によって構成されるのである。
たとえば、皇室報道において「天皇陛下が一般国民との距離を縮められた」といった報道が繰り返されるが、そこには「伝統と象徴性に基づく国体の護持」という本質が全く語られない。あるいは、自衛隊に関する報道では「海外派遣に対する賛否」を丁寧に紹介しつつ、「そもそも国家は武力を保有しうる存在である」という国際常識には触れない。
これらは虚偽の情報ではない。だが、“語らないことによる操作”こそが、最も巧妙なフェイクなのである。
5.3 選択的報道の構造──災害と外国人、ジェンダーと家族観
報道の「選択的正義」は、災害報道や外国人関連事件において顕著である。たとえば、2024年の能登半島地震では、「自衛隊の到着が遅れた」とするSNS情報が拡散されたが、NHKはそれを「根拠なきデマ」として否定し、正確なタイムラインを放送した。これは一見、公共放送の責務を果たしたように見える。
しかし同時に、なぜこうしたデマが流布される土壌があるのか──地方自治体の脆弱な法制度や災害時の統治機能の欠如──についての制度的批判は皆無であった。責任は個々の「不届きな発信者」へと転嫁され、国家機構や行政構造に関する検証は行われない。
一方で、外国人犯罪や不法滞在の問題は、報道そのものが極めて抑制的であり、事件報道でも「国籍を伏せる」「動機を多文化的に解釈する」といった“加害者への配慮”が優先される。これは、被害者感情への共感をあおる先述の手法とは正反対であり、メディアが「誰の感情を喚起するか」を意図的に制御している証左である。
同様の構図は、ジェンダー問題や家族制度をめぐる報道にも存在する。伝統的家族観に立脚した教育の意義や、父権の象徴性などは、公共放送の語彙空間からは完全に排除されており、「多様性」「選択的夫婦別姓」「同性婚」といったテーマに対してのみ“共感の演出”が行われる。
このように、「誰に同情を寄せ、誰に沈黙するか」という感情配分の恣意性こそが、構造的な情報操作=現代的フェイクの本質である。
5.4 ファクトチェックという名の統制
近年、報道機関は自らの報道内容の信頼性を担保するため、「第三者機関によるファクトチェック」を導入している。NHKをはじめとした大手メディアは、SNS上の情報を検証する特設サイトを開設し、「真偽判定」という形で情報の是非を公開している。
だがこの「ファクトチェック」もまた、客観的な工程ではない。何を「重要な争点」とするか、何を「検証対象」とするか、どのような資料を「根拠」とするかは、すべてチェック側の思想的立場によって決定される。
たとえば、LGBT法案に関するSNS上の懸念(トイレ問題、女性空間の保護など)に対して、「差別を助長する内容」として“ミスリーディング”のラベルを付ける一方、法案推進側の「欧州では当然の権利」といった歴史的に不正確な言説は“チェック対象外”となる。こうした選別の構造は、「情報の真偽」ではなく、「価値観の序列化」に他ならない。
ファクトチェックとは本来、「自由な情報市場における合意形成」の手段であるべきである。しかし、それが「反国家的価値観を守るための監視装置」として機能し始めたとき、もはやそれは民主主義ではなく、情報の官僚主義化=情報統制の民主化的擬態に陥っている。
5.5 「フェイク」の濫用が国家を壊す
もっとも深刻なのは、「フェイクを許すな」という道徳的スローガンが、異なる価値観を排除する正当化手段として用いられている現実である。
ある者が国家を語り、皇室を称え、憲法の改正を主張するとき、報道機関が「極端な意見」とレッテルを貼る。そして「極端」は「危険」と等価にされ、「危険」は「社会不安を煽るフェイク」とされる。この時点で、「国家を守る意見」は制度的に抹殺されるのだ。
このように、「何がフェイクか」を決める者が一方的な世界観を前提にしている限り、フェイク批判こそが最大のフェイク生成装置となりうる。国家を守る言論、伝統を語る声、道徳を主張する教師、皇室に敬意を表す有権者──これらすべてが“空気と異なる”という理由で排除される社会は、もはや自由社会とは呼べない。
5.6 小括──真のフェイクとは「国家の不在」である
フェイクの本質とは、情報の正確性を欠くことではない。むしろ「国家の存在を語らないこと」「歴史の連続性を断ち切ること」「伝統の文脈を削ぎ落とすこと」こそが、最も深いフェイクである。つまり、国民から“国家の語彙”を奪うことこそ、最大の情報犯罪なのである。
報道機関が真にフェイクを批判したいのならば、自らの報道がどれほど国家の語彙を排除してきたかを省みなければならない。そして、情報とは「正しいか否か」ではなく、「国家にとって有益か否か」「道義にかなうか否か」で評価されるべきである。
次章では、こうした情報統制を教育の現場にまで拡張する「メディア・リテラシー教育」という名の“統制知性”について論じる。
第6章:メディア・リテラシー教育の危険性──国家なき知性の制度化
6.1 序論──“知性”という名の政治装置
現代日本の初等・中等教育において、「メディア・リテラシー教育」は道徳教育や公民教育と並び、極めて重要な要素として位置づけられつつある。総務省や文部科学省、さらには報道各社、民間財団などが連携して、「正しい情報を見抜く力」や「情報を鵜呑みにしない態度」の涵養をうたい、教育現場にさまざまな教材を持ち込んでいる。
しかし、その内実を精査すれば、これらの教材や授業構成は、情報を主体的に判断する力を育てるというよりも、戦後メディアが構築してきた“中立=反国家”的価値観を内面化させるための再生産装置として作用していることが明らかである。すなわち、「情報にだまされるな」と説く教育の実態は、「国家を語るな」「伝統を信じるな」「道徳を疑え」というイデオロギーの刷り込みに他ならない。
本章では、メディア・リテラシー教育の歴史的系譜とその実態を批判的に検討し、知性の名を借りて国家観・家族観・宗教観を解体するこの教育アジェンダの危険性を明示する。
6.2 メディア・リテラシー教育の成立過程と理念構造
メディア・リテラシー教育は、1970年代のアメリカやイギリスにおける反体制運動や市民運動とともに登場した。そこではマスメディアを「体制支配の道具」とみなし、それに対抗する「市民の知的武装」として、メディアを批判的に読む力が強調された。これは左翼的教育運動の一環であり、「政府・国家・制度への懐疑」がその本質である。
この文脈が90年代に入り、インターネットとSNSの普及を背景に、教育行政に取り込まれていく。とりわけ2000年代以降の日本では、「情報モラル教育」として総務省・文科省が中心となって指導要領に組み込んだ。その際、テレビ局や新聞社が「出前授業」や「教材提供」といった形で学校現場に介入し、自らの報道価値観を“教育”として浸透させていったのである。
その理念構造は以下のように整理される:
情報に騙されないためには「多様な意見に触れよ」
権威的な情報(政府・保守・国家主義)は「疑え」
差別・偏見のもとになる言説は「排除せよ」
感情を煽る情報は「危険である」
民主主義とは「中立・相対・調和」である
一見すると“中庸で平和的”なこれらの理念は、国家意識・道徳判断・宗教的尊厳といった人間存在の基底に関わる価値を「教育的中立性」という名の下に排除する構造を持っている。
6.3 教材分析:国家観の不在と制度的脱国体化
文部科学省が推奨するNHK for Schoolの教材、総務省の「情報モラル教材」、そして民放連が配布する「メディアと人権」シリーズなどを分析すると、驚くべき共通点が浮かび上がる。それは、国家という概念が一切登場しないという点である。
「メディアとは何か」という問いに対して、「私たちの暮らしを豊かにするもの」「社会とのつながりをつくるもの」といった表現はあるが、「国家と国民を媒介するもの」「国民統合のための装置」といった本質的視点は完全に抹消されている。代わりに登場するのは「多様性」「表現の自由」「市民の対話」といったリベラルな理念である。
これにより、子どもたちは「国家を語ること=危険」「歴史観を持つこと=偏り」「価値を語ること=差別的」という認識を無意識に刷り込まれる。これは明らかに“教育による脱国体化”の制度的実践であり、戦後的価値観の温存装置としての教育支配の現代形態である。
6.4 思考停止の逆説──「多様性教育」の内なる排除性
メディア・リテラシー教育においては「多様性の尊重」が強調されるが、実際には特定の思想だけが許容され、他は排除されるという矛盾が存在する。
たとえば、保守的立場から「日本は神の国である」「天皇は国民統合の象徴ではなく実在的根幹である」「男系継承は断固維持されるべきである」と主張すれば、それは「多様性に反する」「近代的ではない」「フェイクに近い」として教育現場から排除される。
また、道徳教育において「親を敬え」「性別には役割がある」と教えようとすれば、「価値の押し付け」「ステレオタイプの再生産」とされてしまう。つまり、“多様性”の名のもとに、伝統的価値や国家的規律が消去されるのである。
このような教育は、「考える力を育てる」と称しながら、実際には「国家なき知性」を制度化しており、それは自律的ではなく、極めて従属的な“教育される市民像”の再生産に他ならない。
6.5 国家教育の逆転──「真のリテラシー」とは何か
メディア・リテラシー教育の名の下で国家観・道徳観が排除されているのであれば、我々はあえて問わねばならない。「真にリテラシーとは何か」と。
それは、「情報を疑う力」ではなく、「守るべき秩序を見抜く力」である。それは、「多様な価値に触れること」ではなく、「国家を軸に価値の正否を判断する力」である。それは、「フェイクを排除する知性」ではなく、「国家を語り得る言葉」を守る知性である。
したがって、真のメディア・リテラシー教育とは、“国家語彙の復権”にほかならない。 天皇を敬う言葉を学ぶ。国旗に敬礼する礼儀を学ぶ。戦死者を侮辱しない慎みを持つ。これらはすべて、「言葉を選び取る能力」であり、本来のリテラシーの範疇に含まれるべきである。
6.6 小括──知性の国防化へ
国家が崩壊するのは、戦車やミサイルによってではない。それは、国家の語彙が子どもたちから奪われ、誇りを口にすることが「恥」だと教えられたときに始まる。
メディア・リテラシー教育は、もはや情報教育ではない。それは、“国家語彙を消去するための制度知性”であり、国家を守らぬ知性など、知性とは呼べない。
次章では、こうした構造に対抗する形で提唱されるべき、「保守的情報リテラシー教育モデル」の理念と実践可能性について論じる。
第7章:真の情報リテラシーとは何か──国家語彙に基づく判断の再構築
7.1 序論──「自由な判断」は存在しない
近代思想は、個人が「自由な意思」で「正しい情報」を「自律的に」判断できるという前提を設けてきた。これは、啓蒙主義に源流を持つ合理主義的理性観の成果であり、西洋的自由の根幹をなしている。メディア・リテラシー教育もまた、この前提の上に立脚し、「正誤を見抜く力」「偏りを排する力」「冷静に読む力」を育てることが理想とされてきた。
しかし、現実において人間の思考や判断が全くの空白から出発することはあり得ない。我々の言語、倫理、美意識、歴史観は、ある共同体的背景──すなわち「文化」「宗教」「国家」「伝統」などに依存して構成されている。判断は常に、「何に価値を置くか」「何を守るべきか」という前提的な構えのうえに成立しているのである。
ゆえに、真のリテラシー教育とは「判断技術」の育成ではなく、「判断軸の根源的再確認」でなければならない。 本章では、その判断軸を「国家語彙」「道徳基盤」「歴史的継承性」という三つの視点から再定義し、現代日本が失いつつある「構造ある言葉」と「選ぶべき価値」を取り戻すための基盤を構築する。
7.2 国家語彙の喪失と“正しさ”の漂流
戦後日本の情報空間において最大の問題は、「語彙の消滅」である。
具体的には、
「祖国」ではなく「この国」
「天皇陛下」ではなく「象徴としての天皇」
「忠義」ではなく「人権」
「犠牲」ではなく「自分らしさ」
「美徳」ではなく「多様性」
といった言い換えが、無意識のうちに常態化し、国家を語るための枠組み=**国家語彙(national vocabulary)**が、国民的言説空間から抹消された。
この結果として、情報をどれだけ多く比較しても、「何をもって正しいとするか」が定まらず、相対主義と主観主義の迷路に陥る。SNSでは「全員が発信者」となり、報道では「両論併記」が徹底されるが、最終的に国民は「どれが国家にとって有益か」を判断できなくなってしまう。
情報リテラシーとは、本来「選択の技術」ではなく、「価値の優先順位」の明確化であり、判断に先立つ“国家語彙の復権”こそが不可欠である。
7.3 道徳基盤としての判断規範──伝統・礼・公義
情報を「事実として」分析する力は重要である。しかし、現代的フェイクニュースの本質は、事実ではなく「価値の破壊」にある。たとえば、伝統的家族観に反する情報は、法的には誤りではないが、文化的・倫理的には社会秩序を壊す。こうした価値の判断は、科学的検証や論理的検討では補えない。
ここにおいて必要なのが、**「道徳判断に根ざした情報評価軸」**である。
情報は「礼を破る」ものでないか
情報は「国を貶める」ものでないか
情報は「死者と先祖を侮辱する」ものでないか
情報は「共同体の秩序を動揺させる」ものでないか
情報は「我欲と煽動に基づいていないか」
このような問いは、道徳的規範が社会に共有されて初めて成立する。したがって、情報リテラシーとは、情報の正誤を超えた「倫理的格式」を判断できる文化的能力であり、それは国家に根差した公義(パブリック・ジャスティス)と不可分である。
7.4 歴史的継承性としての「真実」
情報とは、その場限りの事実を積み上げるものではない。特に日本においては、古代より「言葉には霊力が宿る(言霊)」という信仰が存在し、言論とは「歴史と未来に対して責任を持つ行為」であった。したがって、「何をどう語るか」は、常に「過去の継承」と「次世代への伝達」を内包する。
たとえば、「戦争責任」の言説があらゆる国家論を押し潰してきた戦後メディア空間では、「日本人として誇りを持つ」という言葉すら封殺されてきた。ここにおいて、「誇り」や「忠誠」や「英霊への感謝」といった概念は、「危険」「ナショナリズム」として葬られた。これはまさに、“記憶の断絶”によって「未来の言語」を破壊する行為である。
ゆえに、情報リテラシーの核心は「文脈への責任」である。
情報を評価するとは、「この言葉は祖先が誇れるものか?」「この言葉は次の世代に渡すに値するか?」を問うことである。
この問いを回復せぬ限り、いかに情報が正確であろうと、それはただの“知識の断片”にすぎず、国家を支える「判断」は永遠に構築されない。
7.5 情報リテラシーの新たな三本柱──守・語・敬
以上を踏まえ、極右的・保守主義的立場から提唱すべき「情報リテラシー三原則」は以下のとおりである。
守(まもる)──国家と共同体の秩序を守る言葉を選べ
・情報とは自由に扱う道具ではない。国の尊厳を守る責任がある。
語(かたる)──国家語彙によって語れ
・「国」「天皇」「家族」「忠誠」「誇り」「伝統」を語る力が、情報を正しく扱う前提である。
敬(うやまう)──死者と未来に恥じぬ態度を持て
・一つ一つの発言が、先祖と子孫に対する責任を伴っていることを忘れてはならない。
これこそが、戦後的「相対主義的情報判断」から脱却し、国家の言葉を取り戻すリテラシーである。
7.6 小括──情報を「使う」のではなく、「受け継ぐ」構えへ
情報とは、単なる知識でも、客観でもない。
それは「歴史を継ぐ意志」と「国家を構成する精神」にほかならない。
本章で提示した「国家語彙の再建」「道徳判断の基準化」「歴史文脈の継承性」は、いずれも単なる“知識教育”では成し得ない。そこに必要なのは、誇りある言葉への感応力であり、共同体への忠義であり、語り得ぬものへの畏れである。
情報リテラシーとは、「自由に疑う」力ではなく、「何を守り、何を誇るべきか」を正しく感じ取り、言葉を選び抜く力である。
次章では、国家の精神を支えるメディアと教育の再構成を具体的に示し、終章として「秩序を守る言論構想」へとつなげていく。
第8章:国家と情報の未来──保守的リテラシー社会の構築
8.1 序論──情報主権なき国に未来はない
情報とは単なるテクノロジーの問題ではない。それは、国家の尊厳と社会秩序を支える「精神的な防衛線」であり、国家主権の最前線でもある。グローバル化・AI化・多文化共生といった語彙が席巻する現代において、情報を「誰が定義し」「何を基準に選び」「どこへ向かって共有するか」という問いは、まさに主権の行使そのものである。
前章までで明らかにしたとおり、現代日本は「国家語彙の喪失」「道徳判断の弱体化」「歴史文脈の断絶」によって、情報に対する骨格を失っている。この状態を放置することは、思想的敗戦の継続に他ならない。したがって今、我々に求められているのは、「戦後体制を内面化した情報秩序」から脱却し、保守的情報リテラシー社会の構築へと舵を切ることである。
本章では、そのために必要な三つの改革──①放送制度、②教育制度、③国民意識の再鍛錬──について具体的に提言し、論文全体の総括とする。
8.2 放送制度改革──国家語彙に基づく「公共性」の再定義
第一に求められるのは、公共放送と民放を問わず、メディアの「国家的公共性」への回帰である。
現行の放送法第1条は、「健全な民主主義の発達に資する」ことを目的とするが、その中には「国家の尊厳」「文化の継承」「国民精神の涵養」といった根本的価値が欠落している。むしろ、“国家を語らぬこと”が中立性とされてきた。この規定そのものを改正し、「日本国および日本国民の歴史的・文化的連続性の尊重」「天皇制に関する正確かつ敬意ある報道」「防衛・治安・秩序維持に関する建設的議論の促進」などを明文化すべきである。
あわせて、NHKを中心とした公共放送には、次の機能強化が必要である:
皇室番組と古典文化番組の定期編成(神話・古事記・武士道・家訓など)
自衛隊の訓練や災害派遣活動の常時放送枠化
日本の戦史や建国神話を取り扱うドキュメンタリー制作の奨励
「国旗掲揚」「黙祷」「国歌の解説」といった“儀礼報道”の正規枠化
これらの施策によって、報道が「国民の情動」ではなく「国民の誇り」に奉仕する場へと再構築される。報道の真の目的は、「事実の報知」ではなく、「国家の護持」なのである。
8.3 教育制度改革──“中立教育”から“国防的教育”へ
次に、学校教育における「メディア・リテラシー」概念そのものの再定義が必要である。現行の情報教育は、「考える力」を強調する一方で、「何を前提として考えるか」を全く提示しない。そのため、相対主義と空虚な多様性が蔓延し、国家観・道徳観が抹消される。
保守的情報教育においては、以下の三原則を柱とすべきである:
国家語彙の再教育
→ 国、忠義、祖国、英霊、男系、天皇、国防、敬礼、礼節、靖国など
→ これらの語彙を禁句化せず、むしろ積極的に教科書と教材に導入する。
道徳判断に基づく情報評価訓練
→ 情報の善悪を、「規律」「公義」「祖先の期待」「未来世代への責任」で測る。
戦後史観の脱構築と建国神話の回復
→ 「東京裁判史観」「自虐史観」からの脱却。教育勅語・五箇条の御誓文・神話教育の復権。
また、民間メディアとの連携においては、左派系教育団体や外国資本の影響を排除し、教育基本法第2条(国を愛し、公共の精神を尊重し、伝統を尊重する)を具現化する形での教材整備が必要不可欠である。
8.4 国民意識の再鍛錬──誇りある選択の文化へ
最後に、制度改革だけでは不十分である。情報空間の刷新には、国民一人ひとりの内面における「選び取る誇り」の回復が必須である。
我々が情報に触れるとき、「それは国家を貶めるか、支えるか?」「それは死者を侮辱していないか?」「未来の日本人に恥じぬか?」という問いを持たなければならない。この“倫理的選別の力”こそが、保守的リテラシーの核心である。
さらに、情報空間において「語り手」になる者──記者・教員・アナウンサー・SNS発信者たち──には以下の態度が求められる:
自国を語る言葉に敬意を持て
誤りを犯したときは、国家に対して恥じる感情を持て
正論より正義を、知識より忠義を優先せよ
このような文化的鍛錬があって初めて、国家は「言葉によって支えられる共同体」たり得る。
8.5 結語──言論における構造防衛の提言
本論文全体を貫く主張は、「国家を語る語彙の復権なくして、リテラシーも自由もあり得ない」という一点に集約される。戦後の情報空間は、国家主権の言語的支配を放棄し、“疑うことだけが正しい”という教育と報道の共犯構造によって形成された。
だが、もはや我々は問わねばならない。
その「正しさ」は、誰にとって正しいのか?
その「中立性」は、何を排除してきたのか?
その「自由」は、国家を忘れる自由ではないか?
いま必要なのは、「構成なき言論空間」ではない。国家・伝統・祖先・共同体という**“構造を持った言語共同体”としての国民社会の再生**である。
情報とは「事実」ではなく「方向」である。
情報とは「自由」ではなく「構造」である。
情報とは「知る」ことではなく、「語り継ぐ」ことである。
その覚悟をもって、我々はいま、国家語彙の防衛者としての情報市民を再び志さねばならない。
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